【六曜日と、一。】(“ ”曜日)



 辿り着いた先は、暗闇だった。いきなり暗闇に迷い込んだのかもしれないし、夕方が徐々に夜になっていったのかもしれない。何にしろ真っ暗だった。

 黒に支配された視界には、何もない。わたしは空間を把握するために手を伸ばす。すると、指が布に触れた。固く波打つ表面。体が覚えている感覚から、恐らくそれはカーテンだろうと予想が付く。案の定、それを引くと窓が現れた。遮光カーテンの分け目から、窓越しにほの明るい光が差し込む。しかしそれはとても微弱なもので、灰色をしていた。窓の外はねずみ色の雨模様である。

 それを認識した途端、今まで聞こえなかった雨音が聞こえ始めた。金曜日の雨よりも静かで厳かな音が、静寂の世界を支配する。

 ああ、ここはまるでノアの方舟のようだ。世界の終わりの大洪水を漂う、一隻の船。
 この方舟には家族も動物も居ない。旧約聖書に記されたその人、ノアも居ない。居るのはわたしともう一人だけ。

「あなたが月曜日ね」

 彼――月曜日が、そこに居た。

 方舟の隅で膝を抱えるようにしているその人は、紺色の背広を着ている。膝の上に伏せられた顔は見えなかったが、何となく真面目な顔立ちをしていそうだと思った。皺ひとつないスーツと真っ白なシャツ。清潔感のある短い黒髪。それらからは、少しの遊びも無い優等生、神経質で堅物なビジネスマン、という印象を受ける。

 月曜日はわたしの声に少しだけ体を揺らしたが、それも気のせいだったのかもしれない。以降ピクリともしなければ、一向に顔を上げる様子もない。わたしよりも大きなその体を、懸命に小さく丸めていた。

 わたしは怯える小動物を相手にするかのように慎重に、その紺色の塊に近づく。鼓動の音が聞こえているが、これがわたしのものなのか、彼のものなのかは判断が付きそうになかった。

「わたしはあなたを探しに来たの。わたしには月曜日が必要なのよ」
 その言葉は、彼に会ったら伝えようと準備していたものだ。日曜日が言うように、彼が疎まれ不要とされることから逃げたのならば、それを否定することが一番重要であると思った。しかし月曜日は顔を伏せたままモゴモゴと、

「そんなのは嘘だ」
 とわたしの言葉を切り捨てた。

 彼の声は冷たく無機質で、一人で生きてきたかのように鋭く繊細な響きを持っていた。その悲しい声にわたしが何か言うよりも先に、月曜日は聞き取りにくい言葉を連ねる。

「みんな、俺を嫌っている。誰もが、俺など居なくなればいいと思っている。君に、月曜日など来なければいいと、毎週毎週願われる気持ちが分かるか?自殺率トップの曜日だと言われる気持ちがわかるか?ブルーマンデーと呼ばれる気持ちが分かるか?」

 彼の言葉はドロリと重たく地面を這って、わたしの足をのぼってくる。それはおそらく、人々の暗鬱を集めて固めた負の塊だ。胃もたれするような不快感に吐き気がする。

 ……これに呑まれる感覚も、これから逃げたくなる感覚も、恐らくわたしは知っている。きっと世の中の多くの人が、一度は経験しているだろうと思った。

「他の曜日共だってそうだ。俺に嫌われ役を押し付けているくせに、俺を嫌っている。まるで疫病神扱いだ」
 彼の言葉に、そんなことはない、とは言い切れなかった。
 日曜日は彼に好意的なように感じたが、火曜日を始めとする数人は、明らかに彼に良い心象を抱いていないようだったからだ。だがもしかするとそれは、相容れない存在としての敵意ではなく……彼の背負わされているものに対する、恐れだったのかもしれない。

 わたしはずっしり重い負のオーラを引きずって、泥のプールを泳ぐように前進する。一歩、また一歩。そして彼のすぐ前に立つと、黙ってそのつむじを見下ろした。小さな渦を見つめるわたしの心に湧き上がる感情は、不思議な愛おしさである。

 そう。わたしは、

「わたしは、あなたが嫌いじゃない。あなたに居て欲しいの」

 まるで愛の告白のような神妙さで告げたわたしに、月曜日が顔を上げる。

 その顔は、やはり真面目そうで多くの気苦労を背負っているような顔だった。顔色が悪く疲れが滲んでいて、顔立ちよりも老けた雰囲気がそこにはある。少し赤くなった切れ長の目は、疑うような、責めるような、縋るような眼差しをわたしに向けていた。

 わたしは彼の目線に合わせるように、小さな子供を相手にするように膝をつく。

「本当だよ。あなたは必要な人。だって、わたしが学校で友達と喧嘩して絶交した時、あなたがまた会わせてくれたから仲直りできた。大人になってからもそう。一人ぼっちで殻に閉じこもることが無いように、いつもあなたが連れ出してくれる」

 会いたくない、会いたい人。逃げ出したい、逃げてはならない試練。今まで数々の月曜日が、わたしをそれと向き合わせてくれた。

「いつもあなたは、わたしが脇道に逸れないよう、しっかり引き戻してくれる」

 そう、月曜日は多くの人にとって――少なくともわたしにとっては、理性のような存在だ。彼は、わたしがわたしで居るために必要不可欠なものなのだ。

 月曜日は、黙ってわたしの告白を聞いている。その表情に大きな変化はない。わたしはといえば、伝えたいことはあらかた言葉にしてしまったので、少し困り始めていた。まだ、足りていないのだ。わたしの想いを伝えるには、まだ努力が必要なのだ。だが、続けるわたしの努力は、完全に蛇足でしか無かった。

「月曜日が祝日だったりすると三連休でいつも以上に嬉しいし……それに……好きな漫画雑誌の発売日だし」
 もっと他に、何か言うことはなかったのだろうかと、自分でも後悔する。先程まで丁寧に紡いできた言葉たちが、一気に褪せてしまったように思えた。

 しかしそんなわたしに呆れたのか、毒気を抜かれたのか、永久凍土と思われた彼の表情が僅かに溶ける。
 彼のその顔を見て、わたしの心が高鳴った。

 ああ――月曜日。この人は、この人はわたしの、苦手な人。
 目が合うと居心地が悪くて、しかつめらしい表情を向けられると逃げたくなるくせに、遠くで笑っていると心がざわついて。

 そんな、大好きな人。

 わたしはこの人に会えるなら、楽しかった日曜日が終わってしまってもいいのだ。日曜日の夜にドキドキしながら眠りについて、その晩がどんなに寝不足でも、この人の為ならまたスタートをきることが出来るのだ。

 わたしは、堪えきれず彼の名前を呼んだ。それが月曜日という名前だったのか、はたまた別の名前だったのかは定かでない。何故ならそれは、わたしの中で等しいものだったからだ。彼がわたしにとっての月曜日。月曜日がわたしにとっての彼。

 そもそも、その彼とは、実在の人物であったのか。
 ……そんなことは、もうどうでも良かった。

 わたしは彼に、木曜のような親愛をこめて、微笑みかける。
 金曜のように臆せず
 土曜のように素直に
 日曜のように大きな愛で包み込む。

 両手いっぱいに彼を抱え込んだわたしは、わたしの言葉たちを、この想いを、水曜のように忘れられてしまわないように、

 火曜のように苛烈な情熱をもってして、彼の唇を奪った。

 月曜日の目が、これ以上ない程見開かれる。わたしはその様子に、他のどの曜日らしくもないわたしだけの顔で笑い、言った。

「わたしにはあなたが必要なの。わたしにはあなたが居ないとだめなの。だから帰ってきて」

 月曜日は暫く呆けていたが、やがて小さく頷いた。
 それを合図にしたように、窓の外が徐々に明るんでいく。ああ、終末の夜が明ける。週末が終わる。月曜日が帰ってきた。帰ってきてくれた。

 世界が光に満ちていく様子は、夢から目覚める時の、まぶたの向こうの情景に似ている。きっと次の瞬間にも、わたしは元の横断歩道に居るのだろう。その時わたしは、この一連の出来事を覚えているのだろうか。

 そもそもこの不思議な世界は、どこまでが現実でどこまでが夢なのだろうか。もしかするとどちらでもなく、わたしの内側にのみある、心象世界であるのかもしれない。だが不思議と、この世界が儚く消えてしまうだけの泡沫には思えなかった。


 身体に戻る、いつもの感覚。
 通勤通学の人混み。ざわめく朝の雑踏。終わりと始まりが共存している、月曜の朝。


 こうして、また、わたしの一週間が始まる。






【六曜日と、一。】完
inserted by FC2 system