【六曜日と、一。】(土曜日)




 くしゃみで出そうになった声を無理矢理抑え込んだからか、耳と喉の奥がじんと痛い。思わず瞑ってしまった目を開けると、そこはバスの中だった。他に乗客の居ないバスの、一番後ろの席の真ん中に、わたしは座っている。窓の外には、田畑の多いのどかな田舎の風景が広がっていた。空は青く澄み渡り、てっぺんまで登りきっていない太陽は、異様に眩しい。

 先程まで雨に打たれていた髪も服も、今はどこも濡れていなかった。外の風景のようにカラッとしている。それにしても、世界を移動するきっかけは一体何なのだろう。くしゃみのような小さな衝撃でも良いのなら、やはり火曜日の暴挙は許せない。

 ドゥドゥドゥと、電車の揺れとは違うバスの揺れに体を預けていると、突然横から小さな顔がにゅっと現れる。わたしはびっくりして、思わず「わっ」と声を上げた。運転手とわたしだけだと思っていた車内には、もう一人居たようだ。

 わたしを驚かせた小さな顔は、ニコニコしている。現われたのは小学校低学年くらいの少年だった。頭にぴったりはまったゴム付の帽子。背負ったオレンジ色のリュック。肩から斜めにかけた水筒。まるで遠足に行くかのような出で立ちの少年が、隣の席に座って、わたしの方に身を乗り出している。いつからそこに居たのだろうか。

「ねえねえ、動物園に行こうよ!」
「え?」
 少年の発言はあまりに唐突だった。他に乗客は居ないので、わたしに向けられた言葉で間違いは無さそうだが、全く意味がわからない。ナンパが似合う金曜日とは違い、彼はそういうことをするには幼すぎた。

 しかし少年は、矢継ぎ早に提案を続ける。

「水族館に行こうよ!遊園地に行こうよ!プールに行こうよ!」
「ちょ、ちょっと待って」
 わたしを引き倒す勢いで迫ってくる少年を、やんわり押し返す。少年はわたしが少しも乗り気でないことを察したのか、両腕を組んで少し考える素振りをした。うーん、と声に出して悩んでいる所にはあざとらしさを感じるが、可愛らしいことにも違いはない。

 だが少年の思案の時間は、本当に僅かだった。すぐにポンと、ひらめいたように手を打つと、少年は明るい顔でこう言った。

「じゃあ、ハワイに行こうよ!」
「……いきなりグレードが上がったね」
 わたしは乾いた笑みを漏らす。少年の“じゃあ”の意味が分からないが、それはきっと子供らしく、意味のない接続詞なのだろう。

「どうして、そんなにどこかに行きたいの?」
「だって、折角のお休みだよ?みんなどこかに遊びに行ってるよ」
「みんなって?」
「えっと……あっくんとか、ひろこちゃんとか、あと……みんなはみんなだよ!」
 わたしはふと、わがままな子供を持つ母親の気持ちとはこのようなものだろうか、と思った。彼はきっと、恐らく、絶対に、土曜日である。連休のはじめに、親に外出をねだる無邪気な子供だ。

 土曜日は一向に首を縦に振らないわたしに、不服そうに口を尖らせる。

「じゃあ、お姉さんはどこに行きたいの?」
 その口ぶりは、わたしを責めるようなものだった。この少年は、わたしからの答えを欲しているのではない。自分の希望を通すために、答えを持たないわたしを求めているのだろう。しかしわたしは、明確な答えを持っていた。

「わたしは、月曜日に行きたいの」
 そう言った瞬間、少年が一気に白けるのが分かった。爛々としていた瞳が輝きを失っていく。少年は椅子から乗り出していた体を、今度は背もたれに押し付けるように投げ出した。背中と座席の間で、リュックがぎゅうぎゅうと苦しそうな呻きを上げる。

「ふーん。なあんだ。あんなつまらないところ!僕はいいや」
 それだけ言って、少年はプイと窓の方を向いてしまう。その小さな後頭部にわたしはやれやれと溜息を吐いたが、彼は不貞腐れた態度さえ、それほど持たなかった。本当にこの少年の変化には目が回る。自分が彼と同じ歳の頃も、そうだったのだろうか?

「じゃあさ、しりとりしよう」
「しりとり?……今度は一気にグレードが下がったね」
「リス」
 少年はわたしの返答を待たずに、しりとりを始めてしまう。今のは、しりとりの“り”から始まっているのだろう。わたしはろくに考えることもせず、とりあえず続けてあげることにした。しりとりくらいで満足してくれるなら、お手軽で良い。

「スイカ」
「カニ」
「「……にちようび」」
 わたしの声と、車内アナウンスの声が重なる。
 土曜日は至極つまらなそうな顔をした。まるでそのワードが「ん」の付く言葉と同義だとでもいうように、しりとりは終わってしまう。

 バスが停まる。窓の外には“日曜日”と書かれた停留所。わたしは少年に軽く手を振って、早足でバスを降りた。しかしドアを出て、一歩踏み出した瞬間、

 やはりそこは全く別の空間なのだ。
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