【六曜日と、一。】(金曜日)



 ザリ、とアスファルトが皮膚を削る嫌な感覚。顔の身代わりになった肘には、剥き出しの痛みが走っていた。地面に放り出された体は、血の滲む肘だけでなくあちこちが痛い。耐えるように目を瞑っていたわたしの背中を、何かが叩いた。ポツ、ポツ、と冷たいそれは、雨粒だった。

 アスファルト、外気、雨。きっとここはもう、先程までの音楽室ではない。学校でもない。木曜日の世界でさえ無いのだろう。

 目を開けたわたしの視界に飛び込んできたのは、雨降る夜の街だった。その様子は火曜、水曜、木曜のどれよりわたしの日常に近い風景のように見える。

 立ち並ぶビル。道沿いに構える、見慣れたコンビニやファーストフード店。車やバイクのライトが、人々のさすビニール傘の雨粒に反射して、イルミネーションのようにキラキラ輝いていた。ここは夜だが、水曜の夕方よりもよほど明るい。

 道端で傘もささず呆然と座り込むわたしに、雨より冷たい人々の視線が降り注ぐ。その視線に、世界は急速に現実味を帯び始めた。わたしは羞恥に挫けそうになりながらも、なんとか立ち上がろうとする。ああ、都会は冷たい。

 しかし意外にも、差し伸べられる手があった。

「お姉さん、大丈夫〜?」
 軽薄な声に顔を上げると、そこには若い男の姿があった。
 間延びした声。金髪に縁どられた細面。耳元に光るいくつものピアス。胸元の大きく開いたシャツに革のジャケットを羽織って、ぶかぶかのジーンズを腰まで下げ、魔女のように先の尖った靴を履いている。その男を的確に表現する言葉をわたしは知っていた。……『チャラ男』だ。

 チャラ男は、指輪とブレスレットでごてごてに飾った手を、わたしに差し出している。
 わたしは躊躇しながらも、その手を取るより取らない方が恐ろしく思えて、控えめに手を重ねた。下手に刺激して逆上されては困るからだ。

「有難うございま……わっ」
 男への感謝の言葉は、言い終える前に悲鳴に変わった。わたしが立ち上がりやすいように引っ張り上げてくれた男は、そのままわたしの体を自分の方へと引いたのだ。

「お礼はいいからさ、俺と楽しいことしない?」
 そう耳元で囁いて腰に手を回してくる男に、わたしはゾワリと総毛立つのを感じた。何も言えずにいるわたしを、男は自分に都合よく、シャイな女性とでも解釈したのだろう。その笑顔がより調子付く。

「今日は華の金曜日!嫌なことをぜーんぶ忘れて、飲んで歌ってパーッと騒ごうぜ!……それとも、二人で朝までお喋りしちゃう?」
 その誘い文句は木曜日と似ているが、そこに含まれる意味合いは全く違う。この男には――“金曜日”には、可愛気の欠片もない!

 わたしは掴まれている手を振り払った。その勢いで身を捩って、密着から難なく逃れる。金曜日は動じた様子もなく、ただニヤニヤしていた。

 金曜日は女性のように細い体をしているが、男性なのだ。彼が本気であればきっと、女性のわたしではとても敵わない。わたしは彼から逃げることが出来たのではなく、彼がわたしを逃したのだ。それが分かり、悔しく思う。

 あからさまに警戒しているわたしを宥めるように、彼は骨ばった手をヒラヒラ宙に舞わせた。全力で拒否してもなお笑顔を浮かべているところが、安心できない一番の点である。

「どうどう」
「わたしは馬ですか!」
「まあまあ。馬でなくても、金曜日を楽しまなきゃウマシカにはなるかもな!」
 彼の失礼な冗談に、テンポの良さに、わたしは不覚にも少しだけ楽しいと思ってしまった。爽快だと感じてしまった。彼の軽薄さは軽快さでもあるのだ。全力で今この時を楽しもうとしている純粋な彼。金曜日の解放感は、ジワジワとわたしに伝染しはじめる。

「取り敢えず、踊ろうぜ!スコールも音楽も観客も、ここには全て揃ってる!」
「……踊る?」
 金曜日は物語の王子様のように、腰を折り恭しく手を差し出す。それは正しい流儀ではないのだろうが、物語のお姫様ではないわたしには判別がつかない。彼も本物の王子様ではないから、お相子だ。

 わたしは半ばやけになってその手を取る。彼の言動が全て、本気ではなく冗談だと確信を得たからだ。冗談だから、乗れる。楽しめる。

 金曜日はわたしをエスコートして、道路の真ん中に躍り出た。その行動は横断歩道も信号もまるで無視していたが、車もバイクも通行人も、不思議とわたし達にぶつかることはない。金曜日のテリトリーに入ると、そのどれもがただの背景になり下がり、場を演出する映像として流れていくのみだった。広告トラックの俗っぽい宣伝ソングを聞きながら、わたしと金曜日は踊る。

 わたし達は自由なステップを踏む。水たまりがパシャリと跳ねたが、汚れることなど気にならず、むしろそれが楽しい。

 わたし達は華麗とはいえないターンを決める。回る世界の中で、街のキラキラが流れ星のように落ちていった。

 この踊りは、社交ダンスやフォークダンスに近いのだろうかと思えば、彼は時々フラダンスのような動きをしてわたしを笑わせてくる。

「はは、はははっ!」
 もう、わたしの口から出るのは笑い声だけだ。先程まで嫌悪感さえ抱いていた彼と踊ることが、今は楽しくて仕方がない。頭の先から靴の中までびっしょりで、メイクも落ちているだろうし、強まる雨粒にろくに目も開けていられないというのに、とても楽しい。楽しい。楽しい!まるでイベント会場にいるかのような熱気が、体の内側から迸っていた。

 だが、それでも疲れはくるものだ。わたしに疲れが見え始めると、金曜日は踊りをやめて道の端で休ませてくれた。わたしは上がっていた呼吸を整えて、息を吐く。それは決して、溜息ではなかった。

「あー!悔しいくらいとっても楽しかった!でも、もう行かなきゃ」
「シンデレラが帰るには、まだ少し早いんじゃない?」
 そう言って金曜日は、ポケットからスマートフォン(恐らく防水)を取り出して、時刻を表示する。今は22時を回ったばかりのようだ。確かに、華やかな金曜の夜はこれからが本番と言えるかもしれない。が、

「慌てて帰って、靴を落としたら大変だもの。月曜日を探しに行けなくなっちゃう」
 わたしにはすべき事がある。行かなければならない所があるのだ。
 金曜日はわたしの言葉に、火曜や木曜のように嫌な顔をすることは無かったが、それでも思うところはあるのか、眉を八の字にして肩をすくめた。

「あーあ。まさか俺が、アイツに女の子を盗られるなんてな」
 金曜日は残念そうにそう言ったが、その言葉に大した意志は感じられない。ああ、これだから、彼との時間は気軽で楽しかったのだ。

 わたしは彼から離れて、全く止む様子のない雨の街に踏み出した。勇んで歩き出したわたしだったが、人肌のぬくもりが感じられなくなると一気に寒気を実感する。

 わたしは身震いして、くしゃみした。
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