【六曜日と、一。】(木曜日)



 目覚めると、ツヤツヤの床の上に居た。床板からは木の匂い以外にも独特なニオイがしている。それは懐かしいニオイだった。そう……なんだったか……ああ、掃除用のワックスのニオイだ。小学生の頃、バケツに入れられた乳白色のそれに、お調子者の男子が“あれって牛乳なんだぜ”と嘘を吐き、素直すぎるクラスメイトが数人騙されていたことを思い出す。(わたしは大多数のクラスメイト同様、信じない派だった)

 目が覚めてもすぐには意識がはっきりせず、ぼやけた感覚で子供の頃の思い出に浸るわたしの耳を、優しいピアノの旋律がくすぐった。あまりに心地よいその調べにもう一度眠りについてしまいたくなるが、同じくらい、目覚めることも快適に感じられた。

「おはよう」
 鍵盤を奏でる少女が、楽譜を見つめたままそう言った。それはピアノの音に負けず劣らず、美しい響きをもつ声だった。

 起き上がったわたしは、黒光りするグランドピアノと、壁に掛かる音楽家たちの肖像画と、黒板、並ぶ机と椅子の存在から、この場所が学校の音楽室であることを知る。ここは間違いなく、自分の中にあるイメージ通りの“音楽室”だったが、実際に通っていた学校のものであるかどうかは、ハッキリしなかった。壁に掛かる時計は――10時を指している。

 わたしはピアノの少女に目を移す。少女は長い黒髪をおさげに結い、緑のプリーツワンピースを着て、黒い三つ折りソックスを履いていた。よく洗われた真っ白な上履きが、ピアノのペダルの上で上下している。少年のようにほっそりした肢体は、とても儚げな印象だった。彼女がここの生徒ならば……ここは小学校なのだろうか?

 わたしは先程までのことを思い出していた。横断歩道に呑みこまれて、賑やかな商店街の火曜日の世界に行ったこと。彼女に突き落とされて、静かな森の水曜日の世界に行ったこと。彼の差し出すお茶を飲んで、眠ってしまったこと……。

 あのお茶には、眠り薬でも入っていたのだろうか?火曜日よりは温厚な手段だが、結局彼もわたしの意思を無視して、わたしを自分の世界から追い出したのだ。あんなに優しそうな顔をしておきながら……といっても、元から印象の薄かった彼の記憶は既にあやふやで、もうその顔さえハッキリ思い出せなかった。

 火曜、水曜と続く不思議な世界の不思議な住人。ならばこの少女は、もしかすると……

「あなたは、木曜日?」
「ええ、そうよ。私は木曜日」
 少女は演奏を止めて、わたしの顔を真っすぐに見つめた。円い黒目がちな瞳と小さな唇がお人形のように可愛らしい少女だ。図書室や音楽室のよく似合う、女の子らしい女の子だ。

 木曜日は狭い歩幅でピョコピョコ歩み寄ってくると、その小さな手でわたしの手を取った。そして瞳を潤ませた愛くるしい顔で、わたしを覗き込むように見上げる。

「ここまで来るのは大変だったでしょ?疲れたでしょ?そろそろ、休んでも良いのよ」
 少女の諭すような口調に、わたしは体中の力が抜けそうになった。

 火曜、水曜を経て、木曜日。週の後半。確かに、日常生活でも疲れを感じ始める頃だ。(今日は日常の疲れなど比ではないが)

「ここに居て、私と一緒にのんびりお喋りをしましょ。楽しいことを沢山しましょ。特別な秘密を、いっぱい作りましょ」
 木曜日は自身の提案に、うっとりするような表情を浮かべた。わたしにもその誘いはとても魅力的に思える。可憐な美少女と過ごす、乙女同士の密な時間は、きっと特別素敵なものになるに違いない。しかし――

「わたしは、月曜日を探さなくてはいけないの」
 自分でも驚くくらいするりと、その言葉が口をついて出た。戸惑いなくそれを告げることが出来たのは、木曜日がわたしに手を出せなさそうな、非力な少女であったことだけが理由ではない。彼女には何でも話してしまいたくなるような不思議な雰囲気があったのだ。

 その声。その視線。わたしを受け入れる全てがとても心地よい。木曜日は、わたしよりうんと幼い少女であるのに、不思議と昔からの親友であるかのように感じられた。彼女に心を開いてしまうのもそれが理由だろう。だから誤魔化しはしない。わたしは心から彼女に「ごめんね」と言った。それを聞いた木曜日の瞳は、違う潤みを帯びる。

「彼に会ったって、良いことなんてないわ。あなたはここで私と居るべきよ」
 木曜日はわたしの手を強く握る。いや、掴んでいるといった方が正しいかもしれない。木曜日はその華奢な腕で“腕力よりも強力な力”でわたしを捕らえていた。木曜日から溢れ出るその感情は、男女間のそれよりも幼く傲慢なもの。少女が近しい友人に抱くような、純度の高い独占欲に満ちている。

「私の方が、あなたに優しくできるのに。きっと楽しくできるのに」
 木曜日は捨てられた子犬のような目でそう訴えかけてきたが、わたしが困ったような顔をして何も言えずにいると、やがて寂しそうに顔を伏せた。そして、わたしから離れていく。わたしは、わたしこそ彼女に捨てられたかのような孤独感を覚えた。

「月曜日はここにはいないわ。ここは木曜だもの。まだ、彼には遠い」
 小さな背中は僅かに震える声でそう言うと、立て付けの悪い教室のドアをガラガラ開けて、廊下に出ていこうとする。わたしはあまりに早い別れに「木曜日」と、思わず彼女を呼び止めた。けれど、振り返ったその瞳にはもう親しみの色などなく、強烈な敵意が宿っている。

「馴れ馴れしく呼ばないで!私は、私を必要としないあなたなんて、要らないんだから!」
 ああ、少女の友愛とは、なんて身勝手で極端で激しいのだろう。

 わたしは、それだけを言い捨てて去っていった彼女を、突然の拒絶に戸惑いながらも追いかける。もう少し、今の状況にヒントを得たかったからだ。けれど廊下を出ても、彼女の姿はどこにも無かった。

 廊下は静けさに満ちているが、そこかしこから無数の気配を感じる。耳をすませば聞こえてくる、大人の声。チョークが黒板の上を滑る小気味のいい音。椅子の足が床をひっかく音。ああ、ここは授業中の廊下だ。トイレに席を立った時、具合が悪くて保健室に向かう時、先生に頼まれて雑用をこなしているとき。特別な時にだけ許される、特別な空間。

 廊下に立っていて誰かに見られたら厄介だと、わたしは音楽室に引き返した。わたしは常識から外れてもなお、不審者として通報されるのではないかという常識的な発想に囚われているらしい。音楽室がいつまで無人であるかは分からないが、少なくとも今この時は、廊下より安全な場所に思えた。

 音楽室に戻ったわたしは、できるだけ音を立てないようにドアを閉めて、外から見えないように廊下側の壁にもたれて座り込んだ。

 膝を抱えて座ると途方に暮れているようだが、実のところそうでもない。なぜだか、次の進展はすぐ訪れるような予感がしていたからだ。この座り方は体育座りとも呼ばれていたな、などと暢気なことを考えられるくらいには、余裕がある。

 そういえばわたしの通っていた小学校では、木曜日の朝には体育朝礼があり、運動後の午前中の授業は眠かったものだ。特に音楽の授業なんて、子守唄にしか思えなかった。

 ――その時、終業のチャイムが鳴った。破裂したように騒がしくなる外の様子に、わたしはドキリとする。予想ではもう次の世界に移っていてもいい頃合いなのに、わたしはまだここに居た。もしかすると、一人では移動出来ないのだろうか?火曜や水曜のように、木曜に何か働きかけてもらう必要があるのだろうか?

 近付いてくる無数の足音に、このままでは誰かに見つかってしまう!と、わたしは慌てて逃げ場を探した。そしてうっかり机に脚をひっかけて転び、咄嗟に顔をかばうように肘を突き出した。
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