【六曜日と、一。】(水曜日)



 ざあざあ。木々のざわめきは、川のせせらぎにも似ている。ひんやり湿った空気と、独特の匂いが立ち込めるそこは、森であった。

 歩道橋から落ちた(正確には落とされた)わたしが、何故森の中にいるのかは分からないが、分からないことも立て続けに起こると、不思議ではなくなってくる。恐怖や不安はあれど、わたしは受け入れるしかないのだ。

 賑やかな商店街とは違い、この森はとても静かだった。耳を撫でるのは自然界の音のみで、瞳を彩る色も緑や茶色ばかり。時間さえ息を潜めているような、寂しい穏やかさで満ちている。

 わたしは早足で歩き出した。目指すべき目的地はなかったが、このまま立ち止まっていると、足が根を張って森に呑みこまれそうだった。

 どこをどう行っても変わり映えのしなさそうな森の景色に、気が滅入るのも時間の問題だろう……と思っていたわたしだったが、数分歩いたか歩かないかの内に変化が訪れた。ずらりと並んだ木々が途切れると、その先は広場のように開けている。広場の中心には、長く細い人影があった。

 水色とも灰色ともつかない褪せた色のコートを羽織り、同色のマウンテンハットを頭に乗せたその人は、背も手足もすらりと長い。こちらに背を向けているため顔は見えなかったが、体格から男性だろうと思った。小さな風呂敷を肩にかけているその姿は、あてのない流浪の旅人のように見える。

 彼はまだこちらに気付いていない。わたしは、この人物にこれ以上近付いていいのだろうか……?

 火曜日の反応と、手酷い仕打ちを思い出す。彼もこの不思議な空間の住人なら、彼女と同等か彼女以上に危険人物である可能性が無視できない。
 しかし、結局は声を掛けることにした。森に居る小鳥や虫よりは、話が通じることは間違いないという確信があったからだ。

「あの、すみません。こんにちは」
「いいや。コンニチワより、コンバンワだね」
 そう言って振り返るその人は、やはり男性だった。青白い肌に目立った皺は無いが、こけた頬と悟ったような穏やかな瞳が、壮年のような雰囲気を醸し出している。彼の返答は初対面相手にしては少々おかしな気もするが、その思ったより友好的な態度にわたしは胸を撫で下ろす。

「ここがどこだか、ご存知ですか?」
 ここは月曜の朝でも、火曜の昼下がりでもない。時間でいえば夕方頃だろうか?木々が鬱蒼と生い茂る森は薄暗く、時間帯が掴めなかったが、こうして歩いて来れたのだから完全な夜でないことは確かだった。

「ここは夜の一歩手前、薄暗い青灰色の世界。水曜の夕暮れさ」
「それではあなたは……水曜日さん?」
 彼はゆっくりと頷いた。やはりそうなのか、とわたしは自分の察しの良さを褒める。

 そして改めて彼、水曜日を注視した。水曜日の言動は静かで、穏やか過ぎて、掴みどころがない。身に纏っている色のように彼自身の印象も薄く、こうして相対している瞬間にも、少し目を離せば見失ってしまいそうな人だと思った。

「君は何をしに、ここへ来たんだい?」
 わたしはその問いに口をつぐむ。同じような問いに素直に答えた結果、とんでもない目に遭ったばかりなのだ。だが嘘で誤魔化そうにも、それらしい嘘など思いつきはしない。進展を望むのであれば、真実を語るほかないだろう。

「わたしにもよく分からないのですが、気が付いたら火曜日さんの世界に居て、火曜日さんに突き飛ばされて、そうしたら何故かこの森に居たんです。できれば元の世界に戻りたいのですが、どうすればいいか分からなくて」
「ほう。彼女に。それはまた」
 その後に続く言葉は無い。彼は火曜日の名を聞いて何かを察したような素振りを見せた。分かりにくい反応だが、そこにはわたしに対する同情や労りが滲んでいるような気がする。彼らは面識があるのだろうか。

「火曜日さんには、月曜日さんを探したらいいと言われました」
「おや。おや。そうかいそうかい」
 水曜日は何も分からないわたしを差し置いて、勝手に納得したようにウンウン頷く。「君は月曜日の住人なのだね」と言った彼のその瞳は、もう全てを知っているようだった。

「君は、月曜日が好きかい?」
「え……っと」
 月曜日。それが彼らのような“人”を指すのか、ただの曜日を意味するのかは分からないが……そもそも二つは別物なのだろうか?分けて考えるべきではないのかもしれない。ここはシンプルに考えることにしよう。月曜日が好きかどうか。

 わたしは、月曜日をどう思っていただろうか?

 日曜日に遊びすぎて、月曜の朝に起きるのが辛いことは多々あった。また忙しい一週間の始まりだ……と憂鬱になることもあった。けれど、どんなに嫌なことや悲しいことがあっても、いつも通りの日常に強制的に戻してくれる月曜日に、心の底では安心していたように思う。清々しい朝だって、何十回も何百回もあったはずだ。

「わたしは嫌いじゃありません」
 わたしの答えに、水曜日は嬉しそうにうっすら微笑んだ。

「であれば、探してあげなさい。彼は君を待っているだろうから」
 月曜日がわたしを待っている?それはどういう意味だろう。と首を傾げるわたしの前で、水曜日は切り株に腰かけ、風呂敷から水筒を取り出してキュッキュッと蓋を回す。外した蓋をコップ替わりに、薄緑色の液体をなみなみ注いだ彼は、それをわたしに差し出した。

「まあ、一杯。気持ちが落ち着くよ」
「あ、有難うございます」
 水曜日の態度にすっかり警戒心を解いていたわたしは、そのコップを受け取り何の疑いもなく口を付ける。一口。二口。殆ど水のような薄いお茶を飲んだわたしは……唐突な眠気に襲われた。気持ちが落ち着くなんてものではない。意識が、落ちていく……。

「月曜のこと、頼んだよ」
 囁くような水曜日の声が、妙に薄い気配が、さっと遠のいていった。
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