月曜日の朝には、終わりと始まりが共存している。

 休日の解放感が集束した先の、どこにも行けない一本道。土日の間あんなにバラバラだった人々の人生は、月曜の朝に帰着する。わたし達はここからまた、自動的に事務的に窮屈な日々に戻っていくのだ。

 いくら日曜日をぐうたら過ごしていても、何故か一際疲れを感じる月曜の朝。
 これから始まる一週間が列をなして待ち構えているようで、それを考えると気持ちは重たかったが……外に出て太陽を浴び、青々とした空気を吸えば、心が凪いでやる気に満ちてくる。自分がリセットされるような清涼感。

 わたしは月曜が好きではないが、来るべきものとして受け入れていた。
 きっと誰もがそうだと思う。月曜日にうんざりして、いつも通りの始まりにどこか安堵している。そんなものではないだろうか。

 そして今日。またいつも通りの月曜日が巡って来た。のだが……
 朝起きた時から、どこか心がざわめくような違和感を感じていた。この月曜日はいつもと違うぞ、と、わたしの脳みそ以外の全てが気付いているようだった。遅れを取っている脳みそで考えるに……さっぱり分からない。何が違うかは明確ではないが、間違いなく、何かが違うのだ。

 時刻は午前8時半。街ではスーツ姿のサラリーマンやOLが忙しなく競歩している。わたしは勝敗の無いその勝負から一人外れて立ち止まり、鳩が鳴く青信号、横断歩道の真ん中で、呟いた。

「月曜日らしくない……」

 それは殆ど無意識に、口から溢れ出たものだった。が、その瞬間、世界が凍り付く。サラリーマンもOLも子連れの主婦も学生も、一様に足を止めて、その虚ろな目をわたしへ向けた。見つめるでも睨むでもなく、ただ異物を検知したとでもいうような視線は、無機質な防犯カメラに似ている。

 わたしは足元が不安定になるのを感じて、下を見た。そして悲鳴を上げる。
 なんと驚いたことに、横断歩道の黒い部分が底なし沼のようになり、そこに立つわたしを呑みこんでいるではないか!

 白い部分しか渡っちゃいけないと、子供の頃は知っていた筈なのに。
 大人になるとどうして忘れてしまうのだろう。

 そうしてわたしは、いつもと違ういつもの朝から追い出された。



 *



【六曜日と、一。】(火曜日)



 気が付くとそこは、買い物客で賑わう商店街だった。
 派手な色合いのアーチを見上げると『〇〇通り』という看板がかかっている。知らない通りの名前は、これといって印象的でもなかったのか、読んだ瞬間からもう忘れてしまった。

 わたしはアーチを潜り、商店街を進んでいく。少し行ったところに、ピカピカ光る電光掲示板があった。大分年季の入ったそれは、文字や数字が所々欠けているが、読み取れなくはない。電光掲示版は日時と曜日、天気を表示していた。

 10月10日(火曜日)午後2時 晴れ

 日付と天気はわたしの認識と合っているが、曜日も時間も違っている。今は月曜日の朝の筈だ。見るからにポンコツそうなそれは、きっともう壊れているのだろう。だが、近くにある個人スーパーの店頭ではためく「火曜市」の旗も、シャッターに貼られた「火曜日休業」のチラシも、今日が火曜日であるという事実をわたしに押し付ける。

 わたしは目の前の状況に付いていけず、往来で立ち尽くした。

 わたしはつい先程まで通勤通学の人ごみを作る、一つの“ごみ”だった筈だ。それが何故、今、見知らぬ商店街で、大きな買い物袋を提げたご婦人に邪魔そうに見られているのだろう。
 とりあえず、人々の進行を妨げないように道の端に移動する。そして、改めて商店街の様子を眺めた。

 肉屋、魚屋、八百屋、薬局。居酒屋、金物屋、靴屋に、香水の匂いがしそうな小洒落たブティック。
 色落ちしたトタン屋根、派手すぎる看板。フランス色に回る床屋のサインポール。商店街は目まぐるしく色に溢れている。統一性のないその様子は、逆に一種のまとまりを築いており、ここは独立した国のようだと感じられた。

 その国で嗅覚を支配するのは、肉屋と惣菜屋の二大勢力。揚げ物油のこってりとした匂いが、人々の動きにまとわりついて街中に蔓延していた。

 その国の人々は、忙しないように見えてマイペースに、それぞれの午後を過ごしている。紙に包まれた揚げたてのコロッケを頬張る学ランくん。弁当屋に並ぶ恰幅の良い作業服さん。二つの玉ねぎを見比べ続けるエプロンさん。の手を引く、お菓子をねだる黄帽子ちゃん。
 ビニールカーテンで透けて見える居酒屋には、こぞってテレビの競馬中継を眺める、くたびれたシャツ軍団。

 街に満ちる活気に、わたしは一人取り残された様な気持ちで、裏通りに逃げ出した。ひんやりじめっとした裏通りは、静かに眠っている。静かだが落ち着かない。その閉じられた扉の一つ一つ、暗い窓の奥に、息をひそめてこちらを窺っている何かが居るように思えて仕方なかった。
 道や空に突き出している看板たちには、普段使いしにくそうなフォントで、艶やかな響きの女性の名前が書かれている。ここはスナックが集まっている場所なのだろうか。

「ねえ」
 居場所のない迷子のわたしに声がかけられる。それは甘くねばっこい、濃密な女の声だった。

「あなた、何をしているの?」
 振り向いた先には、声のイメージ通りの妖艶な美女が立っていた。ワイン色の前下がりボブが、サテンのスカーフにサラリとこすれる。赤いドットのワンピースは、ぴっちりと見事な曲線美を描いていた。20代にも30代にもそれ以上にも見える年齢不詳さは、もはやアートの域に達している。

 彼女はまるで海外映画のポスターから抜け出てきたヒロインのようであったが、レトロな商店街にも不思議とよく馴染んでいる。看板の女性の名前を擬人化したら、まさにこのような女性になるのではないかと思った。

 彼女の黒々とした猫目はわたしの視線を絡めとり、真っ赤な口紅で彩られたその唇は、トカゲのようにぬらりと動く。

「あなたはここに生きる方では無いわね。私に、何かご用?」
 女性の言葉は、馴染みのない複雑な組み合わせをしている。が、既に非日常に取り込まれていたわたしには自然なものに感じられた。普通じゃないことに、寧ろ安心する。やはりここはいつもの世界ではないのだと、わたしは素直に理解した。わたしは存外、適応力の高い人間だったのかもしれない。

「それが、わたしにもよく分からないんです。気が付いたらここに居て……ここはどこでしょうか?」
「ここは私の世界。“火曜日の世界”よ」
「火曜日の世界?」
 前言撤回だ。彼女の言葉に思考が適応できない。

「そう。私の名前は“火曜日”。可愛い迷子の子猫ちゃん、あなたはどこからいらしたの?」
 自らを火曜日と名乗る女性は、ハイヒールの踵をカツカツ鳴らしてわたしに歩み寄る。そしてその細長い指で、わたしの頬に触れた。

 強く香る香水の匂い。風を起こしそうな長いまつ毛。彼女の艶美さには、同性であっても目眩がした。心臓が高鳴る。体温が上がるものと、下がるものの、二種類がない交ぜになったドキリだ。だからこそ早く答えなくてはならない。自身を保つ為に。

 わたしがどこから来たか……。
 彼女が火曜日だというのならば、きっと答えるべきは具体的な地名などではなく――

「わたしは……月曜日から来ました」
 そう答えた瞬間、彼女のルビー色に塗られた爪が頬に食い込む。わたしは痛みで顔をしかめたが、彼女の方が何倍も、しかめっ面をしていた。

「あら、そう。随分とつまらないところから来たのね」
 そう言ってわたしから離れた火曜日は、もうわたしに微塵の興味も無いというように背を向けて歩き出した。彼女から解放されたわたしは安堵と少しの落胆を抱きながら、彼女を追う。わたしは彼女に聞きたいことが山程あるのだ。

「あの!わたしはどうすれば元の場所に戻れるのでしょうか?」
「知らないわよ。月曜に捨てられた捨て猫ちゃん」
 火曜日は高いハイヒールをものともしないように、さっそうと歩道橋を上がっていく。わたしは彼女の態度の変わりように驚きながら、その色っぽい後ろ姿に追い縋る。

「捨てられたって、どういうことですか?教えてください!」
「うるさいわね!あんな嫌われ者のところに戻りたいなら、好きにすればいいわ。精々頑張って彼を探すことね」
「彼って……“月曜日”のことですか?」

 歩道橋を上り終える手前、くるりと火曜日が振り返った。わたしは驚いて足を止める。階段の途中で振り返るなんて危ないではないか、と非難したい気持ちになったが……それは過失ではなく故意だった。彼女は明確な悪意で、わたしを危険に陥れようとしているのだ。

 わたしは残虐な笑みを浮かべる火曜日の手によって、ドン、と歩道橋から突き落とされた。

 落下など一瞬のことであるにも関わらず、最後の彼女の呟きは、とてもゆっくり、はっきりと聞き取ることが出来た。

「私の世界で、それ以上不愉快な名前を口にしないでもらえるかしら?」

 わたしは胃が持ち上がる不快感と共に、やけに緩慢に落ちていく。暗い奈落に落ちていく。よく小説やドラマで“最期の瞬間はスローモーションのように感じる”という表現があるが……それとこれとは別物の様な気がした。

 どこまでもどこまでも落ち続けるわたしは、今はもう見えない火曜日の顔を思い浮かべる。

 美しく華やかな彼女。内に秘められた苛烈さと冷酷さ。“綺麗なバラには棘がある”を体現したかのような女性だった。彼女の美貌はヒロイン級だが、ヒロインはヒロインでも、サスペンスドラマの……幸せにならない方のヒロインだ。

 火曜……サスペンス……

 ああ成程。と、わたしは薄れゆく意識の中、間抜けな考えに一人腑に落ちる思いだった。
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