【邪神の御子】



 ノアは大きな意思と共に居た。かつて地上を支配し、一時は神にまでなり上がった古代生物。邪神と一体になっていた。

 ――女神レセネの力で地下深くに封じられた邪神は、二十年前に遥か宙から飛来した星の力により目覚める。地下には邪神を深く信仰し続ける崇拝者達がおり、彼らは神の復活に喜び湧いた。邪神は再び支配者に返り咲くことを願ったが、女神の信仰が広まった地上に出て行くとその身を呪いに焼かれてしまう。自らの思念体を獣や人間の体に寄生させることで呪いを回避することはできたが、借り物の体はすぐに駄目になってしまった。

 そこで、神の依り代となるに相応しい、丈夫な器を作り出すことを試みる。邪神は崇拝者の女達を孕ませ自分の分身を生み出そうとした。邪神の強すぎる瘴気に殆どの赤子はまともな形を保てなかったが、遂に完全な御子が誕生する。それがノアだった。
 邪神と繋がり、邪神の力に耐えうる強い体を持ち、邪神の思念を受け入れられる自我の薄い器。我が子への愛か、邪神の子供を産んでしまった恐怖か、ノアの母は地下から逃亡し赤子を旅人に託した。旅人は憐れな女の願いを汲み取り、遠く離れた村へノアを連れて行ったのである。

 邪神はノアを探していた。依り代となる御子達はその後も生まれたが、一番形の整った完全な成功例を、邪神はずっと探していた。しかし見つけることは困難だった。ノアが周囲の人々により、邪神が持ち得ない“人間の感情”を植え付けられていたからだ。

 しかし、どこかで生きていることは分かっていた。いずれは戻って来ると確信していた。邪神とノアは深くで繋がり合っている。邪神がノアを求めるように、ノアも邪神を求めることは、自然の摂理なのだ。だから彼女が邪神の思念を拒絶したこと、人間を守る為に自ら命を絶ち、大切な器を壊そうとしたことは、邪神にとって全くの想定外だった。驚き、怒り、震えるその意思を、ノアはざまあみろ! と罵る。こんな風に誰かを嘲ったのは初めてで……最後だ。


 ――ノア。

 誰かが自分を呼んでいる。ノアはそれが彼だったらいいな、と思った。

 ――ノア。

 夜が似合う静かな人で、冷たく見える人。なのに近くに立つとお日様の香りがして、実は子供みたいに体温が高くて。青空色の瞳と目が合うと何かを奪われるような、満たされるような、不思議な気持ちになった。

(もう一度、あの笑顔が見たいな。最後くらい、本当の名前で呼んで貰えばよかった。ルークさん、僕、本当は……)


「ノア、ノア!」
 ノアは、自分の頬で弾けた温い何かに目を覚ます。目前には、笑顔が見たいと願ったばかりのルークの泣き顔。ノアは想像も出来なかったその顔に固まる。彼女が息を吹き返したのを見て、ルークはその体を掻き抱いた。

「ノア……、」
 聞き取れないふやけた言葉が首筋に囁かれる。よかった、と言っているのだろうか? ノアも泣きそうになった。一体何がどうなってしまったのだろう。戸惑うノアは体の中に、自分とは別の力を感じた。それはルークが生来持っている魔力によく似ている。もしかして。

「僕……ルークさんの……」
「奪ったんじゃない。私がお前にくれてやったんだ」
 ノアは愕然とした。自分はルークの命を吸い、蘇ってしまったのだ。どのくらい奪ってしまったのか、彼は何の支障も無いのか、何故敵である自分を助けたのか。

「どうしてそんなことを……僕なんかのために」
「なんか、じゃない。お前だからだ」
「え?」
 ノアを抱きしめる力が一層強まる。ノアは目の前の男が、勇者と呼ばれたその男が突然弱々しく見えて、堪らない気持ちになった。自分より一回りも二回りも小さな女に縋っているその男が、世界の救世主には思えない。ここに居るのはただ一人の……。

 ノアがその背に手を回すと、ルークの体はビクリと揺れた。顔を上げた彼の瞳の中には、驚きを浮かべる女の顔。瞬きを合図に、二人は互いに溺れた。

 息が止まり、唇が触れ合う。至近距離でぶつかり合う視線にルークは眩暈がした。やりにくい、と彼は目を閉じる。それから少しだけ彼女の柔らかな唇を食んだ後、名残惜しく思いつつも離れた。焦点が定まった先には、何も分かっていないような顔で目を丸くするノア。ルークは想像していた反応と違い、思わず苛ついた。

「なんだその顔は」
「え? だって」
「お前を好いている男から、口付けされたんだぞ。分かっているのか?」
「え?」
 戸惑いに満ちるノアの顔。彼女が「ごめんなさい」と謝ると、ルークは悲観的な解釈をしてやりきれなくなった。

「困らせてすまなかったな。……分かっている。お前は私を男だと意識したこともないんだろう」
 投げやりに言い捨てるルーク。悲しい顔を見せて同情を誘う真似はしたくないと、彼はノアに背を向けた。その背にノアが手を伸ばす。小さな手が鎧に触れると、ルークは今すぐもう一度抱きしめたい衝動に駆られた。

「謝らないでください……嫌じゃなかったです」
「なっ、なん、」
「でも……ごめんなさい。僕、本当は、女なんです」
 ルークが振り返ると、そこには気まずそうに自分を見上げるノアが居た。許しを請う円らな瞳に、ルークは込み上げるものを理性で抑えつけ、俯く。そしてギクリと顔を強張らせた。ノアは彼の視線の先、破れた衣服から曝け出された自分の肌に気付き、さっと手で覆う。

「あの。騙すつもりはなかったんですけど……いや、あったんですけど。悪意はなくて。怒ってますよね?」
「いや……知っていた。お前が女だということは」
 へえっ、と素っ頓狂な声を上げるノア。

「うそ、いつから? レイラが言ったんですか?」
「いや、そうじゃない。前に傷を手当てした時に見て……すまない」
「えっ。じゃあギルも気付いて、」
「あいつは気付いていない。鈍いからな」
 ノアはこんな緊迫した状況で、何の話をしているのだろう、と笑いたくなった。泣きたくなった。ルークは自らのマントで彼女を包む。

「お前が男でも女でも、私はもうお前を手放す気はない」
「僕の事を好きだからですか?」
「……お前は、言葉の意味を分かっているのか?」
 あまりに恥じらいのないノアに、ルークは溜息を吐き項垂れた。ノアに子供じみたところがあるとは思っていたが、色恋沙汰にここまで疎いとは思わなかったのだ。人のことは言えないが。

「分かってますよ。……分ってます」
 ノアは彼の想いを噛みしめる。目を逸らしていたが、ずっと分かっていた。ルークが男だということも、自分が女だということも。彼と共に居て意識せずに居られる訳が無かった。

(この人と一緒に居て、好きにならない女の子なんて居る訳ないよ)
 ノアの髪に隠れた耳が赤く染まっていることにルークは気付かない。鈍いのはどちらだとノアは思った。
 
「……ノア。私はお前を守りたい。知っていることを話してくれないか」
「知ったら、守りたくなくなるかもしれませんよ」
「それは無いから安心しろ」
 ノアは躊躇いつつも、ルークの包み込むような眼差しを受け、全てを打ち明けた。自分が、邪神が地上に蘇る為の器の一つであること。目覚めた邪神は崇拝者の信仰により徐々に力を高めていること。自我を取り戻したノアに邪神が怒り、今この瞬間も呼び続けられているということ。

「僕は人間じゃない……邪神の子だったんです。僕の存在はまたルークさん達を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。僕は、居てはいけないんです」
 黙って聞いているルークの顔を、ノアは見ることが出来なかった。彼の故郷の人々、仲間、多くの人間の命を奪った邪神。その邪神の分身が目の前に居る今、彼はどういう気持ちなのだろう? 居てはいけないという言葉に否定を期待したが、それを求めてはいけないとも分かっていた。

 ノアが話し終えると、ルークは頭を抱える。

「私は、愚かだな」
 ルークの自己嫌悪の言葉にノアは“やっぱり”と諦めを浮かべた。彼は自分を助けたことを後悔しているのだろう、と。

「私は勇者失格だ。お前が世界にとって危険な存在でも――お前を守りたい」
 そう言った彼の顔はどこか晴れ晴れとしていた。「女神は勇者の選定を間違えたらしいな」と笑うルーク。久しぶりの彼の笑顔は眩し過ぎて、ノアは目を細める。……本当に眩しい、目を開けていられない程だ。ルークの腰の剣が白い光を発している。

 ルークは驚き刀身を抜いた。それが帯びているのは女神の聖なる光。体に漲るかつてない力。伝説によると、聖剣は真の正義に呼応してその力を発揮するという。揺るぎない正義を見つけたルークにより、剣は目覚めたのだ。

 さっぱり事情の分かっていないノアの頭を、ルークはそっと撫でた。

「ノア、お前を脅かす邪神を、滅ぼしに行こう」



 *



 岩の隙間から出てきた魔獣を、ルークの聖剣が薙ぎ払う。光の剣で闇を断つその姿はまるで神話の勇者だ。ノアはぼーっと見惚れた。その時、再び地響きが起きる。ノアは地面の割れ目に足を取られそうになった。そんな彼女のマントの襟を摘まみ上げ、誰かが助ける。
「あっぶねーな」と呟く低い声。銀髪の大男と、その後ろの美女の姿に、ノアは喜びの声を上げた。

「ギル! レイラ! 無事だったんだね」
「ノア……正気を取り戻したのね。奇跡だわ!」
 ギルバート、レイラ、それから彼らの後ろにはノアが知らない味方達。乗っ取られている間の記憶を辿り、誰一人欠けていないことを確かめると、ノアはホッとした。

「お前、相変わらず軽いな。もっと筋肉付けろよ。ひ弱過ぎじゃないか?」
 ギルバートが地面にノアを下ろし、マントの中に手を突っ込んで二の腕を掴む。肩を撫で、胸を――慌ててやって来たルークがその手を止めた。鬼気迫る彼の顔と軋む腕に焦りながら、ギルバートは「俺にそっちの趣味はないぜ」と弁解する。

「そっちって、どっちだ」
「だから――」
 ごほん、とレイラが咳払いで遮る。

「お喋りしてる暇なんてないでしょ。油断禁物よ」
 レイラは涼やかな呆れ顔で窘めると、皆から顔を背けた。その目にじわりと滲んでいたものをノアは見逃さない。ずずっと鼻を啜るレイラに「ただいま」と言った。

 地響きが酷くなる。地中深くで何かが怒り、雄叫びを上げている。ノアはもうその力に呑まれないことを強く誓った。心に誰かが入り込む隙間なんて与えてやらない。仲間達と共に居る限り自分は負けない。

「この先に、邪神の本体と崇拝者達が居ます」
「崇拝者ぁ? 何だそれ。何でそんなことが分かるんだよ?」
 ギルバートが不思議そうにする。ノアは説明が面倒になり無視した。全てが無事に終わった時、何か美味しいものでも食べながら話せばいい。ルークはノアの言葉に「分かった」と頷き、先頭に立つ。

「行くぞ。……ノア、お前は私の前に出るなよ」
「じゃあ隣に。守られてばかりは嫌です」
 隣に寄り添うように立つノアを、ルークは心配そうに見下ろす。

「言っておくが……私の為に死ぬことは、許さないからな」
「はい。僕、ルークさんの為に生きますね」
 ノアは、それが彼を守ることになるのだろうと思った。まるで情熱的な愛の告白じみたそれに、ルークは固まり、レイラがつまらなそうに冷やかす。

「ノア、それは一体どういう……」
「あ! ルークさん」
「な、なんだ!?」
「僕、やっと見つけました。この戦いが終わったらしたいこと」

 ルークは薄っすら赤く染まった顔で、ノアの言葉の続きを待っている。ギルバートもレイラも初めて聞くノア自身の願望に興味を持ったようだった。ノアは次から次に湧き出てくる沢山の望みを胸に抱く。生きる意味がこんなにあるのだから、死んでいる暇なんてない。


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