【26時の熱帯夜】



 暑苦しさで目が覚めた。
 真夜中の室内は黒い靄がかかっているように、重量感のある闇が蔓延している。それでも瞼の奥よりは明るく、物の輪郭をぼんやりと窺い知ることが出来た。天井、本棚、枕元の目覚まし時計。……ここはやはり、サウナではなくわたしの部屋である。

 わたしは二三寝返りをうったが、茹だる体は中々寝付けない。右を向いても左を向いても“これではない感じ”がして、落ち着かなかった。浜に打ち上げられた魚が必死で海に戻ろうとする時、きっとこんな気持ちなのではないかと思う。

 夏の夜は、暑い。
 日中溜め込んだ太陽の熱を、地球が放出しているのだろうか。まるでコンロに掛けられている鍋の中みたいだ。コトコト、コトコト。あつい。あつい。あつい。

 この便利快適なカガクの時代に、何故わたしがこんなにも暑さに苦しめられているのかと言うと、それは空調の故障が原因である。エアコンが無い時代の人間は、どうやって夏を乗り越えてきたのだろう。実に頭が上がらない。それとも昔の夏はここまで暑くなかったのだろうか。とにもかくにも耐え難い暑さである。

 ベッドから精一杯手を伸ばし、探り探り扇風機のスイッチを入れるが、奴は焦らすようにこっちを見て、あっちを見て、時々生ぬるい風を悪戯に吹きかけてくるだけ。カチリ。強制的にこちらを向かせる。

 ……うーん、あつい。いくらかはマシになったような気もするが、結局は熱い空気をかき混ぜているだけのようだった。

 頬の横を汗が流れていく。今夜の汗は全く不出来である。体温調節に少しも役立たず、ただ衣服を肌に貼りつかせ、不快にさせる。体の中にはすっかり熱が滞ってしまっていた。鼻も目も喉もカラカラだ。

 このままでは砂浜で干物になるのがオチだと思い、ベッドから体を起こす。ギシ、とスプリングが軋んだ。

 わたしは冷蔵庫を目指して、暗中模索で部屋を進む。剣道のようにすり足で、ゾンビのように手を前でブラブラさせて、暗闇の中を前進する。今のわたしを見る者が居たのなら、笑うだろうか。悲鳴を上げるだろうか。

 先の見えない部屋はいつもより広く感じたが、それでも狭いことに変わりはない。スタートとゴールは目と鼻の先だ。ヴーンと小さな唸り声を上げて威嚇する冷蔵庫に、わたしは手を伸ばした。指先が固く閉ざされた扉に触れる。と、その瞬間、あまりの熱さにわたしは怯んだ。

 ……この冷蔵庫は、夏風邪でも引いてしまったらしい。ひどい高熱だった。彼の熱が部屋中に充満して、熱帯夜を生み出しているのかもしれない。冷やすために熱くなるなんておかしな話だと、わたしは思った。
 文明の利器もまだまだ、ナンセンスだ!
 
 やれやれと知った顔で冷蔵庫を開けると、今度は打って変わって心地よい冷気が顔に吹き付ける。ああ、前言撤回だ。文明の利器、バンザイ!このままここで涼んで居たいが、そんなことをしたら中の食材が傷んでしまうだろう。(ろくな物は入っていないけれど。)あと、電気代も無視できない。

 わたしは目的を果たそうと、飲み物の棚に目をやった。
 
 そして、絶望する。
 
(飲み物が、一つもない……)
 
 正確には一つだけ、1.5Lペットボトルに五分の一程残ったコーラがあるが、とうに炭酸の抜けたそれはただの黒く甘い水で、飲めば余計に喉が渇きそうだった。

 安さからつい大容量のものを買ってしまうが、炭酸は500mlがちょうど良いのかも知れない。それ以上を、最後まで美味しく飲みきれた試しがないのだから。

 わたしは諦めて冷蔵庫を閉める。そして、部屋の電気を付けて時計を確認した。午前二時。朝はまだ遠い。冷たい炭酸をゴクゴク飲んで、スカッとした気持ちで眠りに付けたら、どんなに良いだろう。水道水ではダメだ。ダメなのだ!

 わたしはコンビニへ飲み物を買いに行くことにした。普段、この時間に外に出ることは無いが、熱帯夜は危機感よりも欲求を優先させた。

 携帯電話をポケットに入れて、財布を手に取り、寝起きの顔をティッシュで拭って髪を適当にまとめると、サンダルをひっかけ外に出る。アパートのドアを開けると、熱のこもった室内に外気がするりと忍び込んだ。外は思ったより涼しく、暗く、静かである。
 
 外廊下の向こうに広がる住宅街は、わたしの知らない不気味な顔をしていた。わたしはその独特の“気配のない気配”に気圧され、やはり諦めて水道水で我慢しようかと思ったが、体は頭ほど理性的ではない。勇敢な脚は、既に愚かな一歩を踏み出していた。
 

 ――夜の世界は、いざ歩いてみると静寂の世界ではなかった。

 耳を澄ますと、まるで夜をイメージしたような、穏やかでゆったりとした音楽が聞こえてくる。どこから流れてくるのだろうか。まるで空気そのものが歌っているように、それはどこでも均一な音量で流れていた。
 ゲーム世界のBGMに、違和感を抱くキャラクターやプレイヤーは居ないだろう。だからわたしも、風の音や虫の声と同じく、当然のものとしてそれを受け入れる。
 
 歩くこともまた、ゲームじみていた。前を向いて歩いている筈なのに、自分自身を俯瞰しているように、立ち位置が把握できるのだ。マップ上で、今どこに居てどこに向かっているのかが明確に分かる。通行人もモンスターも近くには居ないらしい。安心だ。
 
 ……いくら寝惚けているとはいえ、流石にこの感覚が普通ではないことに気付いていたが、驚いたり慌てたり、騒ぐほどのことではないように思った。
 
 何しろこれまでの人生、この時間は家で大人しくしていたのだ。
 夜中に外に出ると、案外、こんなものなのかもしれない。
 
 夜風で火照った肌を冷ましながら、わたしは歩き続けた。
 
 やがて、暗い夜のマップ上でよく目立つ、光る建物の前に到着する。24時間明るいそこは、庶民に馴染み深いコンビニエンスストアだ。本当に24時間営業しているのだな、と馬鹿みたいに思う。

 店内に入ると音楽が変わった。どこかほっとする明るい曲……だろうか?このコンビニはこんな曲だっただろうか?なんだか本格カレーみたいな、金のランプのような。異国情緒溢れるインドの民族音楽だ。

 「いらっしゃいませ」と言う店員の声は、賑やかな音楽に反して単調である。ああ良かった。制服は民族衣装ではない。普通に、清潔感のある白いシーツを頭から被っていた。
 
 わたしは少しも待てない、とはやる気持ちでドリンク売り場に直行する。ガラス扉の大きな冷蔵庫を開けると……エターナルフォースブリザード!溶けかかっていた体と脳が一気に凝固した。ああああ、最高に心地よい。
 だが……今度は電気代は気にならないが、店員の視線が気になった。その純白の布の下、鼻の凸部分がこちらを向いている。見えない筈の目がわたしを射抜いている。

 わたしはろくに商品も確かめずにペットボトルを取ると、名残惜しい気持ちを堪えてバタンと扉を閉めた。ドリンク売り場の後ろ、アイス売り場にも興味を惹かれたが……人類はとてもアイスクリームが好きなのだ。もう、めぼしいものは残っていない。型落ちしたエアコンのリモコンがあるくらいだった。自宅のエアコンの修理を頼んでしまっている以上、手を伸ばすわけにはいかない。
 
 まあ、余計なカロリーを摂取せず済んだと思うことにしよう。……わたしは迫りくるスイーツコーナーも強い意志で素通りし、レジに向かった。台の上にペットボトルを乗せると、店員がシーツの下からガバッと手を出し、のそのそとバーコードを読み取ろうとする。が、こんなに堂々と目に付くところにあるのに、中々見つけられないでいるようで……クルクルと無駄にペットボトルを回していた。わたしはイライラしながら、チラッと何気なく、レジ横のファストフードくさいショーケースに目をやる。と、

 そこには丸々太った金魚が、数匹泳いでいた。
 
 あれ?と、思う。
 普通なら肉まんや唐揚げ、キリンの串焼きやサイのステーキが入っているものではないだろうか。いや、でも、深夜のコンビニとはこういうものなのかもしれない。
 期限の短いホットスナックは、客入りの少ない深夜帯は販売せず、空いたスペースの有効活用としてアクアリウムを展示しているのだろう。何もおかしなことはない。普通だ。
 
「袋はいりますか?」
「いえ、大丈夫です」
「首はどうされますか?」
「は、ああ、このままで」
「そうですか、では……」
 店員が金額を口にした。わたしは彼の口から出た聞き慣れない金額の単位に、首を傾げる。だが体はその通貨に対応しているようで、自然な動作であっと言う間に支払いを終えていた。……通貨が違うのも、深夜だからなのだろう。わたしはペットボトルをぶら下げて、コンビニを出た。

 インドの民族音楽から、また穏やかなゲームミュージックに戻る。ペットボトルは既に汗をかいており、わたしの手を湿らせていた。月明りにかざすと中の液体がキラキラ煌めく。それは、赤いような、青いような、緑のような。何色とも付かない色をしていた。

 これはわたしの好きな、あの飲み物で間違いないだろうか?あの飲み物とは、何だっただろうか?
 キャップをひねると、シュワッと小気味いい音が鳴る。その音に「ああ、やっぱり間違いない」と安心して、わたしはそれを口の中に流し込んだ。
 
 舌の上でパチパチ弾ける感覚。喉を通ったそれは、首、胸、腹、尻尾の順に冷やしていく。とても心地よい。帰ってベッドに入れば、今度はすんなり眠れそうだ。
 
 無限にループするBGMを聴きながら、わたしはのんびり、家を目指して歩いた。
 
 夜は信号機がコンクリートに沈んでしまうから、足止めされる煩わしさがなくて良い。わたしは軽快なステップで、白い橋をピョンピョン飛び伝う。
 ああ、真夜中の散歩というのも、たまには良いものだ。
 
 ――そうだ。あの人は……わたしの恋人は、真夜中がこんなにも素晴らしいということを知っているだろうか。規則正しい生活を送っているあの人のことだから、きっと知らないに違いない。
 
 明日、教えてあげよう。
 
 そうしよう。 
 
 

 *
 
 
 
「でも本当は、どこにも行かずに……一杯の水道水で眠りについたんですよ。わたし」

 夢の話を語る彼女は、内緒話をする少女のように密やかに、クスリと笑った。私はそれに応えるように、口角を無理やり引き上げる。

 彼女の支離滅裂な夢話に付き合っていられるほど、私の人生は暇では無い。彼女の夢につられていいほど、私の人生は自由では無い。
 
「君はどうして、そんな話を私に?」
 そう問うと、名前も知らない彼女は静止する。それからハッとして、見る見る内に顔を赤くした。そして青褪める。見ていて気の毒になるくらい、赤青赤青と忙しなくしている。
 
「ご、ごめんなさい!何か勘違いしていました!」
 そう言って逃げるように走り出す彼女の背を、私は肩を竦めて見送った。彼女の言動から想像するに、“夢の中の彼女の恋人”に私がキャスティングされていたのだろう。
 
 名前を知らないとはいえ、時々オフィス内ですれ違う彼女が、隣の部署に配属されたばかりの女性だということは知っている。それから、礼儀正しくて挨拶の声が元気だということも知っている。だが、それだけだ。
  恋人役を頂けたことは光栄だが、所詮夢の話である。若く可憐な彼女に、恐らく一回りは歳が離れているだろう私は、相応しくない。……夢を見たのが彼女の方で良かった。もし逆で、恥ずかしい勘違いをしたのが私であったなら、社会的に大きな問題になっていただろう。

 昼休憩で社員が出払っている会議室に、私たち以外に人が居なかったのは、本当に幸運だった。誰かに聞かれていたらと思うと肝が冷える。
 
 ……それにしても、彼女は大丈夫だろうか?

 私は、夢と現実の区別があれほどまでに付いていない人間に会うのは初めてで、得体の知れない恐怖を感じた。もう午後だというのに、彼女はまだ寝惚けていたのだ。彼女の中では午前中ずっと、話したこともない私が恋人だったのだ。――たった今、私に指摘されるまで!

 実に恐ろしい。背筋がゾッとした。
 もう考えるのはよそう。忘れることにしよう。自分の為にも、彼女の為にも。

 時計を見ると、休憩時間は残り20分を切っていた。
 午後の会議の準備を終えた私は、思い出したように鳴り出す腹をさする。危ない、昼食を食べ損ねるところだった。午後も忙しくなるだろうから、何かしら詰め込んでおきたい……と思い、私はコンビニへ向かうことにする。
 
 何を食べようか。疲れや暑さを吹っ飛ばすように、スタミナがつくものを食べたいが……。そうだ、この時間ならレジ横の揚げ物が揚げたての筈だ。唐揚げにしようか、フライドチキンにしようか。
 

 あ
 

 でも
 

 金魚臭いのはごめんだな。
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