【なないろの泡。】(DAY14)



 リビングのソファで倒れこむように眠っていたわたしは、話し声で目が覚めた。覚束ない頭とぼやける視界でそちらを見ると、夫が着替えながら誰かと電話をしている。どこか慌てた様子で話しているのは――研究所――爆発――エネルギー物質が――……夢の続きの様にそれを聞いていると、電話を終えた夫がこちらを向いたので、慌てて寝たふりをした。

 夫はボロボロのわたしに慈しむような溜息を吐いて、タオルケットを掛け直す。「大変な一日になりそうだ。……行ってくる」と彼は言うと、わたしの額に口付けを落としてから足早に玄関を出ていった。見なくても分かる。きっと彼は良き夫の顔をしていたのだろう。吐き気がした。

 わたしは彼の気配が完全に無くなったのを確認して、ソファから起き上がる。全身が痛みに悲鳴を上げるようだった。時計を見るとまだ5時である。二度寝する気も起きないが、顔を洗う気も何をする気も起きない。ただ窓の外が俄かに明るくなり始めた気配を感じて、本当に思うままにカーテンを引いた。夜明けの空は柔らかな水色と淡い桃色で不思議な色をしている。こういう色の紫陽花が好きだな、と思った。

『晴れてたら、もっと良い景色だよ。特に朝焼けが綺麗』

 空を見ていると、杏の言葉が今耳元で囁かれているかのように鮮明に蘇る。瞬間、わたしの中に彼女がどっと溢れ出した。柔らかそうな黒髪、触れると吸い付くような白い肌、螺鈿のように角度で色を変える不思議な瞳。抑揚のない平べったい声は、驚いた時や喜んでいる時に少し上擦る。小さく薄い唇。ハンバーガーのソースを滴らせていた。時々笑った。わたしの唇に触れた。

 愛しさが溢れて、わたしの傷に染みる。彼女が美しければ美しいほど他は醜くて、彼女を想えば想うほど辛くなっていく。

 わたしは返し損ねた合鍵を手に、部屋を出た。杏の部屋に行くのではない。彼女の部屋のある最上階から続く、屋上に向かうのだ。朝の気配と記憶の中の彼女の声が、わたしをそこに誘っていく。
 生気のない顔でふらふら歩くわたしは、傍から見たら夢遊病患者のようだろうな、と思った。これが夢だったなら良かったのに。

 鍵は壊れたままで、わたしは出迎えてくれた。ドアを開けると――

 地球がまどろんでいるような、淡く甘い空。魔法にかけられたその色を浴びる、美しい天使。きっとそれはわたしを迎えに来たわけではない。物音と気配に振り返る少女に、わたしは一気に覚醒した。


「杏ちゃん……」
「おはよう。早起きだね」
 少女は屋上の端、手すりの上に腰かけて、遥か宇宙と対話するように空を仰いでいた。強い風でも吹けばその儚い体が淡い朝に溶けて行ってしまいそうで、いますぐ引き寄せて腕の中に閉じ込めたいような、そのままその浮世離れした美しい光景を見ていたいような、二つの感情が同時に湧いてくる。

 杏は寝間着のまま来たのか、背中の大きく開いた白のキャミソールワンピースを着ていた。純白のそれは死に装束のような静謐さを秘めており、始まりと終わりを内包している様に見える。風にはためくその裾から、傷だらけの膝小僧が見え隠れした。わたしは呼ばれるように彼女の元に歩み寄る。杏はわたしの様子に眉を顰めて、首を傾げた。

「ねえ、どうしてマスクしてないの」
「そんなの、杏ちゃんもじゃない」
「私はいいんだよ」
「じゃあ、わたしもいいよ」
 聞き分けの無い子供が二人になったようだ。わたしの返答に、杏は困った顔をする。わたしの投げやりな様子に、いつもと違う何かを察して、どうしたらいいか分からないような顔をしている。自分のことには無頓着なくせに、わたしの事となると違うらしい。

 杏は眉を顰め、その水晶ように透き通る目で、わたしを上から下まで眺める。

「ねえ、どこか怪我してる?」
「なんで?血の臭いなんてしないでしょ?」
 少し前に、彼女は生理中のわたしのにおいで、怪我をしていると勘違いした。しかし今回の生理はとっくに終わっている。そして“流血するような怪我は”していない。パッと見、わたしはどこも問題ないように見えるだろう。彼女は何故、そのような問いかけをするのだろうか。

「だって、すごく痛そうな顔してる」
 杏の言葉に、わたしはぐっと、せり上がってくるものを飲みこんだ。叫ぶことのできる声はとうの昔に失っている。声と引き換えに得たものは、ただひたすらな苦しみだ。

 わたしは首を傾げて、小さく笑った。杏がいつもしているように、可愛らしい仕草にはなっていないだろう。

「何だか、疲れちゃったな」
 わたしは乳白に濁る空の、その奥を透かすように見て、ポツリと呟く。
 弱音を吐いたところで、何も変わらないし変える気もない。杏を困らせるだけだと分かっているのに、彼女が困って涙を流してくれでもしたら、救われるような気がしたのだ。

 しかし、その言葉に杏が想像通りの反応を返すことはなかった。杏はいつもの無表情でわたしをじっと見つめた後、そっと口を開く。

「じゃあ、一緒に逃げちゃおうか」
 そう言って、彼女はわたしに手を差し伸べた。

 わたしはその言葉に悲しみを覚え、同時に心のどこかが軽くなるのを感じた。杏はわたしの何倍も傷ついて、疲れているのかもしれない。どうして彼女が怪我を気にせず、マスクを付けず、屋上に出入りなどしているのか。手すりに腰かけるなんて危ない真似をしているのか。わたしは彼女が自分自身を大切に扱わない理由を、ずっと気付かないふりをしていたそれを、ようやく受け止める。

 杏の言葉に、嫌だとは言えなかった。その言葉にわたしは、罪を背負わされ、許しを与えられ、愛される。

 きっとこの空がこんなに現実離れした美しさでなければ、わたしは、こんな事はしなかっただろう。彼女を連れて中に戻り、仕事が終わったら、杏とお菓子を食べてゲームをして。決して不幸ではない日々を繰り返していただろう。

 でも、空が綺麗すぎるから。杏が綺麗すぎるから。もう戻れない。

 空を背負い今にも羽ばたきだしそうな彼女に手を伸ばす。彼女の冷たい手がわたしの手を引いて、手すりを越え――

 わたし達は、何一つ邪魔するものの無い空に飛び込んだ。

 誰も気付かない二人の恋は、朝焼けの海の、七色の泡になった。



 *



 いつまで経っても何の衝撃も訪れないことを不思議に思い、目を開けると……わたしは杏に抱えられたまま空を飛んでいた。何がどうなっているのかさっぱり分からず、恐らくわたし史上最大に間抜けな顔で彼女を見ると、その黒髪は地球上では目にしたこともない不思議な色に発光しており、頭のてっぺんには謎の触角のようなものがある。背中には光を透かす羽が生えていた。

 一目で分かる。彼女は人間ではない。
 ……本当に、どこまでこの恋に障害は増えていくのだろう。ここまでくると運命としか思えなくなってきた。

 杏は飛びながら、ワンピースの裾を引き千切ると、わたしの鼻と口を押さえつけた。

「このウイルスは人類には有害なんだよ。死にはしないけど」

 それから彼女が話したところによると、こうだ。

 杏は近頃ニュースを賑わしている“あのエネルギー物質”を保有する惑星から来た異星人らしい。自分の星の所在を知られエネルギー源を奪われないようにするため、物質の解析阻止を目的に、遠い星からやってきたのだという。研究施設の付近で、警戒されにくい女子中学生に扮して生活していたらしい。

 杏の目的は解析阻止の他にもう一つあった。それが地球の調査だ。

 宇宙連邦では、近年の地球人は様々な惑星にウイルスや有害物質を持ち込む、迷惑極まりない危険な存在として認知されており、地球侵略、地球人排除が検討されていた。そこで地球を探るために複数のスパイが、各惑星から送られたのだという。

 怪我ばかりしていたのは、夜な夜な研究機関や地球防衛軍と戦闘を繰り広げていたという、少年向けバトル漫画チックな背景があった。

 調査の結果、杏をはじめとする複数の調査員が出した結論は――見送り。
 地球の技術レベルや思想レベルだとまだそこまで危険性は高くなく、固有の動植物や文化価値を損なうことを恐れて、地球は攻め込まないことになったらしい。替わりに交渉部隊が宇宙保護法を各国政府に掛け合い、もうじき可決する見込みだという。杏が話す宇宙人は、地球人よりよほど温和な思想のように感じた。

 杏は昨晩、研究所のエネルギー物質の破壊に成功し、任務完了。先程は屋上で母星と通信をしていたそうだ。

「任務完了って……じゃあ、杏ちゃんは自分の星に帰っちゃうの?」
「うん。あなたを迎えてもらえるか、聞いてみるよ」
「えっ、わたし人体実験とかされない?」
「まさか。地球人じゃあるまいし」
「でも……もし駄目だって言われたら?」
「星はいっぱいあるから。二人で居られる星を探そう」

 杏はわたしに頬ずりするように、顔を寄せてきた。顔を覆う布切れが邪魔である。「あ」と杏が声を上げるので、わたしは小首を傾げた。完全に杏の癖が移ってしまっている……。

「どうしたの?」
「まずは、トウキョウに行かない?」
「え?どうして?」


「コラボカフェ、今月いっぱいだって言ってたよね」






【なないろの泡。】完
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