【なないろの泡。】(DAY6-DAY12)



「昨日は遅かったな。仕事、大変なのか?」

 朝7時。目覚めると、既に出勤準備を終えた夫がテレビを見ながらそう言った。研究者というよりは軍人のような逞しい身体が、ソファを狭そうに使っている。
 今日は遅めの出勤らしい。流石に疲れて寝坊でもしたのだろうか?まさかわたしが目覚めるのを待っていた訳ではあるまい……。

 その目は一向にわたしを見ず、テレビ画面をじろっと睨んでいる。きっと昨晩、帰りが遅かったことに臍を曲げているのだろう。

「おはよう。あなた程じゃないよ。コーヒー飲む?」
 わたしは出来るだけ穏やかに、撫でるような口調を心掛けた。キッチンの流しには既にコーヒーを飲み終えたコップが水に漬けられていて、彼はつっけんどんに「もう飲んだ」と言う。

 昨晩わたしが23時過ぎに帰宅した時、彼はよほど疲れていたのか、既に自室でぐっすり眠っていた。と思う。玄関に彼の靴があり、彼の自室が暗く静かだったので、そうだろうと思っただけだ。

 わたし達の部屋は同棲時代から別である。本当に最初こそ同室で眠っていたものの、お互い仕事が忙しい時期に自然と別室になっていった。主に忙しいのは彼である。今、彼の部屋は寝室兼研究室で、彼の仕事であり生きがいである宇宙研究の資料があちこちに山積みになっていた。もうそこに、わたしの居場所は無い。

「もっと楽な仕事にしろよ」と悪態をつく彼に、わたしは内心うんざりしながら「そうだね」と柔らかに相槌を打った。確かにわたしの仕事は、彼の仕事ほど大きな意義のあるものではないかもしれない。だが無価値なことのように言われるのは腹が立った。

「ね。昨日、お出迎え出来なくてごめんね。」
 心の中とは真逆に、ニコニコしながら彼の肩を揉み解すと、彼のピリッとした空気が少し和らぐ。良かった、思ったより怒っていないらしい。わたしは何とかやり過ごせそうだと安堵し、彼の硬い肩を優しくマッサージしながらテレビ画面を眺めた。

 今日もニュースは宇宙のことばかり。惑星シェルター建築計画の進行状況、新種宇宙生命体の発見、ウイルス情報……ふと、速報が表示された。不安にさせるアラート音と共に画面上部に現れる文面。国境付近の上空に、ミサイルの発射が確認できたらしい。最近度々現れる、どこの国から発射されたかも分からない謎のミサイルは、人々の心をざわつかせていた。

 そういえば近頃は物騒なニュースが多い。都内ではテロなのか何なのか、爆発騒ぎも起きているようだが……情報規制がされているのか、あまりニュースにはならない。動画サイトに現場の様子を撮ったものや、考察動画が上がることはあるが、半日経たず運営から削除されてしまうらしい。政府の陰謀論を唱える人々で、SNSは沸き立っている。

「ミサイル……怖いね。どうしよう、ここに落ちてきたら」
「心配するな。大丈夫だ」
 凝りを解し続けていたわたしの手に、彼の無骨な手が重ねて置かれる。大きくがっしりとしていて温かい手は、あの小さく華奢なつくりの冷たい手とは違う。ああ、思い出しては駄目なのに。彼女のことを思い出すと突然その温もりが受け入れ難いものに感じられて、わたしは露骨にならない程度に、そっと自分の手を抜き取った。しかしどこか微妙な空気が、彼の不満をわたしに知らせる。彼がおもむろに立ち上がり、冷たく鋭い目でわたしを見下ろした。身が竦む。だが逃げてはいけない。それが火に油を注ぐ行動だということを、わたしは既によく知っていた。

 彼の手がわたしに触れようとした時、またテレビからアラート音が鳴った。観ると、速報。ウイルス計測ドローンの計測で、空気中のウイルス濃度が一定に達したらしい。『屋外ではマスクを着用し、不要不急の外出は控えるように』と画面いっぱいに無機質な文字が表示される。

「……今日はリモートにしておけよ」
「あ、うん」

 彼は速報に気を削がれたように、わたしの横を通り過ぎて玄関に向かう。こんな時でも現場に出なければならない彼は大変だと思うが、今はそれに感謝しかない。わたしは小走りでその背を追い、夫を見送る良き妻に徹するのだった。


 *



 外出自粛生活も一週間目。わたしは息苦しさを感じていた。別に家の中に籠りきりなことが問題なのではない。ここずっと、杏に会えていないことが問題なのだ。食品や日用品を買いに近所のスーパーに出かけたり、マンション内のカフェに立ち寄ったりする度、つい彼女の姿を探してしまうが、一度もその姿を見かけることはなかった。

 ネットで調べると彼女の中学校はリモート授業を実施しているらしく、杏もきっとこのマンション内のどこかの部屋で大人しくしているのだろう。そう、“どこかの部屋”である。わたしは杏の部屋を知らないし、杏もわたしの部屋を知らない。杏が最上階の31階に住んでいるということは知っていたが、一つの階に20近くある部屋の中のいずれかである、というレベルの情報しか持ち得ていなかった。

 セキュリティ上、このマンションは自分が住んでいる部屋以外の階には、エレベーターで移動できないようになっている。オートロックエレベーターというやつだ。階段を使えば移動できるが、階段を上り、一つ一つの部屋の表札を確認するような自分を想像するだけでゾッとした。

 ……今、彼女は何をしているのだろう。一つ屋根の下という言葉にすれば、とても近く感じるのに、まるで遠距離恋愛をしているような気分だ。
 次に会った時、何を話そう。何を食べよう。何をしよう。

 一人で居る時間は二人で居る時間よりもずっと、わたしに彼女のことを考えさせた。難しく複雑な謎解きをしているわけでもないのに、脳がねじ切れるくらい、いっぱいいっぱいにさせた。しかし、じっくり妄想と空想の彼女に向き合っていられる時間はそう長くは続かない。最近泊まり込みで研究にかかりきりだった夫が、今日は荷物を取りに来るついでに早めに帰ってくるらしいのだ。折角だから彼の好きなすきやきでも作ろうと、日が沈みかけた頃、わたしはスーパーに出かける。


 お肉、焼き豆腐、長ネギ、白滝、白菜、しいたけ、餅巾着。餅巾着はすき焼きの具材としては一般的ではないかもしれないが、彼が好んでいるため必須だった。無いと機嫌を損ねることになるだろうから、絶対欠かせない……売り切れていなくてよかった。と、彼の好みに合わせた食材を籠に入れながら、わたしは自分の心が恐ろしいくらい、冷え切っていることに気付いた。

 相手のことを考えながら何かを選ぶというのは、こういう感覚だっただろうか。この間、ハンバーガーショップであんなにワクワクしていたのが懐かしい。寂しい。苦しい。

 わたしが、限られた人生の中で誰かのために何かできる時間を、すべてあの子のために使えたらいいのに。この時間、お金、行動力、思考力、感情。全てがもったいなく思えた。


 スーパーを出ると、清涼な夜気に洗われる。昼間は真夏のように感じることもあるが、まだ夜は涼しい5月。油断している頃にきっと、肌寒い梅雨が来るのだろう。
 茂る濃密な緑の香りが、マスク越しにも感じられた。それに誘われるように、少しだけ散歩をしていこうと道を逸れる。脚は杏と初めて出会ったあの公園に向かっていた。あの頃は木枯らしの吹く寂しい公園だったが、今の季節ならツツジが綺麗に咲いているだろう。

 家に籠りきりの毎日だと、季節を感じる機会が少ない。このまま外出できない期間が続けば、梅雨も夏も秋も冬も、いつの間にか終わってしまうのだろうか。彼女と会わない日々が続けば、この恋も風化していくだろうか。……なんて、自分の中の切なさに酔っていると、ビニール袋から突き出した長ネギが膝裏にあたる。ヒヤリとした感触と、ツンとした臭い。すっぴんで両の手に買い物袋を提げている主婦じみた自分の出で立ちを思い出して、一気に夢から醒めたような気持ちになった。が、夢から醒めたその向こうに、夢より美しい幻を見る。

「杏ちゃん!」

 彼女は最初と同じように、公園の茂みの隅に蹲っていた。蛍光塗料で塗られたような毒々しいピンク色のツツジの中、埋もれるように、彩度の低い少女がいる。その顔は青白く、マスクをしていなかった。

 わたしは彼女に駆け寄り、その手や足にまだ血の固まらない新しい怪我を見つけて、心臓を握られたように苦しくなった。杏はやはり痛みなど一切感じていない人形のような顔で、ただ少し後ろめたそうに眉を下げている。

「その怪我は……っていうかマスクは!なんでしてないの!?」
 心配が度を越して、つい怒鳴り声を上げてしまうと、彼女は驚いたように身を縮こまらせた。

「だって、大丈夫だから。いらないもん」
「またそういうこと言って!」
 わたしは無茶苦茶なことを言う杏の顔に、ポケットから出したハンカチをマスク替わりに押し付けた。杏の天然とも不思議ちゃんともつかない言動は、彼女の魅力の大きな一つであるが、今この時ばかりはわたしを苛つかせた。

「どうして杏ちゃんは、」
 続く言葉は、胸でつかえて出てこなかった。

 どうして勝手に怪我ばかりするのか。どうして自分を大切にできないのか。どうして心配しているのが伝わらないのか。
 まるで守っていたい宝物を、宝物自体に乱暴に扱われているようだった。

 深い溜息を吐いて頭を押さえるわたしを、杏が覗き込む。その瞳は潤んでゆらゆら揺れていた。また初めて見る表情をする。そんな顔をされて絆されない訳がない。

「ごめんね、怒ってる?」
「……どうして怒っているのか、分かってる?」
「ごめんなさい」
 杏はしょげたように、わたしから距離を置いて俯いた。
 違う、傷付けたい訳じゃない。怯えさせたい訳じゃない。わたしは彼女をただ……。

「杏ちゃん、歩ける?帰ろう。手当てしてあげるから」
 わたしは傍らに放っていた買物袋を持ち直す。本当は彼女を傷付けたものが何なのか追求したかったが、その怪我はどうしたのかと尋ねて、過去一度とてまともな回答が返ってきたことはないのだ。
 杏は小さく頷いて、手を差し出した。手を引いてくれということだろうか?わたしは荷物でいっぱいの自分を恨む。杏もわたしの手の荷物に気付いたのか、しおれた花のような顔になって、静かに一人で立ち上がった。その様子にわたしの胸がぎゅっと痛む。荷物が邪魔で邪魔で、捨て去ってしまいたい気持ちに襲われた。だがそれが出来ないから、もうずっと、こんなにも苦しい思いを抱えている。

 マンションに入ると、ロビーもカフェスペースも宿題をする小学生で賑わっていて「どこで手当てしよう」と悩んでいると、ずっと黙りこくっていた杏は「私の家に来て」と言った。



 *



 杏の家は、家族三人どころか一人も住んでいないのではないかというくらい、何もなく殺風景だった。引っ越しの下見にきたような気持ちになる。

「傷口、シャワーで洗っておいで」
 そう言って杏を風呂場に送った後、わたしはできるだけ人の家を踏み荒らさらないようにそっとリビングに向かった。だが踏み荒らすものなど何もなく、杞憂である。

 リビングにはかろうじて一つのソファと、テーブル、小さな棚があった。棚の上にはまるで必要に応じて今現れたかのように、手当てに必要な道具がずらりと揃っている。物の少ない部屋でそこだけが異様だった。

 これは全て、わたしが彼女に渡したものである。彼女が怪我をする度に買い足していたので、消毒液や軟膏は使いかけのものがいくつもあった。一人の時にも使って欲しいのだが、きっと彼女にとってはその横に並ぶ村長マスコットのように、実用性の無い思い出の飾りなのだろう。

 久しぶりに会った自分の家に居る村長の相方に、張り詰めていた心が緩む。何気なくそれに近付くと、ガラスの反射で隠されていた棚の中が露わになった。そして、わたしは自分の芯が痺れるのを感じた。

 そこにあるものは、どれも見覚えがある。洒落っ気の無い彼女にあげたヘアピン、シュシュ。彼女が好きなゲームのキーホルダー、ストラップ。彼女が気に入ると思ったがそうでもなかった少女漫画の第一巻。バレンタインに贈ったチョコレートの空き箱。一緒の朝に拾った大きな松ぼっくり。二人で食べたお菓子の包み紙。まだ未開封の飴玉、ガム。

 もう、堪らなかった。どうしてこれ以上、好きにさせるんだろう。

 傷口を洗い終えてやってきた彼女は、拭き切れていない濡れた裸足で歩いてくる。表情には出ないにしても、痛むことは痛むのか少し歩きにくそうにしながら「アイス食べる?」と呑気に小さな冷凍庫を開けた。

「いいよ。今日はすぐ帰らないといけないから。ほら、手当てするからここに座って」
 棚を見て胸の内を震わせていたことを悟られないように、と意識していたからか、思ったより冷たい言葉と口調になってしまった。杏は少しだけ唇を尖らせ、渋々ソファに沈む。わたしは反省して、一度深呼吸をして心を落ち着かせると、手当てのためにその白く細い脚の前に跪いた。

 まず、清潔なコットンで傷口を拭う。思ったより傷は深くないようだ。ただ今日は数が多かった。太もも、ふくらはぎ、広範囲に大小様々な傷がある。そして塞がった古い傷も点々と痕を残していた。……本当に、生傷が絶えない少女である。事も無げなその顔がわたしをより辛くさせた。痛い辛いと泣いてくれたならどれだけ安心出来ただろう。しかし助けなど求めていない彼女だから、何でもしてあげたくなるのかもしれない。

 傷口に軟膏を塗布していると、一直線の細い枝のような未発達の足が、わたしの手の中でぴくりとした。これは生きているのだ。彼女の一部なのだ。そう思うと途端に、その白さが目に染みて、込み上げてくるものがある。……わたしは怪我人相手に何を考えているのだろう。本当に自分が嫌になる。

 だが視線を逸らしても、彼女の甘い匂いに腹の奥底を撫でられているようで……熱い。わたしの中に生まれつつある、くすぐったさと痛みの間を行き来する感覚。自分が男に生まれていたら、これが何か理解できただろうか?いや、きっと、そんな単純なものでもない。そんな真っ当なものではない。
 わたしはそれを無視して、気付いてもいないという風を装い、自分を騙しながら手当てを続ける。保護テープをシワにならないよう丁寧に貼るこの手は、震えていないだろうか?杏は何も気付いていないだろうか?

 この劣情がバレることだけは、あってはいけない。杏もわたしも傷付け、誰も幸せになることの無いこれを、現実世界に産み落としてしまってはいけない。これはわたしの中だけに秘めておくべきものなのだ。

 しかしわたしの努力を無かったことにする一言を、杏は言う。

「ねえ……好きにしていいよ」

 わたしはポカンとして、杏を見上げた。その突拍子もない言葉に、どのように反応していいか分からない。彼女の言動は不思議ちゃんを超えて宇宙人の様に理解不能である。――いや、違う。本当は分かっていた。だって彼女はいつも通り透き通った顔で、何もかもを見透かす目でわたしを見ている。彼女はわたしの中にあるものに気付いてしまったのだ。

 その言葉は断罪か、それとも救済のつもりなのか。どちらにしても、それはこれまでの幸せなわたし達の終わりになるだろう。
 わたしは自分の目が溶け出すのを感じた。熱い視界がぐにゃりと歪む。

 ……わたしがこの子に、何をできるというのか。

「何の話……?訳の分からないこと、言わないで」
「嘘吐き。ずっと我慢しているような顔、してるくせに」

 その言葉を否定すると、意図するものを理解しているということになる。暗に肯定するようなものだ。わたしは何も答えることが出来ず、逃げるように俯いた。

 ずっととは、いつからのことだろう。彼女はいつから、わたしが彼女を見る目の意味に気付いていたのだろう。呆れただろうか。気持ち悪く思うこともあっただろうか。それでも我慢して傍に居てくれたのだろうか。
 二人で過ごした綺麗な時間は、本当は彼女の優しい嘘偽りだったのかもしれない。

 堪えていた涙が一粒、二粒、雫となってフローリングを叩いた。美しい彼女の前で跪いていると、まるで神に懺悔しているようである。
 
 ……ごめんなさい。まともな大人で、綺麗な友人で居られなくてごめんなさい。出来れば許して欲しい。けど、許さなくてもいいから無かったことにして欲しくない、なんて。人間はどこまで我儘で罪深いのだろう。

 みっともなくて、顔を上げることが出来なかった。自分の半分も生きていない少女に、醜く浅ましい部分を暴かれて、泣き崩れるわたし。なんと情けないのだろう。どうにか泣き止んで、彼女の方を見ないように部屋を出ようと思ったが、足に力が入らない。駄目だ駄目だ、もう駄目だ。

 絶望するわたしの肩に、小さく冷たい手が触れた。罪悪感と共に歓びが湧き上がる。

 手はわたしの髪をくぐり、頬を撫で――誘われるように顔を上げると、世界が彼女一色になった。視界いっぱいに彼女。花のような果実のような肉の甘い匂い。ぬるい体温。吐息が、わたしの吐息に混ざる。もうどうにでもなれ、と思った。

 知らず知らずの内に絡めていた指は、触れるだけの口より濃密に相手を求める。握っては緩められる力。指の間を上下し、爪の表面を撫でていく。とてもいけない事をしているようで、とても心地良かった。杏の細い指がわたしの指の根本を摘まむように……左手の薬指からそれを抜き取っていく。わたしは解放感と違和感にハッとして目を開けた。

 視界が明るくなる。呆然とするわたしに、杏がニコッと微笑みかけた。

「私はずっとね、こうしてみたかったよ」

 それは今まで見た彼女の表情の中で一番彼女らしくなく、一番本物だった。だからその手にある指輪を、今この時ばかりは彼女に預けていてもいいと思ってしまう。彼女のことだ。きっと悪いようにはしないだろう。

 彼女が何を思いどうしたいのか、わたし達がこれからどうなるのかは分からない。答えを出すのが怖くて黙っていたら、もう一度キスされた。これ以上は駄目だよ、と臆病なわたしは彼女の背をあやすように叩いて、互いの中の熱を宥める。

 その薄い背中に触れた時、何かおかしな感じがした。杏が顔を顰めている。……彼女は背中にも怪我があるのだろうか?だが尋ねても、彼女は「なんでもない」と言うだけだった。
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