【なないろの泡。】(DAY5)



 生理終わりかけの六日目、早朝。夜明けと共に出勤する多忙な夫を見送って、わたしはリビングのソファにだらっと垂れ、テレビのチャンネルを回していた。深夜に帰ってきて早朝に出ていく彼は、一体どうやって生きているのだろう。心配よりも単純に疑問だった。

 朝の番組は殆どニュースばかりで、どこも大して変わらない。わたしは適当なところでボタンを押す手を止めた。ニュースは今日も今日とて宇宙の話である。ここずっと世間を賑わしているのは、宇宙空間から見つかったある固体物質である。それは研究の結果、地球上に存在するどのエネルギー資源より圧倒的に効率のよい、画期的なエネルギー資源であるらしい。この物質を大量に入手できれば、地球のエネルギー不足問題は一気に解決する、と専門家が何百回目の熱弁を振るっていた。現在は物質採掘のために、どの惑星のものか調査中とのことである。

 その物質の保管場所は世間に公表されていなかったが、わたしは何となく知っていた。きっとこのマンションからそう遠くない場所にある、研究所に保管されているのだろう。……これが、夫の多忙の理由である。彼は宇宙開発に携わっている研究者で、元々忙しくはしていたが、物質発見の時期くらいからは特に仕事にのめりこんでいた。

 ウチュウ。わたしはまだそれに、胡乱な響きを感じている。本当にあの空の向こうにそんな世界が存在するのだろうか?もしかすると何処かの大ほら吹きに、みんな騙されているのではないだろうか?

 ニュースが次の話題に移り変わったタイミングで、コーヒーのお湯を沸かすために立ち上がる。遠い宇宙の事などに心を割く余裕が、どうして他の人々にはあるのか、分からない。地球上の物事だけで、わたしはいっぱいいっぱいだった。

 ――そう、例えば昨日の朝のことである。

 わたしは前日、夜中までゲームでレベル上げをしていた所為か、寝坊してしまった。まあメイクが適当でも、杏がマンションを出る時間に間に合わなくても、その日は彼女に待ち伏せを確信されないために別々に行く予定だったから問題はなかった。だが、どうせだったらもっと遅くに家を出るべきだったと後悔した。

 駅に向かう途中の道で、杏を見かけてしまったのだ。普段なら嬉しく思ったかもしれないが、そうならなかったのは彼女が一人ではなかったからである。杏はお揃いの制服を着た少女と連れ立ち、話をしていた。杏程ではないが結構可愛い女の子だった。とてつもなく、嫌な気持ちになった。

 あの子は何の罪悪感もなく、どんな言い訳も必要なく、杏と一緒に居られるのだろう。同じ制服を着て、同じ授業を受けて、同じ給食を食べて、同じ可愛く綺麗な生き物として生きている。なんてずるいのだろう。彼女の隣に立っていて、とても自然でとても似合っているのが、とてもずるい。

 毛穴の無いつるりとした肌。まだ子供らしい細さのある身体。穢れなき無垢な生き物に見える。たばこや酒は当たり前、援助交際に手を出して、暇つぶしに万引きをする。そんなすれた不良女子中学生なんてメディアが作り上げた偶像なのだろうか?そんな子だったなら、合理的に彼女から遠ざけることができるのに。

 ふと、杏の透明な瞳がわたしの方を振り返った。妙に感覚の鋭い彼女だから、僅かな足音や視線に気付いたのかもしれない。わたしは手抜きメイクであるということを除いても、醜い顔をしている自覚があり、咄嗟に顔を逸らす。杏はわたしに話しかけてくることなく、前を向いてその少女と行ってしまった。安心したような落胆したような複雑な感情で、その背中をいつまでも見つめているわたしを、きっとあの子は夢にも思わないのだろう。わたしは一人、勝手に振られた女になった。


 ……それが昨日の朝のことである。咄嗟のこととはいえ杏を無視してしまった後味の悪さを、一日中引きずってしまった。いや、翌朝にまで持ち越してしまった。このままでは翌々朝も、翌々々朝にも持ち越しかねない。それを止めるためには彼女に会うしかないだろう。

 昨晩彼女に会うことはなかったが、今晩会えたらお詫びをしたい。だが彼女は気にしていないかもしれない。覚えてさえいないかもしれない。だとしたら謝るのは不自然だろうか?でもそれでは、わたしのもやもやの行き場がない……。

 悩むわたしに、神の啓示。テレビ画面に流れるファストフード店のCMにわたしは「これだ!」と勇み立ち上がった。



 *



 仕事帰り、今日も21時を回る頃。帰路につくわたしはハンバーガーショップの紙袋を抱えていた。ガサガサという音と、ジャンキーな匂いが空腹を辛くする。

 あのモンスターRPGが、今日からハンバーガーショップで期間限定のコラボメニューを出しているとCMで観て、杏へのお詫びはこれしかないと思ったのだ。……本当にこのゲームの最近の人気ぶりには目覚ましいものがある。東京では今月いっぱい、作中に出てくる料理を実際に味わうことが出来るコラボカフェなんてものまで開かれているらしい。その話を杏とした時に『流石にそこまでは行けないね』と言った時の、彼女の悲しげな顔が今でも目に焼き付いている。彼女はゲームの話になるといつもより表情豊かになり、わたしはゲーム相手に嫉妬したのだった。

(コラボカフェには行けないけど、少しでも気分を味わってもらえたらいいな)
 ハンバーガーショップとのコラボは、コラボ記念バーガーをポテトとドリンクのセットで注文すると、漏れなく限定グッズが付いてくるというものだった。バーガーの包み紙とコップにはゲームのロゴとモンスターの絵が描かれていて、それだけで杏は喜ぶだろうなと思った。

 もうすぐマンションが見える、という時になってようやくわたしは、もし彼女に会えなかったらこれらはどうすればいいのだろう、という考えに至った。約束もしていないのに会える前提で居た自分が不思議である。もし彼女に会えなければ……二人分のジャンクフードを食べなければならない。明日の朝食か昼食は、冷えたバーガーとしなびたポテトになるだろう……。しかし心配は不要で、杏はちゃんとロビーに居てくれた。

「杏ちゃん、ただいま。待ち伏せかな?」
「そうかもね」
 特に何か意味を持たせたように思えない、常と全く同じ口調で、杏が言う。しかしそのふてぶてしい不愛想な顔が、妖艶な女優よりわたしの心をかき乱すのだ。

 杏はソファから立ち上がると、わたしの方に近付いて……わたしの手元の紙袋に興味を持ったようだった。胃をくすぐる匂いの、まだ温かな袋をまじまじと見て「これなに」と言う。わたしはもったいぶって「さあ、なんだろうね」と言いながら彼女をカフェスペースまで連れていき、そこでようやく紙袋の中身を出して見せた。杏はハンバーガーとしか予想していなかったようだが、その包み紙を見て「あ」と目を瞬かせた。

「じゃーん!ゲームとのコラボだって!ドリンクのカップも特別版だよ」
「え、かわいい、すごい」
 本当に、好きなものになると分かりやすい少女である。

「ね!あとグッズも付いてきたから、杏ちゃんにあげるね」
 そう言って中の見えない手の平サイズの個包装を彼女の手に乗せると、彼女はそれを四方八方からまじまじ観察した。「開けていいよ」と言うと“よし”と言われた犬のように、いそいそ封を切る。中にはゲームの看板キャラクターともいえる大人気モンスター……ではなく、何故か主人公が生まれ育った村の村長のマスコットが入っていた。

 ……なんだこれ。公開されていたラインナップには無かった筈。もしかして、一つだけシークレットで非公開になっていたものが、これだったのだろうか?シークレットがよぼよぼのお爺さんでは、子供は泣くのではないだろうか……。しかし杏はもう子供ではないのか、泣くどころかその背を小刻みに揺らしている。

(もしかして、笑っている!?)
 杏が笑みを浮かべるところなら稀に見ることはあったが、それは微笑程度であったし、体を震わせて笑っているところは見たことが無かった。わたしは彼女の顔を見ようと、急いで覗き込もうとしたが――さっと顔を上げた少女は常と同じく平坦な無表情である。いや、無というには少し違和感のある、何とも言えない難しい顔をしていた。やはり村長はお気に召さなかっただろうか?

「大丈夫、もう一個あるから」
 わたしは杏を慰めるようにそう言って、未開封の袋を手に取った。そして袋の外側から中の輪郭を確かめるように触る。……なんだか嫌な予感しかしないが、杏が手を広げて差し出すので、仕方なくその手に乗せた。杏は祈る様に一度それをギュッと握りしめてから、先程よりゆっくりと袋を開封した。

「「村長だ……」」
 杏と声が重なった。そして今度こそ堪え切れなかったのか、わたしは初めて杏が声を立てて笑うのを見るのだった。

 静かで穏やかな人形のような彼女をたまらなく美しいと思っていたが、くしゃっと皺を作って笑う彼女には、胸が熱くなる何かがあった。

「あはは!二つも村長っ。一つ返すよっ」
「ふふ、お揃いだねっ」
 へんてこなマスコットが、お揃いという魔法の言葉で、一気に宝物になる。

 二人で散々笑った後、わたしはカラカラになった喉を潤すためにマイナスカロリーコーラを流し込んだ。炭酸が強すぎて、思わず咽てしまう。杏は咽ることなくゴクゴク喉を鳴らして上手に飲むと、落ち着いて空腹を思い出したのか、ハンバーガーに手を伸ばす。そして包み紙を丁寧に剥がすと、小さな口を大きく開けて、ぐっと押し込むようにハンバーガーに噛り付いた。

 彼女の薄い唇が艶やかなバンズの反発を受け、僅かにめくれ上がり、その奥に連なる歯が見え隠れする。耳をくすぐるような咀嚼音。ひき肉を固めたものがまた、彼女の中でひき肉に戻っていく。柔らかな頬が蠢く。白い喉が波打つ。口の端に付いたソースを、赤い舌がぺろりと舐めとる。先程まで馬鹿笑いしていたのが嘘みたいに、わたしは真面目な顔でそれに見入っていた。食事という行為は、こういうものだっただろうか。

「美味しいね」
「えっ、あ、うん。美味しいね」
 彼女の食事姿に見とれてぼーっとしていたからか、無意識に食べ進めていた何口かの味はよく分からなかった。わたしは手元のハンバーガーの断面図を見る。少し潰れた小麦色のバンズに、申し分程度の工場野菜と、やけに肉らしい人工培養肉。子供の頃に食べた畑の野菜と天然の肉の味はもう思い出せないが、これはこれで何の問題もなく美味しい……と思う。どちらも、濃すぎるてりやきソース味でしかないが。

 杏は、僅かばかりの野菜も器用に残して食べていた。彼女は大の野菜嫌いで偏食である。アイスクリームやお菓子、ジャンクフードばかりを好んでいた。栄養の偏りが気になるが、昼間は学校で給食を食べているだろうし、大丈夫……だろうか?だが実のところ線の細い彼女よりも、彼女の食事に付き合うことで少しずつ丸みを増してきた、わたし自身の方が心配である。

 わたしはこってりした口の中を洗い流すように、またコーラを飲んだ。だがそのタイミングで杏が「そういえば昨日、なんで無視したの?」と、唐突に容赦なくぶち込んでくるので、今回も咽る。

「い、いや、お友達との時間を邪魔しちゃいけないと思って」
「違うよ。邪魔じゃないし、友達じゃない。声を掛けてきただけの、ただの同級生」
「そう、なの?」
 声を掛けてくる同級生は、果たして友達ではないのだろうか?と思ったが、彼女の回答にどうしようもなく満足している自分がいるのは確かだ。胸のあたりがポカポカし、頭には花が咲き、ネジが緩んで口元がにやける。だからわたしは調子に乗って、余計なことまで訊いてしまう。

「じゃあ、わたしは?友達?」
 その言葉が完全に出切ってから、わたしは後悔した。
 友達だと言われることを望んでいる一方で、実際にそれを突きつけられたら、それはそれで自分の中の何かが傷むような気がしたのだ。否定されるのも辛いが、肯定されるのもキツイ。どちらにしても、わたしは苦しむだけなのだ。だが杏は最適な回答を知っているようだった。

「違うよ。もっと違う、何かだよ」

 杏は決して“特別”とは言わなかったが、不器用で独特の言い回しが多い彼女だから、それで充分だった。わたしはだらしない顔を見られたくなく、できるだけ自然に彼女から視線を逸らす。と、その先、夜の窓ガラスに映る自分と目が合った。今一番見たくない、自分の正体。

 わたしは、彼女にとって何なのだろう。何になれるのだろう。
 きっと何にもなれない。わたしはもう何にもなれない大人だのだ。

 会社員としてのわたしも、妻としてのわたしも、ある程度決まりきっていて限界が見えている。ただ消費するだけの人生から逃避したいという気持ちが、自由だった少女時代への憧れが、彼女への恋愛感情に錯覚させているのかもしれない。と、思ったことはある。
 これはただの現実逃避による、恋愛ごっこ。

 だったら、まだ理解できたのだが――理性的な解釈は何の役にも立たないくらい、ただ心が乱れて燃えるような、紛れもない恋だから性質が悪い。

 ヴーッという振動音。わたしはテーブルの端に置いていた携帯を手に取る。画面の上部に、メッセージの通知が表示された。夫だ。「今日はもう少しで帰れる」とのことらしい。……珍しい。もっと早くに連絡をくれれば夕食を作って待っていても良かったのに。今のわたしはもう“杏と過ごすわたし”に切り替わってしまっている。だが帰らずにここに居続けた場合、鉢合わせになると少し厄介かもしれないと思った。夫に杏の話は一切していないのだ。このカフェスペースはエレベーターに乗る時に必ず通る。ここに居たら絶対にバレてしまう。

 わたしがどのような顔をして画面を見ていたのか、自分では分からないが、杏がわたしの肩にもたれるように画面を覗き込んで「うーん」と唸った。

「移動しよっか。とっておきの場所、教えてあげる」
 杏はそう言うと、ハンバーガーの最後のひと口を押し込んで、野菜の残る包み紙を丁寧に畳んだ。



 *



 杏が言う“とっておきの場所”とは、マンションの屋上のことだった。

 学校もオフィスビルもマンションも、どこもかしこも屋上は閉ざされているものである。危険だと閉鎖するくらいなら作らなければいいと、いつも思っていた。だが何故かマンションの屋上の鍵は壊れており、あちこちに付いている筈の監視カメラも付いていない。杏は手慣れた様子で屋上へ続くドアを開けると、外に出た。わたしは夜闇に溶けていくような危うい背中を、夢見がちな気持ちで追う。涼しい風が髪をさらった。

「ね、中々いいでしょ」
 杏はずかずかと屋上の真ん中まで進むと、夜空を抱くように両手を広げた。にこりともしないその顔に、大げさなポーズがちぐはぐである。

「どうして入れるって知ってたの?いつから?鍵が壊れてるって、管理会社の人は気付いてないの?」
 我ながら詰まらないことを言っているな、と思った。それは杏も同じ感想なのか、彼女はわたしの質問には一切答えず「ここはこの辺で一番高い場所なんだ。周りが良く見えるんだよ」と言った。「高いところは嫌い?」と小首を傾げられると、もう色々とどうでもよくなってしまう。好き、と言おうとして、何故かその言葉は口にしてはいけない気がした。

「……嫌いじゃないよ。うん、気持ちいいね」
 屋上は余計なものがなく、ガランと殺風景である。ここには夜と杏とわたししか居ない。それがとても幸せだった。

 手すりの向こうには街と海。駅や杏の中学校、杏と初めて会った公園も見える。いつもの日常がとても遠くの出来事のように感じられた。空を仰ぐと、重たい曇り空が直ぐ近くまで迫っている。雲がすべて退けば、月にも星にも手が届くのだろうか?

「晴れてたら、もっと良い景色だよ。特に朝焼けが綺麗」
「へえ、朝焼けか……いいね。見に来てもいいかな?」
「ちゃんと早起きしてね」
 わたしも杏も、一緒に見ようという約束はしなかったが、同じ意味だと思った。

 わたし達はそれから暫く天と地の狭間で、ただ揺蕩う夜と向かい合っていた。わたしはその空間に、その中心にいる少女に心を奪われながらも、どこか冷静さの残る指先で携帯に触れる。そして早く帰れる、という夫のメッセージに『お疲れ様!残念……わたし、残業になっちゃった。ご飯食べててね』と、泣き顔の絵文字付きで返信するのだった。

(嘘をついて逢引しているなんて、本当に浮気みたい)

 わたしはそれが嬉しかった。これが紛れもない恋だと確かめることができて、嬉しかった。わたしが認めない限り、この想いは誰も恋と気付けないような、そんなものなのだから。
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