【なないろの泡。】(DAY1夜)



 仕事帰り、21時。マンションの自動ドアの外から中を覗くと、わたしの願望が具現化したかのように、ロビーのソファには儚げな少女の姿があった。いつも通りこんな時間まで何故かセーラー服である。他の服を着ているところなど、数える程しか見たことが無い。わたしは少しだけ自分の身なりを直して、自動ドアのロックを解除すると中へと入っていった。今日はなんて幸運なのだろう。朝と晩、二度も彼女に会えるなんて。

「杏ちゃん、ただいま。もしかして待ち伏せ?」
「誰が誰を?」
 杏は不愛想にそう言ったが、わたしは優しく『おかえりなさい』と迎えられた気になった。いつもへの字にむっとしているその口が、少しすぼまってキュッとなるのは、嬉しい時の癖だと知っている。

「アプリ、アプデされたよ。一緒にイベントやろ」
 そう言って携帯を掲げると、杏は僅かに顔色を良くして、胸元で手をぎゅっと握りしめた。……可愛い。わたしがプレイしていたゲームアプリを何気なく教えて以来、彼女はすっかりハマってしまっているのである。

 携帯を持たない彼女のために、わたしは一人の時はひたすらレベル上げやゲーム内マネーを稼ぐことに専念し、二人の時にメインストーリーや期間限定イベントを進めるようになった。ストーリーやイベントを進めるためには、ゲーム内体力を消費する必要がある。体力は時間で回復する仕組みになっているが、時間は金で買える。有料アイテムを使用することで、体力を即時回復できるのだ。杏と居られる時間にスムーズに進めるために、わたしは無課金勢から課金勢に転身したのだった。

「早くやりたい」
「まあまあ。ご飯はもう食べた?」
「食べてない」
「だよね、そうだと思った。最初にコンビニ行こっか。何食べたい?」
「アイスクリーム」
「はいはい、それはデザートね」

 わたし達は時々こうして夕食を共にしている。食事はいつもコンビニやファストフードのものばかりだが、何度食べても飽きなかった。たまには何か手料理でも作って持ってこようかとも思ったが、他所の子に勝手に手作りのものを食べさせるというのは気が引ける。……というのは言い訳で、一大人ではなく臆病な乙女として勇気がなかっただけかもしれない。手作りのものなんて食べられない!と言われたら立ち直れない。

 杏は一人の家に居たくないのか、わたしが朝に待ち伏せするのと同じくらいの頻度で、こうしてロビーで……恐らく、希望的観測だと、わたしの帰りを待っている。

 わたし達はコンビニから戻ると、マンション内のカフェスペースに向かった。夜のカフェスペースは静かである。日中は主婦や、マンション契約の営業マンと見学客。夕方には学校帰りの小学生で賑わっているが、21時を過ぎると流石に人気が無くなる。時々仕事帰りのサラリーマンが家に帰りたくなさそうに、少し時間を潰している程度だ。もしかするとわたしもその一員なのかもしれない。

 杏はお気に入りの窓際の席に腰かけて、ガサガサとコンビニの袋を開け、パックのミルクティーにストローを刺した。パック飲料と女学生がこんなにも似合うのは何故なのだろう。その姿に、あったかどうかも分らない青春が想起される。ただの妄想かもしれない。

 サンドウィッチと、揚げてから大分時間が経ったようなポテトをパーティー開きしていると、杏はぺりぺり、アイスのパッケージを剥がしていた。いきなりアイスか、と思ったが、よく考えればタイムリミットがあるものから先に手を付けるのが正解だろう。わたしも彼女を真似てソフトクリームの蓋を外す。……うん、食前アイスも中々である。初夏と彼女の所為で若干熱っぽい身体にちょうどいい。

 コンビニからマンションまではそれほど遠くなかったが、二人でのんびり歩いていたからか、アイスは口溶けが良すぎる位になっていた。杏の手元、溶けたアイスが網目状のコーンに垂れていく。わたしはすぐに声をかけることもできたのだが、その垂れた甘いバニラが、彼女の指をどう汚すのか気になった。黄色がかったとろみのある液体が、彼女の指の形に沿って流れていく。

 杏は「あ」と言って、慌ててそれを舐めとった。その様子をまじまじと見て、これはただの偶然だが――ちょうどごくりと唾を飲み込んでしまった自分が、とても気持ち悪い生き物に思えた。

 自己嫌悪に陥っていると、そんなわたしの穢れた心など知りもしない綺麗な生き物が「早くゲームやろ」と無邪気に急かした。「そうだね」と答える、邪気。

 携帯画面にゲームが映し出されると、杏は食い入るようにそこを見つめ始める。ゲームは子供から大人まで幅広い層の人気を博す、モンスター育成RPGだ。モンスターも人間キャラクターも魅力的なデザインと個性で、世界観とストーリーも作りこまれており、RPGだけでなく箱庭シミュレーション、リズムゲーム、パズルと様々な要素が上手く組み合わされた名作である。杏曰く『地球上にはいっぱい動物がいるのに、飽きたらず空想上の生き物を作ってしまうのが面白い』とのこと。(他にもそのようなゲームやアニメは溢れているが、杏はあまり知らないようだ)
 杏は本編のストーリーは勿論、ゲーム内で入手できるアイテムで、プレイヤーのアバターや箱庭をカスタマイズすることに興味津々だった。

 早速、本日配信開始したばかりのイベントで限定アイテムを入手し、ああでもないこうでもないと、わたし達は二人の化身であるアバターを着せ替えする。いつも思うが、彼女のコーディネートセンスは独特だ。どうしたらその組み合わせにできるのだろうという程、天才的に壊滅的である。ゲーム側がそれを想定していないのか、明らかに噛み合わずバグのようになった上半身と下半身に、わたしは堪え切れず吹き出した。

 一度堰が切れると止まらず、笑い続けるわたしとは対照的に、杏は珍しく顔を顰めている。あれ、機嫌を損ねてしまっただろうか?「ごめんごめん」と言ったが、どうやら怒っている訳ではないらしい。杏はわたしの胸元にぐっと近付いて、息を吸う。――心臓が、落ちたかと思った。

「ど、どうしたの?」
「……ねえ、どこか怪我してる?血の臭いがするんだけど」
 えっ、とわたしは固まった。思い当たることは一つしかない。今日は生理二日目、一番出血量の多い時である。特に今回はいつもより重たかった。薬を飲んでいるので痛みは無いものの、腰まわりがずどんと重い。

 自分では分からないが、そんなに臭うだろうか?わたしは慌てて自分の臭いを確認するが、やはりよく分からなかった。

「うそ、わたし臭い?ごめんね……生理なんだよね」
 わたしが気まずそうにそう言うと、険しかった杏の顔が、途端にキョトンとなった。そしていつもの必殺ポーズ、首を傾げる。

「セイリ?」
「う、うん」
「ああ。そっか、そうだったね。月経か。なるほど」
 月経……その正式な医学用語を聞いたのはいつぶりだろう。彼女は遠い世界のよく知らない言葉のように、それを口にした。
 もしかすると杏はまだ生理が来ていないのだろうか?人より少し遅いのかもしれない。ただ知識としてはあるようで、まだ何度か「なるほど」と繰り返していた。

「痛くはないの?」
「うーん、少し頭痛がしたり腹痛がすることはあるけど、今は大丈夫だよ」
「そう。月経って子供を産むための仕組みだよね。産むの?」
 杏の問いに、言葉以上の意味はない。それはただの純粋な疑問でしかない。無垢な子供の目でまっすぐに見られて、わたしは逃げ出したくなった。その事柄について、全く考えていない訳ではないが、今向き合いたいかと言えば嘘になる。そして何より誰より、杏とだけはその話をしたくなかった。わたしは「さあね」と出来るだけ明るい声で答える。

 それから暫くゲームをしていると、すっかりゲーム機になりきっていた携帯がヴーッという振動音をたて、画面上部にメッセージの通知が表示された。夫だ。『今日も帰れない』とのことらしい。わたしはそれにどこか安心しながら、杏に一言断りを入れて画面を切り替えると『お疲れ様!お仕事頑張って、応援してるよ』と返信する。ちゃんと笑顔の絵文字も付けておいた。

 一仕事終えた顔で彼女の方に向き直ると、その口がすぼまっている。……可愛い。

「今日はまだ帰らなくていいんだね」
「ふふ、そうだね。そうだ、この間途中まで見たアニメ映画の続き、観る?」
「観る」
 どこまでも感情表現が乏しく、どこまでも素直な杏。わたしは自分の顔がだらしなく緩んでいるのを自覚せざるを得なかった。

 映画を観ると言っても、モニターはテレビ画面ではなく携帯画面である。自分の家に彼女を招いたことはない。彼女の家に行ったこともない。流石にそれは不味いと、冷静で常識ある大人のわたしが踏み止まらせていた。

 わたしはバッグからイヤフォンを取り出すと、片方を彼女に渡して、もう片方を自分の耳に入れる。紐で繋がった子供用の手袋のように、わたし達は二つで一つのセットになった。細いコードは頼りないが、杏の形のいい耳と繋がっていられるこの時間が好きだ。だから最近主流の、イヤリングタイプの骨伝導イヤフォンにしていなくて良かった、と思う。

 イヤフォンが耳から外れないよう、そっとこちらに身体を寄せて、わたしの手元の画面を覗き込む彼女。うなじの辺りから他の何にも例えられない甘い匂いがして、無性に切なくなった。

 使い古されたようなフレーズが頭に浮かぶ。

 “ああ、このまま時が止まればいいのに”
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