わたしは今、わたし至上最大に難しい恋をしている。

 世間一般でいうところの“新婚ホヤホヤ”であり、幸せ真っ盛りである筈のわたしは、全く想定外の恋に苦しめられていた。これまで一度も感じたことのない激しい感情。目が合うだけで血が湧き、切なさに心が捩れる。罪の意識が、わたしを苛む。

 ……なんてことを誰に言う訳でもないが、もしこの独白を私小説にでも書き起こしたなら、世間の批判は免れないだろう。そう、お察しの通り、わたしの恋の相手は夫ではない。
 とはいえ今も昔も多くの女性の心を掻き立てるような、インモラルでディープな大人の不倫物語とも違う。もっと、もっと、難しい恋なのだ。わたしが恋と名付けなければ存在していられない程、朧な恋なのだ。

 告白しよう。
 わたしは、同じマンションに住む“女子中学生”に恋をしている。

 既婚者のわたしが、自分の歳の半分も生きていない青少年の、同性に対して。どれか一つでも恋愛物語を盛り上げるに充分なスパイスであるが、それが三つも組み合わさってしまっている。これ以上に障壁が増えるとしたら何があるだろう。遠距離になる、実は肉親関係であった、敵国のスパイである……いっそのことそれくらい徹底してくれていたら、この想いをすっぱり諦めることができたかもしれない。

 いや、この恋は、諦める諦めないなどという土俵にも乗っていない。誰にも気付かれないまま終わる、声なき人魚の恋なのだ。いつか泡になって消える運命。

(その時は、せめて綺麗な泡になりたい)

 わたしはガラス越しに白い朝日を浴びて、眩しさに目を細めた。清く静かな光はどこかあの少女のようである。



【なないろの泡。】(DAY1朝)



 朝8時。マンションのロビーに出てきた少女は、まだ少し眠そうな顔でぐっと伸びをする。上に引っ張られたセーラー服の裾から、その柔らかな素肌が露わになる……ことはなく、下に着こんでいる色気の無い白無地のシャツが見えるだけだった。

 少女の名前は永利 杏(ながとし あん)。一人の憐れな女――つまりわたしを、禁忌の恋に落とした罪深き乙女である。

 14歳の中学二年生。まだ幼さの残る丸い顔に、憂いを帯びた瞳がアンバランスで、神秘的な魅力を醸し出している。白い肌は内側からほんのり色付き、すべすべの桃のように触れたい気持ちにさせた。球体関節人形のように無機質な透明感のある、儚げな美少女。それが杏だった。

 わたしの熱視線に気づいた杏は「あ」という顔をして、その可憐なおさげ髪を揺らしてパタパタと小走りで駆け寄ってきた。その姿はまるで小動物の様に愛くるしい。まだ一度も染めたことの無いような傷み知らずの柔らかい髪は、黒のヘアゴムでまとめているだけで充分お洒落だった。自分が中学生の頃はこんなに綺麗な生き物ではなかった、としみじみ思う。
 わたしは、まるで自分も今出てきたばかりのような素振りで彼女を迎えた。

「おはよう、杏ちゃん」
「おはよう。最近よく会うよね。もしかして待ち伏せ?」
「まさか。偶然だよ」
 わたしはドキリとしたのを悟られないように、カラカラの笑顔で誤魔化した。杏は気にしているのか、どうでもいいのか、よく分からない顔で「ふーん、そうなの」と首を傾げる。

 杏が自分より遥か年上のわたしに対して、まるで同い年のように接するところが好きだった。彼女のタメ口もとても良い。日本語を覚えたての外国人のような、一種の愛らしさがある。歳不相応に落ち着いた独特の安定感のある少女の声は、一昔前の機械音声を彷彿させることがあったが、最近のロボットは殆ど人間と区別がつかないため、この時代において彼女こそ人間らしいのかもしれない。

「でも、ここからは必然だね。一緒に行こ」
 杏はそう言ってわたしの隣に寄り添った。彼女に懐かれているという事実がわたしを幸福にし、絶望させる。友人として近付けば近づくほど、汚い大人の都合のいい妄想パラレルワールドは、確率が0になっていくのだから。

 杏の通う中学校とわたしの向かう駅までは、途中まで同じ道で、時間にすると5分にも満たない距離だった。しかしわたしは、その貴重なお散歩タイムをゲット出来たことに心の内でガッツポーズする。一日のスタートを彼女と共に切ることができたら、それだけでその日はいい一日になるのだ。

 勿論、最初から偶然などではなく作戦――彼女の言った通り“待ち伏せ”である。
 会社の始業時間までまだ余裕はあるが、杏の登校時間に合わせて、先回りするように家を出てきたのである。

(毎日だとストーカーみたいだから、一週間に二三回くらいにしておいたんだけどな……)
 杏に気持ち悪がられていたらどうしよう、と隣の綺麗な顔をそっと窺うが、そこから何かしらの判断材料を得ることはできなかった。

 社会人と学生。別々の世界を生きるわたしと少女の道が交わったきっかけは、数か月ほど前に遡る。ある日の夜、仕事で帰りが遅くなってしまった22時。帰路の途中にある公園の隅で、捨て猫のように小さく丸まっていたのが杏だった。


 少女は膝を酷く擦りむいていて、片方の靴を失くしていて、セーラー服も白い靴下も、砂か泥か茶黒い汚れに塗れていた。わたしはその姿を見つけた瞬間、ぎょっとし、正直“関わり合いたくない”と思った。いじめか、虐待か、通り魔による暴行か……何にしても巻き込まれてはたまらないと思ったのだ。

 だが中途半端な正義心が、そこから逃げることを許さない。とりあえず携帯を取り出し、警察か、病院か、学校か、少女の自宅か連絡先を悩んでいると、彼女はわたしの行動を制するように『人を呼ばないで。放っておいて』と言った。

 その声は熱くも冷たくもなく、表情と同じく完全に無で、爬虫類のような得体の知れなさを秘めていた。だが言葉ははっきりと、わたしの親切を“迷惑だ”と告げている。
 わたしは踵を返したが、勿論一大人として、人としてそのままにする訳にはいかず、急いで近くのコンビニで絆創膏と、消毒液と、みんな大好きチョコたっぷりコーンアイスを買い、彼女の元に戻った。戻って来たわたしを見た時の、まん丸な瞳は今でもよく覚えている。

『この怪我、どうしたの?』
『転んだ』
『どう転べばこんな怪我になるの?』
『派手に転んだら、こうなるよ』
『……病院に行った方がいいよ』
『やだ』

 少女の足や腕には擦り傷以外にも、生々しい切り傷や打ち身があり、とても直視できず薄目で消毒するわたしを、彼女は興味深げにじっと見ていた。怪我をしていないわたしの方が、彼女本人よりよほど痛そうにしていたと思う。杏は暫くわたしを見ていたが、ふとビニール袋の中に入っているアイスクリームに気付いたようで『それなに?』と首を傾げた。その後序所に気付いたことだが、小さく首を傾げるそれは彼女の癖である。

『アイスクリームだよ。あげようと思って』
『私に?なんで?』
『ええっと……元気になるかなと思って。普通に元気そうだけど、あげるよ』
 落ち込んでいたり泣き出したりした時に、慰めるために買ってきたアイスだったが、彼女には必要ないように見えた。だが折角だから……と差し出すと、杏は不思議そうにそれを眺め回して、パッケージを頬にくっ付け、その冷たさに顔をギュッとし声を上げた。

『冷たい!ビクッとなった!これが元気になるってこと?』
『いや……単なる脊髄反射でしょ』
 なんかよく分からない子だな、と思った。天然なのか人工なのか分からないが、不思議ちゃんである。わたしは笑って、彼女の手からアイスを取り上げると、巻き紙のパッケージを剥がして中身を取り出し、また持たせてあげた。

『食べたら、甘くて美味しくて、本当に元気になるよ』

 何を言っているか分からない、という顔でまた杏は首を傾げたが、チョコレートの香りに惹かれたのかアイスをひと舐めし……パッと顔を輝かせた。表情自体に大した変化はなかったが、一気に血色が良くなったように見えた。
 まるでアイスクリームを食べたことが無いように、無我夢中で食べ続ける杏。面白い、可愛い。もっと色々なものをあげてみたいと思った。

 それが、わたし達二人の出会いである。

 その後自己紹介を通して、わたしは彼女について、いくつかのことを知った。
 わたしと同じマンションに住んでいること。両親共に仕事で殆ど家におらず、一人暮らしのような生活を送っているということ。今回の怪我だけでなく体のあちこちに傷跡があるが、彼女曰くいじめでも虐待でもないということ。最後に関してはわたしは未だに疑っているが、杏が追及されたくないようなので、とりあえず見守ることにしている。

 それからというもの、彼女をマンション内や付近でよく見かけるようになったのは、今まで見過ごしていた他人が知り合いとして認識されるようになったからだろうか。本当はずっと前から近くに居たのかもしれない。いつの間にか、会えば一緒に散歩をしたり、マンションのロビーやカフェスペースでお菓子を食べたり、お喋りするような関係になっていった。彼女は生傷が絶えなかったため、わたしは傷の手当がかなり上手くなったと思う。

 彼女に構い始めたのは寂しさを紛らわすためだったのかもしれない。夫は仕事が忙しく、大抵いつも日付が変わってからの帰宅で、時には数日帰らない時もある。仕事が終わってから就寝までの、一日で一番心休まる時間を、一人で過ごすのがもったいないと思ったのかもしれない。……どれも言い訳のような気がする。だってわたしは別に、一人は嫌いじゃないのだ。ただ、杏が気になって仕方がなかったから、彼女に会うようになっていったのだ。


「なに考えてるの。ぼーっとしてる」
 隣を歩く杏の声で、わたしは現実に引き戻される。

「暑くなってきたから、アイスの季節だなと思ってただけだよ」
 アイス!と、杏が乏しい表情のまま声だけを少し上擦らせた。その様子に、わたしの心臓がキュッとなる。それは酸っぱいものを食べた時の反応にも似ていた。
 ……世界で一番愛らしく美しい生き物が、ここに居る。直視していられず、彼女の後ろに広がる青空に目を逸らした。

 空には車は飛んでいないが、無数のドローンが飛び交っている。宅配ドローン、交通整備ドローン、空気中ウイルス計測ドローン。たった十年前にAIが人間に反旗を翻すという大事件が起こったにも関わらず、人間は未だ機械に頼り切っている。最初こそ進化し続ける機械を恐れ、機械離れを推進する動きもあったが……世間の興味は、目新しいものに移って問題を先送りにしていた。

 最近の話題といえば、もっぱら宇宙一色である。
 この数年で目覚ましい発展を遂げた宇宙産業により、宇宙は人々に身近なものになっていた。一般人も気軽に宇宙旅行に行けるようになり、プロポーズに人工衛星の流れ星を作れるようになった。わたし自身はまだ宇宙旅行には行っていないが、後者のプロポーズ衛星については、当事者として体験している……。(当時嬉しかったのか、夫との価値観の違いを感じたのかは覚えていない)

 宇宙は人類に様々な恩恵をもたらしたが、もたらしたのは良いものだけではない。人々が宇宙に近付くスピードに、管理体制の整備が追い付かなかったのだ。ろくにルールがない中で自由に行き来を繰り返したことで、宇宙からは様々な菌やウイルスが地球に持ち込まれるようになってしまった。
 政府は急ぎ、地球と宇宙双方の環境保護のための規定を設けたが、世界、国内でさえもまだまだ足並みがそろっておらず、問題は山積みらしい。と、ニュースで言っていた。

 地球に持ち込まれたウイルスを検知し、空気中の濃度を計測するのが、空気中ウイルス計測ドローンである。計測結果によって人々はマスクの着用を義務付けられたり、外出禁止になったりする。やはり我々人類は、機械に支配されているのだった。

 今日は先日行われた大規模な空間消毒のおかげで、マスク無しで初夏の太陽を浴びることが出来ている。マスクをしていると部分的に日焼してしまうから嫌だった。

「あ」と杏が言う。何かと思えば、もう分かれ道に来てしまったらしい。彼女のその「あ」にはどういう感情がこめられているのか、さっぱり分からない、少しは残念に思っている「あ」だと良いと思った。

「いってらっしゃい」と「行ってきます」と交互に言い合って、わたし達はそれぞれの日常に戻っていった。
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