【鏡の国のマリー】(06)



 マリーと凛子の二人が起こした器物損壊事件は、暫くの間学年で一番の事件だったが、もっと大きな事件に巻き込まれていたマリーにとっては大したことではなかった。

 驚くほど元通りの日常と、その中で浮き彫りになる自分の中の余韻、変化。七不思議が語り継がれているということは、体験者が生還しているということだろう。彼らもそれぞれの何かを抱えながら、こうして日常に戻っていったのだろうか。しかしマリーは、自分が本当の意味で元通りになることは二度とないように思った。

 一日、一日、また一日。あの日が遠ざかっていく。鏡の中での出来事は、マリーにとっては思い出したくないトラウマではなく、大切な思い出になっていた。恐怖に勝る感情がそこにはあるのだ。

 神社のお賽銭箱の向こうからにゅっと出てきた、眠そうな目の少年。ハンバーガーを口いっぱいに頬張っている姿が何故かとても綺麗で、一緒に食べるものは全て美味しかった。二人乗りの自転車で掴んだ肩、くすぐったそうにぶるっと震えた首。少年の前から吹いてくる風は爽快で、どこまででも行ける気がした。不思議な自動販売機の先、手を引かれて歩いた赤い校舎。怖かったけれど、彼がいれば大丈夫だと思えた。

 少し人を小馬鹿にしたような偉そうなところ、何かにつけて得意気になるところ。落ち着いた大人の顔と、あどけない子供の顔の二つを持っていて、格好良くもあり可愛くもあり、飄々として食えないが、優しく頼もしかったあの少年。
 マリーは毎日、彼との思い出をなぞっていた。

 彼……マコトは一体何者だったのだろうか。
 鏡の世界で、悪魔は彼を“部外者”だと言っていた。マリーはそれを自分に都合良く、彼がこちらの世界の住人なのだと解釈したかったが、あの日以降彼に会うことはなかった。

 記憶を頼りに生前の祖母が通っていた神社に向かうと、そこは確かに彼と出会った神社そのものであったが、そこにマコトの姿を見つけることはできなかった。神主はとうに還暦を超えており、中学生の息子などいないという。神主の苗字も、マコトが名乗った文月ではなかった。
 マコトが何故嘘をついたのか分からないが、思い返せばあの世界に明確な顔を持った人物はマコトしか居なかったように思える。悪夢のまやかしを信じ切っていた自分を混乱させないよう、彼なりに気遣った結果の嘘だったのかもしれない。

 マリーはマコトが存在しないという事実を最初こそ受け止め切れず、毎日のように神社に足を運んでは、変わらない現実に打ちひしがれていた。最初こそ泣くことも多かったが、激しい悲しみは時間が経つと共に、穏やかな寂しさへと変化していく。徐々に忙しくなっていった受験勉強も丁度いい“現実逃避”になってくれた。

 そして、季節が巡る。
 あんなにも煩かった蝉の声が聞こえなくなり、生い茂っていた緑は艶やかに色付く。冷たい風がそれらを吹き飛ばしてしまうと、裸になった木々の足元には霜が降りた。雪が降り、一部の生き物は眠りにつく。雪が溶け、生命が芽吹けば、目覚めの季節。マリーが一日一日を過ごしているだけで、世界はいつの間にか春になっていた。

 3月の末。満開の桜が空気まで染め上げている頃、マリーは三年間通った中学校を卒業した。高校は家からそう遠くないところに通うことになっている。きっと色々な出会いがあり、新しいことが沢山あり、結局のところあまり変わり映えのない毎日が待っているに違いない。これからも鏡を見ては物思いに耽る日々を続けるのだろう……とマリーは思った。凛子はその様子を度々“恋煩いみたい”と揶揄ったが、それは的を射ていると、マリーはもう認めていた。

「マコト君、わたし、高校生になるよ。君も同い年なら高校生だよね」
 マリーは神社の石段に座って空を仰ぎながら、姿の見えない相手に語り掛ける。彼がいないと分かっていても、時間さえあれば神社に来て独り言を言うのが癖になっていた。返事がないことは寂しいが、自分の中にまだ彼が居ると確認できるだけでも、心が少しは楽になる。この神社に通う習慣はいつまで続けられるだろうか。いつかは終わってしまうのだろうか。

 まだ肌寒い風が、着納めのセーラー服の隙間から肌を撫でた。マリーはぶるっと身震いする。流石にまだ上着はあった方が良かったな……今日はもうお参りだけして、帰ろう。

 長い石段を上ることに体は慣れたものだったが、心はそうではない。一段一段上る度、ずしんと重くとても辛かった。どうしても階段を上り終えた先に、待ち人が居ることを期待してしまうのだ。そして毎回落胆する。
 何度繰り返しても祈る気持ちを捨てられず、最後の一段をぎゅっと目を瞑って上り終えたマリーは、水の中で目を開けるように恐る恐るそっと、そこを見た。そして幽霊でも見たかのように息を呑み、目を見開く。

 拝殿へと続く道に、ずっと探していた少年の姿があったのだ。

 ぼうっと桜を眺めている少年は、学生服ではなくラフな私服を身に纏っている。大きなロゴ入りのプルオーバーはブカブカで、あの日の彼よりも幼く見えた。だがそのどこか神秘的な印象の横顔を、マリーが見間違う筈もない。

 マリーはもつれる足でなんとか彼に歩み寄り、彼の名を呼んだ。

「マコトくん!」
 しかし、少年の反応は想像と違っていた。マコトのことだから再会の感動に涙するようなことはないだろうが、それでも少しは嬉しそうに迎えてくれるものばかりと思っていた。だが目の前の少年は円い目で驚いた後で、あからさまに警戒心を露わにしてマリーを見ている。

「だ、誰ですか?」
 マリーはその言葉に歩み寄る足を止めた。頭を思い切り殴られたような衝撃だった。思考も感情も停止して、ただ、受け入れ難い。

「わたしだよ……“マリー”!マコトくんが助けてくれた、」
「僕はマコトじゃないですよ」
「え?嘘、なんの冗談?」
 マリーはまた揶揄っているのだろう、と乾いた笑いを零した。しかし目の前に居る、マコトの顔をしながら全く違う表情を浮かべている少年に、残酷な真実を突き付けられる。どんなに似ていても、彼自身ではないのだと。

 今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くすマリーに、少年は何かを察したように「ああ」と声を漏らして「なるほど」と呟いた。そして訝しむ様子を引っ込めて、人当たりのいい柔和な笑みを浮かべる。マリーはあまりにマコトとかけ離れたその爽やかな笑みに、また傷付けられた。

 朗らかな雰囲気の少年は、このあたりに住んでいるらしい。暫く病気で入院していたそうだが、手術が終わりこの春から学校に復帰できるのだという。ここの神社に手術成功を願掛けしていたらしく、今日はお礼参りに来たとのことだ。彼は何の因果かマリーと同い年で、この春から同じ学校に入学するらしい。マリーはマコトに酷似した顔の別人を見続ける三年間に、絶望的な気持ちになる。彼の名前を知る気も、自分の名前を教える気力もなかった。

「ねえ、君は霊的なものを信じている?」
「え?……まあ、うん」
 唐突なオカルト話にマリーは一瞬戸惑ったが、頷いた。あのような体験をした後で信じるも信じないもない。少年は何故か安心したように微笑んだ。

「それは良かった。僕はね、昔から色々なものが見えてしまう体質なんだ。憑かれやすいみたいで、小さい頃は特に大変だったんだよね」
「はあ」
 マリーは抜け殻の様になって少年の話を聞いていた。何故この少年はこんな話をしているのだろう?適当にあしらっても良かったが、そのそっくりな顔がそうはさせてくれない。

「僕が困っている時はね、ここの神様がいつも身代わりになって、助けてくれたんだよ」
「へえ」
「本当にすごく頼りになるけど……悪戯好きなのが玉に瑕なんだよなあ」
「ほお」
 まるでマコトみたいだな、とマリーは思った。

「神様はよく、無断で僕の姿を借りて、外に遊びに出かけたりするんだよ」
「ふうん」
 とマリーは聞き流し……かけて、流れて行ってしまう言葉を引き戻した。脈絡のない少年の言葉たちがマリーを一つの解に導こうとしている。マリーは願い乞うように少年を見た。少年の話の意図が、見えた気がした。

「僕の名前は文月真人(フヅキ マサト)。僕の真似をした神様はね、真人から人を取ってマコトって名乗るんだ。マコトは、君に迷惑をかけたりしてないかな?」

 僕の姿で、困ったやつだよ……と呟く真人の横を駆け抜け、マリーは拝殿に向かった。マコトはもうどこにも居らず、二度と会えないのかもしれないと思っていた。だが本当はそうではなく、自分が気付けなかっただけで、彼はずっと近くに居たのかもしれない。

 マリーは賽銭箱の横を通り過ぎて、いつも通り閉ざされている御扉に手をかける。開かないという可能性は考えなかった。きっと今ならここは開かれると、そう思った。そしてマリーの確信通り、厳かな雰囲気の木の扉は開かれる。

 薄暗い拝殿内に、春の淡い光が舞い込んだ。中は外から見えていたよりも広い。奥に広い造りで、最奥には大きな神棚のようなものがあり、その上段には大きな丸い鏡が祀られている。そういえばこの神社のご神体は鏡だと、入口の説明書きに書かれていた。

 マリーは不敬な行動に、叱られて今後出入り禁止にされるかもしれないと思ったが、それ以上に許されるだろうという確信もあった。何より誰よりここの神様が、そんなことで怒るはずはない。

「マコトくん」
 その名を呼べば、薄暗い影の中に淡い輪郭が現れる。それは最初は見間違いのようなあやふやなものだったが、マリーが意識するとやがて一人の姿に確立した。マリーにとってはマコト自身の、実際は真人の姿を借りたマコトが現れる。マリーは懐かしい彼の姿に溶け出しそうな泣き笑いを浮かべたが、すぐに眉を寄せて顰め面で詰め寄った。

「ずっとここに居たの?わたしのこと、黙って見てたの?」
「見てた。いやー……俺、愛されてるな?」
 揶揄うようにマコトは笑う。だがその顔に強気なところはない。眉は下がり、目は泳いでいた。見るからに困り切っている。いい気味だ!マリーはもっともっと困らせてやらなければならないと思った。いつも彼の姿を探して、時には泣いていた自分のことを、彼はただ黙って見ていたというのだから。恥ずかしさやら怒りやら悲しみやら、怒涛のような感情に全身が沸騰する。

「声くらい、かけてくれればよかったのに!」
「あまり気軽に人間と接するわけにはいかないんだよ、普通は」
 彼の言葉は尤もらしく聞こえるが、言い訳のようにも聞こえる。彼には彼にしか分からない、人間では思いもよらないような事情や葛藤があったのかもしれない。

「だとしても、やっぱり酷いよ……無事だってことくらい教えてくれてもいいじゃない!この人でなし!」
 マコトは泣き喚くマリーに罪悪感はあるようで、弱り切った顔で頬をかいている。それから彼は溜息を吐いたが、マリーにはそれがどこか嬉しそうな様子に見えた。

「まあ、見つかっちゃったなら仕方ないな」
 もう逃げも隠れもしない、とマコトは真っ直ぐな目でマリーを見る。そして彼は初めて、マリーの本当の名前を口にし、手を差し出した。

 少女の胸が高鳴る。


「改めましてよろしく。人でなしです」






【鏡の国のマリー】完
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