【鏡の国のマリー】(05)



 わたしの中学にあった七不思議の一つ。4時44分44秒に家庭科準備室の姿見で合わせ鏡をすると、未来の自分が見える。運命の相手が見える。別世界の自分と入れ替わる。鏡に吸い込まれる。悪魔が現れる。呪われる。

 わたしはあの日、友人と共に合わせ鏡の七不思議に挑戦し――鏡に話しかけられた。

『君は何が見たいんだい?』
 乗り気だった友人は実際に怪奇現象が起きると別の様で、酷く怯え、何も言えないようだった。しかしわたしは、チャンスとばかりに答える。「大人になった自分が見たい」と。

 わたしは早く大人になりたかった。大人に子供扱いされる度、子供に仲間扱いされる度、酷く苛々した。いつまでも無知で無力な子供のままなのではないかというあり得もしない不安を抱えて、常に無駄な焦燥感を感じていた。それが思春期特有の心の機微だと言われることにも嫌気がさしていた。早く大人になりたい。格好いいちゃんとした大人の女になりたい。そうなれるという確証だけでもあれば、少しは日々を穏やかに生きていけると思った。

 鏡は『君が見たいものを見せてあげよう』と言った。そして鏡は、わたしがなりたいわたしの姿を与え、それと引き換えにわたし自身を奪ったのだ。

 あの日のことをすっかり思い出すと、頭の片隅で霞みがかっていた部分が、綺麗に晴れたように感じた。マリーではないマリーは、ゆっくり目を開ける。

 ……鏡の中は大きく揺れていた。人も教室も全てが揺らぎ、渦を巻いている。マリーが静かにそれを見守っていると、渦は徐々に一つの現実に収まった。そこには、嫌という程に見飽きた化粧っ気の無い子供の姿。野暮ったい印象で、どことなく、まあ少しは、愛嬌があるように見える少女。それがマリーの本当の姿だった。あの日、友人と鏡合わせをした時のままの中学生がそこに立っている。

 思い出した名前が、真の姿が、内側から弾けて溢れる。凍っていた血液が溶けて、指先までカッと熱くなるようだった。生き返るとはこういう感じなのだろう、と思った。

 マリーではない本当の名前。洗練された大人の女ではない、芋っぽい少女。わたしはわたしを取り戻した。

 鏡の中の“本当のマリー”に重なる様に、恐ろしい幽霊もまた姿を変えていた。そこに居るのは可哀想になるくらい泣き腫らした目の、つい先程まで一緒に居た友人……凛子の姿。彼女の涙は枯れ尽きているように見えたが、凛子は自分の言葉がようやく通じ、マリーと目が合ったことを知って、更にくしゃっとなった。少女たちの手がどちらからともなく鏡越しに触れ合う。触れ合った部分から感じる温もりに、二人は互いが確かに生きていることを感じて喜んだ。事の真相は思ったより、取り返しのつくものだった。

 合わせ鏡の七不思議。鏡に吸い込まれたのは凛子ではなくマリーの方だった。十数年経っていたというのも思い込みで、会社も街もこの世界の全てがまやかしで、今はまだ中学生のあの晩のままである。凛子は吸い込まれたマリーを助けようと、逃げもせず鏡に呼びかけ続けていたのだ。

「彼女の呼び掛けがなければ、あんたはとっくに自分を失って、鏡の世界に囚われていただろうさ。感謝するんだな」
 マコトは姿の変わったマリーに変わらぬ視線を向けていたが、マリーは恥ずかしくなり、居た堪れなかった。彼には自分の姿はどのように見えていたのだろうか?最初からこんな子供に見えていたのだろうか?

「わたしがマリーじゃないって、子供だって、気付いてたの?」
「ああ。でも意地悪で教えなかったわけじゃない。呪いから解放されるには、自分で気付く必要があったのさ」
「呪い?この世界は、一体何なの?」
「鏡の中にある、鏡の悪魔の世界さ。あんたは悪魔に何かを求めなかったか?悪魔は取引の対価にあんたの魂を奪おうとした。自分の世界に取り込もうとしていた」

 悪魔、取引。マリーには彼の言うそれらが何を指しているのかすぐに分かった。鏡の悪魔はあの日、合わせ鏡から自分に話しかけてきた存在で、この世界で自分を誑かしたSだ。鏡の言った『君が見たいものを見せてあげよう』というあれが、取引の対価だったに違いない。

「間に合ってよかったな。あんたが完全にマリーになってしまえば、もう二度と元の世界には戻れなかった筈だ」
「マコトくんは、どうしてそんなことを知っているの?なんでわたしを助けてくれたの?」
「まあ、ちょい落ち着け……」
 幼い子供の様に質問ばかりのマリーを、マコトはどうどう、と宥める。鏡の向こうで凛子も「大丈夫?落ち着いて」と同じようなことを言っていたが、落ち着いていられるわけがない。
 この少年は一体何者なのだろう?ここが鏡の悪魔の世界だというなら、そこに住まう彼が自分の味方をする理由が分からない。彼にも自分のように本当の姿が存在しているのだろうか?マリーは、いつまでも答える様子のない八の字眉のマコトに詰め寄った。
 ――だが、その答えを彼から聞くことは敵わなかった。

 その時、背筋を悪寒が駆け上る。産毛を刃物が掠めていくような嫌な感覚。何か悪いものが急速に近付いてきている。ハッとして廊下の方を見ると、天井と壁の間にある小窓の向こうが、ざわめく黒いもので埋め尽くされていた。それは毛深い巨大な獣のように見える。マリーはマコトと初めて会った時に、彼が自分の肩から払った毛のようなものを思い出した。校舎の女子トイレで、自分の首を絞めた毛むくじゃらの手を思い出した。
 みしみし、と教室全体が軋む。

「追いかけてきたか」
「えっ、もしかしてあれ、S先輩?」
 既に彼がSでも先輩でもない“悪魔”という存在だということは知っていたが、ついそう呼んでしまう。壁一枚を隔てた向こうに居る巨大な影は、爽やかで格好良かった男性の跡形もない化物の姿に見えた。だが、そこから聞こえる声は先程までと変わらない、人間の声をしている。

「マリーちゃん、騙されちゃ駄目だよ。その二人は君を連れ去ろうとしている悪魔なんだ」
「どの口がそれを言うんだ?」
 マコトが呆れたように鼻で嗤う。マリーは、地球上のどの生物よりも邪悪で穢れきった気配を漂わせているその影に、生きた心地がしない。だが、平然としているマコトを見ていると不思議と正気を保つことができた。

 ガタガタと大きな地震のように部屋全体が揺れ、隣の家庭科室からガラスが割れる音がする。大きな体が扉を壊したのだろう。床を這いずる気配が、重たい死体を引きずるような音が、こちらに向かってきているのが分かった。そして開け放ったままの家庭科準備室のドアの向こうに、悪魔が顔を覗かせる。

 この世の災いを集めて固めたような、禍々しい気配。大きな怪物の影が細長く集束して、そこにはやはり見目のいい男が現れる。

「……あんた、ほんとに面食いなんだな」
 マコトに呆れたように言われ、マリーは「えっ」と声を上げる。そうか、この世界が自分に都合の良いように見えているのなら、Sの外見もまたそういうことになるのだろう。マリーは場違いに、顔を赤くした。
 Sはマリーが恐れず動じず、真の姿のままでいることが気に入らないらしく、突然怒鳴り声を上げた。ボリューム調整機能が壊れたように、部分的に大きく、また部分的には囁くような声で、言葉にならない言葉を咆哮する。その表情が好男子のままであるというミスマッチさが、彼が人間ではないのだと物語っていた。

 人の皮を被った悪魔が、理性の無い獣のようにマリーに向かってくる。が、何故かその体は透明な壁にでもぶつかったように途中で止まった。悪魔は壁を避けようと向きを変え、またぶつかり、また向きを変える。檻の中でぐるぐる回り続ける動物のように、同じ場所でもがいていた。マリーはまたマコトが何かしたのだろう、と彼を見る。案の定、マコトは得意満面の表情を浮かべていた。

「おい、あんた。俺がその鏡と向こうを繋げるから、元の世界に戻れ」
「流石マコトくん!……マコトくんも一緒だよね?」
「俺は、」
 壁と壁の隙間を見つけたのか、すり抜けて来たSがマコトの背後から覆いかぶさる様に襲い掛かる。マコトは一本背負いの要領でその体を引き倒すと、羽交い絞めにした。

「ほら、今の内に早く行け」
 マコトはやはり、本当に答えて欲しい肝心の問いには答えない。マリーはこんな所にマコトを置いていくことなど出来ない、と思ったが、マコトはそれを見透かしたように「心配ない」と言った。彼の余裕綽々な顔は、確かにその言葉通りに見える。彼の言葉を疑う余地などなく、寧ろ心配することは彼に対する不義にも思えた。

 マリーは鏡に向き直り、こちらに向かって伸ばしている凛子の手を――確かに取った。自分と変わらない小さく柔らかな手。少し湿った少女の手に引っ張られるように、マリーは二つの世界の境界を超える。

 赤い夕方の家庭科準備室から、夜の家庭科準備室へ。空気が一気に変わった。マリーは自分の帰還を喜ぶ凛子に抱きしめられながら、まだ夢の続きを見ているような気持ちだった。本当に戻って来れたのだろうか……?

 ハッと振り返ると、鏡にはまだ赤い世界が映っており、そこにはSを押さえつけたままのマコトが居る。何故かもう、鏡の世界にマリーの姿は映っていなかった。二つの世界は似ているようで異なるものであると、はっきり区別されたようだ。
 自分が映らず他人が映っているそれは、もはや鏡ではなくガラスの壁のようにしか見えない。マリーは凛子の腕を振りほどき、一枚の壁を隔てた先に居るマコトに駆け寄って、その名を叫んだ。もう声は届かないかもしれない、と不安に思ったが、マコトはちゃんとマリーの声に反応を示す。マリーは彼と目が合ったことに、元の世界に戻ってきた瞬間以上に安堵した。だが彼が自分の傍にいないということが、どうしようもなく不安で、寂しい。

「いいか、よく聞け」
「え?なに?」
「そっちにある二枚の合わせ鏡が、この悪魔の依り代になっている。俺がこいつを抑えている間に、それを割るんだ。そうすればもう、悪魔はマリー達の世界に介入できない」
「でもそんなことをしたら……」
 マコトくんはどうなるの?と口にすることが躊躇われた。また誤魔化すように笑われたら、もう立ち直れない。
 マコトの指示に戸惑い、動けずにいるマリーの後ろで、凛子が不思議そうにマリーを本当の名前で呼んだ。

「さっきから気になってたんだけど、誰と話してるの?」
 どうやら凛子には、鏡の向こうのマコトやSの姿は見えていないらしい。道理で話に入ってこなかったわけだ。彼女にはマリーがずっと独り言を言っているように見えていたのだろう。

「えっと……わたしを助けてくれた人。鏡を割れば、もう悪魔は出てこれないだろうって言ってて」
「悪魔!?」
 凛子は素っ頓狂な声を上げる。が、すぐにギュッと険しい顔をして、近くにあった椅子を手に取ると豪快に振り上げた。マリーは凛子の行動力に驚き、彼女から鏡を庇うように腕を広げる。

「ちょっと、待って!」
「なんで!?壊さないといけないんでしょ!また居なくなっちゃったら嫌だよ!」
「でも」
 マリーは肩越しに鏡を振り返る。鏡を割って二つの世界が遮断されれば、マコトとの繋がりも断たれてしまうのではないだろうか。マコトのことだ、恐らくマリーのその考えも感情も全てに気付いていただろう。しかし彼は素知らぬ顔で「早く」と促すだけだった。「俺、いつまでもこんなヤツ抱きしめていたくないんだけど」と冗談のような口調で、通常通りのふてぶてしい彼が笑う。

 これまでマコトの言葉を信じ、従ってきたマリーだったが、今回ばかりはそう言う訳にはいかなかった。マリーは鏡にしがみつくようにして、涙声で訴えかける。

「鏡を割っても、マコトくんは無事なんだよね?」
 マコトは必死な様子のマリーに一瞬だけ表情を失くして、それからマリーが初めて見るような顔をした。それは少年のようでも、大人のようでもない。もっと本当の彼だと思える顔だった。

「ああ、大丈夫」

 マコトの言葉は単なる伝達手段以上の意味を持った、言霊のように感じられた。彼の言葉には不思議な力がある。彼の言葉を信じることで、きっとそれは真実になる。彼を信じるのは自分の仕事だ。と、マリーは無理矢理に笑顔を浮かべて「分かったよ」と浅く頷く。深く頷くと涙が零れてしまいそうだったからだ。

 マリーは凛子と同じように、近くの椅子を手に取る。そして置いてけぼり顔の凛子に「凛子は後ろの鏡をお願い。わたしはこっちをやるから」と言った。二人は背中合わせになり、タイミングを合わせるように「せーの」と掛け声を上げ、椅子を振りかぶる。――そして勢いよく、赤い世界に叩きつけた。

 鏡が割れるその音は、甲高い悲鳴にも聞こえる。事実、それは悪魔の悲鳴だったのかもしれない。割れる瞬間、鏡の向こうが眩い光で満ちた。その光は太陽に似ており、邪な気を浄化するような神々しいものだった。光は鏡の破片と共に散らばり、霧散する。床の上でバラバラになっているそこには、もうこの世界と自分たちの姿が映るばかりだ。こうして二つの世界の交わりは、完全に解かれた。

 マリーは壁に掛かった時計を見る。時刻は夜の9時前。こっちの世界では、自分が吸い込まれてからまだ一時間も経っていないらしい。だが、随分と長い間悪夢を見ていた気がした。悪夢からの目覚めを完全に手放しで喜べないのは、悪夢が恐ろしいばかりでは無かったからである。砕け散る寸前の世界、光の中に立つマコトの顔は、眩しすぎて見えなかった。

 それでもきっと、絶対、彼は無事だろう。そうでなくてはいけないのだから。

 感傷に浸る様に割れた破片を見つめ続けるマリーに、凛子は声を掛け辛そうにしている。が、静かな時間はそう持たなかった。鏡の割れる音で駆け付けた教師に二人は見つかってしまい、その日も翌日も翌々日も、こってり絞られるのだった。



 *



 依り代となる鏡が割られ、出入口と獲物を失った悪魔は、元の悍ましい姿を取り戻してマコトの手から逃れる。マコトはもう捕えておく気はないようで、やれやれと肩をすくめた。

「お前は何者だ。どこから我が世界に入り込んだ。何故、邪魔をした」
 悪魔が責めるようにマコトに問う。マコトは「ふむ」と腕を組んで考えた。確かに、この悪魔は悪魔らしく生きていただけだ。愚かな人間と契約を結び魂を奪う。それは悪魔の営みの一つであり、人間でも悪魔でもない自分が介入すべきことではない。しかし、だ。

「あの子の婆さんには大分世話になってね。生憎、俺は義理に厚いんだ」
 悪魔はマコトの言葉など理解する気が無いように、唸り、吠え、暴れる。怒りで知能が低下しているようだった。

「食ってやる、食ってやる、お前もどうせここから出られない!死ぬまで追いかけて食ってやる!」
「おいおい。お前みたいな下等な悪魔と、一緒にするなよ?」
 マコトは憐れな悪魔に、ニヤリと三日月を描いた。

「鏡の世界は、俺の土俵だ」
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