【鏡の国のマリー】(04)

「う、わっ」
 体が大きく揺れて椅子の上から落ちそうになる。彼女は咄嗟に両足を踏ん張り、大きな地震にでもあったかのように机にしがみ付いた。しかし地球は揺れていない。状況が掴めずにそのままの態勢で呆然としていると、デスクのパーテーションの向こうから、誰かが小さな顔をひょこっと覗かせた。

「マリーさん、居眠りしてましたね?」
 同じ部署の後輩A子だ。A子は戸棚に隠されていたお菓子でも見つけたように、嬉しそうなにんまり顔で“マリー先輩”を見ている。……マリーはどこか既視感を覚えた。

「寝てないよ。ちょっと目をつむってただけ」
「嘘ばっかり、涎ついてますよ」
「そっちこそ嘘ばっかり」
 マリーが少しも動じず、自身の口元を確認しもしないことに、A子は悔しそうにぽってりした唇を尖らせる。マリーはA子の反応を受け流してパソコンの画面を見た。時刻は20時半を過ぎたばかり。画面の中央では渾身の企画書がすっかり完成している。流石自分だ。仕事を終えてから居眠りしていたらしい。

「さあ、帰ろうかな」
「お疲れ様でーす。あ、この後残ってるメンバーで飲みに行きますけど、マリーさんは?」
「いや、遠慮しておく」
 寝起きだからか、やけに頭がぼうっとしていた。もしかしたら風邪の引き始めかもしれない。こんな日は早く帰ってゆっくりしたいと思った。A子はマリーの言葉に何故かニヤニヤと含みのある笑みを浮かべ、生クリームたっぷりのパフェのような甘過ぎる声で言う。

「もしかして、デートですかあ?」
 この後輩は何を言ってるんだ、自分にそんな相手はいない……と冷めた目をしたマリーの肩に、誰かの手が置かれる。その手は氷のように冷たく、マリーはぞっとした。

「そうそう。これからデートなんだ」
「相変わらずお二人はお熱いですねー!いいなあ、マリー先輩は愛されてて」
 マリーは自分の隣に立つ男と、キャーと色めき立つ後輩を、完全に蚊帳の外のような気持ちで見ていた。中心にいるのは間違いなく自分だというのに、全て遠い世界の出来事のように思える。スクリーンの中の映画を見ているようだった。

 ああ、そういえばそうだった。と、マリーは思い出す。
 この男、Sは自分の憧れの先輩で、つい先日思いが通じ合い恋人となったのだ。そして今夜は彼と夕食を約束している。そうか、そうだったな……と遠い目のままで帰宅準備を整え、マリーはSとオフィスを出た。外は気だるい7月の熱帯夜だ。

「夕食、ファストフードでもいいですか?なんかソフトクリームが無性に食べたくて」
「うーん……もっとちゃんとしたところで御馳走するよ。大人なんだからね」
 優しく何でも望みを叶えてくれる恋人のSが、珍しく嫌そうな顔をする。マリーはそれ以上強請ることもできず、彼に連れられるまま洒落たカフェバーに行った。

 どうして大人だと、ファストフードでソフトクリームを食べてはいけないのだろう。他にもハンバーガーにポテトに、美味しいものがたくさんあるのに。マリーはSの小さな口に運ばれるパスタを眺めた。控えめでお利口な一口。だが全く美味しそうに見えず、パスタはただの紐のように見えた。彼のそれは食事というよりただの手遊びのようで、生きることを冒涜しているようにさえ感じる。

(わたしは、美味しそうに食べる人が好きなのかもしれないな)

 気難しい顔で隣の男を見ていると、目の前のカウンターに揚げたてのフライドポテトが出てきた。皮付きで厚切りのそれには、トリュフ塩が掛かっているらしい。同じポテトでも一見知らない食べ物の様だったが、油の匂いと黄金色はやはりポテトである。マリーは卓上の砂糖瓶に手を伸ばした。

「マリーちゃん、何をしているんだい?」
「ポテトに砂糖をかけると、意外と美味しいんですよ」
 なぜ自分はそんなことを知っているのだろう?つい最近、誰かから教えてもらった気がした。

 マリーは砂糖まみれのポテトを拾い上げ、口に放り込む。甘じょっぱい味は痺れるようで、“目が覚めた”。



 *



 その目覚めは目を開けるという感覚ではなく、視界が開けたという感覚だった。曇った眼鏡を外してようやく見えるようになったクリアな世界。その場所は、独特な雰囲気からすぐに理科室だと分かった。冷たい床の上に横たわる自分を、椅子に座ったSが見下ろしている。

「先輩……」
「眠り姫は眠っているから美しいんだよ。おはようマリーちゃん」
 もう疑いようもない。この人は敵だ、とマリーは理解した。

「あなたは何なんですか?」
「君の会社の先輩で、恋人だろう?優しくて爽やかな憧れの男性、といったところかな?」
 よく自分でそこまで言えるものだと思ったが、Sはまるで他人事のような口ぶりだった。とても自分自身のことを話しているようには聞こえない。もう、そこに居るのは爽やかさとは程遠い、底知れぬ薄気味悪い男にしか見えなかった。

 マリーは何かを探すように視線をあちこちにやる。必死に助けを求めるようなその顔が憐れで健気で、不快だと言わんばかりにSは舌打ちをした。

「誰を探しているんだい?ああ、いや、言わなくてもいいよ。あの少年だね」
「マコトくんはどこに居るの?」
「知らないよ。そもそもこの世界に居ることがおかしい、邪魔な部外者なのだから」
 Sは底冷えするような声でそう言った。表情は無ではないが、喜怒哀楽のどれともつかない。ただまるで、この世の邪悪を集めて固めたような顔だと、マリーは思った。

 その邪悪が、マリーに迫ってくる。マリーは拘束などされていなかったが、少しも動けなかった。覆いかぶさる彼の肌からは、ぞっとするような冷気が漂ってくる。

「本当はもう少し楽しむ予定だったんだけどね。また邪魔が入らないうちに、済ませてしまおう」
 Sはそう言うと、その顔をマリーに近付けて真っ直ぐ彼女の目を覗き込む。マリーは何も抵抗できないまま、その瞳に捕らわれた。全ての色を混ぜ合わせたような、何色でもないその瞳の色。暗く淀んだ沼に、マリーの姿だけがぽっかり浮かぶように映っている。それはマリーが恐れていた鏡にそっくりだった。その沼に、鏡に、マリーは吸い込まれていく。脳が、心臓が、自分の中にあるありとあらゆるものが、彼に引きずり出されるような感覚。マリーは息も忘れて、生きていることも忘れそうになる――その時だった。

 けたたましい音と共に、ドアを蹴破って誰かが飛び込んでくる。ドアの窓ガラスが床で砕け散る音は、繊細で美しい音色に聞こえた。その誰かとは考えるまでもなく、当然マコトである。

「おい、無事か!」
 ヒーローはギリギリに登場するという定説が今、証明された。マリーはヒロインさながらに彼の名を呼ぶ。その名を口にすると、引きずり出された自分が戻ってきたような気がした。先程のまやかしの世界の中でもそうだった。(マコト君は、わたしが自分を取り戻すきっかけになってくれる)

 マリーに覆いかぶさっていたSは「邪魔をするな」と唸り、マコトに飛びかかっていった。成人男性と男子中学生では体格差がある。マリーは「危ない!」と咄嗟に目をつむり……かけて、見開いた。Sがマコトの身体に触れる寸前、マコトが唇だけで何かを唱えると、Sの身体は透明な壁に跳ねのけられるように後方に吹っ飛んだのだ。まさに、吹っ飛んだとしか言いようがなく、爽快すぎて間抜けにも感じる。少年漫画のバトルシーンにありそうな光景にマリーの恐怖心も吹っ飛び、彼女はポカンとした表情で、自分に駆け寄るマコトを迎えた。

 マコトは「すまない、俺が油断していたばかりに」と眉を下げてシュンとしている。格好良すぎるし可愛すぎるな、この子。と、マリーは抱きしめたい衝動に駆られた。勿論それどころで無いのは百も承知である。壁に凭れてぐったりしているSが、いつ起き上がるか分からない。

「アイツの目が覚めない内に、早く目的の場所に行こう」
 マコトの言葉にマリーは頷き、その手を取った。



 *



 家庭科室は理科室の近くには無かった筈だが、理科室を出たマリーはあっという間にそこに辿り着いていた。本当に一瞬で、どこをどう歩いてきたかも思い出せない。だがそれは立て続けに起きているような不思議な現象ではなく、マリーの中にある“問題を先送りにしたい”という気持ちが作る錯覚だった。

 マコトに手を引かれて家庭科室に入ると、嫌な気配にぞわりと総毛立つ。淀んだ空気がまるで毒の様に、体を蝕んでいくのを感じた。マリーが入口のところで立ち止まり動けないでいると、マコトは軽く繋いでいた手をぎゅっと握る。

「大丈夫だ。俺が付いてる」
 その声は驚くほど優しく、力強く、マリーは泣きたくなった。目の前の少年は自分より一回り以上も年下であるというのに、大人と子供が逆転したように感じる。思えばずっとそうだったかもしれない。マコトは年相応の少年のような顔も見せたが、いつもどこか飄々としていて、冷静で、マリーよりずっと大人だった。

 マリーはその手を握り返し、覚悟を決めて深く頷く。が、彼女の強い眼差しを正面から浴びた少年は何故かたじろぎ、その手をパッと振りほどくと早足に先に行ってしまった。その耳に差した赤味を見て“やっぱり子供だな”とマリーは安心する。

 二人は家庭科室の奥にある小さな部屋――家庭科準備室のドアを開けた。不思議と鍵はかかっていなかったが、もうそんなことで驚くマリーではなかった。家庭科準備室の真ん中で向き合うようにして立っているのは、布の掛けられた二枚の板。合わせ鏡である。マリーはその鏡を警戒して遠巻きに見ていたが、マコトは臆することなく近づいて行き、マリーを手招きする。彼に呼ばれたからには行くしかない。

「マコト君、どうするつもり?」
「いいから、ここに立って」
 マコトはマリーの両肩をがしっと掴み、二枚の鏡の間に押し込んだ。「え、嘘でしょ?」と涙目になるマリーの目前で、彼によって布が外される。マリーは目を背ける間もなく、鏡を見て、鏡に見られた。

 そこに居るのは蒼白な顔の自分と――やはり、恐ろしい形相の少女の姿。

 マリーは飛びのく様に鏡から離れてマコトの背に隠れる。三十路女が男子中学生に縋りついている姿は客観的にはみっともないものだろうが、そんなことを気にしている余裕はなかった。それに今更である。Sから難なく自分を助けてくれたマコトなら、この“幽霊”もどうにかしてくれるだろう。きっと大丈夫、もう大丈夫……。

 マリーはマコトに絶大な信頼を寄せていた。まだ少しの時間を共にしただけだが不思議と、彼は誰よりも、自分自身よりも信じられる存在になっていた。だからこそ彼が次にとった行動は嘘のようで、マリーは衝撃のあまり頭の中が真っ白になる。

 マコトは自分の後ろからマリーを引きずりだし、鏡の前に押し戻したのだ。マリーは目の前の幽霊より何より、マコトのその行動で頭がいっぱいになり「どうして」と青い顔で彼を見る。彼は自分の味方では無かったのだろうか……?だが、そこに居るマコトは裏切り者の非道な人物には見えない。いつもの、少し意地悪な優しい顔をしている。

「ちゃんと、向き合いな」
 マコトは諭すようにそう言った。それは穏やかな響きだが、有無を言わせない力を秘めている。マリーは彼の黒い瞳を探るように見て……溜息を吐いた。マコトが言うなら、きっとそうすべきなのだろう。まるで刷り込みのように、彼への信頼は揺るがない。

 マリーは目を細め、出来るだけ直視しないように、視界の端で鏡を見た。瞼とまつ毛の間で、不気味な少女の人型がぼんやりと浮かんでいる。「ほら」とマコトに促され……マリーは意を決したように目を開いて、その恐ろしい姿を真正面から捉えた。

 そこに居るのはやはり、忘れもしない友人だった。
 鏡の中の少女は懐かしいセーラー服を着ている。記憶の中の華やかな少女からは程遠い姿だったが、見れば見るほど彼女でしかなかった。暗い二つの穴はどこまでも続いているようで、奥を見ようとすると戻れなくなるような気がした。乾いた唇は、ポロポロと皮膚を零しながら何かを紡ぎはじめる。

 ああ、こわい、こわい、こわい。

 行方不明になったかつての友人が、見る影を僅かばかり残した凄惨な姿で、自分に何かを伝えようとしている。何を言われるのだろうか?体に突き刺さる強い念からは、あまりいい想像ができなかった。恨み言を聞くくらいなら受け入れよう。もし道連れにしようとするなら、断固拒否しなければらない。

「た け」
 掠れた声が音を発する。

「たす け」
 もしかして“助けて”だろうか。友人は行方不明になってからこれまでずっと、鏡の中で孤独に苦しみ、こんな姿になっても助けを求めていたのだろうか。だとしたら彼女を恐れ、避け続けてきた自分はどれほど残酷だっただろう。マリーは彼女の言葉に敵意や悪意が無いという事実を知るのが、自分の惨さを知るのが怖く、その続きを聞きたくなかった。無意識に耳を閉ざそうと上げた手を、マコトがそっと捕えて邪魔する。

 マリーは鏡の少女の言葉を、聞いてしまった。しかしそれは、全く想定外のものだった。

「たすける、から」
 マリーは思わず「え?」と声を上げる。助ける?誰が誰を?

「ぜったい、たすけるから」

 その言葉が耳から入り、頭で分解され、全身に巡る頃。とても深いところで、霜柱を踏んだ時のような音がした。マリーの中で何かに皹が入る。

「絶対、助けるからね、“  ”」
 ああ。その空白を埋めるのは、自分の本当の名前なのだと、マリーは理解した。

 マリーは鏡に歩み寄り、少女と重なり合うように映る自分の姿を見る。かつて憧れていた大人の女の顔……それが少しずつ、あやふやにぶれ始めていた。マリーは閉ざすためでなく見る為に、目を瞑る。
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