【鏡の国のマリー】(03)

 ファストフード店を出ると、店先には何故かSが待ち構えていた。マリーは気まずさから思わずマコトの背中に隠れてしまうが、背丈のさほど変わらない壁は、頭二つ分は高いところにあるSからすれば何の意味も成さないらしい。

「マリーちゃん、さっきはどうしたの。心配したよ」
 一糸乱れぬ平常通りのSは、職場で挨拶でも交わすかのような口調でそう言った。マリーはそんな彼が少しだけ怖くなる。否、かなり怖い。この人は自分を追ってきたのだろうか?どうしてここに居ると分かったのだろうか?何で、何のために。
 マリーを庇うように、マコトが一歩前に踏み出した。Sは「おや」と少し表情を変える。

「君は誰だい?マリーちゃんの弟くんかな?」
「お前こそ誰だよ」
「僕かい?僕のことはマリーちゃんがよく知っている筈だよ。ねえ、マリーちゃん」
 どうしてこの男のことを爽やかな好男子などと認識できていたのか、もうマリーには思い出せない。彼の視線や言葉は冷たくぬめる蛇のように気味が悪かった。しかし、職場の先輩相手にこれ以上失礼なことをしてはいけない……とマリーは平常心を保ち、対外的な笑みを浮かべる。

「マコト君、この人はわたしの職場の先輩だよ」
 マリーがSのことを紹介すると、マコトはぎゅっと眉間にしわを寄せて顔を顰めた。まるでマリーの回答が間違っているとでも言いたげな顔だ。反対にSは大正解!と言わんばかりに、満足そうな顔をしている。

「そう。だから、ここからは先輩である僕がマリーちゃんを引き受けよう。君はどうやら、弟という訳でも無さそうだしね」
 Sがそう言ってマリーの肩に手を伸ばす。しかしその手がマリーに届く前に、マコトが彼女の腕を引いて彼から遠ざけた。マリーは急に強い力で引っ張られた所為で肩を痛め、抗議しようとマコトを睨むが、その横顔のあまりの気迫に何も言えなくなってしまう。常に眠たそうなその目は見開かれ、眼光強くSを睨んでいた。燃えるようでもあり、凍てつくようでもあるその視線に、それを向けられていないマリーもぞっとする。Sも完全に表情を失くして息を呑んでいた。

「おい、行くぞ」
「えっ?」
 マコトの言葉は完全にSを無視していた。戸惑っているマリーの前で、マコトは店の壁に立てかけるようにして置いてあった自転車に足をかけている。彼の行動に付いていけずおろおろするマリーだったが、強い口調で「早く乗れ」と言われ、反射的にその荷台に乗ってしまう。Sは何かを言いかけ、手を伸ばしかけ……全部、間に合わなかった。二人を乗せた自転車は、既に夜の街に走り出している。マリーが最後に見たSは、全く別人のような怖い顔をしていた。嫌われたかもしれないが、それならそれでいいと思った。

 自転車を盗んだ事だとか、二人乗りだとか、相手が中学生である事だとか、社会的に問題があり過ぎる。警察に捕まれば、責任を追及されるのは未成年の彼ではなく自分だろう。と、マリーは頭の片隅で考えたが、実のところそこまで気にしていなかった。色々な事がありすぎたせいで、気が大きくなっている。今ならなんでも出来るような気がした。

「先輩、追ってきてないみたい。良かった」
 マリーは振り落とされないようマコトの肩に手を置きながら、後ろを振り返る。そこにSの姿はない。ただ静かに景色が流れているだけだった。見覚えのある、しかしどこか知らないような夜の街が、後ろへ後ろへと吸い込まれていく様に見える。吸い込まれているのは自分達の方かもしれない。マコトは肩に置かれた手がくすぐったいのか、少し首をぶるっと振った。

「アイツのことは考えない方がいい。もう関わるな」
「どうして?」
「どうしても」
 前を向いて自転車をこいでいるマコトの顔は見えない。マリーにはマコトの真意が分からなかったが、Sよりは彼の言葉の方が大切で「分かった」と返事した。数時間前までは憧れの先輩だったSに対する好意は、今は全く別のものに変わってしまっている。理由は分からないが、夢から覚めたような気がしていた。

「ねえ、どこに向かってるの?」
「さっき言っただろ、あんたの中学に行くって」
「えっ!もしかして今から行くつもり?」
「善は急げだ」
「マコトくん、わたしの中学校がどこだか知ってるの?」
 マリーはマコトに母校の場所を教えていなかった。しかし、場所を知らない筈の彼は迷いなく自転車をこぎ進めている。その様子はとても当てが無いようには見えなかったが、やはり当てずっぽうであるらしい。案の定マコトは「知らん!」と偉そうに胸を張って言った。それは子供が意味も無くふざけているように見えるが、何となくそうとも言い切れない何かがある。不思議な少年なのだ。

「残念だけど、遠いから自転車じゃいけないよ」
 マリーが通っていた中学校は実家の近くにあり、ここからは電車を使っても数時間は掛かる。今から電車に乗っても、終電までに辿り着けるとは思えなかった。

「とりあえず明日に、」
 と言いかけたマリーを遮るように、マコトは背中越しに「どんな学校だった?」とマリーに尋ねる。“どこ”ではなく“どんな”と訊く彼を不思議に思いながらも、マリーは素直に頭に浮かんだ光景を口にした。

「学校の前は並木道になっていて、門は二つ……校舎は三階建て。校庭は広くて、奥にはプールもあったよ」
「並木道には何があった?」
「ええと……古い駄菓子屋さんと、やってるかよく分からない釣具ばかりの雑貨屋さん。当たりくじ付きの自販機と……あとは大きな家がいくつか建っていたような……でも、何で?」
「さあ、何ででしょう?」
 まるで謎かけのようなマコトの口ぶりに、マリーは首を傾げた。そして、頭を傾けたことで彼の前に広がる景色が目に入り「あれ?」と思う。そこは自分達が居た街ではなかった。

 街灯に照らされたアスファルト。左右には巨人の門番のような木々が連なっている。夏の豊かな緑の香り。木の皮は少し甘臭く、カブトムシを想起させた。……いつの間にか二人を乗せた自転車は、どこか懐かしい並木道を走っている。並木の奥には高い塀があり、その向こうには古めかしくも立派な屋根が覗いていた。自転車は骨董品のような駄菓子屋を通り過ぎ、埃をかぶった釣り竿が突き出す雑貨屋を通り過ぎ……。

 その時、突然自転車が止まり、マリーはブレーキの衝撃でマコトの背に埋まる。「ムグ」とくぐもった呻きを上げて、マリーは潰された鼻をさすった。

「突然止まらないでよ」
「着いた」
「どこに……」
 マリーは目の前の光景に息を呑む。そこにあるのは懐かしい――自分の通っていた中学校だった。先程から何だか見覚えのある並木道だと思っていたが、中学校まで出てきてしまっては気のせいではすませられない。

 マリーは夢でも見ているのかと、よく漫画やアニメでやるように目をこすった。アイシャドウとマスカラが落ちる……何故か自分は化粧の存在を忘れがちなようだ。これでどうやって今まで、大人の女をやって来れたのだろうか?いや、そんな事はどうでもいい。

「なんで中学校がここにあるの?」
 マリーの問いに、何でも知っているような顔のマコトは何も答えなかった。彼はマリーを自転車から降ろすと、片側だけのスタンドをガコンと足で立てる。自転車の前輪が不安定にぐるっと二人を振り返った。風が吹けば倒れてしまいそうだったが、マコトはもう用は済んだとばかりに自転車への興味を失っている。颯爽と乗り捨て、光に集る虫のように白い灯りに近付いていった。それは四角く白い自動販売機だ。マリーも虫のように、彼についていく。

 マコトはポケットから小銭を取り出すと、手品師のように無駄のない動きで投入口に差し込んで、迷いなくボタンの一つを押す。するとガタガタと中で小人が暴れるような音がして、何かが落ちてきた。それは勿論小人などではなく、冷たいお汁粉缶だ。やっぱり彼は甘党なのだろう、とマリーは思う。

 チカチカと光が点滅し、自動販売機から安っぽいメロディが流れた。当たりくじの演出である。ルーレットで四つの数字が揃えば当たり。もう一本飲み物が貰える。マリーは一瞬だけ自分の置かれた状況を忘れて、その運試しの結果をわくわくと見守った。

 数字が回る、回る、止まる。4、4、4、4。赤い光で闇の中に浮かび上がる、4444。それがとても不吉なものに見えて、マリーは思わず身震いする。4は死を連想させる忌み数だ。こういうスロットの結果としては、プログラムからあらかじめ排除しておいて欲しいと思った。普通当たりといえばラッキーセブンではないだろうか。

 そういえば、あの都市伝説も4時44分44秒に合わせ鏡をするというものだった。友人は鏡の世界ならこっちの8時16分16秒に違いないと言っていたが……。

「当たりだな」
 取り出した缶のプルタブを小気味の良い音で開け、マコトはぐっと呷った。まるでお茶の様にお汁粉を飲んでいる。ごくりと艶めかしく跳ねる喉は、しっかり喉仏の形をしていた。

「あ、当たったのに、もう一本選べないね?」
 マリーは彼の喉に視線を奪われていたことを気付かれぬよう、自動販売機に近付いて、くじについての説明書きを読むことで誤魔化そうとした。しかしマコトが邪魔するように前に出て、何故か自動販売機の側面に手を置き……こじ開ける。マリーは「えーっ!何してるの!?」と焦る。まさか当たりが出てこないから、直接取り出そうとしている?そもそもどうやって開けて……

 が、その考察は長くは続かなかった。開け放たれた自動販売機の中に別の空間が広がっていることに、思考も心も表情も呼吸も、全てを忘れてしまう。

 振り返ったマコトはニヤッと笑って、マリーの手を引いて中に入っていった。



 *



 自動販売機を通って辿り着いたのは、夕暮れに赤く染まる校舎だった。マリーは目の前の展開に付いていけず、長い廊下で呆然と立ち尽くしている。マコトが「おーい」と彼女の鼻先で手をヒラヒラさせた。

「な、何で?どういうこと?」
 自動販売機の中が学校の中だし、夜だったのが夕方になっている。さっぱり意味が分からない!マコトは目も口も丸くしたマリーを面白そうに眺め、したり顔で説明した。

「さっきくじを当てただろう?だからここは4時44分44秒の学校なんだ」
 何をそんなに当然の様に言っているのか、マリーには理解できない。何故、街で二人乗りをしていたらいつのまにか、遠くにある母校に辿り着くのか。自動販売機のくじで4444を引き当てたら、自動販売機の中が4時44分44秒の学校になるのか。どれもが論理など存在しない夢の世界の出来事のようだった。

「さあ、問題の場所に連れて行ってもらおうか」
 連れていけと言いながらも、マコトはまた迷い無い足取りで、先陣を切ってどんどん進んでいこうとする。マリーは慌ててその袖を掴み「ちょっと待って」と言った。マコトはせっかちなのか、不満そうに「何だよ」を唇を尖らせる。マリーはおずおずと言った。「トイレに、行ってきてもいい?」

 こんな怒涛の展開になると知っていれば、寸前にあんなに飲んで食べてをしなかったのに、とマリーは後悔した。こんな不気味な学校のトイレになんて絶対に行きたくないというのに……。

 マコトにはすぐ前の廊下で待っていてもらい、マリーはヒヤリと冷たい女子トイレに入った。学校のトイレは暗く冷たい、籠った水のニオイがする。早く用を済ませようと個室に入り、出来るだけ怖い想像をしないように無になることを心掛けた。そして無事に個室から生還すると、素手で触るのが憚られるような蛇口をひねる。
 手を洗い、バッグからハンカチを取り出して、手を拭いた。そんな日常の何気ない動作が、心を少しばかり落ち着ける。……それが油断に繋がったのだろう。マリーは全く無意識に、目の前の鏡を見てしまった。――映るのは、怯えた顔の自分。その首元には“獣のような毛むくじゃらの黒い手”が、背後から伸びている……。

 マリーは喉元を雑巾のように強く絞られ、悲鳴を上げることもできず、苦しさに悶えた。容赦なく締め上げる手に爪を立てようとするが、ゴムのような質感で上手く引っかからない。全身を使ってどうにか逃げようと試みもしたが、相手は手だけだというのに全く歯が立たなかった。そうこうしている内に朦朧とし、マリーは意識を手放す。ぐったり力の抜けたマリーを、その手は鏡の中に押し込んで連れ去ってしまった。

「おい、まだか?」
 流石に遅いと心配するマコトが声をかけるが、誰もいない女子トイレから返事が返ってくることはなかった。
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