古来より、鏡には不思議な力があると信じられてきた。鏡はこの世とあの世を結び、邪を遠ざけ、時に魔となり人々を惑わすこともあるという。

 もし今、あなたが自分の姿を思い浮かべるなら、それは鏡に映ったあなたでは無いだろうか。あなたはその見慣れた鏡像を、あなた自身だと信じ込んでいる。

 鏡に映る姿を自己と認識できる生物は、そう多くない。人間やチンパンジーなど一部の動物のみであると言う。それは果たして高知能の証明なのか、はたまた本能が鈍った結果なのか。

 もしあなたに少しの勇気があるなら、左右逆のあなたに問いかけてみてほしい。

 あなたは誰で、そこがどこなのかを。



【鏡の国のマリー】(01)



 わたしの通っていた中学校には、全国どこにでもあるような七不思議があった。語り手によっては七に満たないことや、七を超えることもある適当な怪談話だったが、その中でも曖昧でブレの大きい話が『家庭科準備室の合わせ鏡』だった。

 4時44分44秒に家庭科準備室の姿見で合わせ鏡をすると、未来の自分が見える。運命の相手が見える。別世界の自分と入れ替わる。鏡に吸い込まれる。悪魔が現れる。呪われる……エトセトラ。随分と使い勝手の良い万能七不思議じゃないかと、当時のわたしはクールを気取って鼻で笑っていたものだ。

 高校受験を前に現実逃避しがちなクラスメイト達は、競うように家庭科準備室に忍び込んでは無事に帰還し「なあんだ、つまらないの」と安堵の顔で落胆を装っていた。そんな彼女たちに「ほらね」「やっぱりね」と冷めたフリをしていたわたしも、実は内心ではソワソワしていた。だが素直になれなかった。少しでも大人ぶりたい年頃だったのだ。それでいて小心者で、嫌々ながら膝下のスカート丈に甘んじているような、垢抜けない中学生だった。

 そんなわたしとは違い、小学生の頃から何も変わらない天真爛漫な友人は、見た目だけは色めいて所謂ギャルにつま先を踏み入れていた。長いカーディガンから少しだけ見え隠れする程度のスカート。干されたライオンのような色の少し痛んだパーマ髪。テカテカの赤いマニキュア。耳には偽物の宝石を煌めかせて、近付くと大人のような香水の香りがした。果物とも花ともつかない、匂いと臭いを行き来するその香りと、柔らかな蕾のような声。彼女がわたしの耳元で囁いた言葉は、大人になった今でもよく覚えている。耳たぶをくすぐったその微かな吐息さえ忘れられない。

「みんな、見ている時間が違うの。鏡の中の4時44分44秒は、こっちの8時16分16秒に違いないんだから」

 “あたし達で試してみようよ”という怪談好きの彼女の提案によって、その日の夜は忘れたくても忘れられない夜になってしまった。七不思議を実践した彼女は、語られていた噂の一つのように――わたしの目の前で鏡に吸い込まれて消えてしまったのだ。

 彼女が失踪した日のことは、今でも昨日のことのように思い出せる。あれは中学三年生の7月のこと。夏休みに入る少し前のことで、運動部は秋の大会に向けて毎日夜まで活動していた。そのため学校には夜になっても人気があり、夜間に校舎に潜り込むことはそう難しい事ではなかった。

 わたしと彼女は既に部活を引退しており、受験勉強から逃げている限りは、放課後は暇を持て余していた。七不思議は暇潰しとしても、受験前最後の青春イベントとしても手頃でちょうど良く、“子供っぽい友人に付き合っているだけ”という口実も得たわたしは、クラスメイト達に一歩遅れてようやく参加権を手にしたのだ。

 わたし達はクッキング部の後輩に頼み込み、戸締りのタイミングで家庭科準備室に潜り込んで、時々聞こえる廊下の足音や声にビクビク、ワクワクしながらその瞬間を待っていた。人目も気にせず胡坐をかいて。スクールバッグの上にクッキーをパーティー開きして。イヤフォンを半分こして、彼女が好きなアイドルの曲を聴いて。本番よりも楽しい待ち時間を謳歌していた。

 勿論悪い事をしているという自覚はあったが、それがスパイスのように楽しさを増幅させていた。その時のわたし達は、その夜がかけがえのない思い出の一つになると予感していたのだと思う。だがそうではなかった。何物にも替え難い時間は、何を引き換えにしてももう戻らない。

 8時16分16秒、わたしの一番の友人は消えてしまった。

 その瞬間から以降の記憶は曖昧である。大人たちに問い詰められ、同情され、クラスメイトからは好奇の目も向けられていたような気がするが、わたしは暫くの間ショックで呆然自失状態だったようで、あまりよく覚えてはいない。

 あれから十年以上たった今、わたしはすっかり自分を取り戻して地に足を付け生活していたが、あの日の出来事は思い出すと痛む古傷のように、今もなおわたしを苦しめ続けている。一人でいる時に鏡を見ることが怖く、部屋には小さな手鏡一つ置くこともできず、外で鏡を見かけると吸血鬼が太陽を嫌がる様に避けていた。



 *



「う、わっ」
 体が大きく揺れて椅子の上から落ちそうになる。彼女は咄嗟に両足を踏ん張り、大きな地震にでもあったかのように机にしがみ付いた。しかし地球は揺れていない。状況が掴めずにそのままの態勢で呆然としていると、デスクのパーテーションの向こうから、誰かが小さな顔をひょこっと覗かせた。

「マリーさん、居眠りしてましたね?」
 同じ部署の後輩A子だ。A子は戸棚に隠されていたお菓子でも見つけたように、嬉しそうなにんまり顔で“マリー先輩”を見ている。マリーというのは彼女の本名ではなく愛称だった。多忙の新人時代にお昼のパンを買う暇もなく、社内で配られるお土産のお菓子を昼食にして「パンがなくてもお菓子がある」と言っていたことが、かの有名なマリーアントワネットを想起させたらしい。同期も先輩も上司も、後から入ってきた後輩にも漏れなくマリーと呼ばれるようになってしまった。

「寝てないよ。ちょっと目をつむってただけ」
「嘘ばっかり、涎ついてますよ」
 マリーはぎょっとして口元に手をやるが、そこに湿り気はない。A子は小動物を思わせる大きな目を細めて「引っかかったー」と無邪気に笑っている。マリーは胸焼けにも似た感覚を覚えて、特に何の反応も示さず目の前のパソコンに目をやった。

 パソコンの端に表示されてる時刻は……20時半を過ぎたばかり。寝る前の自分が頑張っていたのか、仕事の進捗は良好。今日はそろそろ切り上げて、駅ナカでちょっと良いお惣菜を買って帰って、ドラマを見ながら晩酌をしよう。半身浴とパックをして、アロマを焚いてぐっすり眠ることにしよう。

「そろそろ帰ろっと」
「お疲れ様でーす。あ、この後残ってるメンバーで飲みに行きますけど、マリーさんは?」
「いや、遠慮しておく」
 一瞬、今日は金曜日だっただろうか?と思ったが、そんなことはない。まだ週の真ん中である。明日の朝、同僚の何人かがグロッキーな顔でデスクに突っ伏している姿がありありと想像できた。そして想像の中の自分は、少し離れたところから彼らを優しくも冷めた目で見ている。どうやら自分は大人になった今もまだ、落ち着いた大人の女に憧れているらしい……とマリーは思った。

 マリーはオフィスから廊下に出て、ぐっと伸びをする。と、連携するように欠伸が出た。顎が外れる寸前までの気持ちの良い欠伸。滲んだ涙を指で拭い……嫌な感触に“しまった”と顔を顰める。

 恐る恐る手を見ると、指にはマスカラとアイライナーがべっとり付着していた。どうせ先程の居眠りである程度化粧は崩れていただろうし、髪も乱れていただろうが、流石にこれは酷過ぎる。だが、夜の会社のトイレで化粧直しをする気が起きなかった。苦手なのだ、鏡が。朝のトイレで、同じように出社してからメイクをする人々と一緒でなければ、鏡と向き合えない。

「おや、マリーちゃん、今帰りかな?」
 何もないところから突然出現したような気配の無い声に、マリーはびくっと振り返る。そこには背の高い痩身の男……Sが立っていた。彼はマリーの新人時代の教育係で、マリーというあだ名の名付け親でもある。整った顔立ちと人あたりの良さから女性社員に人気がある彼は、教育係を終えても何かとマリーを気にかけ、世話を焼いてはちょっかいを掛けてきた。マリーがそんな彼に憧れと、自分に都合の良い解釈を抱くようになるのは自然な流れだっただろう。

 マリーは今の自分を一番見られたくない相手に会ってしまった、と咄嗟に顔を明後日の方に向けて「はい、ええ、イエス」と答える。Sは「相変わらず面白い子だね、君は」と言った。マリーにはそちらを見ずとも、爽やかで明るいあの笑顔があるのが手に取るように分かる。

「もし良かったら、一緒に帰ろうよ」
「先輩は皆と飲みに行かないんですか?」
「うん、僕はね。マリーちゃんと二人がいい」
「あ、う……え?」
 マリーはSの凄まじい威力を持った爆弾発言に、あ行しか喋れなくなる。恥ずかしさとそれ以上の嬉しさ。しかし度を越した感情は居心地が悪く、不快感にも似ていた。沸騰したヤカンのようになっている自分が目も当てられない惨状に思えて、マリーは逃げるように「ちょっとお手洗いに行ってきます!」と早足でトイレに駆け込む。背中の方では、Sの「はっはっは」という明朗快活な笑い声が響いていた。

 女子トイレに逃げ込んだマリーは、ぐったりと扉に背を預ける。なんだあの先輩、あんなの反則じゃないか、どうしよう……。心臓が徒競走の後のように暴れていた。逃げ出すなんて、思春期特有の天邪鬼で好きな人をわざと避けていたあの頃のようだ。子供の頃から恋心が全く成長していない。圧倒的な経験不足である……とマリーは自己分析をして冷静さを取り戻そうとする。

 とりあえず身なりを整えてから戻ろう、と恐る恐る洗面台に立った。

 マリーは本当に鏡が苦手だ。存在自体に全身が拒否反応を示す程である。その銀色の反射光が視界に入ると寒気がし、空間認知を歪める鏡像空間には眩暈がした。誰かと一緒で、お喋りでもしながらであれば多少和らいだが、流石にSを女子トイレに引き込むわけにはいかない。腹を括って、鏡を見る。

 ――鏡の中には、三十路の女が映っていた。一日の仕事を終え、それも居眠り明けとは思えないほど、女は品良く小奇麗に整っている。しっかりコテで巻かれた髪、てろっと光沢のあるブラウス、鮮やかなグリーンのテーパードパンツ。華奢なネックレスを胸元に一粒、何も入らなそうな小さなショルダーバッグを肩から下げている。ちゃんとしすぎているくらい、ちゃんとしていた。雑誌にでも出てきそうな、憧れの働く女性像だ。マリーが学生時代に憧れていたクールな大人の女。危うい蕾の時期を超え、花が開いて実を結び、程よく熟れた大人の女。なりたい大人に、彼女はなったのだ。

 滲んだアイメイクや落ちかけの口紅だけが、マイナスポイントである。マリーは滲んだアイラインをティッシュで拭き取り、修正作業に入った。

(どうしよう、S先輩に誘われるって分かってたら、もっと可愛い服にしてきたのに)
 パンツスタイルよりもワンピースの方が良かったかな?マリーは鏡の向こうで嬉しそうに困る器用な顔の自分を見た。そこに映る表情は、今の自分の心情と寸分違わず一致しているように思える。しかしどこか違和感を感じて、ついまじまじと見続けてしまった。すると、少しずつ少しずつ違和感は大きくなり、やがて、

 ――睨んでいる。

 血走った眼で、顎を引いた自分が。今にも呪い殺してやると言わんばかりの顔で、鏡の向こうからマリーを睨んでいる。

 マリーは驚いて咄嗟に自分の顔に触れた。表情を確かめようとしたのだ。しかし確かめるまでもなく、鏡像と実体の違いは明らかだった。何故ならあちらの自分の手は顔になく、その指は鏡面を引っ掻いているからだ。カリカリと嫌な音がしないのは、その指の爪が全て剥がれてしまっているからだと気付き、真っ赤な指先にマリーは小さな悲鳴を漏らす。

 その悲鳴を合図にするように、最初はマリー自身に見えていたそのお揃いの顔が……輪郭が、髪が、目、鼻、口、全てがぐにゃりと変化する。そこに映っているのは全くの別人だった。血を全て抜き取ったような石灰色の肌はひび割れて粉を吹いている。脂気の無いゴワゴワの髪は複雑に絡み合っており、それに縁取られた顔にある目は、ただの二つの窪みだった。

 マリーは洗面台を押しやるようにして、鏡から離れる。トイレのじめっと冷たい床に尻もちをついた。鏡の中では依然、知らない女が覗き込むように自分を見下ろしている。マリーはこれ以上見てはいけないと目をつむり、落としてしまったバッグを手探りで引っ掴むと、笑う膝に転びそうになりながらも何とかトイレを飛び出した。

 無我夢中で廊下に出ると、そこにはSが立っている。その穏やかな笑顔は平和過ぎて、薄気味悪い程だった。

「君は入るときも出る時も走るんだね。元気で何より……おや、どうかしたのかい?」
 Sはマリーの様子がおかしいことに気付いたのか、泣いている子供をあやすような優しい口調で尋ねる。マリーは泣いている大人になりかけながら、彼に答えるべき言葉を探した。が、適切なものが見当たらない。何度か紡ぎかけるものの、どれも声になる前にほどいてしまった。

(これは、わたしのトラウマが見せるただの幻覚なんだ。人に話すことじゃない)
 そう、実はマリーにとって先程のような体験は初めてではなかった。ここまでハッキリと存在感のある幻覚は久しぶりだったが、鏡を見るとそこに恐ろしい存在が見えてしまうのは、以前からずっと続いている現象である。

 マリーはそれを、中学時代に友人を救えなかった自分に対する罪悪感の現れなのだろうと解釈していた。だとすればあの恐ろしい幻覚は、鏡に取り込まれた友人で、自分に恨み言を言っているのかもしれない。それはそれで彼女に対して酷いことをし続け、罪を重ねているように思えた。

「何でもありません、大丈夫です」
「でも顔色が悪いよ。心配だ。今夜はやめておく?」
「いえ、行きましょう」
 いくらただの幻覚とはいえ、あんな体験をした後に恋だの酒だのと浮かれていられるほど、マリーは図太い神経の持ち主ではない。しかしだからこそ、一人になる事が恐ろしく、Sを利用したのだった。
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