【幸福日和】(【自殺日和】のその後の二人)



 ある冬の朝。いつも通り、彼女の声に起こされた。
 穏やかな彼女にしては珍しい強めの語調。これは朝限定のもので、寝起きの悪い俺への苦労が滲み出たものである。

 意識が浮上すると、瞼を上げるよりも先に全身が震えた。寒い、寒すぎる!冬の朝は寒いものだが、今朝は一際凍えるように寒い。地球は再び氷河期を迎えたのか、などと現実離れした思想で再び夢の世界へ戻ろうとするが、頭の上まで引き上げようとした布団を彼女に引き剥がされてしまい、俺は極寒の世界に放り出された。

「寒い!」と咄嗟に声をあげた俺に、彼女は一仕事終えた後の顔で「おはよう。起きたわね」と言った。

「部屋、寒くてごめんね。暖房はつけているのだけど、中々暖まらないの」
 ゆっくり、ハキハキした声。寝癖のない髪。既に着替えられた服。その顔には少しも眠たげなところがない。恐らく大分前から起きているのだろう。交際中も、同棲中も、そして結婚してからも、俺は彼女が寝坊をしているところを見たことがなかった。

 かつてけたたましい音を立て、近所迷惑にもなっていただろう俺の目覚まし時計は、彼女と生活するようになってからはただ静かに時間を刻むだけになっていた。俺は習慣として、枕元のそれに目をやる。そして二本の針が指し示す時刻に再び驚きの声を上げた。
 午前時6時、少し前。早い、早すぎる!普段8時に起床する俺には、未知の時間帯だ。そういえば、窓の外はまだ夜のように暗いではないか。しかし、彼女が時間を間違えるわけがない。俺の抱いた疑問を察したのか、寝惚けた頭にも浸透しやすい速度で、彼女が答えをくれる。

「天気予報通り、今朝は雪だよ。結構降っているから、電車にも影響が出ると思うの。早めに出ないとね」
 今日は大切な商談があるんでしょう、と言って、彼女は優しく俺の肩に触れて起床を促す。

 ああ、そういえば。確かに数日前から、彼女は今日の天気を危惧していたな。
 俺は二度寝を諦めて、ベッドから這い出た。

 リビングはベッドルームより、大分暖かかった。エアコンとストーブのお陰だろう。俺は光に引き寄せられる虫のように、自然とストーブの前に向かったが、既にそこには先客が居た。ストーブの真ん前を陣取っているのは、椅子に置かれた俺の衣服である。
 これは彼女の気遣いだ。ストーブに温められた衣服は、袖を通すとカイロのようにポカポカ心地よい。おかげで俺は、冬の朝の辛い着替えを、とても快適に行うことができたのだった。

 着替えを終えて空いた椅子に腰かけると、ふわり。甘い匂いが鼻孔をくすぐる。程なくして食卓に並べられたのは、湯気立つスープカップだ。中身は薄卵色。俺が好きな、濃厚でドロリとしたコーンポタージュ。誘われるように、俺はそれを口に運んだ。

 瞬間、口の中にコーンの香ばしさとまろやかな甘味が広がる。その後でピリリとした刺激が、舌を焦がした。スパイシーな香りが鼻を突き抜ける。
 恐らく昨晩の煮物と白米の残りに、ポタージュを入れて、具沢山な粥にしたのだろう。煮立てられた米は、一晩越しのパサつきや干からびも無く食べやすい。生姜と胡椒で整えられた味は寝起きの口には程よいアクセントで、且つ体がよく温まる。生き返るようだ。と、思った。

「美味い」と言った後で、俺はすっかり「いただきます」を失念していたことに気が付き、今更ながら彼女に伝えてみた。すると彼女はニコニコして「いただいてます。ね」と訂正した。

 ああ、朝食とは、素晴らしいものだ。かつて一人暮らしをしていた頃、俺は朝食は摂らなかった。否、摂れなかった。朝食を摂ると、日中、体が重たく不快に感じたからだ。だが今は違う。彼女の朝食を摂らなければ、その日一日力が出ない。

 すっかり完食し、温まった体で身支度を急ぐ。家を出なくてはならない時間が迫っていた。

 折角自分なりにセットした髪に、彼女がニットの帽子を被せる。マフラーでぐるぐる巻きにされる。手袋をはめられて、コートの裏にカイロを貼られて、弁当入りの手提げと、仕事用のカバンを持たされた。

 玄関まで見送られて「いってらっしゃい」と微笑む彼女があまりに愛しく、折角持たせてもらった荷物を足元に置いて、はめてもらった手袋を外して、素手で彼女の頬に触れ、俺は「行ってきます」と口付けた。

 おかしそうに、恥ずかしそうに笑う彼女に見送られて外に出ると、まだ少し薄暗く、空には白い月が浮かんでいる。道の街灯はまだ夜のまま灯っていて「ああ、冬だな」と思った。



 *



 案の定、交通機関は乱れに乱れていたが、通勤ラッシュを避けることでいつもより早めに出社できて、大切な商談にも余裕を持って取り組むことが出来た。
 取引も上手くいき、上司にも褒められ、おかげで今日は定時通りに退社することができたのだから、早起きは三文の徳という言葉を実感せずにはいられない。

 オフィスビルから外に出ると雪はやんでいたが、足元にはすっかり白く積もっていた。雪の中に足がはまることも、踏み固められた氷の上で滑る事も嫌だった俺は、会社から駅、駅から家まで、地面を睨み続けながら慎重に歩く。間もなくゴール、という頃、ふと白い道が途切れた。
 顔を上げると、自宅の前はほとんど雪が無い。露わになったコンクリートの道の隅には、いくつか大きな雪山が出来ている。

「奥さん、雪かき頑張ってらっしゃったのよ」
 立ち止まる俺に、近所の婦人がそう声をかけてきた。その手には大きな雪かきが握られている。

「うちも少し手伝ってもらっちゃったから、本当に助かったわ」
 そう言って快活に笑う婦人は、さあ最後の仕上げね、と意気込んだ。その様子を、近隣で同じように雪かきをしていた人々は羨ましそうに見ている。

 俺は、まるで自分が褒められたかのように誇らしい気持ちになった。緩みそうになる顔を必死で整え、近隣住人に適度な会釈をしながら自宅の門に手をかける。と、雪でいつもより配達が遅れたのだろう。郵便局員と鉢合わせた。
 彼から手渡しでいくつかの郵便物を受取り、玄関までの間、それらをざっと確認する。

 ショッピングモールオープンのお知らせ、不動産、保険の広告。
 その中に先月分の電気代の請求書が入っていたので、金額に目をやった。今年の冬は異様に寒い。さぞ電気代も嵩んでいることだろうと思ったが……その額は想像より、かなり少ない。

 俺はあることを察して、自分の不甲斐なさを呪った。ああ、今まで光熱費の管理は彼女に任せきりで、気付けなかったのだ。この額は日中誰かが在宅している家のそれではない。

「おかえりなさい」
 インターホンを鳴らすと、彼女が出迎えてくれる。自宅の鍵は持ち歩いていたが、彼女に開けてもらうのが好きだった。
 一刻も早く彼女の体温を感じたくて、まだ寒い玄関ですぐに手袋を取る。そして郵便物を受け取るために伸ばされたその手を引き、胸の中に閉じ込めた。彼女は空いている方の手で器用に俺の手から郵便物を抜き取り、棚の上に置くと、そのまま俺の背に回して雪をはらってくれる。

「あなた、冬の匂いがするわ」
 彼女は俺の胸元に鼻を寄せて、そう言った。その仕草が、言葉が、可愛くて仕方がない。
 だが今日は一つ、文句を言ってやろう。

「電気代、見たぞ。俺が居ない間、暖房を付けていないのか?」
 そう言うと、彼女は上目遣いで俺の顔色を伺ってくる。いけないことがバレてしまった子供の様だ。

「だって……一人じゃもったいないし。あなたが仕事で頑張っているのに、わたしだけ暖かい部屋でぬくぬくしてるなんて」
「いいんだ、ぬくぬくしてろ。ぐうたらしてろ。寧ろ、そうしていてくれ」
 でなければ、何の為に俺が働いているのか分からないではないか。そう言うと、彼女は少し瞳を潤ませて「善処します」と言った。

 俺は、割と盲目的に彼女を愛している自覚はあるが、彼女に不満があるとすれば……働き者すぎるところと、わがままではないところだ。

 彼女から仕事を取り上げ、ローンを組んでまで購入したこの家に閉じ込めているのは、俺のわがままなのだから。余裕のない男の、独占欲の結果なのだから。だから彼女は昼過ぎまで昼寝をしていたって、テレビの前で煎餅を貪っていたって、洗濯物を取り込み忘れたり、部屋の四隅に埃を積もらせたり、夕食がファーストフードの日があってもいいのだ。
 それでいて、帰りが遅いだのゴミ出しをしろだの、要求してきてもいい。

 もっと、もっと悪い女になってくれ。浮気以外であれば、何だって許そう。
 でなければ、一緒にいていいか不安になるのだ。

 俺は欠点ばかりで、優しい彼女に赦されてばかりいる。
 俺が彼女に抱いているのは紛れもない人の愛だと思っているが、それは時々信仰染みていると、自覚せずにいられないことがあった。


 風呂も夕食も終えて、口下手な俺の話を聞いてもらい、話し上手な彼女の話を聞く。それから一緒にコーヒーを飲み、テレビでドキュメンタリーなどを見たりする。
 そうして夜も更け、ベッドに入った。

 ああ、今日も一日、とても幸せだった。

 愛しい人の声で目覚め、手料理を振る舞われ、見送られ、
 その人の為に働き、帰宅すると暖かい抱擁が待っている。

 彼女に出会う前……出会ったその日、自分は死のうとしていた。
 あの頃は毎日死ぬことばかりを考えていたが、今は、

 一日でも長く、生きていたかった。

 この幸せな日々を一分一秒でも長く感じていたい。そして願わくば、年老いた自分と彼女は最期の時まで共にあり、出来るだけ同時に、穏やかに逝きたい。

 俺は満ち足りた気持ちで、瞼を閉じる。すぐ隣に感じる彼女の息遣いが心地よい。

(ああ、幸せすぎて、死んでしまいそうだ)

 今朝は早かったからだろう。すぐに睡魔が訪れ、俺の意識は日付が変わる前には穏やかな暗闇に沈んでいった。



 *



 今日も一日、とても幸せだった。

 わたしは枕の上に頬杖をつき、隣で静かに寝息を立てる彼を満足気に見つめる。そうするだけで、濃厚な幸福感が血液と共に全身を巡っていくようだった。

 彼を愛している。彼に愛されている。
 だから今夜のわたしもきっと、世界で一番、幸せな笑顔を浮かべているのだろう。

 だから、もう。


 “いつ死んでも、悔いはない”


 例え今、突然心臓発作が起きても。はたまたこの家に隕石が落ちてきても、構わない。
 こんなに幸福な日が人生最後の日になるならば、寧ろそれは、願ってもないことのように思えた。

 ああ、彼のお陰で、自分はいつでも死ねる。

 ただ恐ろしいのは、この幸せが終わってしまうことだ。
 そうなる前に、幸せなまま、一生を終えたいと思う。

 わたしは布団の中で彼の手を握ると、この一瞬を噛みしめるように瞼を閉じて、心の中で小さく呟いた。

 “死にたい”と。

(幸せすぎて、今ここで死んでしまいたい)
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