柔らかな陽光に額を撫でられ、目が覚めた。

 春を喜ぶ小鳥の囀りが耳をくすぐり、優しくまどろみから覚醒させてくれる。
 少しだけ隙間の開いたカーテンを引くと、窓の外には素晴らしい青空が広がっていた。

 よく晴れた春の日の朝。理想的な目覚め。
 あまりに素敵な日曜日の始まりに、わたしは微笑み、そしてこう呟くのだ。

「ああ、絶好の自殺日和だわ」と。



【自殺日和】(前編)



 それは決して悲観的な人生の結論ではない。わたしはまだまだ未来のある若者で、将来に希望が抱けないという訳でもないのだ。また、孤独からの衝動でもない。実家の親は健在で、プライベートの友人もおり、会社でも悪くない人間関係を築くことができている。

 わたしには周囲に馴染むことのできる平凡さと、人より優れていて自慢できる非凡な部分がバランス良く備わっていると自負していた。
 夢もあれば、人並みに諦めも知っており、楽しいばかりではないが、悩みばかりでもない。
 やろうと思えば、何だってできるような自信もあった。

 ならば何故、その可能性を放棄することを選ぶのか。

 その理由を強いて挙げるとするならば“全てが完全に上手く行かないこと”にあるのだろうか。端から端まで、1分1秒まで少しの妥協もない人生など存在しない。そんな当たり前の事を受け入れつつ、そうまでして生きる意味を見出せなかったのかもしれない。

 いや、そんな理由はただの後付けだ。

 わたしはただ、無感情に、自然の理のように、
 その日、死ぬことを決めた。



 ■AM9:00



 まず、自殺するにあたって必要な工程を考える。他殺の可能性が疑われないように、遺書は残すべきだろう。法的効力のある公正証書は遺言書だが、遺言書には厳格な要式があるという。法的に正しいものを作成するには専門的な知識が必要らしい。弁護士に依頼するにしても、時間も費用もかかるだろう。どうせ大した財産もないのだから、わたしは簡単な遺書のみ残すことにした。

 遺書の内容としては、親への感謝と謝罪、あと口座情報も必要だろう。死ぬにも金が掛かるのだ。アパートのクリーニング代や中途解約金、諸々の物品処分費。一番大きな額でいうと葬儀代だろうか?……市民葬で済ませることができるなら、それら全てを支払っても結構な金額が残るだろう。それは親に慰謝料として受け取ってもらいたい。どうか、温泉旅行にでも行って親不孝な子供のことなど忘れて欲しい。

 遺影用の写真を選ぶ必要もある。どうせならば少しでも綺麗なものを残したいが、今から撮影スタジオを予約して間に合うだろうか?衣装は普通の洋服ではなく、振り袖でもいいかもしれない。ドレスもアリだ。ああ、だがそのようなスタジオ写真は、現像に時間がかかるだろう。残された時間を考えるとあまりに現実的ではなく、わたしは諦めた。きっと、成人式の時のぎこちないはにかみ顔の写真が使われることだろう。あれは、わたしの意に反して親がとても気に入っていたから。

 携帯は解約すべきだろうが、何をするにも便利なこの利器を使えない時間は、なるべく短くしたい。それに、毎日プレイしているアプリゲームのイベントが今日までなのだ。出来る限り遊び尽してから、夜に解約しよう。パソコンも同様だ。最後の最後に破壊しよう。データ抹消ができるフリーのソフトが無いか、調べる必要がありそうだ。

 人との約束はない。借りっぱなしのDVDも無い。手帳はスッキリしている。

 さて……一番の問題は、自殺の方法だ。
 他人様に迷惑を掛けたくはないが、一切迷惑を掛けない自殺方法など無いだろう。まず、場所について。このアパートはダメだ。わたしの死後、この部屋が事故物件になってしまう。線路への飛び込みは以ての外だ。人身事故は大勢の予定を狂わせるし、遺族に多額の費用が請求されると聞いたことがある。そもそも人前では、誰かにトラウマを植え付けてしまいかねない。

 条件@誰も居ない場所であること
 条件A発見が割と容易な場所であること
 条件Bできる限り景観の美しい場所であること

 この条件を満たすとなると所謂“自殺の名所”が思い浮かぶが、いくら死ぬ為といっても、とても行きたいとは思えない。普通の人間に遭遇する可能性は低いかもしれないが、普通ではない人間に出会ってしまう可能性が高そうだからだ。(自分を棚に上げるようだが、わたしは至極普通で、まともなのだ)

 同じ自殺志願者に遭遇してしまうことは気まずいし、最後だからと乱暴をされるかもしれない。危険だ。そして勿論、既に息絶えた人間の腐敗した抜け殻に遭遇するのも嫌である。

 となると、自殺の名所は候補から外れる。次に思い当たったのは近所の桜並木だった。
 あの場所ならば、夜は殆ど人が通らない。桜はちょうど見頃を迎えていたが、道幅がやけに狭いため花見客が深夜まで騒いでいることもないだろう。そして恐らく朝一で訪れるのは、犬の散歩に来る近所の老人か、自転車置き場の管理人だ。彼らを驚かせてしまうのは申し訳ないが、子供が第一発見者になって長い人生にトラウマを抱え続けるよりは良いだろう。

 人気の無さも景観も申し分ない。アクセスも良好。徒歩で行ける距離の為、電車の時間を気にしなくていいところも、安心だ。

 さて、これで場所は決まった。後は自殺の方法だ。
 自殺の方法には、何があるだろうか。

 首吊り・飛び込み・失血死・入水。
 できるだけ楽で、死体が綺麗に残るものが良い。そして、失敗した時に後遺症などが残ってしまわないように、確実に死ねるものでなければならない。

 銃で頭を撃ち抜くことが出来れば一瞬で片が付き、また発見もされやすいだろう。しかし銃を手に入れること自体が、この国では難しい。そこで、よりわたしの希望に沿う自殺方法をネットで調べてみると……ヘリウムガス自殺が中々良さそうだった。

 方法は、頭に被った袋にヘリウムガスを詰めて窒息状態にする、というものだ。大量の睡眠薬や劇薬はそうそう手に入らないが、ヘリウムガスは風船を膨らませる用のもので良いらしい。それなら通販でも簡単に手に入るだろう。午前中に注文すれば夜に届く、当日配達のサービスもある。予定通り本日中の決行が可能だ。

 また睡眠薬などの方法と違って未遂の確率が低く、昏睡状態で死ぬことが出来るため、上手く行けば苦痛もない。ヘリウムガス自体は無害なため、硫化水素や一酸化炭素を用いた自殺のように、発見者や救助者に害を成すこともない。

 バルーン用品専門の通販サイトを見ると、400L入りを5,000円程度で見つけることが出来た。送料込みなところが嬉しい。後は、袋にガスを注入するビニールチューブが必要だが、これはホームセンターで入手可能だ。

 わたしは脳内で“その時”のシミュレーションをする。

 木の幹に背を預けて袋を被る。チューブでガスを注入する袋には、あらかじめ桜の花びらを詰めておこう。そして朦朧とする意識の中、最後の力を振り絞って袋を破くのだ。
 淡い月明かりの下。花びらに包まれて、夜桜に見守られ、死にゆく――中々に、美しい死に方ではないだろうか。

 時計を見ると、時刻は……



 ■AM11:00



 死に方について考えている内に、いつのまにか2時間も経っていたらしい。しかし今までの人生の20万を有に超える時間を考えると、その結末をたった2時間で決めてしまうというのは、いかがなものか。
 だが今日という日があと13時間しか無いことに変わりはない。ゆっくりしている訳には、行かないのだ。

 次にすることは――部屋の掃除、だろう。

 わたしは部屋をぐるりと見回す。特別散らかってはいないが、完璧、理想的とは言い難い。ある程度の整頓は必要だろう。わたしは手始めに棚の中を片付けることにした。
 棚には、友人と旅行に行った先で衝動買いしたガラスの小物入れ。学生時代のアルバイト先で付けていた名札。そんなどうでも良い、大切な思い出が並べられている。その薄ぼけた陳腐な一つ一つは、どこまでも誇らしげな顔をしていた。

 わたしはそれらを一つ一つ手にとって、その下に積もった埃をティッシュで拭き取っていく。威張りん坊たちは、埃が無くなると急に勢いを無くし、よそよそしく、新品同然の顔になった。

 次はベッド下の書籍ケースだ。
 会社で推奨された自己啓発本、学校で配布された参考書、台風の日に遅延している電車を待つ間、暇つぶしに買った小説本。それから、小学生の時に母に買ってもらった昆虫図鑑。これは一時通院していた病院の待合室で、静かにしていることを条件に買ってもらったものだ。大層立派な図鑑で、分厚く読み応えがあり、虫の写真がとても綺麗でお気に入りだった。だからこうして、昆虫採集などとうに卒業した今もまだ、何度かの取捨選択をくぐり抜けてここにある。

 わたしは懐かしくなってページを捲ってみた。アリ、テントウムシ、チョウチョ。蝶の種類と比較にならないほど蛾の種類が多いと知ったのも、この図鑑からだった……。一番好きなページは、クワガタのページだ。インクをふんだんに使って再現された艶やかな甲は、本当にその場にいるように感じられるものなのだ。

 ……気付くと、また時間が経っている。30分程、見入ってしまっていたようだ。
 本の整理はこれだから進まない。掃除“あるある”というやつだ。わたしは、アフリカ大陸最大のクワガタであるタランドゥスオオツヤクワガタの、エナメルのように艶やかな甲冑から視線を引き剥がし、図鑑をケースに戻した。
 それから本をサイズごとに並べ直し、ケースにフタをする。思っていた以上に利口な書籍しか入っておらず、見られたくないものは無かった。これで書籍ケースの整理は完了としよう。

 自殺の為の掃除で、特に悩むものが二つある。

 一つはパソコンのハードディスクだ。これは先ほど決めたように、本当に最後に破壊することにしよう。だがもう一つは、まだ処分方法を決めかねている。それは下着類だ。
 誰かの手で処分されるのは嫌だが、ゴミとしてゴミ置き場に出すにも抵抗がある。だからといって自分で燃やせるような手段も思いつかない。
 致し方なく、黒いポリ袋に詰めることにした。これを更に透明のゴミ袋に入れて、外側から紙ゴミなどで誤魔化し、ゴミ置き場に置いておこう。最近は中身が見えないゴミは、回収してもらえないのだ。

 あれ、と袋に下着を詰める手が止まる。わたしの手に握られているのは、白地に淡い水色のリボンがあしらわれた、乙女チックな下着だった。確か……かなり前に一目惚れして買ったものだった気がする。しかし使うのがもったいなく、こうして箪笥の肥やしにしてしまっていたのだ。

 わたしはその下着を暫く見つめ、人生最期の日のパートナーに選ぶ。「勝負下着か!」と自分でツッコミを入れて、虚しく笑った。

 さて、もう一頑張りだ。スピードアップしよう。
 
 

 ■PM1:00



 大分片付いた部屋を見回し、その出来栄えに思わず携帯で写真を撮る。
 掃除の途中で出てきた海外映画のポスターや、用途不明の陶器の小瓶を飾ったら、まるで小洒落たフランスのアパートの一室のようになったからだ。これに観葉植物でもあれば、オシャレなOLの部屋として雑誌で紹介されていてもおかしくなさそうである。わたしは満足気に頷いて、綺麗になった部屋の、磨かれたテーブルの前に座る。

 さて、部屋も綺麗になったことだし……遺書を書くことにしよう!

 わたしは中学生の頃に買った便箋セットから一枚、そっと抜き取って、皺ひとつないそれを眺めた。紙の端の方が透き通るような素材になっている凝ったデザインの便箋で、これもまた肥やしになっていたお気に入りの一つだった。

 わたしはたっぷりインクの詰まったボールペンで、丁寧に言葉を綴る。
 決して悲観的ではない自殺の動機。口座情報。様々なIDとパスワード。そして、実家の家族へのメッセージ。
 滞り無く滑っていたペンが、そこに来て途端に動きを鈍くする。言葉が迷子になり、宙をなぞることの多くなったペン先に、わたしは溜息を吐く。
 長々と書いても仕方ない。伝えきれない気持ちは、どんなに頑張っても伝えきれないのだ。

「本当に有難うございました。皆様のご多幸を、心より祈っております」

 と締めくくり、わたしは丁寧に折り畳んだそれを封筒に入れて、糊付けした。
 封をすると、もう後戻りができない気持ちになった。



 ■PM3:00



 思えば、朝から何も口にしていない。わたしはシャワーを浴びて、近所のスーパーに出かけることにした。新しい下着、お気に入りのワンピース、春色の軽いコート。そして丁寧に施したメイク。
「これが最期だから」という気持ちが、不思議とわたしをいつもより輝かせてくれるようだった。近所のスーパーに行くにしては、ちょっと勿体ないくらいイケている。折角だしどこかオシャレなカフェにでも行ってみようか。綺麗なアパートで優雅に暮らす、オシャレな女子のオシャレなカフェランチ。アサイーボウルとローズヒップティーなど、相応しいかもしれない。

 最期だからと、後先考えず暴飲暴食することだけは絶対に控えよう。死後、腹部が膨れ上がっているみっともない姿を晒すことは、嫌だった。

 わたしは歩きながら、スマホで近くのカフェを調べる。
 最寄りの駅名と「女子 人気 カフェ おしゃれ」のキーワードを入力すると、想像以上に多くの検索結果が表示された。画面をタップ・フリックし、店名とメニュー内容、写真をざっくり流し見ていくわたしを、聞き慣れた日常の音が足止めする。

 カンカンカン、という
 線路の、踏切警報機の音だ。

 ちょうど良い。電車が通り過ぎるまでの待ち時間に、カフェの候補を絞ろう。そう決めて手元の画面に集中しようとしたわたしの横を――

 さっと、風が通り過ぎた。

 その風は白くはためいている。スマホから顔を上げると、既に下りきった遮断機の向こうで、その白は揺れていた。

 春風に舞う白いトレンチコート。細く長い体。太陽の似合わない青白い肌に、癖のない直毛の黒髪。理知的な切れ長の、一重瞼。
 そこに居たのはたった今白昼夢から抜け出てきたような、生きている人間らしさの薄い、儚げで朧な男だった。

 彼を儚く見せているのは、この状況のせいかもしれない。儚いというより危うげ……単に危ない。彼は遮断機と遮断機の間、間もなく電車が通り過ぎる線路の真ん中に立っていた。そして、きっとそこで電車を待っている。

「あの……死ぬのですか?」
 わたしは、殆ど無意識にそう問いかけていた。神聖な雰囲気の彼は、わたしの姿を認めるとその口元を思い切り歪める。

「お前には関係ないだろう」
 その口調と表情は、見た目の印象とはあまりにかけ離れた、粗暴なものだった。(初対面の人に“お前”だなんていう人、漫画やアニメくらいでしか見たことない!)

「それとも何だ?一緒に死んでくれるとでも言うのかよ」
 男はそう言ってまた口元を歪める。先ほどのへの字とは逆に、今度はその口角は釣り上げられていた。しかしとても笑顔とは言い難い、下衆染みた嗤いだ。

「見ず知らずの他人と、一回限りの最期を共にしたいと思いますか?」
 男の言葉は、わたしを遠ざけるための脅しだったのだろう。しかし死に対して悟りを開いているといっても過言ではないわたしは恐怖心を抱くことなく、ただ、浮かんだ素朴な疑問を返す。
 それが意外だったのか、男は一瞬呆けてから、バツの悪そうな顔でわたしから視線を逸らした。

「誰がそんなこと、思うものか。特にお前みたいなうるさい女は願い下げだ」
「良かった。あなたのこと、全く理解できないわけではなさそうです」
「は?」

 電車の姿はまだ見えない。
 今この時間、この線路には、わたし達以外誰も居ない。

 ――彼を、止めることはできるだろうか?

 それは自分を棚に上げての偽善か、はたまた先を越されたくないという謎の意地なのか。わたしは彼の行動を阻止したいと思った。

 しかしわたしが一人で飛び込んでいって、いくら痩身だといっても成人男性を力づくで止めることなど出来るとは思えない。もし飛び込み自殺に巻き込まれでもしたら……わたしの『極力他人に迷惑をかけない自殺計画』はパアだし、遺族が責任を問われでもしたら最悪だ。絶対にごめんだ。そう、電車を使っての自殺はデメリットが盛り沢山である。

「電車の自殺は、遺族に多額の請求が来るそうですよ。それに、駅員さんは不快な思いをします。運転手さんも乗客もトラウマになるかも」
「知るか」
「ぐちゃぐちゃの、バラバラですよ。もしかすると、片付けきれなかった指先が線路の端に放置されて、カラスに啄まれるかも。悲惨」
「ウルサイ」
「モラルのない若者が、スマホのカメラであなたの肉片を撮影して、面白半分にSNSに拡散するんですよ、きっと」
「……」
「もしかすると、あなたの一部を持ち帰って仲間内で騒ぐネタにしたり」
「……」
「勝手に都市伝説化されでもしたら……“テケテケ”なんて呼ばれて、ずーっと語られ続けるかも。肝試しの降霊術で呼び出されてしまうかも」

 それでいいんですか?とわたしは問う。矢継ぎ早に低俗な未来の話をすると、男の元から青白い顔は、より一層血の気を失っていくようだった。その情景が、リアルに想像できてしまったのだろう。既に死んでいたかのような静かな瞳に、少しずつ迷いが見え始める。


 カンカンカン


 そして、電車が、通り過ぎる。


「自殺って、案外難しいんですよ。もしかすると、生き続けることと同じくらい」
「……ちくしょうが」

 電車が過ぎた後、彼はまだ二本の足で立っていた。線路の向こう側で、悔しそうに悪態をついている。遮断機が上がると、わたしは彼に歩み寄った。

 彼のロングコートは真っ白で、風に舞うそれはまるで白衣のように見える。だからわたしは、彼をこう呼ぶことにした。

「ハカセ。ねえ、あなたのこと、そう呼びますね」
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