【遠来久遠 -enrai mirai-】



 今日はわたしの十八歳の誕生日だ。
 いつも夜遅くまで仕事で忙しい母が、夕方には切り上げて車で学校まで迎えに来てくれた。イルミネーションで華やかなクリスマスの街。母娘水入らずのドライブ。上機嫌のわたしとは逆に、母は眉間に皺を寄せてバックミラーを睨んでいる。

「またそんな派手なタイツ履いて」
 母はわたしの蛍光色のタイツや、制服の上に着込んだ髑髏柄のパーカーにブツブツ言った。わたしの格好は今に始まった事ではないというのに、今更何なんだ。

「別にいいじゃん。お母さんと二人なんだし」
「あんたは女の子らしい恰好の方が、似合うっていうのにね」
 別にリボンやレースが嫌いな訳ではないが、鎖やトゲトゲが好きなのである。いつも口出ししてこない母が珍しいなと思った。嫌な予感がした。

 車が高級ホテルの駐車場に入っていき「今晩はここでディナーにしましょうね」と母は言う。きっとフレンチのフルコースで、カトラリーを外側から取っていくタイプの店に違いない。我が家は決して裕福ではない母子家庭で、特別な日のディナーは回転寿司が定番である。戸惑うわたしに気付いた母が「大丈夫よ。高橋さんがお祝いに、ご馳走して下さるって言うから」とモゴモゴ、目を逸らした。

 裏切られた、と思った。高橋とは母が再婚を考えている交際相手の名前である。さりげなく対面を避け続けるわたしに、母は遂に強硬手段に出たという訳か。人の誕生日をダシにして!
 母には母の人生があるということは理解している。でももう少しだけ母の特別、唯一の家族で居たかった。来年高校を卒業したらわたしは家を出るから、蜜月はそれからにしてくれ。

「高橋さんの息子さんもいらっしゃるから、お行儀良くね」と、やけにめかし込んだ白粉女が言い終える前に、わたしは車から飛び出す。わたしの悲しみを思い知らせてやりたい、困らせてやりたい。わたしは全速力で駐車場を出て、夜の街に逃げ込んだ。人混みに紛れて都会の景色になる。

(クリスマスに何でマラソンしてるんだろ)

 冬のツンとした匂いが鼻に沁みた。至る所にサンタクロースが居るが、良い子の所にしか来ないからわたしには関係ない。煌びやかな電飾がジワリとぼけていた。きっと母はヒラヒラのワンピースとハイヒールを言い訳に、娘を追いかけなくて済むだろう。「良かったね」とわたしは呟く。

 ――今日は、最悪な十八歳の誕生日だ。


 わたしは当所もなく街を彷徨う。折角だからクレープでも食べて、カラオケに行って、終電で帰ろう。着信のうるさい携帯の電源を切り、バッグの奥底にしまい込んで……(ああ、なんてこった)バックを車の中に置いて来てしまった。財布も無い。さよならわたしのクレープ。絶望的な気持ちで項垂れるわたしの耳に、それは聞こえて来た。

 “おいで”

 男か女か大人か子供かも分からない、不思議な声。きょろきょろ辺りを見回すも、雑踏は淀みなかった。わたし以外誰もその声に気付いていない様子である。

 “おいで、こっちだ”

 その声が頭の中に響き渡ると、わたしの意識は霞がかった。置きざりの体は操り人形の如く勝手に歩き、薄暗い路地裏に吸い込まれていく。

 “……時は満ちた”
 声が言う。


 ――我に返ったのは、ゴミ箱を蹴とばしてしまった時。生ごみの腐臭で目が醒めた。人気のない路地裏に、わたしは一人で立っている。慌てて後ろを振り返ると、どの位歩いて来たのか、街灯りは頼りない細い糸になっていた。前に進んだ方が早そうで、わたしは早足でそこを目指す。建物の間を抜け出たわたしは、あれ? と思った。今は昼だっただろうか?

(空が、白い)
 石膏で塗り固められた様にのっぺり白い。空を囲う看板の群れは青、緑……寒色だらけで、文字は黒く沈んでいた。道行く人々の多くは老人に見間違う白髪で、肌は黒檀の色。何故か世界の色がレントゲン写真の様に反転している。水色の服を着た黒髭サンタクロース像が不気味な笑みを浮かべていた。
 わたしは自分の目が変になったのかと思い目を擦ろうとする。しかしその手は見慣れた肌色だ。目はおかしくなっていない。おかしくなったのは、わたし以外の全てだ。

 ピタリ。往来の一人が足を止めてわたしの方を見た。黒い孔に沈んだ白がギョロリとわたしを見ている。すると周囲も連動して、一人、また一人と立ち止まりわたしを見た。彼らにとって異質なわたしに気付いてしまったのだろう。……何となく察しているが、これは恐らくオカルトの類だ。

(こ、殺される!)
 キャーでもウワーでもなく喉からヒュゴッと変な音が出た。

 反転人間達はまるで空腹のゾンビで、わたしという生餌に群がってくる。わたしは逃げようとして、放置自転車に躓き派手に転んだ。全身を打ち付け死ぬ程痛かったが、きっと死はこんな程度ではすまない。迫り来る黒い手に、わたしは目を瞑った。「ギャアアア」……自分の断末魔の悍ましさに絶望する。しかしそれはわたしの声ではなかった。

 目を開けると、まず初めに白色の袴。ゆるゆる視線を上げれば、腰に差した鞘。水色の羽織には髑髏の刺繍。白銀の髪を無造作に束ねた男が、わたしを後ろに庇い立ち、刀でゾンビを薙ぎ払ったところに見えた。地面に転がるゾンビの体は青い血に濡れている。

「立てるか、逃げるぞ」
 静かな響きの低い声。男が黒い顔で振り返った。彼も色が反転していて見慣れ無さに驚くが、見つめられて嫌な気のしない顔立ちである。白い瞳と目が合った瞬間、わたしは自分の中に電流が走るのを感じた。心臓が高鳴る。……ずっと失われていた自分の一部が戻ってきたみたい……これが運命? なんて乙女な思想に浸っている場合ではない。

 彼はわたしが腰を抜かしている事に気付いたのか、片腕で軽々横抱きにして「捕まっていろ」と囁く。そして走り出し、どんどんゾンビ達を引き離していった。

(一体、何が起きてるの?)

 ゾンビ達を撒いた彼は空きビルの窓から中に侵入すると、埃っぽいソファにわたしを下ろす。

「大丈夫か、怪我は?」
 彼は心底心配そうに言って、わたしの手に触れ、奇抜な色のタイツに触れ、スカートを……「ちょ、大丈夫です! 大丈夫ですから!」わたしは背凭れに飛びのいた。呆然とした顔を見るに下心は無かったのだろう。彼は至って真面目な青年風に見えた。が、ヤクザを想起させるド派手な着物が、妙に似合っている。

「ここは何処で、あなたは誰なんですか? どうしてわたしを助けてくれたんですか?」
「ここは“影の世界”だ。魂も肉体も持たない、死者の残留思念が彷徨う場所」
「ざ、残留?」
「お前に襲い掛かって来た奴らのことだ」

 ――人の魂は、永久に輪廻転生を繰り返す。転生の瞬間、殆どの者は新たな人生の妨げとならぬよう、前世の記憶を捨てるのだという。捨てられた魂の残滓はすぐに消滅するが、死の直前に強い念を抱いていた者は、消えずに残る。それが残留思念だ、と彼は言った。(地縛霊の様なものだろうか?)

「残留思念は、死の苦しみに囚われ続ける悲しい存在だ。影の世界を永遠に彷徨い、いずれ自我を失い、生者を襲い始める」
「お、襲ってどうするんですか?」
「生者の肉体と魂の輝きを……器として奪おうとするんだ」
 わたしはゲームかラノベの世界にでも迷い込んでしまったのかもしれない。イケメンに助けられる展開まで含めて“それっぽい”。

「あの……あなたも残留思念、ってこと?」
「ああ。奴らの様に自我は失っていないがな。俺が誰だか思い出せないのか?」
「え?」

「俺の名は京一郎(きょういちろう)。ずっとお前を探していた」

 彼、京一郎の冷たい手がわたしの頬に触れる。息がかかる距離で切なげな瞳に見つめられ、わたしは呼吸をやめた。顔がカッと熱くなり汗が噴き出す。目もぐらぐら煮えていた。

「遥か昔の、前世。俺は誰よりお前の近く居た。俺達は互いに、唯一無二の大切な存在なんだ」
「ぜ、前世? 何それ……もしかしてわたしの、前世の恋人だったり?」
 混乱しているわたしは、恥ずかしい思い付きをそのまま口にしていた。京一郎は否定せず緩く微笑む。前世の恋人の……幽霊。突拍子もない話だが、彼とは初めて会った気がしなかった。わたしは魂で納得している。

「ようやく会えたな。約束しよう、お前は必ず俺が守ると」
 情熱的な告白に、わたしの目からポロリと熱が零れ落ちた。驚きと混乱と、よく分からない感情で一杯だった。


 わたしは出来るだけ目立たないよう、彼の羽織を頭からすっぽり被り、出口に案内してくれるという広い背中に付いて行く。反転した街に目がチカチカするが、音は不気味な程いつも通りで、愉快なクリスマスソングがあちこちで流れていた。雑踏を構成するのは、覚束ない足取りのゾンビと、彼の様に意識がハッキリしている黒い人。後者の方が圧倒的に少なかった。

「あの……京、何でこの世界は色が逆なの?」
 “京”で良いと言われたが、中々照れ臭い。

「前進する力が、生命力。現世はポジティブな力で満ちている。対して影の世界は、いつまでも過去に囚われるネガティブだ」
「はあ」
「カメラのネガフィルムを見たことがあるだろう?」
 まあ、何というか、さっぱり分からない。それよりも時代劇から出てきた様な着物姿の彼から、カタカナの言葉がスラスラ出て来たのが驚きだ。
 
「カメラを知ってるの?」
「ああ。俺達は生前の姿のまま、影の世界を彷徨い続けている。あらゆる時代を目にしてきた。今の時代は、面白い物が沢山あって飽きないな」

 京が道に面した雑貨屋をチラリと見た。髑髏にナイフが突き刺さったネックレス。大きな目玉の指輪。わたしは思わず「可愛い」と呟いた。京が「ほう」とどことなく嬉しそうにする。

「お前はセンスが良いな。そのタイツも良く似合っている」
 京はわたしの一張羅、蛍光緑と紫の毒々しいタイツを褒めてくれた。本心だろうかと疑うが、彼の着物も大分個性的で派手である。わたし達は気が合うのかもしれない。もしここが普通の街で、わたし達が普通のカップルだったら、きっと楽しいデートだっただろう。

 わたし達は延々と街を歩き続けた。足は痛いし勿論怖い。それでも京と交わす決して多くは無い会話や、ふとした瞬間に見せてくれる表情が心地良く、この不思議な時間がもう少し続いても良いという気になっていた。道行く残留思念達にも見慣れてくる。……彼らの中には、京よりずっと昔から居るような原始的な格好の者も居た。永遠に彷徨い続けるなら、残留思念は増え続ける一方だろう。影の世界は飽和状態にならないのだろうか? わたしは当事者である京に、気を遣い言葉を選びながらそれを尋ねた。京は「それは無い」と言う。

「なんで?」
「影の世界にはアレが――ああ、噂をすれば何とやらだな」
 京は眼光鋭く交差点の方を見た。そこでは反転人間達が何か騒いでいる。わたしは不穏な気配に血の気が引いた。

(なに、あれ)

 人が竜巻の如く巻き上がる。いや、違う。何か巨大な生物の腕に捕まれ、大きな口で食べられている。ごくん、ごくんと、飲み込まれている。悲鳴を上げそうになるわたしの口を京の手が抑えた。

「静かに。アレは残留思念が生者の体を乗っ取り、適合しなかった末路だ。思念と魂がぶつかり合い、激しい防御反応が双方を壊して“鬼”と化す。残留思念も生者も問わず、魂が尽きるまで食らい尽くす化物になるんだ」

 ……ならアレの正体は、影の世界に迷い込んでしまった生者なのか。京に助けられなかったら、わたしもああなっていたのか。わたしは真っ黒でボコボコ歪な形の鬼を見た。詰め込み過ぎたゴミ袋みたいだ。そうか、アレが居るから残留思念は増え続けないんだ。

「気付かれる前にここを離れよう」

 しかし、遅かった。鬼はわたし達の方へ凄い勢いで這う様にやって来る。道路の真ん中を進むそれはブルドーザーの様だった。狂暴な手が振り下ろされ、京がわたしを覆う様に抱きしめる。鋭い爪が彼の背を破り、青色の血が飛び散った。

「京!」
 彼は苦し気に呻き、浅い呼吸をしている。鬼は二撃目を繰り出そうとしていた。わたしは彼に守ってもらいたいのか、彼を守りたいのか、必死に胸元にしがみ付く。その手に、京の大きな手が重ねられた。

「大丈夫だ。お前は俺が守る」
 京はわたしの手をそっと解くと、刀を構えて壁の様な鬼に飛びかかっていった。


 ――京は鬼の大木の様な腕を片方切り落とすと、鬼が狼狽えている間にわたしを抱えてその場を去った。わたし達は誰も居ない駐車場の隅で息を整えている。

「わたしの所為で、怪我……ごめんなさい」
「お前の所為ではない。お前を守るのは、俺のエゴだ」
 わたしはどこまでも優しい京に、目が溶けそうになった。この人は本当にわたしを大切に想ってくれている。身を挺して守ってくれる。この人を置いてわたしは帰るのだろうか? 誰もわたしを特別扱いしてくれないあの場所に?

「わたし、帰りたくないな……なんちゃって」
「安心しろ。お前をこのまま帰しはしない」
 わたしはその言葉に甘い意味合いを期待した。浮かれたヒロイン顔のわたしは、京に――首を掴まれる。(は?)

「暴れるな。手荒な真似はしたくない」
 苦しい。頭が真っ白だ。口をパクパクさせるわたしに、京は初めて見せる冷徹な顔をしていた。

「もうじき夜明け。薄明の刻は、現世と幽世の境界を曖昧にする。生と死が混ざり合う瞬間は、死者が生者に成り替わる絶好の機会だ」
 何の話か分からなかった。……いや、分かってしまう。残留思念達は生者の器を求めていると言っていた。京もそうなのだろう。だが適合しなければ恐ろしい鬼になってしまうのではなかったか。京はわたしの考えが文字にでも書かれている様に、それを読む。

「問題ない。お前は俺に適合している。鬼にはならない」
「何、で、そん、な事」
「俺はお前だからだ」
「……っ?」

「俺は、お前の前世。お前は俺の生まれ変わりだ」

 わたしは京の言葉を思い出す。彼はわたしを“前世で一番近くに居た、唯一無二の存在”だと言った。彼は前世の恋人などではなく、わたし自身。……わたしは彼と共鳴し合う何かを恋心と錯覚していたのだろうか?

 京は静かに語る。わたしが彼の享年と同じ年齢になり、器として完成するのを待っていたのだと。この世界にわたしを呼んだのは京だったのだ。わたしを奪う為に。わたしは自分の首と彼の手の間に指をねじ込み、何とか隙間を作る。言いたい事が山程あった。

「ど、して? これまでわたしのこと、助けてくれてたのに」
「大切な器に傷が付いては困るからな」
 京はそう言ってわたしに顔を寄せる。このドキドキは、喰われるという捕食者の恐怖だ。

「ああ……これが魂の温もり。懐かしい」
 恍惚とした声。額が触れ合い、彼がわたしの中に入ってきて、混ざり合う。わたしは彼の中で、知らない懐かしい光景を見た。


 ――遥か昔の日本の農村。いつか歴史資料館で見た風景が広がっていた。日照り続きで不作の村。村人達を励ます一人の娘。長い黒髪は澄んだ夜、白い肌は月光を思わせるその美しい娘……弥(あまね)は村の巫女だった。神に通じる不思議な力を持っており、彼女の薬はどんな傷でも癒す。何より彼女の笑顔が人々の心の安寧だった。村人は誰もが彼女を愛し、彼女も皆を愛した。しかしたった一つの愛を誓ったのは一人だけ。弥と京は固く結ばれた恋人同士だった。

 ある日、村に呪術師が現れる。老婆は言った。日照りは、弥の美しさに嫉妬した水神の怒りの表れなのだと。村人達は老婆の口車に乗せられ、弥を生贄と捧げる事にする。京は最後まで抵抗し、弥を連れて逃げようとしたが、老婆の呪術に操られた村人達に阻止された。全ては、村を支配する為に邪魔な巫女を処分しようとした、老婆の策略である。

『生まれ変わったら、必ずあなたに会いに行くわ』
 滝壺に身を投げる瞬間、弥はそう言って笑った。

 ……雨が降る。次の日も、次の日も、弥の死を嘆く様に雨は降り続けた。川が決壊し、村が飲まれていく。

(俺は、俺として生き返らなければならない。弥が会いに来た時、彼女を迎える為に。今度こそ二人で幸せになる為に)

 京の声が内側から響く。それはわたしの声でもある。わたしが一人の女性を愛し続ける憐れな男になりかけたその瞬間、場違いな音がした。

 コン、と小気味いい音。カランカランと青いコーラの空き缶が転がる。それは京の後頭部を殴っていたようで、彼は頭を押さえて後ろを振り返った。その隙にわたしは彼を振り解き距離を取る。

 京の向こうで、シャッとアスファルトを削る音。スケートボードに乗った少年がそこには居た。小学校高学年……中学生くらいだろうか? 少年は生きている人間の色をしている。

「誰だ? 邪魔をするな」
「あら、私が分からない?」
 少年がいくら中性的な顔立ちでも、流石にその口調には違和感があった。少年は肩に長い髪でも垂れているように、サッと払う仕草をする。京が息を呑んだ。

「久しぶりね、京」
「弥!」
 京は熱に浮かされた目で少年を見た。それはわたしに向ける目とはあまりに違う。わたしはこの期に及んで胸のどこかを痛めた。

「流石は弥だ。ちゃんと記憶を保ったまま、生まれ変わったんだな。待っていてくれ、今すぐ俺も、」
「駄目よ京。“私達”はあなたを止めに来たの」
「……何を言っているんだ?」
 京は自分よりずっと小さな少年に、戸惑った弱々しい顔をする。

「私はこの子に体を借りているだけ。悠(はる)、有難う。もういいわ」
 声変わり前の少年の声がもっと高くなる。少年の背中からぼんやりと、透き通った少女の姿が抜けて出た。煙の様に輪郭が曖昧なそれは、色の反転した残留思念とは明らかに違う。清らな光を纏っていた。少年が少女……弥を見上げ、疲れた顔で溜息を吐く。

「ねえ、京。今を生きるこの子達の邪魔をしてはいけないわ」
「折角見つけた器を諦めろと? お前は俺と生きたくないのか? 俺はお前以外、どうだっていいというのに!」
「そんなの、私だって同じよ。あなた以外はどうでもいいの」
 弥は甘く諭しながら、京に歩み寄る。彼女の細い腕が京の悲しい体を抱きしめた。

「私が愛しているのはあなただけ。その子じゃないのよ。私達の代わりなんて誰にもなれない」
「弥……」
「大丈夫。一緒に生きられなくても、今度こそ一緒にいきましょう。私が導いてあげる」
 京の目に穏やかな絶望が宿る。わたしは彼が弥を拒む事は無いだろうと思った。

「弥、行くの?」
 これまで黙っていた少年が、ようやく自身の言葉を口にする。

「ええ。悠、ずっと同居していてごめんなさいね。私の記憶は邪魔だったでしょう」
「別に」
「ふふ、そう」
 弥が慈しむ目で少年を見た。弥と少年の間には、二人にしか分からない何かがあるのだろう。わたしは、穏やかにそれを築く事の出来た二人が羨ましくなった。

「さようなら、どうか幸せにね」
 弥がこの世の者とは思えない綺麗な顔で微笑む。京は弥を強く抱きしめた。ほんの一瞬だけ彼と目が合ったが、もうそれきりで、京は最後の瞬間まで愛しい恋人を見つめ続けていた。弥がそっと何かを唱えると――二人の姿は朝靄の様に儚く消えていった。

「成仏、できたのかな」
 それは独り言のつもりだったが、少年は律儀に「多分ね」と返事をしてくれた。少年はスケートボードを小脇に抱え、わたしの隣に並んで白い空を見上げる。空は橙色に染まり始め、緑の雲が浮かび上がっていた。夜が明けるのだ。

「これからどうしよう?」
「僕に付いて来て。弥に帰り道を教えてもらってるから」
 自分よりずっと年下の少年の頼もしさに、わたしは恥ずかしくなった。颯爽と歩き出したその華奢な背に付いて行きながら、話しかける。

「君……悠くんは、弥さんに連れてこられたの?」
「悠人(はると)だよ。それもあるけど、僕は人を探しに来たんだ」
「え、こんな所に? 大変! その人は見つかったの?」
 少年は振り返り「うん」と薄く笑う。

「君を探していたんだ。久しぶり、前世の僕の愛しい人」

 少年の笑顔が朝焼けに透き通る。わたしは心が震えた。広い世界でたった一つの片割れを見つけ、魂が引かれ合う感覚。……少年は「それから、」と何かを思い出した様な複雑そうな顔をした。わたしは「え?」と首を傾げる。

「初めまして、お義姉さん。君のお母さんが心配して大変な事になってるよ」
「えっ!」

 この少年をどこかで見たことがあると思ったが、それは母に見せられた写真だったらしい。前世での恋人が義弟になるかもしれないなんて――どうなることやら。 inserted by FC2 system