【童話を追いかけて】


「ねえねえ。君はさ、キャリアプランってどう考えてる?」
「あの〜。先輩って結婚願望ありますか?実は来週の街コンの同行者探してて……」

 仕事に生きるバリバリキャリアウーマン。
 愛に生きる素敵なお嫁さん。
 30代独身女はそのどちらかになりたがっていると、周りは勝手に決めつける。

 わたしは、そんなものになりたくない。
 
 わたしは、不思議の国のアリスになりたい。



 *



『アリスになりたいの!』

 子供の頃にそう語ると、大人達は皆『カワイイね』と言ってわたしの頭を撫で、チョコレートや飴玉を握らせてくれた。しかし大人になってからそう語ると、呆れたように笑われるか冷たい目を向けられるだけになった。子供の頃と変わらないのは、誰も彼も本気に取り合わないということだけ。皆が変わらないから、わたしも変わらずに居た。

 23時40分、東京のとある一角。
「はあ」と溜息を吐き、わたしはクラクラする頭を冷たいガラスに押し付ける。電気の消えたショーウィンドーには、上品でスタイリッシュな都会的ワンピースを着こなすマネキン人形。その上にぼんやり浮かび上がる、野暮ったい女の顔。残業上がりの飲み会で、終電ギリギリまで解放してもらえず、大して美味しくない上に“飲んでも体が伸び縮みしない”面白味のない酒を飲まされ続けたその顔は、生気がなくげっそりしていた。

 職場の人々との交流が苦手で、飲みの席も出来るだけ回避してきたわたしだが、今日は自分がかつて教育係を務めていた後輩の昇進祝いということで、半ば無理矢理に参加させられてしまったのだ。大人が集まると碌なことを話さないからウンザリする。恋愛というほど綺麗ではない情欲の話や、それよりいくらかはマシだが、意識高い系の仕事に対するご高説。本当にくだらない。自分もそのくだらない一味なのだと、思い知らされるように感じる。

「気持ち悪い」と口を突いて出た言葉が、酔いによる吐き気からきたのか、別の何かに対してのものなのかは、自分でもよく分からない。背中の方で「大丈夫ですか?」と心配そうな声がして、わたしはガラス越しにその男を見た。

 大神くん。彼こそが今夜わたしがブルーでいる原因の、先輩を追い越して昇進したばかりの生意気な後輩だ。櫛を通したら抜けなくなりそうなモコモコの天然パーマ。色白なところと、いつも眠そうな目から、周りから“ヒツジくん”というあだ名で呼ばれている。“オオカミなのに羊”というところが面白いらしい。単なるいじられキャラかと思いきやそうでもなく、世渡り上手で、仕事ぶりは実に優秀。頼りになるがどこか油断できないような、食えない男だった。

「大神くん、なんでここにいるの?」
「あなたの具合が悪そうでしたので。歩けますか?電車、間に合います?」
 紺色のセットアップを着こなした大神くんが、わたしの隣に並ぶように立つ。ガラスに映るその上手く引き算されたシンプルな装いは、大人の品格がありとても洗練されたものに見えた。細フレームの丸眼鏡がまた何とも小洒落ている。ショーウィンドーの中のマネキンとお似合いな、都会的男性だ。

 対してわたしの格好は……この街からも、社会からも、少しずれている。
 白いパフスリーブのブラウスに、水色のジャンパースカート。ジャンパースカートはドレスみたいで好きだった。足元は白いレースの靴下に、クリアカラーのビーズミュール。このミュールはガラスの靴みたいでとても可愛く、一番のお気に入りである。髪にはパーマをかけて、リボンのカチューシャ……は平日は我慢している。

 聞こえの良い言葉で言えば『個性的』。裏では『年甲斐の無い恰好』と評されているだろうこの格好は、わたしの願掛けだった。このように、いつでも童話の世界に迷い込んでしまえるようなファンタジックな格好を心掛けていれば、いつか“迎え”が来るのだと信じているのだ。童話の世界で、現実的なデニムなんてもってのほか。スーツも絶対に駄目。不思議の国にミスマッチなものは身に付けないようにし続けてきた。

 ……30代のわたし自体がもう、ミスマッチなのだろうか。

「もう、遅いのかな」
「えっ?もしかしで終電、間に合いそうにないですか?」
 大神くんが的外れなことを言う。いや、的外れなのはわたしの方か。わたしは彼の相手をする余裕もなく、追い払ってしまおうと振り返った。そもそも何で彼がこんなところに居るんだ……女子社員に人気の彼なのだから、名前の通り“オオカミ”にでもなってしまえば良かったものを。

 振り返ったわたしを、大神くんらしい気怠そうな顔が迎えた。力の抜けたその目は、奥の奥に何か底知れぬ物を秘めている。彼の目は時々わたしにそう感じさせた。わたしはハッと息を呑む。勿論彼に見惚れた訳ではない。他の女子社員ならコロッと行くのかもしれないが、生憎わたしは教育係として、不器用で格好悪い彼の新入社員時代をよく知っているのだから。

 わたしの目を奪ったのは彼の向こう側。――そこにはチョッキを着た白ウサギが、懐中時計を手にして、二本の足で立っていた。それは子供の頃から何度も繰り返し読んだ物語の序章。不思議な物語が始まるきっかけ。

『さあアリス。君だけの物語を捕まえてごらん』

 頭の中で誰かがそう言った。

 わたしはこれが最初で最後のチャンスだと思った。童話の世界に迷い込める最後のチャンス。わたしは大神くんを押しのけてアリスよろしく駆けだした。大神くんが驚いたような声で「〇〇先輩!」とわたしの名前を呼んでいるが、いまのわたしはそんな名前ではない。アリスだった。

 踵の高いミュールでは思い切り走れず、竹馬のようにバランスを取るわたしはさぞ不格好だろう。アスファルトの上でカツン、カツンと鳴り響く足音だけが、刑事ドラマの逃走劇の様にイケていた。

 白ウサギは道行く人々の足の間を華麗にすり抜けていく。誰もウサギの存在に気付いていないようだった。わたしの存在だけが悪目立ちしている。背の低いウサギを見失わないよう、前屈みになりながらヨタヨタ走るわたしは、性質の悪い酔っ払いのように見えたのだろう。(現に酔っ払いなのだが)誰もがわたしを避けていった。

 白ウサギは一つ目の角を曲がり、路地裏に入る。わたしもそれを追いかけて路地裏に飛び込み……「うわっ!」……危なかった。入口にまだ乾いていない吐瀉物が撒き散らかされており、危うく踏んでしまうところだった。
 華の金曜日の風物詩に足止めを喰らっているわたしの目の前で、汚れの無い綺麗な足のウサギはニヤリとし、蓋の空いたマンホールの中に飛び込んだ。わたしは思わず「げっ」と声を上げ、足元のそれを飛び越え、慌ててマンホールの中を覗くが……そこにはほの暗い水の気配があるだけ。もうどこにも白ウサギの姿はない。この先が不思議の国に通じていたとしても、流石にここに飛び込む勇気はなかった。

 背後で「うわっ!」という大神くんの声が聞こえる。彼が付いてきているとは思いもしなかった。振り返らずとも、彼が先程のわたしと同じように足元のモノに驚いているのは手に取るように分かった。わたしが吐いたものではないよ、と言っておこうかと思ったが、そんな気力もなかった。

 折角のチャンスだったのに、わたしは白ウサギを逃がしてしまったのだ……。がっくりと肩を落として俯く。足元には真っ黒な自分の影。それはスポットライトを当てているかのようにくっきり、やけに鮮明に見えた。暗い路地裏で影がこんな風に見えることはあるだろうか?と不思議に思っていると、ジャンパースカート姿の影はぐにゃりと伸び、縮み、わたしとは似ても似つかない少年の形になる。帽子をかぶって、妖精を連れ、身軽に動き回り始める少年の影……

「ピーターパンだ!」
「は?」
 思い当たる名前を元気いっぱいに叫ぶわたし。引き気味の大神くん。わたしの回答は正解だったようで、揶揄うようにくるくる舞っていた影は一度こちらを見て、それから誘うように逃げ出した。白ウサギに逃げられたわたしは、今度はピーターパンを追いかける。もうアリスでなくてもいい。意地でも何かしらの童話を捕まえてやろうと思った。

 影少年は街中に飛び出す。街灯、自動販売機、広告トラック。様々な影を行き来して、鬼ごっこを楽しんでいるようにはしゃぎ回っている。わたしは何度かその影を掴む寸前までいったのだが、いつもあと少しのところですり抜けていってしまう。目がチカチカするような街灯りの下を、どこまでも軽快に飛び交うピーターパン。足の遅いわたしに油断したのか、ティンカーベルが目前までやってきて、小馬鹿にするように羽ばたきした。わたしは持てる力の全てを振り絞って、宙に浮かぶそれに飛びかかる勢いで手を伸ばし――くしゃり。わたしが握ったのはポケットティッシュだった。
 呆気に取られて手の中のポケットティッシュを見つめるわたしに「もう一つどうぞ〜」と軽薄そうな男がティッシュを渡してくる。渡すというよりは、指と指のスキマにねじ込んできた。もう一つと言っていたのに、あと三つ追加された。

 この鬼ごっこは、ティッシュなんぞに気を取られたわたしの負けである。影の少年と妖精は賑やかな繁華街にかき消され、もうどこにも居なかった。わたしはまたしても童話を取り逃がしてしまったのである。二度もチャンスがあったのにそれを生かせなかった。腑抜けな自分に、悔しさから涙がこみ上げる。わたしはいかがわしいチラシの挟まったポケットティッシュを開封して、涙を拭き、鼻をかむ。

 ああ、もう一回!どうかもう一回チャンスを下さい!と両手を組んで祈っていると、足元にささやかな気配。下を見ると、まん丸のおむすびがコロコロ転がっていた。おむすびころりん……きっとネズミの穴に落ちて、ネズミ達の御馳走になるのだろう。わたしはそれを静かに見送った。童話は童話でも、やっぱり好みというものはあるのだ。人のいいお爺さんにはなりたくない。お土産のつづらに興味はあるけれど。

「あれ〜?お姉さん、何か困りごとかな?お金の事なら仕事、紹介しちゃおっかな」
 ティッシュ配りの男が、わたしの肩に手を置き顔を近付けてくる。いきなり現実が迫ってきたような絶望的な気持ちになった。どうにか逃げなければと思うが、こういう時に限って体が上手く動かない。しかしわたしは念力でも使えたのか、男の手が肩から勝手に剥がれる。いや、違う……誰かがその手を払いのけたのだ。ティッシュ配りは舌打ちし「男がいたのかよ」と吐き捨てて去って行った。……おとこ?

「先輩、大丈夫ですか?」
 また、大神くんだ。まだ、追いかけて来ていたのか。わたしは泣いているところを見られたくなくて、下を向いたままでいた。おむすびが転がっていった跡に、艶やかな米粒が残っている。それを一羽の小鳥が啄んでいる。夜にもこんなに可愛らしい小鳥がいるのだな、とわたしは呑気に癒されながらそれを見た。見たこともないような綺麗な鳥だった。夏の青空が色移りしたような明るいコバルトブルー。幸せの青い鳥……。

「もう、突然走り出さないでくださいね?さあ、僕が送っていきますから帰りましょう」
 大神くんは手の付けられない子供を宥めるような口調でそう言った。そして彼の手がわたしのティッシュでいっぱいの手に優しく触れ――

「待って、幸せの青い鳥!」
 わたしの声に、大神くんは何か後ろめたいことでも見つけられたかのようにビクッとした。青い鳥も驚いて跳ね上がり、慌てた様子でバサバサ飛び去って行く。わたしは大神くんの行き場をなくした手にティッシュを押し付けると、青い鳥を追いかけた。今度こそ、捕まえてみせる!

 青い鳥を追いかけた先は、駅前の放置自転車の森。わたしはそこに小鳥の姿を見つけたが、小鳥は一羽では無かった。たくさんの色とりどりの小鳥が地面を啄んでいて、青い鳥は紛れて分からなくなってしまう。わたしは小鳥達を驚かさないようにそっと近付いて、少し離れたところから様子を窺った。青い鳥はどこだろう?この小鳥達は何を啄んでいるのだろう?……小鳥達の嘴の先を見ると、そこにあるのはパンくずのようだった。たくさんのパンくずが地面にばら撒かれ、ずっと先の方まで道のようになっている。

 ……パンくずの道案内。わたしは小鳥たちに食べ尽くされない内に、それを辿っていった。

 パンくずに導かれた先は、退廃的な雰囲気の高架下。そこは何故か甘い香りに包まれていた。少し進んだところには、やけに立派な段ボールハウスが建っている。いや、違う……よく見ればそれは、こんがり香ばしいバウムクーヘンの家だった。屋根はカラフルにアイシングされていて、柱はキャンディーバーで出来ている。敷き詰められたウエハースのレンガを、勿体ないなと思いつつザクザク踵で崩しながら、わたしはビスケットのドアに近付いた。チョコレートのノブを回して中に入ると、室内には外の何倍も甘ったるい、キャラメルとチョコレートをよく練ったような香りが充満している。

 ココアクッキーのテーブル、砂糖菓子の花瓶、飴細工の花。全てがお菓子で出来ている家の奥、スポンジケーキのベッドの上で、誰かが寝ていた。綿あめの毛布が山の様にこんもり膨らみ、誰かの呼吸に合わせて上下している。魔女だろうか?ヘンゼルとグレーテルには見えない……いや、そもそも人には見えない。
毛布を頭まですっぽり被ってはいるが、身体が相当大きいのか上と下からはみ出ている。マシュマロの枕にうずまっているのは、ぴくぴく動く大きな耳。反対で窮屈そうにしているのは、鋭い爪の大きな足。毛布に覆われた顔のあたりでは、大きな口がモゴモゴ動いているのが分かった。わたしは恐怖でじとっと汗ばみ、手がべたべたするのを感じた。……べたべたするのは、先程ドアノブをひねった時についたチョコレートの所為かもしれない。

 わたしが何も言わず、近付きもしないのに痺れを切らしたのか、布団の中の誰かが唸る様に囁いた。毛布の隙間からぎょろっとした目がこちらを睨む。

「どうしてこんなに耳が大きいんだと思う?」
「えっと……」
「どうしてこんなに目が大きいんだと思う?」
「それは……」
「どうしてこんなに口が大きいんだと思う?」
「……わたしを食べるためではない筈だわ!」
 わたしは赤ずきんにならないために、慌ててそこから逃げ出した。毛布の中から飛び起きた黒く大きなオオカミが、恐ろしい形相でわたしを追いかけてくる。童話を追いかけていたわたしが、童話に追われる羽目になるなんて……!

 わたしはお菓子の家を出て、長い高架下を抜けて、誰もいない夜道を走る。背後に迫りくる荒い獣の息遣い。わたしは振り返る余裕もなくただ逃げるしかできない。右足が地面に触れる度、針を刺すような痛みが走った。狼から逃げる途中、靴の一方を落としてきてしまったのだ。確かにガラスの靴のようなミュールだったが、こんなところまで忠実でなくてもよいのに。

「あっ!」
 わたしは足をもつれさせ、その場に転んでしまう。ザリザリと、アスファルトが肘や膝の皮膚を削り取る嫌な音が、骨を通して全身に響いた。痛い、痛い、痛い、怖い!

 すぐに逃げなくてはと思ったが、恐怖で縮こまった体は動いてくれない。そうしている内に獣の気配が、わたしを嬲り殺す様にじわじわ追い詰めてくる。わたしは亀が甲羅の中に閉じこもる様に、ぎゅっと目を瞑った。ああ出来ればひと思いに丸呑みにしてください……と祈りながら。

 その時、空間を貫くような、重く鋭い鉛色の音が響いた。耳をジンジンさせるその音はやけにリアルで、わたしがまだ生きていることを知らせてくれる。恐る恐る目を開け、音のした方を振り向くと――そこには路上に横たわる大狼と、猟銃を構える物騒な大神くんが居た。穏やかな眠りに誘う“ヒツジくん”が、わたしを悪夢から解き放つ。

「お、大神くん……それ、どうしたの」
「僕の獲物を横取りしようとするから、いけないんですよ」
 彼の言葉は何の回答にもなっていない。大神くんはわたしの知らない顔で誤魔化す様に笑った後、その猟銃を遠くへ放り捨てた。そして地面に座り込んだままのわたしの元にやってきて、膝をつくと、銃を持っていた方とは逆の手で何かを差し出す。

「これ、落としましたよ」
 それはわたしが落としてしまった“ガラスの靴”だった。彼はわたしを必死で追いかけてきたのか、息が小さく切れており、羊のような天然パーマは額にくちゃっと貼りついてしまっている。
 どうして、何をそこまで一生懸命に追いかけてきたのだろう?単なる職場の先輩を心配して追いかけてくるほど、彼はお人好しではなかった筈だ。

「どうしてわたしを追いかけてくるの?」
「人が誰かを追いかける理由なんて、そう多くはないでしょう」
 走って来たばかりだからか、彼の頬は上気している。彼もわたしが童話を追いかけたように、何かを手に入れたがっているのだろうか。

 わたしは、ここで王子様に掴まってお姫様になるのも良いかと思った。けれどそれでは……物足りない。狼に追いかけられるのは怖かったけれど、何かを追いかけている間は世界が目まぐるしくて、生きているという感じがして、とても楽しかった。だからまだ、追いかけっこを終わらせたくない。

 そうだ、今度はわたしが彼の夢物語になろう。彼の中で、わたしは念願の童話になるのだ。

 わたしは足の痛みなど忘れたように、すっくと立ち上がった。腕時計を見ると12時まであと僅か。最初の白ウサギ登場から20分も経っていない。もっと長い時間を過ごしていたような気がするが、不思議なことがたくさんあり過ぎて、それだけ気にするのもおかしな話だった。

 ――終電には間に合わないだろうから、今夜はまだまだ終わらない。

「いけない!魔法が解けちゃうわ!」
「は?」
 突然演技がかったセリフを言うわたしに、大神くんがポカンとする。わたしは走りやすいようにもう片方の靴も脱ぎ去ると、靴下で夜に駆けだした。

「さあ王子様!あなただけの物語を捕まえてごらんなさい」
 
 挑戦的に微笑む酔っ払いのシンデレラに、ヒツジの王子様は呆れたように溜息を吐いた。
inserted by FC2 system