【ドッペルゲンガーの行方-後日談-】



 ――颯が消えてから間もなく、通行人の通報により警察と救急車が呼ばれた。呆然自失状態のわたしは、警察官に何を問われたのか、何を答えたのか思い出せない。だが恐らく妙な事を口走ってしまったか、何も言えなかったのだろう。警察はわたしを疑っているようだった。しかしそれは、被害者の否定により解消される。……男が生きていたのだ。驚きと僅かな期待で、わたしは我を取り戻す。

 男は、自分そっくりの誰かに気が動転して、揉み合いになったのだと説明したらしい。それをわたしに伝えた警察官は“またか”という顔をしていた。『あなたは何かおかしなものを見ませんでしたか?』と尋ねられ、わたしは首を横に振る。もしかすると、ドッペルゲンガーが起因となる事件は多く、その存在は既に警察に知られているのかもしれない。

 わたしは男が検査入院から退院して、バイト先に復帰するのを待った。そして今、バイト終わりの彼とカフェで向かい合っている。ストーカー男に会うなど恐怖しかなかったが、彼は颯の本体なのだ。話を聞かない訳には行かなかった。

 男が生きているのに、颯が戻らないのは何故なのか。その理由も確かめなくてはいけない。

 男はいつもソワソワわたしを見て来た颯とは違い、こちらをチラリとも見ようとしない。わたしには男が颯の本体であるという事がまだ信じられなかったが、運ばれてきたコーヒーにたっぷりの砂糖とミルクを入れるところを見て、悔しくも颯を思い出してしまった。

「あの、僕……」
「話してください。あなたの知っていること、全部」
 あの夜は恐ろしい怪物のように感じていたが、明るい場所で面と向かい合うと、臆病な小動物みたいに頼りない男である。全然怖くない……少ししか怖くない。

 わたしの知ることは、ここに来るまでに話し終えていた。今度は男の話を聞く番である。

 男はどもりながら話し始めた。
 
 男は毎日コンビニに訪れるわたしに、密かに想いを寄せていたという。しかし人間関係が上手くいかず会社を辞め、アルバイト先でも先輩や客に叱責される日々に、彼の自己肯定感は地に落ちていた。わたしに声を掛けるどころか、目を合わせる事さえ出来ず、その想いは諦め捨てることにしたそうだ。

 そんな折、街中で自分と瓜二つの誰か……自分のドッペルゲンガーが、わたしと歩いているところを見かけてしまった。服装や雰囲気が違えどもドッペルゲンガーと分かるのは、わたしが一号と出会った時の感覚と同じなのだろう。
 男はドッペルゲンガーの情報をネットで見聞きし、恐ろしい噂だけを知っていた。危険な存在がわたしに近付いていると思ったらしい。そして、わたしがドッペルゲンガーに害されないよう、見張っていたのだという。あの日も颯からわたしを守ろうとしたのだと聞いて、わたしは自分のアイスティーをぶっかけてやりたくなった。だが……気持ちは、分かる。

 わたしも最初にドッペルゲンガーと会った時、自分が殺されるのではないかと恐怖を抱いたのだ。出会い方が違えば、彼の行動もこうはならなかっただろう。

「颯くんは……彼は、危険な存在ではありませんでした。優しくて、楽しくて、素敵な人でした」
 男はハッとしてわたしを見た。しかし目が合うと、またすぐに俯く。男の名前も颯なのだ。自分が呼ばれたと思ったのだろう。 

「結局、ドッペルゲンガーって、何なんですかね……」
「……切り離された心の一部。颯くんは、自分はあなたの恋心だと言ってました」
「僕、の?」
「そうです。ドッペルゲンガーは、分かれてしまった自分の一部。本体がそれを受け入れると、ドッペルゲンガーは消えてしまう」
「受け入れる……」
 わたしの言葉に、男は小さく首を傾げていた。しかしようやく意味が理解できたのか、その耳がほんのり色付く。彼のなりふり構わずわたしを守ろうとした行動の結果、颯は消えてしまった。彼が生きているのに颯は戻って来ない。つまりそれは、彼がわたしへの恋心を取り戻しているということなのだ。

 ……もしかすると、今自覚したのだろうか? わたしは今日コンビニで会った瞬間から、彼から向けられる熱に気付いているというのに。

 前髪の奥で泳ぐ瞳。男は甘いコーヒーを飲んで、ゴホゴホ咽た。
 ……見れば見るほど、その姿に颯を重ね合わせてしまう。彼はまるで、元気のない落ち込んだ颯だ。ちょっと世捨て人風の。……単純に彼を恨むことは出来そうにない。男はわたしから颯を奪った仇だが、颯と引き合わせてくれた生みの親で、颯自身なのだ。今日こうして向き合ってみて、確信した。颯はこの男の中に帰ったのだと。確かに男の中に彼の気配を感じるのだから。

 それでも、わたしは咳き込む彼に水を差し出さない。心配の声も掛けない。
 二人を同じとするのは、颯に不義な気がした。

 男はようやく落ち着いたのか、手で口元を抑えながら深呼吸する。そして、ポツリと言った。 

「僕……暗くてトロくて、何をしてもダメで」
「そうなんですね」
「……でも、あいつは違ったんですよね。僕が本体で、ごめんなさい」
 卑屈に頭を下げる男。わたしは流石に罪悪感が芽生えた。謝るくらいなら彼と入れ替わってくれればいいとも思ったが……この男の気持ちは、わたしにも理解できる。わたしは少しだけ穏やかに、そのつむじに話しかけた。

「わたしも最近、自分のドッペルゲンガーに会ったんです。わたしより可愛くて面白いと思える……そんなドッペルゲンガーに」
「……え?」
「最初は別人みたいだと思ったけど。ちょっと頑張ったり、素直になった先に居る、自分なんだなって思いました。ドッペルゲンガーを受け入れることは、自分を受け入れること。受け入れた今……前よりずっと、生きやすくなった感じがしています」

 彼の気弱な瞳が、おずおずわたしを見る。真っ黒な目に窓から陽が差し込み、明るく光った。わたしはそこに颯を見る。やっぱり彼は、ここに居る。

「僕……僕も、もう少し頑張れたら……その、また僕と、」
 男の言葉を最後まで聞かず、わたしは席を立った。わたしにはまだ悲しみに浸っている時間が必要だった。男が見覚えのある、捨てられた子犬の目でわたしに縋る。

「あ、そうそう。ドッペルゲンガーは、一人じゃないかもしれませんよ」
「え?」
「わたしは三人居たので。覚悟しておいた方がいいです」
「え、」

 わたしはカフェを出る。カランカランとドアベルが鳴った。

 彼が彼ならきっと、わたし達の道はまた交わるだろう。
 わたしはわたしらしく、その時を迎えよう。

 三人のわたしを背負ったわたしは、以前よりも遥かに身軽に、一人暮らしになったマンションに帰る。四十九日を過ぎても押し入れにしまわれたままの骨壺に、そろそろ会ってみようか。愛を知り悲しみを知った今なら、母に一人の人間として向き合うことが出来る気がした。 inserted by FC2 system