【ドッペルゲンガーの行方】
「ねえ、ドッペルゲンガーって知ってる?」
「自分とそっくりな人で、会うと死んじゃうってやつでしょ?」
「うん。でも死なないパターンもあるんだって」
「へえ」
「でもね。生き残った人はなり替わられて、以前とは別人みたいになるんだってさ」
……最近の子にしては随分とレトロなオカルト話だ。電車の揺れにまどろみながら、わたしは薄目で、前の席の女子高生達を見る。短すぎるスカート。色付きの爪。鞄には大きなぬいぐるみ。女子高生というブランドを振りかざした少女達が、恋愛話の延長のトーンでオカルト話に花を咲かせている。
どうやら最近、ネットでは“ドッペルゲンガー”が話題になっているらしい。芸能人やインフルエンサー等の著名人が、同じ時刻に別の場所で目撃されることが相次いでいるのだという。それに乗じた真相究明系の動画を、彼女達は一つのスマホで見ながら「ヤバーイ」「マジヤバ」と盛り上がっているみたいだ。
“ヤバイ”だけで意思の疎通が出来る彼女達は、同僚から影で『何を考えているか分からない』『話しかけにくい』と言われているわたしよりよほど優秀だと思う。彼女達が電車を降りると、人のまばらな車内は一気に静かに、暗くなった。この陰鬱さを醸し出しているのは間違いなくわたしだろう。全身黒の喪服姿。膝の上には明らかに骨壺と分かる風呂敷包み。さぞ悲壮感が漂っているに違いない。
――母が死んだ。
暴力を振るう父から逃れ、女手一つでわたしを育て上げた母。母は身に余る愛情を注いでくれたが、それは歪なものだった。父親の件ですっかり男性不信に陥った母は、わたしを女子高に通わせ、地味な服装を強いて、恋愛を禁じ、生涯一人で生きていける強い女になれと言った。自分のように男に苦しめられる道を歩ませたくなかったのだろう。厳しい監視と束縛を疎ましく感じるも、育てて貰った恩で拒むことが出来なかった。
その結果が、今のわたしである。ボーイッシュといえば聞こえの良い地味女。『泣くな。弱みを見せたら付け込まれる』という教えを忠実に守った結果、母の葬儀に一滴の涙も流さない非情な人間になってしまった。
母が居なくなって、悲しいとも解放されたとも思わない。ただ虚しさだけが広がっている。わたしは膝上のそれが重く感じ、隣の空席に置いた。……目的の駅に着く。何となく、何気なく、わたしはそのまま電車を降りた。
「ま、待って下さい! 忘れ物ですよ!」
よく通る男の声に、わたしはぎょっとして振り返る。発車する電車から慌てて降りて来たその若い男は、余所様の骨壺を大事そうに両腕に抱えていた。後ろめたさと、よくそんなものを抱える気になるなという感心を隠し、わたしは礼を言って故意の忘れ物を受け取る。……用は済んだ筈だが、何故か男は去らない。
「あ、あの。今お時間ありますか? もしよければお茶でも!」
「キャッチも宗教も間に合ってます」
「いえ、ナンパです! あ、ナンパといっても硬派なナンパというか」
ナンパ? このわたしに? とても信じられず、わたしは男をまじまじ見た。
スラッとした長身に、ふわりと空気を孕んだ癖のある茶髪。洒落た赤縁眼鏡の奥には、人懐っこそうな垂れ目が懇願するようにこちらを見ていた。女性に困ることの無さそうな外見の彼が、何故こんな地味女(しかも喪服姿)に声を掛けるのか分からない。
「本気なんです! 一目惚れで! ……駄目ですか?」
まるで捨てられた子犬の彼は、母の言う“暴力的で不潔で裏切る生き物”とは別物の気がした。わたしはつい「お茶だけなら」と了承してしまう。まあ、一言二言話せば彼もわたしへの興味を失うだろう。
――葬儀から一月。彼……霧島 颯(きりしま はやて)は、まだわたしに失望していないようだった。わたし達は連絡先を交換しなかったが、街や駅でいつも偶然に出会う。そして他愛のないお喋りをした。颯はわたしより少し年下で、ブラックコーヒーが飲めなくて、古い映画が好き。照れ屋なその目は、見つめるとよく泳ぐ。可愛げのある男だった。一般的に見て魅力的な彼が、いつわたしに飽きるのかと考えながら、わたしはその時が来るのを恐れている。
(わたしが彼に釣り合う人だったら良かったのに)
わたしの日常に起きた変化は、彼の存在だけではない。最近、人から妙な視線を感じる事が増えた。駅で、会社で、人々が訝しむようにわたしを見る。毎朝寄っているコンビニでも、いつも陰気に俯いているバイト店員に目を瞠られてしまった。上司からは「この間、駅前のバーに居なかったか?」と全く心当たりの無い事を言われた。一体何だというのだろう。
夜八時。人の減ったオフィスに、今しがた帰ったばかりの同僚が戻ってきてわたしを呼んだ。
「下で妹さんが待ってますよ! 用事があるそうです」
「……妹?」
一体、誰の? わたしは一人っ子である。
「妹さんとそっくりなんですね! 双子だったりしますか?」
何故かテンションの高い同僚を軽く流して、わたしは早足でエレベーターに向かう。
わたしに瓜二つの他人。それは一体何者なのか。わたしの脳裏に数日前の女子高生達の会話が蘇る。……ドッペルゲンガー。下らないとは思いつつ、それを振り切ることは出来なかった。
一階ロビー。その女はわたしに気付くと、明るい笑みで大きく手を振った。ピンクの花柄ワンピ―ス。小さすぎるバッグ。華やかなメイクに、手入れの行き届いた巻き髪。全くもってわたしではないが、完全にわたしだった。顔も背丈も体型も、もっと本質的な部分も。理屈ではなく本能で、わたしは彼女がわたしだと知った。
まさか、こんなオカルトが実在するなんて。彼女が本当にわたしのドッペルゲンガーだとしたら、何故わたしに会いに来たのだろう。噂では会うと死ぬか、なり替わられるかだ。
リボン付きのパンプスをコツコツ鳴らして、女が近付いてくる。
「こんばんは。あなたのドッペルちゃんでーす」
緩く甘い声は、まるで録音した自分の声。得体の知れない存在に硬直するわたしの手を、女が掴む。自分で手を組んでいるように、二つの手はぴったりフィットした。彼女は強引にわたしを外へと連れ出す。信号機と車のイルミネーションが眩しい。
「……あなた何? 何が目的? わたしを殺しに来たの?」
「は? 何でよ。わたしはあなた自身なのよ?」
「わたし、自身?」
「ええ」
女は頷き、ごく軽い口調で語り出す。
――ドッペルゲンガーは、人間の切り離された心の一部。例えばそれは夢を諦めた人の、夢を追う心。自分を偽り生きる人の、人には言えない本性。心や生活、何かを守る為に切り離した一部が、別個の人格を持ち具現化した存在。それがドッベルゲンガーだという。ドッペルゲンガーは実体はあるが心臓はなく、本体の近くでなければ存在できないらしい。
ドッペルゲンガーは昔から存在していたが、近年増加傾向にあるそうだ。現実とオンライン、会社と家庭。多面的な生活になればなる程、心は分かたれやすい。そうして生まれてしまったドッペル達は、情報や知識を共有し合い本体を守る為に隠れて生活している。ドッペルゲンガーに遭遇した人間は、自らが諦めた可能性の姿に嫉妬し、絶望し、命を絶つこともある為、彼らは身を潜めるのだ。
「全く信じられない。それが本当だったとして、わたしに会いに来たのは何で?」
「あなたに会いたかったから」
「だから何で」
「今のあなたには、わたしが必要だと思ったから。最近、何か心境の変化があったんじゃない? ……彼、いい人よね」
彼。それで思いつく人物など一人しかいない。何故彼女が颯を知っているのだろう。
「優しくて誠実そうで。お母さんの言っていた男の人とは大違いだわ」
「もしかして彼に気があるの? それでわたしになり替わって、彼に近付こうとしてる?」
「だったらどうする?」
ピンクのルージュがキュッと弧を描く。カールされたまつ毛がパチパチ瞬くのを見て、わたしは負けたと思った。
「……仕方ないかもね。彼も、あなたみたいに可愛くて明るい方がいいだろうし」
「は? 本気で言ってるの? ……あーもう! 我ながら重症ね! もっと自分を大切にしなさいよ」
女は形の良い眉毛を釣り上げてわたしに詰め寄った。
「可愛くて明るい方がいいって思うなら、そうなればいいでしょ!」
「いや無理」
「無理じゃない。わたしがそれを証明してるでしょ? ほら、行くわよ!」
女はわたしの手を握り、有無を言わせず夜の街に飛び込んだ。閉店間近のショッピングセンターで似合いそうもない服を合わせられ、大量の化粧品を買わされ……生クリームたっぷりのクレープを頬張って、タピオカドリンクで乾杯し、人気のない公園でブランコを漕ぐ。
驚きも疑心も全てが疲労に変わり……その先に、妙な気持ちが湧いてきた。顔の同じ三十路女が二人、何をはしゃいでいるのかと思ったら、笑いがこみ上げてくる。
「ふふっ! 何なのあなた、本当にわたし? なんか滅茶苦茶!」
「滅茶苦茶、なに?」
「楽しい。ヤバイ」
「ヤバいよね」
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
彼女はブランコから降りて隣にやってくると「良かった」とわたしを抱きしめる。人との接触は苦手だったが、彼女に触れられると心地良くて安心した。抱きしめ返そうとしたその手は、彼女の背をスルリとすり抜ける。……彼女の姿が、半分透明になっていた。
「どうしたの!? 体が、」
「大丈夫、心配しないで。これはわたしが望んだことなの」
「……え?」
「ドッペルゲンガーは、本体に受け入れられると消える。わたしはようやく、あなたに帰れるんだわ」
可愛く楽しい友人が、夜色の靄となり消えていく。……違う。わたしの中に戻っていく。わたしは自分の中の空白が、温かな何かで埋まるのを感じた。
突然現れ、突然消えた彼女。彼女の目的が、彼女と一体化した今のわたしにはよく分かった。彼女はわたしが捨てた“可愛い女の子”の形。わたしの変化を後押ししに来たのだろう。もっと一緒に遊んでいたかったが、寂しくはない。だって彼女はこれからも、ずっとここに居るのだから。
――その日から、わたしは変わった。お洒落の楽しさを知り、人との交流に前向きになった。ドッペルゲンガーに出会った人々が以前と変わって見えるのは、本来の自分を取り戻したからなのかもしれない。
「最近、雰囲気変わりましたよね」
給湯室で先日の同僚に声を掛けられる。
「前も格好良かったですけど、今の感じも素敵です!」
最近知った事だが、彼女達はわたしをつまらない地味女として避けていたのではなく、ミステリアスな王子様扱いして遠巻きに眺めていたらしい。世界は思っていたよりずっと優しかった。
「もしかして恋ですか?」
「そ、そんなんじゃないですよ!」
同僚の言葉に、颯の顔が思い浮かんでしまう。つい先日のカフェでの出来事も思い出された。
『ちゃんとしたデート、しませんか』と差し出された水族館のチケット。戸惑うわたしの手にそれを握らせ『次の日曜十三時に、駅前広場で!』と返事も聞かずカフェを飛び出してしまった彼。
……彼に惹かれているのは事実だ。だが素直に嬉しいとは喜べない。自分に恋愛が出来るとは思えないのだ。男は悪だと刷り込まれ続け、異性との関わりを断たれた少女時代を過ごしたわたしには、恋愛が分からない。デートなんて無理だ。優しい彼に、これ以上気を持たせてはいけない。でも、でも……と悩んでいる内に、あっという間に日曜日はやって来た。
待ち合わせ時間の三十分も前から物陰に潜み、それより前に来ていた彼を覗き見る。出ていく勇気が出ない。出て行って、どうしよう。やっぱり今日は行けないとチケットを突き返す? こんなにめかし込んだ格好で?
もうじき約束の時間になる。わたしは深呼吸し、小さな一歩を踏み出し……かけて、慌てて引っ込めた。颯の元に駆け寄る女の姿を見つけたからだ。サッと全身から血の気が引いていく。
また、わたしのドッペルゲンガーだ。
「颯くん、見て下さい! このイルカのぬいぐるみ可愛い!」
「も、もしよかったらプレゼントしますよ!」
「本当? やったー!」
お土産ショップで、カップルが仲睦まじげにしている。両手を胸の前で組み、小首を傾げて彼を見上げる女の、わざとらしく媚びる視線に吐き気がする。恋愛脳で、男に依存する、下品な女! とわたしの中の母が彼女を罵った。……分かっている。これはただの嫉妬だ。
二人の体が触れ合う度、息が出来なくなる。彼と水族館を巡り、初デートの思い出を作っていくあの女。許せない。これ以上勝手はさせない。
「ちょっとお手洗いに行ってきます」と彼の傍から離れた女の腕を掴み、力任せに非常階段に連れ込んだ。暴れられたり悲鳴を上げられては面倒だと思ったが、女は全て予想していたかのように大人しい。
「もう何よ。折角のデートだったのに」
「それはこっちの台詞! あなた何なの!?」
「ヤダ、もう知ってるでしょ? わたしはあなたよ。ドッペル二号ちゃん」
「一体何人居るのよ……」
わたしは頭が痛くなった。
「わたしはあなたの“諦めた恋”の形。ねえ、邪魔しないで? わたしが居れば彼は幸せだし、わたしも彼が好きだもん。あなたは恋なんてしたくないんでしょ?」
「それは、」
「今日はどこまでいけるかな? 颯くんは奥手そうだから、わたしからキスしちゃおっかな」
「まだ手も繋いでないのに!?」
「恋は夜にかけて加速するのよ」
ルンルンと軽快なステップで戻ろうとする彼女を、わたしは慌てて羽交い絞めにする。
「待って! 分かった、分かったから! わたしが行くから!」
ドッペル二号はわたしを揶揄うものの、彼女からも一号と同様に悪意を感じない。彼女達の視線は優しさに満ちているのだ。きっと二号もわたしの為にやって来たのだろう。
わたしと同じ顔はちょっと残念そうに唇を尖らせて「ちゃんと素直になりなさいよね」と言い残し、わたしの中に帰っていった。
「……お待たせしました」
「お帰りなさい。あれ? さっきと服装違いませんか?」
「ええっと。お手洗いの帰りにアシカショーに巻き込まれて、びしょ濡れになって、着替えたんです」
「そ、そんなことが!? 大変でしたね」
彼が悪い人に騙されないか心配だ。ぬいぐるみを吟味する彼の隣に、わたしはぎこちなく並ぶ。
「イルカのぬいぐるみ、サイズが色々ありますよ。どうしますか?」
「えっと……やっぱり、サメにしても良いですか?」
「あ、サメも可愛いですね!」
ニコニコと一番大きなサメを抱える颯。この笑顔を向けられたのが自分で良かった、と思った。
二人も現れたドッペルゲンガー。この世界に自分と似た人は三人居るというが、ドッペルゲンガーもそうなのだろうか? そんな思考に耽りながらコンビニを出るわたしの腕を、誰かが掴む。「うわっ」と腹の底から本気の悲鳴が出た。わたしを捕えるその人物は、毎朝のようにレジで見ている暗いバイト店員である。長い前髪の奥、血走った目がわたしを見下ろしていた。
「な、何ですか!?」
「……あなたの傍に居る、あの男。あいつから、離れて!」
くぐもった声にただならぬ物を感じ、わたしはその手を振り払って逃げ出した。恐ろしい妄想が駆け巡る。……彼はわたしのストーカーで、わたしが最近颯と仲良くしている事を知り、嫉妬で逆恨みしているのかもしれない。金輪際このコンビニに近付かないようにしようと思った。
しかしその日以降、わたしは四六時中誰かの視線に付き纏われるようになる。
「そういう事は、もっと早く相談して下さい。これからは毎日送り迎えしますよ」
三度目のデート。心配した颯に付き添われ、わたしは帰路についていた。
「いや、流石にそこまでしてもらう訳には……」
「僕が、そうしたいんです」
唐突に立ち止まった彼。わたしは颯の怖いくらい真剣な瞳に、目が離せなくなった。
「僕はあなたの為なら何でもしたい。あなたをずっと守りたい。僕はあなたが……」
彼の言葉が途切れ、視線がわたしから外れる。その顔はわたしの後ろを見て、凍り付いていた。
――暗い道の先、一人の男が立っている。長い前髪の奥に見え隠れする、陰気な目。あのストーカー男だ! 男は猫背の怒り肩で近付いてくると、鼻息荒く颯に掴みかかった。
「お前は誰なんだ! 化物! 彼女に近付くな!」
「そ、それはこっちの台詞だ! 彼女に付き纏うな!」
二人は激しく揉み合いになる。颯はわたしに逃げろと言ったが、わたしは恐怖ですっかり足が竦んでいた。
(そ、そうだ、通報しなきゃ)
指先までガチガチでスマホが上手く打てない。もどかしさに苛々していると――鈍い音がした。地面に仰向けに倒れている男。立ち尽くす颯。颯が男を突き飛ばしたのだろうか? アスファルトに頭を打った男は……ぐったり動かない。
颯の背は小刻みに震えている。
(大丈夫。これは正当防衛なんだから。颯くんはわたしを守ってくれただけ)
わたしは彼を安心させようとその背に手を伸ばした。しかし、そこに彼の温度を感じる事はない。彼の体の向こうには、地面に広がる血溜まりが透けている。……わたしは覚えのある光景に愕然とした。
颯は「ああ」と沈んだ声を漏らす。彼の目線の先には、長い前髪が横に流れて露わになった男の顔。外灯に青白く照らされたそれは、颯によく似ている。
「なんで……颯くん、どういうこと?」
「……隠していてごめんなさい。僕はこいつの……あなたへの“恋心”のドッペルゲンガーなんです」
颯はわたしの方を見ずに、そう言った。
彼がドッペルゲンガー? そんなの信じられる筈がない。颯は戸惑うわたしに構わず、まるでもう時間が無いとでも言うように早口で語った。
彼はわたしと初めて会ったあの日、すぐにわたしが恋の相手だと気付いたという。自分の正体を知っている彼は、最初はわたしに接触する気はなかったらしい。が、どこか寂し気に見えたわたしに衝動が抑えられず、思わず声を掛けてしまった。そうしてわたしと彼の、表と裏の道が交わってしまったのだ。
「あなたと居ると、まるで自分が生きているみたいで。もしかすると僕が本体なんじゃないかって、思い上がったりもして……」
彼の悲痛な声に心が捩れる。
「ストーカーが僕の本体だなんて知らなかった。本当に……どこまでクズなんだこいつは! こんな陰気で愚図で仕事も出来なくて、好きな人に声も掛けられない奴が、なんで本体なんだ。なんで僕がドッペルゲンガーなんだ!」
いつも穏やかな颯が激情に溺れている。彼は男の顔に拳を振り下ろすが、それは虚しくすり抜けてしまった。悔し気に悪態を吐く颯の姿は、刻々と薄れている。
わたしはドッペル一号が言っていた事を思い出した。ドッペルゲンガーは本体の近くでなければ存在できないという。ならばもし、本体が居なくなれば? その時もまた、彼らは……。
「どうすれば、颯くんを助けられるの?」
わたしの問いに、彼は泣きそうな顔で振り返った。
「ごめんなさい。悲しい思いをさせて」
「謝らなくていいから……消えないで」
颯の手がわたしの頬に伸びる。そこにはもう何も感じ無い。たった数時間前には手を繋いでショッピングモールを歩いていたのに。次は遊園地に行きたい、なんて話していたのに。彼に送ってなんて貰わなければよかった。一時間……たった十分でもいいから、時間を戻して欲しい。
彼の両腕がわたしの周りを優しく包んだ。
「好きです。生まれた時からずっと、あなたが好きです。ずっとあなたに会いたかった。……あなたと一緒に居たかった。あなたと生きたかった!」
彼の瞳から流れる涙。こんな時でも、母の呪縛に囚われたわたしの目は涙を思い出さない。泣きたくても泣き方が分からないのだ。
その時、夜道に足音が響いた。見知った女の姿に、わたしは驚かない。
「もう分っているわね。わたしはあなたの最後のドッペルゲンガー。あなたが失った“涙”の形よ。受け入れれば、辛く苦しく悲しいけれど、いいわね?」
「……早く、戻って来て!」
大切な人の為に涙を流せないなんて、それ以上に辛い事などありはしない。
ドッペル三号はこちらに歩み寄ると、その手でわたしの目を覆った。彼女の手が触れた瞬間、鼻の奥がツンと沁みる。目が熱くなり、顔の筋肉が強張る。自分の中で暴れていた感情がようやく出口を見つけたのだ。
「僕の為に泣いてくれて……ありがとう」
初めてのキスは、触れることのないキスだった。
彼の姿が夜闇に溶け込み、見えなくなる。大人の上手な泣き方を知らないわたしは、子供のように大きな声を上げて泣きじゃくった。