【よくある悪役令嬢が転生で改心し正ヒロインと立場逆転ハッピーエンドで満足ですか?】(後編)



 神殿の裏の湖で、リリーはサクラを待つ。人を疑うことを知らないサクラなら、自分の呼び出しにも難なく応じるはずだ。そんな彼女の危機管理能力の低さ……いや、姉に対する無償の愛に、自分はずっと甘えていたのだと、リリーは自らを省みる。

 彼女に自らの醜い胸の内を明かしてしまい、謝罪し、許しを請おう。例え許されなかったとしても……。いや、違う。聖女の彼女なら、許しを与えてくれると信じているのだった。

「リリーお姉さま、何かご用でしょうか?」
「サクラ。聞いて欲しいことがあるの」
 久しぶりに正面から見たサクラの顔は、美しすぎて無機質に、恐ろしく見えた。きっと自分の中の恐怖心がそう見せているだけなのだろう。彼女は愛らしい天使なのだから。

 さあ認めよう、自分の非を。彼女を羨み恨んでいた自分を、捨て去ろう。
 悪女の鎖から解放されよう。

 リリーは幼い頃から誰にも話すことのなかった心情を、赤裸々に語った。そして、黙ってそれを聞き続けるサクラに、深々と頭を下げた。彼女が聖女であるからか、その一連の出来事は神殿での懺悔のように感じられた。そしてやはり懺悔のように、神は何も語らない。

 だがその小さな手が、下を向いたままのリリーの頭にさっと触れる。そしてその美しく優しい聖女の手は――その髪を、力強く引っ張り上げた。
 リリーは予想していなかった傷みに小さく呻く。

 強制的に顔を上げさせられた先では、サクラが自分を睨んでいる。
 轟轟とその瞳に燃える何か。意を決したような顔。その様子には、溜まりに溜まっていた何かが遂に堰を切ってしまったような、喪失感と爽快さがあった。切れたのは堪忍袋の緒かもしれない。彼女も不出来な姉に、ずっと思うところがあったのかもしれない。

「いけないわ、お姉さま」
「サクラ……?」
「リリーお姉さまは、愚かで弱く醜くなくてはいけないの。私が愛されるために、嫌われ役で居てもらわなくちゃいけないの。一人前に非を認めて、許しを請うなんて、偉そうにしてはいけませんわ」

 リリーは目を、耳を疑った。

 ああ、この物語はやはり生き返りではない。
 別の世界線に、別の妹の姉として転生してしまったのだろう。そうとしか思えなかった。


 そこからは以前と立場が逆転したようだった。サクラは人目を避けて度々リリーに嫌がらせをし、暴力と暴言で彼女を弄んだ。元はといえば自分が蒔いた種なのだとろくに反抗できないリリーに、サクラの行動はエスカレートしていく。

 極めつけは、父親である神殿長の権威を利用してのユリウスとの婚約だった。リリーの恋心は一度咲いてしまっただけに、それは以前の失恋よりも耐え難いものだった。二人に向けられる人々の祝福もリリーを一層苦しめ、彼女はどこか遠くへ姿を消してしまおうかと思ったが……しかし、当のユリウスはサクラとの婚約を受け入れなかった。

 驚く人々と怒り狂う神殿長の前で、自分に愛を誓った誠実な恋人の姿を、リリーは生涯忘れることは無いだろう。そして、そんな自分たちを憎悪の目で見る妹の顔も忘れることは無いだろう。

 そこから先の展開は、恐らくどこかで予想していた。

 サクラは異国の禁術を用いてリリーを呪い殺そうとし、リリーを守る彼女の聖騎士によって呪いを返され、倍増した死の呪いに身を蝕まれた。禁術に手を染めたこと、嫉妬から姉……命の恩人である養父の実娘を手にかけようとしたことで、彼女は呪いで残り少ない生を、地下牢で孤独に過ごすこととなる。



 *



 遠い遠いいつかのあの日、小さな少女が泣いている。
 怖い、寂しい、ひとりぼっちだと、自らの境遇を嘆いている。

「大丈夫よ、ここにいればお父様が守ってくれるわ。もう安心していいのよ」
「……おねえちゃん、だれ?」
「わたしはリリー。あなたのお名前は?」
「わたし、おぼえてない……なまえ、わからない」

 そういって、幼い少女は更に泣きじゃくる。おねえちゃんと呼ばれたもう一人の少女は、慣れない呼ばれ方にくすぐったそうにしながら、ぎこちない手つきでその頭を撫でた。

「なら、すてきな名前を付けましょうよ。そうね、サクラなんてどう?」
「サクラ?」
「ええ。東の国に咲く、とても美しい花の名前なんですって」

 わたしの名前も花の名前だから、お揃いね。

 そう言うと、目を真っ赤に腫らせた少女――サクラは、嬉しそうにくしゃりと笑った。



 *



 わたし達にもあんな時代があったのを、忘れていた。いつから、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 リリーは地下牢へ続く階段を下りながら、昔の自分とサクラを思い出していた。一段、また一段下りる度、体も心もずしりと重くなる。捕えられたサクラに会いに行くのは、これが初めてだ。

 地下牢では時間が分からず、正確に覚えていないが――恐らくそろそろ、前世で自分が命を落とした頃の筈。彼女の最期を見届ける義務が自分にはあるように思え、一人ここに来たのである。

 地下牢には、見張りの兵士が一人居るだけだった。牢の中で死んだように横たわる姿にぎょっとするが、一介の兵士が呪いを受けた者に手を上げるとは思えない。充分な世話はされていないかもしれないが、少なくとも“彼女も”暴力は受けていない筈だ。
 兵士に許可を取り、少しの間だけ離れていてもらう。姉妹二人きりで話がしたかった。

 檻越しにその名を呼ぶと、ぼろ雑巾の様だったそれが蠢く。骨が浮き出るほど細い腕を使って、ようやく起き上がったその顔は――生気がなくともやはり美しい。青白い肌、落ちくぼんだ目は愛らしいとは言えないが、奇妙な艶めかしさがある。天使だった少女は魔女になっていた。

「サクラ……」
 大丈夫かと尋ねるのはおかしな話だ。なら何と声を掛けるべきなのか。リリーにはその名を呼ぶことしかできなかった。サクラは乾いた唇を小さく動かす。

「お姉様と、話すことは、ないわ」
 彼女の口から、掠れた声が絶え絶えに漏れ出た。リリーは痛ましい彼女の様子に閉口する。まるで過去の自分を見ているようで、直視するのが辛かった。だが顔を背けることもできない。

「……わたし達、どうしてこうなってしまったのかしらね」
 リリーは悲し気に、妹の顔を見る。善人ぶった同情心は、以前彼女に言われたように“偉そう”だと思った。本当なら自分こそが、この薄暗い地下牢で死を待っている身だったというのに。それが何故、この美しい娘が入れ替わるようにして牢の中に居るのか。何故この世界線では、彼女が悪女になっているのか。

 どう考えても、外見も実力も背景も、幸福なヒロインたるべきは彼女であるというのに。

 リリーはこみ上げてくる名状しがたい感情に、涙を滲ませた。

 今生でわたしは幸せになることができて、原因だったサクラを排除することができた。だがそれでめでたしめでたし、と思うことなど出来ない。これは安全な立場にいる者特有の、余裕から生まれる偽善だろうか?

 こんな自分をサクラは嘲笑うだろう、もしくは不快だと罵るだろう。しかし実際は、そのどちらでもなかった。リリーは目を見張る。

 涙で滲む視界の中で、サクラは本来の彼女らしい慈愛に満ちた微笑みで、自分を見ていたのだ。


「これで、いいのよ」


 その涙声には、聞き覚えがあった。

 これは自分は死んで、生まれ変わる前に聞いたあの声。

 ああ、何故、何故今まで忘れていたのだろうか?


 ――その瞬間、リリーは全てを思い出す。


 自分が死んだのは、一回だけではないこと。
 何度も死んでは、何度も生まれ変わりを繰り返していることを。


 多くの場合、リリー・イーヴルは嫉妬に狂う醜い悪女として、悲惨な最期を迎えた。

 しかし他のパターンもあった。サクラがリリーと和解しようと歩み寄り、時にはユリウスとの仲を取り持つように立ち回った時。または今回のように、自分が彼女を憎むことをやめた時。
 だがそのいずれの世界線でも――やはり自分は死んでいる。病で。事故で。自分以外の新しい悪女の存在によって。いずれも自分は、大体今くらいの時期までに、命を落としている。

 頭がぐらぐらして、喉がカラカラに貼りついた。

「どういうこと……?サクラ、あなた何か知ってるの?」
「わたしの、力不足かしら……思い出してしまったのね」
 そう言ったサクラの手の平には、複雑な文様が浮かび上がっている。聖なる力を用いる術式だ。力も学も無いリリーには、そこに何が描かれているのかは分からない。

「あなたが何かしたのね?わたしを何度も生まれ変わらせたのはサクラ、あなたなの?」
「もう、いいのよ。これが最後の世界だから」
「教えて、ねえ、サクラ!」

 知らなければ。このまま彼女を死なせてしまっては、本当に取り返しのつかないことになってしまうような気がして、リリーは必死で彼女の名を呼んだ。ボロボロの妹に縋るように、檻の中に手を入れて彼女の骨ばった手を握る。サクラは弱弱しく目を伏せると、リリーだけにようやく聞き取れるくらいのごく小さな声で、世界の真実を口にした。

 この世界にとって“悪女役は必要悪”なのだと。

 実際それは声になっていなかったのだろう。
 神力を使う彼女と触れ合っているからか、リリーはサクラの声が内側から伝わるのを感じた。そしてサクラの思考も、流れ込んでくるかのように理解できた。

 世界にとって、悪女は必要な存在。その役目を持って生まれたリリーは、その役を果たせない時に強制退場させられる。
 サクラは自らの力で何度もその展開を変えようとしたが、姉の死という結末を変えることはできなかった。何回、何十回とその結末を見届けた彼女は、やがて一つの答えに辿り着く。

 この世界は、悪女に打ち勝ったヒロインとヒーローが結ばれる物語だ。
 それが覆らないのなら、幸せの枠数が決まっているのなら。
 悲劇の姉にヒロインの座を譲るしか、彼女を救う方法はないのだと。

 一人ぼっちの自分に花の名前をくれた、たった一人の姉。
 ヒロインの幸せを感動的に演出するためだけに物語の犠牲となった彼女。彼女を救うには、その他に道はないのだと。

 サクラを通して真実を理解したリリーは、ただ涙を流しながら彼女を呆然と見ていた。
 どうして彼女はこんなにも優しく、強く、愛に溢れているのか。弱く愚かな姉の所為で苦しんだ事もあっただろうに、まるで天上の神のように、侵しがたい清らかさで愚かな自分を見守っている。

 言葉にならない声が、声にもならない嗚咽が、彼女との残り少ない時間を浪費していく。サクラは幼い頃に自分がされたように、彼女の白い頭を撫でた。

『この展開を、疑ってはダメよ。物語に異分子だと思われると危険だもの』
 声で紡がず、サクラは直接心に語り掛けてきた。それが彼女の最期の言葉になる。

 サクラは幸せそうな穏やかな顔で、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。



 *



 元より肌寒かった地下牢は、一つの灯火が消えたことで一層凍えるように感じられた。

 背後の兵士も、直にサクラの死に気付くだろう。そうしたら、神力を宿す彼女の肉体は秘密裏に処理される。明日か明後日にも、灰になってしまうだろう。

 これで良かったのだろうか。
 このまま自分だけ、幸せになっていいのだろうか。
 このままで自分は、幸せになれるのだろうか。

 リリーは虚ろな目で、暗いだけの天井を見上げる。

(ねえ、そこで見ているんでしょう?)

 サクラが言っていた。自分もどこかで気付いていた。これが物語であることを。

 そして物語であるならば、きっとどこかで誰かがこの展開を見ている。
 楽しんでいるのか、悲しんでいるのかは分からないが、恐らく軽い気持ちで暇潰し程度に、この展開を追っている。

(あなたはこれで満足できるのかしら?悪女が死んで、ヒロインが幸せになる王道な展開なんて、そろそろ飽きたんじゃないかしら?)

 リリーは心の内で虚空に語り掛け、忌々し気に宙を睨む。返事も、反応さえ期待していなかったが、若干空気が揺れたように感じられた。

 リリーは握りしめたままのサクラの小さな手を引き寄せ、口付ける。そしてまだ温かい肌に、神力の宿るその肉に、歯を立てた。

 聖なる力を持つ者を喰らうと、その力を手にできるという。



 ――さあ、輪廻の果てに。彼女を探しに行こう。






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