【よくある悪役令嬢が転生で改心し正ヒロインと立場逆転ハッピーエンドで満足ですか?】(前編)



 たった今、わたしことリリー・イーヴルは死んだ。
 空気の淀んだ冷たい牢獄の中、硬い床の上で、呪いに苦しみながら死んだ。

 悲惨な最期は、愚かな女の一生に相応しい。わたしの人生は走馬灯をキャンセルしたい程どうしようもなく、目も当てられないものだった。
 しかし走馬灯を見るのが義務だというなら、ついでに語るとしよう。わたしの紡いできた物語など、残された僅かな時間で簡単に語れてしまう、軽薄なものなのだから。

 ――始まりは十数年前。とある時代のとある国で、リリー・イーヴルは生を受ける。

 その国の中心には、聖なる力で魔物を退け人々の暮らしを守る神殿があり、神殿の長であるリリーの父親は、神の代理人と崇められるほど強い神力を持つ神官だった。

 イーヴル家の者は誰もが聖なる力を持っていたが、神殿長の一人娘であるリリーだけは例外で、少しの神力も持たない無力な娘として生まれ、人々の期待を裏切ってしまう。

 幼い頃より常に落胆され続け、彼らの期待がマイナスに転じて憎しみに変わる頃、彼女は自らを守るために歪な棘を身に着けるようになっていた。誰にも心を開かず、他者を攻撃し、必死で虚勢を張って自分を保つ憐れな娘。

 しかしいくら棘を研いでも、水が無ければ花は咲けない。リリーにとっての水は、幼馴染の聖騎士ユリウスで、彼に抱く淡い恋心が彼女の生きる糧だった。しかし落ちに落ちた自己肯定感で卑屈になっていたリリーは、彼に素直に接することができなかった。会えば目を逸らし、その場を立ち去り、彼が声をかけてくれても無視ばかりしていた。

 だから仕方なかったのだ。彼が太陽のように明るく暖かな、誰もが聖女と称した少女……リリーの義理の妹であるサクラに惹かれ、二人が愛し合うのは当然の結果だったのだ。
 ただその完璧な物語を盛り上げる悪役として、リリーが宛がわれただけのこと。

 物語の終盤で、嫉妬に狂ったリリーは異国の禁術に手を出し、彼女を呪い殺そうとした。しかし彼女を守るユリウスの聖剣に跳ね返された呪いは、術者の元に返り、リリーは自らの生んだ呪いでもがき苦しみ世を去った。

 ……実にチープな悪役人生だ。どこかの誰かが使い古したような、ありきたりな物語である。本当にどうしようもない。
 それに気付けたのがもう取り返しのつかない死の瞬間であるという、このわたしが一番どうしようもない。

 もし、もう一度やり直せるなら
 こんな人生にはならないようにするのに、と無意味なことを考える。


 その時


『もう一回、もう一回よ』


 どこかで誰かの声が聞こえた。


『今度こそ、今度こそ大丈夫だから』


 ――それは懇願するような、悲痛な涙声だった。



 *



 眩しさが目をちくりと刺す。
 白い光を反射する水面。太陽に蒸されたような緑の匂い。リリーは思考が追い付かず、置物のようにピタリと止まって、明るさに目が慣れるのを待った。……ここは天国だろうか?神に背く禁術に手を染めた自分が、天国に来ることなどできるのだろうか?

 目が慣れてくると、白い世界に徐々に浮かび上がるのは、どこか見覚えのある昼下がりの情景。揺らめく湖、青々と茂る木々は絵画のように美しい。もし本当に絵画なら何も問題はないのだが、空間であるが故に無視できない違和感があった。それは、音がないということ。小鳥のさえずりも、葉のささやきも、何も聞こない。

 リリーは暫く呆けていたが、ようやく我に返ると自分の状況の理解に努める。すると、自分が湖の淵に立っていることに気付いた。そして湖に向かって手を突き出している。その先には、不自然に宙に浮かんだ状態の少女の体。
 羨んで憎んで仕方なかった義理の妹のサクラが、大きな目を更に大きく見開いて、今にも湖に落ちるというところで止まっていた。世界の時間が止まっている。

 きっと彼女を突き飛ばしたのは自分なのだろう。確か、過去にそんな1シーンもあったと記憶している。彼女に非はなく、いつも通り自分が勝手に逆恨みして、彼女を湖に落とそうとしたのだ。

(もう、同じことを少しでも繰り返したくない!)

 リリーは、陸に向かって必死に伸ばされた彼女の手を取った。
 その瞬間、歯車が噛み合ったかのように突然世界が回りだす。そして、


 大げさな水飛沫が上がった。


 きらめく水はさぞ心地良さそうに見えていたが、突然の侵入者には容赦がない。接した肌は何か硬いものをぶつけられたように、ヒリヒリと痛んだ。季節は薄着でも汗ばむほどの初夏だったが、湖の中はまだ春前のように冷たい。雪溶けの氷水のようで、リリーは心臓が鷲掴まれたように感じた。

 水を吸ったドレスの重さに苦戦しながら、リリーはサクラを抱えるようにして陸に上がる。
 泳ぎが不得手なサクラは最初こそ混乱して少し暴れていたが、リリーの行動に悪意がないと気付いたのか、最後の方は大人しくしていた。

 地上に這い上がった二人は、まだ溺れているかのように草むらにしがみ付いて、肩で息をする。

(湖がこんなに冷たかったなんて、知らなかったわ)
 確か以前は、溺れかけたサクラをユリウスが助けていた筈だ。だが今回は自分が引き上げたからか、彼の姿はここにはない。……いや、サクラを助けたのは父だっただろうか?神殿の誰かだったような気もする。

 リリーは息を整えながら、改めて隣の濡れネズミを見た。そして思わず見惚れてしまう。そこに居たのはネズミではなく、水も滴る極上の美少女だった。

 深い黒髪は水に濡れて更に色濃く輝いており、ドレスが貼り付いた華奢な体は、直視できない危うさがある。少し青ざめた肌も、疲れた横顔も、何もかも作られたように美しかった。サクラは冷えた体を両腕で抱き、震える青い唇で、小さく言葉を紡ぐ。その目には湖より透き通った雫が浮かんでいた。……そう、この常に潤んでいる彼女の小動物じみた目が、リリーは大嫌いだった。

「リリーお姉さま、どうしてこんなことを……?」
「それは、わたしがあなたを突き落としたことに対して?それとも、わたしがあなたを引き上げたことに対してかしら?」
 リリーは水の滴る前髪をかき上げる。湖の水を吸った自分の髪はゴワゴワしていて、ただ汚れたようにしか感じられない。目に入り込んだ水は、奥の方でゴロゴロいっていた。

 どうして自分とサクラはこんなにも違うのか。いや、そんなことは分かり切っている。サクラはこの物語の正当なヒロインで、自分は彼女を引き立たせ、彼女の物語を盛り上げるためだけに存在する悪役だからだ。

(それにしても……これは一体、どういうことだろう?)
 リリーは夢でも見ているような顔で、空を仰ぐ。澄み渡る青空。これはきっと、終わったはずの人生。振り返る価値もない1ページ。


 わたしことリリー・イーヴルは死んだ。

 筈だったが、何故か過去の自分に転生してしまったらしい。生き返ったのではなく転生としたのは、今のわたしが生前のリリーと同じ道を歩む気のない、新しい意志を持っているからだ。



 *



 転生した世界は、かつて自分が過ごした過去と変わりなかった。

 びしょ濡れのサクラと共に神殿に戻れば、神殿の者たちはサクラのみを心配し、リリーに対しては無関心か嫌悪の視線を浴びせる。しかしリリーにそれを嘆く資格はない。自分は日頃から周囲の者に冷たくあたり、彼らが愛するサクラにとりわけ酷く接してきたのだから、疎まれて当然なのだ。

 血の繋がらない妹のサクラは、彼女がまだ幼い頃に街外れで魔物に襲われていたところを、魔物討伐に出ていたリリーの父親が救助し連れ帰った娘だった。

 大いなる神殿長の実の娘でありながら少しの力も持たないリリーとは違い、サクラは彼の本当の娘のように、否それ以上に、大きな力を有していた。聖なる力はその者の血肉に宿るという。それ故に、サクラの力を奪おうとしていた魔物に、彼女はずっと狙われ続けていた。(彼女が成長し力を使いこなすようになってからは、どんな魔物も彼女には敵わなかったが)

 リリーと初めて出会った時のサクラは、魔物に襲われた衝撃でそれまでの記憶を失っているという、ドラマティックな背景をもった悲劇のヒロインだった。もうこの時点で、この物語の主人公は彼女であったと気付くべきだったのだろう。

 サクラは神殿長に養子として迎え入れられ、リリーの二つ年下の妹になった。

 遠い東の国の血を引いているのだろうサクラは、この国の人々とは違った独特な容姿で、人々の目を惹きつけた。その薄く涼やかな顔立ちには、大人びた雰囲気と幼いあどけなさが不思議と共存している。神秘的な黒髪は風の魔法でも身に纏っているように、いつもサラサラ靡いており、黒い瞳は全ての色を集めたかのように、どんな色の宝石よりも輝いていた。白い肌に浮かぶ香るような桃色は、男でも女でも一度は触れてみたいと思うだろう。

 老若男女問わず、誰もが振り返り、見惚れる、愛されるべき少女。
 そんなサクラに対してリリーは、寂れて暗い印象の少女だった。白い髪は老婆のように生気を感じさせず、彫りの深い顔立ちは影を目立たせ、独特の迫力をもって人々を遠ざけていた。

 神にも人にも愛されなかったリリーと、全ての愛を一身に受けるサクラ。リリーはかつての自分が捻じ曲がり、悲惨な結末に至ってしまったのは、サクラの存在が原因だったと思っている。そう、彼女の存在に囚われた自分のせいなのだ。彼女への嫉妬心から逃れられなければ、自分はあの運命からも逃れられない。

 もう今生では、決してサクラを羨まない。憎まない。
 彼女に囚われるのはやめようと、心に誓った。


 そう決めてからの日々は、信じられない程に穏やかだった。

 サクラを視界に映さないように心掛けると、自分は無力で無価値な人間だとあんなにも卑屈だった心が上向き、一般的な仕事くらいは出来るまあまあな女だったのだと気付くことができた。
 神殿の雑用を買って出るようになると、初めは不審そうにしていた神殿の者たちも、少しずつ対応が和らいでくる。それでも厄介者、腫物扱いの域を出なかったが、期待しているから傷つくだけで、期待を抱かなければ特段何かを感じることはなかった。

 リリーは、前世では一年後に訪れた“最期の日”を、いかに平穏無事に迎えるかばかりを考えて日々を過ごしていた。



「最近は随分、大人しいんだな」
 洗濯物を干していたリリーは、突然かけられた声にびくりを肩を跳ねさせる。

 耳の奥にじんわり余韻を残すような、低く穏やかな男の声。この声を聴くといつも思考がバラバラになり、血が沸騰して、逃げ出したくなった。どうやら死んでもなお、彼――聖騎士ユリウスに抱いていた恋心は存命らしい。

 リリーは汗ばむ顔を隠すように洗濯物籠を持ち上げて、彼の方を振り向かずにそのまま立ち去ろうとする。が、思い直した。これでは前世と同じだ。また彼から逃げて、素直になれない自分に後悔するのか。
 彼と運命的に結ばれたサクラへの逆恨みは、結局のところ、何もしなかった自分への怒りからきたものだったのかもしれない。だとすれば今回こそ、失恋を過去の綺麗な思い出として昇華させるべきだろう。そのために彼と、自分の中の恋心と、向き合うべきだろう。

「ひ、久しぶりね、こんなところで何をしているの?」
 振り絞った声は、すぐさま忘れてしまいたいほど上擦っていた。ユリウスはまさかリリーが返事をするとは思っていなかったらしく、暫く目を見張って呆然とした後で、彼女の動揺した様子に小さく笑った。それは決して馬鹿にするような笑いではない。

(そうだ、彼はずっと優しかった)

 自分にもサクラにも、他の者にも。ユリウスは人を見下したり蔑むことをしないさっぱりした青年で、成長するにつれて捻じ曲がっていったリリーにも、幼い頃から変わらず友人として接してくれていたのだ。

 大切な幼馴染。密かな思い人、ユリウス。爽やかで中性的な顔立ちには、昔から一目惚れする女が後を絶たない。一目惚れせずとも、彼を知れば知るほど惚れていく女も多かった。それもその筈である。彼の魅力は容姿と性格に留まらず、優れた剣技と神力で、国から将来を期待される聖騎士なのだ。まさに正ヒロインに相応しい相手である。

 彼との差を、サクラとの差を痛感したくなく、リリーはいつもユリウスを避けてきた。これからの一年の間に、サクラと想いを通わせる人。どうせ叶わぬ恋ならば、今度は少しでも美しい思い出にしたい。醜い悪女として彼の中に残りたくはない。

「俺は今日から、魔物討伐で遠征する。暫く帰って来れそうにないから、挨拶回りをしていたところだ」
「か、帰って来れないって……どのくらい?」
「まあ、一月は帰って来れないだろうな」
「そ、そう……。その、気を付けてね」
「なんだ、やけに素直だな。ずっとそうだったら良かったのに」
 ユリウスはそう言って、リリーが見たことのないような不思議な表情を浮かべた。
 照れも忘れて思わずまじまじ見入るリリーの頭を、ユリウスが軽く小突く。まだ午前中だというのに、その顔にはうっすら夕日が射しているようだった。

「俺がいない間、留守を頼んだぞ」
「わ、わたしに魔物を何とかする神力なんてないんだから、出来ることなんてないわ。かろうじて洗濯くらいよ」
 リリーの言葉に、ユリウスは堪えるようにくつくつ笑って「そうか」と言うと、自分の首に巻いていたタオルをリリーの頭にかぶせる。タオルからはお日様と汗のにおいがした。

「ならそれを洗って、フカフカにしておいてくれよ」
 そう言って笑うユリウスは、遠い記憶の中の少年時代のままだった。



 *



 自分自身と向き合い、ユリウスと向き合うようになってから、生前の記憶がただの悪夢だったのではないかと思う程、世界は一変した。

 といっても、リリーが突然真の力に目覚めることもなければ、見目麗しい美女に変わるということはない。ただ彼女は卑屈さから来ていた虚勢、攻撃心を必死で抑え込み、少し素直で穏やかになっただけ。たったそれだけのことで、世界も彼女に比例するかのように穏やかになったのだ。

 そんな彼女に何か思うところがあるのか、ユリウスは度々リリーに会いに神殿を訪れるようになり、二人は今までの時間を取り戻すように仲を深めていった。

 リリーが彼とのお喋りで全くどもらなくなった頃、ユリウスはリリーに愛を告げる。リリーは耳を疑ったが、その時にはもう心から喜ぶことができるようになっていた。

 ――だが、すぐに受け入れることはできなかった。
 自分にはまだやるべきことがある。そう、サクラとの因縁に決着をつけるために、彼女とも向き合わなくてはならない。
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