【人口密度500東京】(4)



 3月。年明けにコニーと雪を観に行ってから、早いもので二月が経過していた。
 凍えるような冬も終わり、季節は暖かな春を迎えようとしている。親からのしつこかった追及も落ち着き、最近は心穏やかな日々が続いていた。(両親が諦めたとは思えない。恐らく攻めることは逆効果だと考え、今は押すより引く作戦に切り替えているだけだろう)

 彼女は壁に張られた一枚の写真を、愛しそうに眺める。雪を観に行った時に撮影した、二人の写真だ。写真の中のコニーの表情は硬く見えるが、取り出した古いカメラに「本当にレトロ好きですね」と彼が浮かべた優しい表情を、彼女だけが知っている。

 その時、突然部屋が暗闇に包まれた。パチンとスイッチが切られたように一瞬で、写真も何も見えなくなる。彼女は咄嗟に自分の目の異常を疑ったが、わずかに残る光の余韻や、“暗闇が見える”感覚から、視力は失われていないと分かった。であれば、停電だろうか。こんな風も雷もない夜に?
 窓の外を見ると、街灯も灯っていない。街全体が暗いのだから、ブレーカーが落ちたわけではなさそうだ。

 彼女は途方に暮れて、とりあえずベッドに腰かける。時間の経過と共に、暗闇と静寂が心を支配していくようだった。電気の点いている部屋で、画面の中に人が居て、イヤフォンやスピーカーから声や音楽が流れていた時には実感できなかった、膨大な孤独が押し寄せてくる。

(ああ、わたしはこんなにも、独りぼっちだったのだ)
 もしかすると、政府は地球を見捨てたのかもしれない。告知されていた移住期間は嘘で、移住先の人口が一定に達したら全てのルートを断ち、残りの人間を地球に置き去りにするつもりだったのかもしれない。

(わたしは捨てられたのだろうか)
 そんな、有りもしなくはない妄想ばかりが膨らんで、目が溶け出しそうに熱くなる。孤独なら、今すぐアパートを出て、近所を回ればいい。同じように困っている人を探して、隣の街の様子を見に行くべきではないか。地球に残っているのは彼女一人ではないのだ。歩いていける距離には久野がおり、数時間自転車をこげば、地球に残る最後の友人にも会うことが出来る。

 けれどこんな時、彼女の頭に浮かぶのは、心が助けを求めるのは、人ではない。

 電気で動く、彼なのだ。

 彼はいつものように近所を巡回しているのだろうか。待機所に居るのだろうか。アンドロイドにはバッテリーが内蔵されていて、数年充電する必要がないと聞くが、その数年目がちょうど今日だったらどうなるのだろう。そうでなくても、このまま電気が供給されなければ?彼は、彼は、彼は。

 慣れない闇と最悪な妄想に、彼女の体は金縛りにあったように動かない。こんなことなら、やはり移住してしまえば良かっただろうか。そうすればきっと、今頃ま新しい部屋で、電気ポットで沸かしたコーヒーを飲みながら映画でも見ているのだろう。暫くは地球に残る彼の姿を想う日もあるかもしれないが、それもいずれ。いずれ。

 ドンドンドン、とドアが叩かれる。
 大きく乱暴な音に心臓が跳ね上がった。
 そして、自身の名を呼ぶ聞き慣れた彼の声に、ストンと落ちた。

「大丈夫ですか!」

 彼女は返事をすることも忘れてフラフラと立ち上がり、よたよたとドアを開ける。ドアの向こうには、月明りに青白く照らされる、汗一つかかない肌。息が切れて上下することなど決して無い肩。ただ、その髪は少しだけ乱れている。それが嬉しい。それが愛しい。

 彼女は吸い込まれるように彼の腕の中に納まり、その胸に頭を預けた。しゃくり上げながら涙を流す自身の姿は、男に縋る女と言うよりは親に縋る子供のようだろう、と彼女は思った。

 彼は彼らしくなく「ああ、はい、」と意味のない言葉を何度か繰り返し、彼女の頼りなく細い肩に手を置いていた。彼女は彼に、背中をさすったり頭を撫でたりという動作は期待していなかったが、やがてその冷たい手がぎこちなく彼女の頭に触れる。軽く触れる程度の歯がゆい感触と、乱れることのない作業的な一定のリズムは、彼女をとても落ち着かせた。

 彼女の呼吸と心拍が整ったことを確認してから、コニーは彼女をベッドに腰かけさせ、状況の説明をする。どうやらこの停電は、電力管理システムの誤作動が原因のようだ。人が完全に立ち退いた区域の電力供給を断ち切る際に、その他の区域まで指定してしまったらしい。数時間もあれば復旧するとのことで、彼ら生活サポートアンドロイドは住民に事情を説明して回っているらしい。

 彼女はそれを黙って聞いていた。彼の口が言葉を紡ぐのを聞いていると、それだけで安心できたのだ。だからそれを遮ってしまいたくなかった。けれど彼は、彼女にも言葉を要求する。

「大丈夫ですか?落ち着きましたか?」
「大丈夫って言ったら、コニーはもう行っちゃうの?」
 涙声でそう言われ、コニーは部品が軋むような錯覚を覚えた。上目遣いに視覚センサーを覗き込む、赤くはれた瞳。だが彼女のその目は、すぐに申し訳なさそうに、恥ずかしそうに逸らされた。

「ごめん、緊急事態だし、忙しいよね」
「いえ、他のアンドロイドもサポートに回っていますから、特には」
「久野さんのところには?行かなくちゃでしょう?」
「大丈夫ですよ。あの方は、一度眠ったら朝日が昇るまで決して目覚めない」
 コニーはそう言って、彼女の横に腰を下ろす。彼女は想像と違うコニーの対応に、また目が溶けそうになった。だが口は素直になれない。

「管理員が、そんなに適当でいいの?個人を贔屓しているって思われるかも」
「贔屓」
 彼が少し驚いたように、その単語を復唱する。思ってもみなかった言葉だったのか、その反応は少し間抜けだった。

「僕は贔屓などしません。優先順位を考えているだけですよ。今のあなたには、サポートが必要だと判断しました」

 それは違うと、彼女は心の中だけで密かに否定した。
 自分に必要なのはサポートではなく、彼自身なのだ。彼にそれを納得できるよう説明するのは難しいだろうが、最近の彼の様子からすると、理解も期待できるかもしれない。だがそれでもそうしないのは、彼女の中に臆する心があるからだ。それは、コニーがアンドロイドであってもそうでなかったとしても関係のない、繊細な恋心だった。

「もう少ししたら、やっぱり久野さんの様子を見に行きましょう。わたしも気になるから、一緒に行く」
「分かりました。あなたがそう言うのであれば」
 コニーは快く了承し、彼女の言う“もう少し”を計るように、軽く目を閉じた。彼女はその肩にそっと近づいて寄り添う。窓から、柔らかな月明りが差し込んでいた。

 夜は静かで、思ったよりも明るいのだった。



 *



 3月下旬。桜の花が咲き始めた頃、彼女は駅の改札前で友人を待っていた。
 定刻通り電車は訪れ、一人、二人、ポツポツと人影が現れる。彼女の待ち人もすぐに現れた。

 栗色のお団子ヘアに、黒ぶちメガネ。少女趣味とまではいかないが、ガーリーなワンピ―スにニットのポンチョを羽織って、鈴木加奈子はひょこひょこと駆け寄ってくる。
 加奈子は前の職場の後輩であり、地球に残る最後の友人であり、そして今日、最後に見送った友人となる予定だった。

 こうして直接会うのは久しぶりであったが、日頃からメールでやり取りをしていた所為か、そのような実感がない。だが加奈子の方はそうでもないようで「先輩!会いたかったです!」とテンション高めに彼女の手を取りはしゃいだ。

 二人は駅の近くで、唯一開いているカフェに入る。店内に店員はおらず、紙コップの自動販売機とテーブルと椅子があるだけだったが、通販用転送マシンの設置店であることもあり、環境整備の対象とされているために清掃が行き届いている。

 彼女は加奈子を座らせると、二人分のコーヒーを取りに行った。加奈子は申し訳なさそうにしていたが、折角別れの挨拶に来てくれたのだ。出来る限りもてなしたい。美味しいお菓子でも販売していないかと期待したが、やはり自動販売機には必要最低限のソフトドリンクメニューしかなかった。
 自動販売機からアイスコーヒーを取り出して席に戻ると、加奈子が立派な手作りケーキをテーブルに並べている。それを見て、今度は彼女が申し訳なさそうにした。

「わたし、何も用意してなくてごめん。引っ越しの邪魔になるかと思ったから……。後で何か送ろうとは思ってたんだけど」
「やだ先輩、気を使わないで下さいよ!突然だったし、わたしが会いたくて会いに来たんですから」
 加奈子の言うように、本当に突然だった。三日前の昼頃、加奈子から「地球を発つので、挨拶に行ってもいいですか?」とメールが来た時には、何の前触れもない別れに驚いたものだ。

「本当にびっくりしたよ。今日この後、すぐ行っちゃうんでしょ?」
「はい。先輩とお茶したら、次の電車でターミナルに行きます」
「いつ、決めたの?今日行くって」
「三日前の朝です!」
 加奈子の元気な返事に、彼女は感心した様な呆れた様な息を漏らした。思い立ったが吉日と言うが、そんなに簡単に、勢いに任せて良いものなのだろうか。
 彼女は、自身の中に生まれる複雑な感情を取り繕うように「いただきます」と言って、一口サイズにカットされたパウンドケーキを口に運んだ。しっとり、ふんわり。チョコレートの甘い味が口内に広がる。美味しいと告げれば、加奈子は嬉しそうに笑った。

「ねえ、加奈子。オアシス行きを決めるのに、何かきっかけでもあったの?」
「はい!よくぞ聞いてくれました!」
 加奈子はその質問を待っていたと言わんばかりに、「実は…」と鞄の中を漁り出す。鞄から出てきた手には、文庫本二冊分ほどの厚さの紙の束があった。

「遂に納得のいくものを書き終えたんです!地球の最後をテーマにしたSF小説!」

 そういえば、加奈子がオアシス行きを見送っている理由は趣味の執筆活動の為であったと、彼女は思い出す。人口の減る地球、廃れていく東京。それを目の当たりにして、肌で感じることでしか書けないものを書き終えてから移住するのだと、加奈子は随分前から公言していた。

 加奈子は満足そうに紙の束を抱きかかえ、来週締め切りのSF小説賞に応募するのだと熱っぽく語った。加奈子の活き活きとした様子に、彼女は語れる趣味があることを羨ましく思いながら「いいね」と言って、それから慌てて「どんな話なの?」と訊いた。訊かなければ、この場で読んでくれとでも言い出しかねない雰囲気だったのだ。軽く読むことのできる分量にはとても思えない。

 加奈子は「えっと」と、物語のあらすじを話し始める。


 物語の舞台は、地球。現実と時と状況を同じくした、滅びの時を待つ惑星。
 主人公は宇宙観測隊の一人で、別の惑星への移住計画が進む中、隕石の軌道や移住先の惑星の様子などを、地球のセンターから観測し続けている女性である。彼女は責任感と探求心に溢れた理知的な女性で、恋人である博士と共に、宇宙の最新情報を人類の発展のために届けていた。

 地球上の人口の約6割が移住を終えた頃、ある日ある時偶然にも、彼女は気付いてしまう。“地球に直撃するはずの隕石”の観測システムが、何者かによって操作され、事実とは異なる情報を示していたことを。実際にその軌道の先にあるのは地球ではなく、既に半数以上の人類が移住している希望の惑星であることを。

 全てはアンドロイドに支配された政府の陰謀であり、アンドロイドとアンドロイドに洗脳された一部の人間は、地球を乗っ取るために人類を減少させることを目論んでいたのだ。それに気付いた主人公と恋人の博士は、人類を救うべく奮闘し、アンドロイドとの戦いに身を投じていくことになる――


 というのが、加奈子の小説の物語らしい。

 話を聞いた彼女は、それが創作の物語だとしても、素直に楽しめなかった。アンドロイドを悪者にするようなその内容が、率直に気に入らない。もし加奈子の小説が受賞して、世に出回ることがあればどうなるだろう?フィクションとノンフィクションが融合しているそのストーリーは、現実のアンドロイドへの懐疑心を抱かせ、彼らの地位を貶めることに繋がりはしないだろうか。
 だが、加奈子の熱意と努力を批判することはしてはいけない。

 彼女は「いいね。頑張って」と空っぽの言葉にそれらしい抑揚を付けて贈り、紙コップを呷った。唇に冷たい氷がジャラジャラと追突する。アイスコーヒーが無くなった。
 加奈子のコップももう空だ。ケーキももう無い。話を聞いている間に、随分と時間が経っていたようだ。

「そろそろ出ようか。駅まで送るよ」
「有難うございます!先輩も早く来てくださいよ。あっ、でも人のいない地球で、いいネタがあったら随時メールで教えて下さい!」
「はいはい」

 カフェを出ると、春の風に吹かれた。風は、去ったはずの冬から吹いてきたかのように冷たい。ホットコーヒーにすれば良かったかな、と彼女は思う。
 だが、体に感じる寒さは季節が要因のものだけではないように感じた。言うならば、寒気。背筋を走る悪寒だ。誰かに見られている様な気がして、周囲を見渡す。だがそこに人影は居ない。ドラム缶のような見た目の清掃ロボットが数体、こちらを見ているだけだった。

 ……何故、ロボットはこちらを見ているのだろう。何故、この場所に集まっているのだろう。嫌な、予感がした。

 彼女の数歩先では加奈子がふわふわと、ニットのポンチョを揺らして歩いている。加奈子は彼女の感じる冷たい現実の外に居るようで、その後姿は春の陽気に夢見心地だ。ふわふわ、ふわふわ。白い帽子に、アイボリーのニットポンチョ。可愛らしい彼女には春が良く似合う。加奈子自身もそれを自覚しているかのようなその動作は、たんぽぽの綿毛のように軽やかで、

 風に吹かれて、飛んで行った。

 それは突然だった。道路を走っていたトラックが、歩道に突っ込んできたのだ。たんぽぽの綿毛は、ああ、やはり重量のある物体だったのだと思い知らせるような鈍い音を立て、車体に潰される。

 完璧に整備された交通機関。自動車はまさに“自動”車で、信号を無視することはもちろん、許可されたエリア以外を走行することはあり得ない。自動車が人に接触することは、システム上あり得ない。システムが、何らかの意思で改竄でもされない限りは。

(どうして、どうして)

 彼女は駆け寄ることも出来ず、腰を抜かしてその場に座り込む。事故現場には、待っていたかのように清掃ロボットが集り、無感情に道路の清掃と車体の整備を始める。彼らが人型のロボットでないことも理由の一つかもしれないが、彼女にはそれがとても恐ろしい光景に思えた。これではまるで、加奈子の書いた小説だ。真実に気付いてしまった人間を、機械が排除する展開。

 まさか、そんな、有り得ない。

 無駄も慈悲もない清掃作業で、加奈子の痕跡が消されていく。嘔吐感を催させるにおいも、消毒液のアルコールにかき消されていった。

 彼女は黙ってそれを見続ける。加奈子の死は悲しかったが、“友人の死を悲しむ無知な一般人を演じなければならない”という考えが、涙を枯らせた。悲しみより、恐怖が勝って動けないでいる。

 コツ、コツ、と聞き慣れた足音が近付いてきた。
 それは、彼女が常に待ち遠しく思う足音だったが、今この時は恐ろしく感じた。冷徹で無機質な、彼の足音。

 やっとの思いで首だけ回して見たコニーの顔は、音に反して有機的で複雑なものだった。加奈子の小説に出てくる悪役らしさはない。
 僅かに震える声で、懇願するような響きを持って、彼は言った。


「来週、お花見に行きませんか?」


 ああ、と彼女は絶望する。この状況に触れないその言葉は、あらゆる肯定であり、黙秘である。残酷で優しい誤魔化しだ。

 彼はじっと、わたしの言葉を待っている。

 清掃を終えたロボットが、街中の監視カメラが、ありとあらゆる機械が、わたしに注目している。監視している。

 わたしを……“人類”を見ている。

 差し出される彼の手を、わたしは、



 わたしは。






【人口密度500東京】完
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