【人口密度500東京】(1)



 日曜正午の新宿駅。彼女は乗り継ぎの電車を待っている。

 この時間帯、電車は1時間に1本の頻度でやってくるので「流石都会だ」と彼女は思った。ホームには彼女の他に三人、同じように電車を待つ人々が居る。一人は腰の曲がった老人。もう一人は腰の曲がりかけた老人。もう一人は腰の曲がっていない老人。老人ばかりだ。
 最後に若者を見かけたのはいつだっただろうか、と彼女は考えるが、どうもすぐには思い当たらない。そろそろ、同年代と接していない期間の最高記録を打ち出してしまっただろうか。ああでも、今日これから会うのだから、その記録はこれ以上更新されない。

 老人の一人が彼女の方を見やり、もごもごと話しかけたそうな素振りを見せたので、彼女は手元の携帯端末に視線を落とし、気が付いていないふりをする。話好きなら他所へ行ってくれ。このご時世、まだここに居るのは、基本的に一人が好きな寡黙人間だけなのだから。

 10分、20分、30分。時が経つ。電車がやってきた。彼女はベンチから立ち上がり、速度を落とす電車に近付く。足元はふさふさの雑草だらけだ。点字ブロックも停車位置の目印も、青々とした命の色に覆われている。彼女はパンプスのヒールが絡まないよう、慎重にカツカツ進んで、プシューっと開いたドアから乗り込んだ。

 車内は外と違い、整然としている。彼女は、奔放なジャングルから一気に人間社会に戻ってきたような気持ちになった。電車の中はエアコンがよく効いていて、ゴミ一つ落ちていない。触り心地の良いソファはいつもがら空きで、選び放題である。
 彼女はドア近くの端の方に腰かけて、目を閉じた。プシューっとドアが閉まる。ガタタ、ガタタン、ガタタンゴトン。

 ゴーストタウン東京――苔むした電車が走る。



 午後10時、友人の結婚式と二次会への参加を終え、アパートに帰宅。

 履き慣れないパンプスを脱いだ足は、ジンジンフワフワ不思議な感覚で、フローリングの床がぐにゃぐにゃのゴムのように感じられた。彼女は部屋に入ると一息吐くこともせず、着慣れないドレスのチャックを下ろす。レース部分を噛まないように慎重に、慎重に。脱いだドレスをハンガーにかけて、ビニールで覆うと、レンタル会社の段ボール箱にしまった。バッグと髪飾りも、同じように箱にしまう。下着姿のまま玄関に戻って、パンプスも別の小箱にしまった。引き出物の食器は食器棚へ。それから洗面所に寄り、クレンジングオイル。洗顔フォーム。三色ミントの歯磨き粉。ヘアピンとスプレーで固め上げていた髪を下ろし、ブラシをかけ、伸びきったゴムで一つにまとめる。ストッキングを脱いで、洗濯ネットに入れて、洗濯機の中へ。……これで、よし。

 再び部屋に戻った彼女は、糸が切れた様に、どさりとベッドの上に倒れこんだ。彼女の中には今、達成感と疲労感が満ちている。

(借りてきた服は全部まとめ終わったから、あとは返すだけ。メイクも落とした。歯も磨いた。もう……いつでも寝られる)

 そして安堵の中、目を閉じた。
 これが小説やドラマの中なら、疲れて帰ってきたヒロインはそのままベッドで眠りこけ、翌朝になってドレスの皺や枕に付いたマスカラに後悔するのだろう。だが自分にはそんな後先考えない可愛い真似は出来ない……と彼女は思う。しかしすぐにヒロイン達の方が賢いのではないかと思い直した。疲れているのに、眠れないのだ。やるべきことをやっている間に、頭も目も冴えてしまった。

 それから数回寝返りをうってみたが、一向に眠れる気がせず、仕方なく起き上がる。そしてテレビとパソコンの電源を入れ、歯を磨いた後にも関わらず、冷蔵庫からよく冷えたコーラの缶を取り出した。プシュッという小気味のいい音が、心に瑞々しい清涼感を与えてくれる。ゼロカロリー・ノンカフェイン。優秀な相棒だ。

「今年中には、都内の人口密度は500を達成する見込みです」
 テレビで若い女性アナウンサーが、そう告げる。彼女は壁のカレンダーを見た。今年もあと一ヶ月と少しで終わりである。そして年が明ければいよいよ、地球が終わるまであと10年となるのだ。

『30年後の2153年、地球に巨大な隕石が直撃します』

 日本政府が世間にその情報を公開したのは、今から20年も前のことだ。
 当時小学校に入学したばかりの彼女にも、周りの大人達の反応から、それがスピリチュアルな予言の類ではないことはすぐに分かった。最新の科学技術による未来予測。天気予報が100%の確率となった時代で、それは最早確定事項だった。

 情報公開までに、国の上層部はあらゆる想定と準備を重ねていたのだろう。国民は混乱する暇もなく“新たな星への移住計画”を知らされる。
 その計画とは、隕石直撃までの30年の間に地球上の全人類を別の惑星へ移住させるというものだった。(あらゆる動植物の種も一定数移動させ、惑星か宇宙ステーションで保管するらしい)

 移住先に選ばれた惑星は、地球から1光年先。比較的地球と近い環境にある惑星「オアシス」が選ばれた。国民がその計画を知る頃には既に、オアシスには巨大なシェルターが設けられ、人類受け入れの準備が進められていた。肝心な移動方法については、当時ブームとなっていた話題の「転送マシン」が用いられる。既に転送装置の技術が確立され、通販業界など一部で出回っていたためか、国民の抵抗は薄いようだった。

 そして告知から数年、各国の移住計画が始動した。それから今日に至るまでの約20年間で、地球上の人類の四分の一、日本国内では7割が移住を完了させている。

 それにも関わらず、彼女はまだ地球に居た。

 移住はあくまで自由意志で、本人が希望しなければ地球に残ることも出来る。それが全人類に与えられた“移住選択権”であった。この権利は、一見すると個人の意思を尊重するものかのようだが、そこには別の意図も隠されている。これは、一部の人類の切り捨てシステムなのだ。

 移住にかかる一定の費用が支払えない経済的弱者や、転送マシンのシステムが行き届かない発展途上国の国民、文明社会と隔絶した暮らしを送る少数民族を、自由という名の下で切り捨てるものなのだ。
 その無情な意図の裏には、いくらオアシスが地球の二倍の大きさだといっても、人類が人類らしく生きていける場所や生活資源の確保が、全人類分に追いついていないという深刻な実情がある。だがそこまでの情報を正しく得ることができる者は、そもそも問題なく移住できる環境におり、この政府の指針に対する反抗はそれほど大きなものでは無かった。みんながみんな、保身のために黙っている。

 移住選択権を、自らの意志で地球に残るために行使する者も居た。地球を愛し信仰する者や、余生を住み慣れた地球で終えたい年配者などがそうだった。しかし信心深さとは縁遠く、まだ20代半ばの彼女が残っていることに、大義名分など無い。

 ならば何故残っているのかというと……
 シェルターでの生活は息苦しそうだし、地球に残っていれば一時的に家賃や税金の減額措置を享受できる。それに、先に移住を終えた失恋相手と顔を合わせなくても済む。まだ地球に居る理由といえば、それくらいのものだった。だから彼女も勿論、隕石が直撃するまでにはオアシスに移住する予定である。

 彼女は立ったまま、コーラの缶を呷る。捨てられる星でも、移住選択権のおかげで、このように快適な生活が続けられていた。電力や水道などのインフラ提供は、あと数年は保証されている。食料や衣服、日用品は転送マシンを用いた通販でまかなうことができ(結婚式用のドレスまでレンタルできるのだ)、仕事も、WEBデザイナーである彼女はパソコンがあれば問題なくこなすことが出来た。クライアントも上司も同僚も画面の中、スピーカーの奥にしか居ないが、それは移住したオアシスの在宅社員とて同じである。面倒な忘年会に呼ばれないだけ、こちらの方が良いと思えるくらいだ。

 娯楽も不足していないどころか、過剰な程である。24時間いつでもテレビ番組や映画を観ることが出来、パソコンやスマートフォンでは常に最新のゲームを遊ぶことが出来た。オンライン上で既に移住した友人と共にゲームをすることや、カラオケを楽しむことだって出来る。

 つまり、一見すればただの豊かな引きこもり生活なのだ。元々インドア派である彼女には、移住計画が進んでいることなどメディアが作り上げたフィクションのようにさえ感じられる。……今日のように、外出しない限りは。

 彼女はテレビのアナウンサーを置き去りにして、仕事用とプライベート用を兼ねたデスクチェアに腰かける。そしてパソコンの画面に向き直り、ほぼ惰性でSNSを眺めた。タイムラインの先頭には、数時間前の友人の投稿。コメントが沢山ついている。「結婚おめでとう」「末永くお幸せに!」……それらは今日、彼女も口にした言葉だった。

 画面の中で美しく微笑むウェディングドレス姿の友人と、下着姿でパソコンの前に居る自分は、果たして同じ生き物なのだろうか。迫りくる30代を前にして独り身であるという現状を、普段はあまり悲観的に捉えることはなかったが、流石に友人の結婚式の夜は勝手が違うらしい。ほんの少しだけ、寂しさや焦りのようなものを感じてしまう。

「あんたも早く、移住して良い人見つけなよ」

 キラキラ眩しい花嫁の言葉が蘇った。殆ど身内しか参列していない静かな結婚式を終えた友人は、明後日にはオアシスへ移住するという。そしてあちらで、再度賑やかな結婚式を行うとのことだ。この時期まで残り、わざわざ地球で結婚式を挙げた理由は、夫側の頑固な祖父にあるらしいが、詳しい話は聞かなかった。

(いい人、か)
 恋人がしばらく居ない身としては、出会いの有無が彼女の言う“いい人”に直結するようには思えなかったが、確かにこのままでは、あらゆる意味で孤独に歳を重ねる一方だろう。

 彼女は暗くなった気持ちを切り替えるように、SNSを閉じてゲーム画面を立ち上げる……その時、彼女の視界が暗くなって、すぐに明るくなり、また暗く、明るくなった。彼女は天井を見上げて、切れかかっている蛍光灯に溜息を吐く。替えのものはあるが、自分では天井に手が届かない。机の上に椅子を重ねれば何とか届く高さだが、そのような危険を冒さずとも、明日になれば問題は解決するのだ。

 彼女は点滅していた電気を切り、暗い部屋の中で眠くなるまで、四角く発光する異世界の勇者をつとめることにした。
inserted by FC2 system