000「書生と花売り」
 
 
 
「また男と寝ただろ」
「そんなこと、あなたには関係ないでしょう。いくら幼馴染だからって、こっちは商売なんだから口出ししないでよ。偉そうに。流石は未来の官僚様ね」
「何が商売だ!いい加減、そんな下品な娼婦の真似事はやめるんだ!」
「うるさい!わたしには、あなたみたいに学もなければ生活する金も無いの!生きるために自分を使って何が悪いの?馬鹿じゃないの!」
 椿は綺麗に結った髪を掻き毟って、抜いた簪を地面に投げつけると「畜生!」と吐き捨て、踏み鳴らす様にその場を立ち去って行った。嵐のような彼女に、浅葱は何も言い返せず立ち尽くして見送るしかない。
 
「……くそっ!椿の奴!僕の気も知らないで!」
 浅葱は椿の捨てた簪を拾い上げ、どこぞの男から贈られたであろうそれを憎く思いながらも、彼女の香が残るものを無下には扱えず懐にしまった。
 
 浅葱と椿は物心つく前からの幼馴染である。子供の時の二人はいつも、どこに行くのも何をするのも一緒だった。川へ、山へ、森へ。日が沈むまで、時には日が沈んでも遊び続け、大人達を心配させた。気が強く面倒見のいい椿に、泣き虫の浅葱が付いて回る。その様子は小さな町の名物となっていた。
 
 しかしいつからか、二人の間には大きな溝が出来ていく。椿の父親が事故で亡くなり、母親が病で床に伏せると、椿は自分と母が生きていくために遊んでばかりいることができなくなってしまったのだ。
 
 あれは二人が十三の夏。浅葱は彼女の仕事を知ってしまう。不幸にも、現場を目撃してしまったのだ。
 
 椿の仕事は『花売り』。近づいてきた男に春を売るのである。
 多感な時期の浅葱にはその行為が酷く汚らわしく思え、椿を軽蔑するようになった。美しく純粋だと信じてやまなかった憧れの彼女の像を壊されて、浅葱は深く傷付いたのだ。だから当時は、一番辛いのが椿であるということにも、幼馴染からの軽蔑の視線がいかに椿を苦しめたかということにも、気付くことが出来なかったのである。
 
 それから間もなく、浅葱は彼女との関係を修復できないまま、王都の学園に通うため生まれ育った町を出ていった。勤勉さと賢さを買われた浅葱は特待生として迎えられ、官僚になるという高い志のもと学びに励んでいく。実のところそれには、椿に向き合うことから逃げていたという面もあった。日々に忙殺されることで、彼女を忘れようとしたのである。
 
 しかし彼女を忘れられないまま浅葱が十八になる頃、二人は王都で再会した。
 聞けば椿の母が他界したことで、彼女が田舎に留まる理由は無くなり、稼ぎの良い都会に出て来たのだという。数年ぶりに会った椿が全く知らない女のようであれば、浅葱はようやく彼女への想いを断ち切ることが出来ただろう。しかし椿は椿でしかなく、少女時代の面影を残したまま艶やかな女になっていた。結局浅葱は、燻らせていた彼女への恋心を再燃させることになるのである。
 
 だからこそ、彼女が他の男と居るところを見ると、気が気ではなかった。時々その体に傷がついているのを見ると、狂ってしまいそうになった。しかし椿は浅葱が何度止めても聞く耳を持たない。
 
 彼女との再会後、浅葱が学ぶ目的は椿を忘れることではなく、椿を救うことに変わった。官僚となり充分な稼ぎを得ることができるようになったら、椿に想いを伝え、彼女を迎えようと決めたのだ。
 その為にも今はとにかく、ひたすら学ぶしかないのである。次の試験でも一番の成績を残し、来年の官僚試験前に少しでも実力を誇示しておかなければならない……。今晩も徹夜で勉強するぞ、と浅葱が意気込んで帰った矢先、下宿先の叔母が顔を真っ青にし、必死の形相で身体にしがみ付いてきた為、彼は腰を抜かしてしまった。
 
「ど、どうしたんですか叔母さん」
「浅葱くん、大変よお!大変よお!」
 叔母は浅葱の胸でわんわんと泣き崩れてしまう。浅葱は彼女の手に握られている紙を見て、“もしや”と顔を青くした。皺になったそれを開くと、それは浅葱に宛てられた軍の召集令状。つまり戦場への呼び出しである。
 
 ……確かにこの国は戦争をしているが、一般人が招集される程、戦況は良くないというのだろうか。国王も官僚達もまるで勝者のような顔をしていたのは、虚勢だったというのか。
 
 浅葱は絶望に打ちひしがれた。これまで勉強一本だった自分が、臆病で虫一匹殺せない自分が戦場に出て、一日でも生き残れるとは思えない。浅葱にとって召集令状は、死刑宣告と同義に思えた。志半ばのまま、椿を救えないまま、国の為に死ねと言われている。
 
 それからというもの浅葱は、勉学に手が付かず食事も喉を通らず、ただひたすら出頭日に怯えるばかりだった。いっそ病に臥せてしまおうと、夜通し裸で水浴びをしたこともあったが、昔から風邪をひきやすい軟弱な自分はこういう時に限って、謎の丈夫さを発揮した。
 
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
 浅葱は布団に潜り頭を抱えた。もう明日、発たなければいけない。嫌だ、嫌だ、嫌だ。戦場になど行きたくない。死にたくない。召集を知らされてから毎日のように泣き暮れていたが、どうやら涙はまだ枯れていないようだった。
 
 ふと滲む視界の端に、薪割り用の斧が立てかけてあるのが見える。浅葱は取り憑かれたようにフラフラとそれに近づくと、柄を握りしめた。そして刃先を己の二本の足に向ける。
 
(足さえ無ければ……足さえ無ければ!)
 偶然の事故で足を失ったことにすれば、召集から逃れられる。戦争に行かなくて済む。大丈夫だ、すぐ処置すれば死にはしない。歩けなくなるのと死ぬの、どちらが怖いかなど決まっていた。
 浅葱が震える手で遂に斧を振り上げた時、凛とした声がそれを制止する。
 
「何やってんのよ。意気地無しのあなたに、そんな事ができるわけないでしょ。馬鹿」
「椿……」
 椿は部屋の戸口に寄りかかり、馬鹿な幼馴染に嘲笑を浮かべていた。浅葱はここ数日ずっと会いたかった彼女の姿に、膝から崩れ落ちる。
 
「椿、どうしよう。僕はどうしたらいい」
「叔母さんから話は聞いてるわ。あの人もこんな仕事してる女を、よく家に上げる気になるわよね」
 椿はそう言うと浅葱に近づき、その手から斧をもぎ取った。
 
「あ!」
「あ!……じゃないわよ。馬鹿がやることって本当に単純ね。あなた学校で何を学んできたのよ」
 やれやれと肩をすくめる椿に、浅葱は神妙な声で言った。
 
「椿、僕の足を斬ってはくれないか」
 椿は一瞬だけ驚いた様に目を見開いたが、すぐに冷たい目に戻ると鼻で笑い飛ばした。
 
「ハッ、最低!女に随分なことさせるじゃない。いいわよ、一瞬で終わらせてあげるわ。目を瞑りなさい」
「……ごめん」
 浅葱は目を閉じた。今に、生まれた時から共に過ごしたこの足が無くなるのだ。椿と野を駆け山を駆けたこの足が無くなるのだ。恐怖と悲しみとでおかしくなりそうだったが、それを彼女の手が下すのならば、いくらかはマシだと思える……。
 
 しかし、いつまで待っても痛みが訪れることはなかった。まだ足先の感覚もある。意地の悪いところのある彼女の事だから、自分が目を開けた瞬間に斬るのか?と、考え込む浅葱の耳に、パサリ、と何か軽いものが落ちる音がした。
 
 目を開けると――そこには、少年の様に短い髪の椿が居た。彼女の長かった髪は床に散らばっている。恐らく斧で切り落としたのだろう。自らの髪の上に立つ椿は、浅葱が断りなく目を開けたことに不服そうにムッとした。
 
「椿!君は、何をしてるんだ!」
 思わず大声を上げてしまった浅葱を、椿はうるさい、と一喝する。
 
「あなたの着物、貸しなさいよ」
「な、なんで!」
「うるさいわね。どうだっていいじゃない」
 浅葱の反応を鬱陶しそうに跳ね除けて、椿は箪笥の中身を勝手に物色しはじめる。それから浅葱が止める間もなく、流れるように着物の帯を解いた。布が擦れる音と共に、一枚、一枚、彼女自身が露わになっていく。浅葱は、窓から差し込む月明かりに照らされた彼女のあまりの美しさに、身動き一つできなかった。椿は時々、そんな浅葱に挑発するような目線を送りながら、手際よく着物の懐に忍ばせておいたサラシを胸に巻き付け、浅葱の着物に袖を通す。そして袴の帯をしっかり絞め終えると、得意げな笑みを浮かべた。浅葱はその笑顔に、かつての無邪気だった椿を思い出す。
 
「どんなもんよ!どこからどう見ても、男にしか見えないでしょう!」
 確かに彼女の言うように、髪を短く切り男の装いをした椿は、少し華奢な青年に見えた。元々中世的な彼女は、驚く程その格好に違和感が無い。
 
 浅葱は目の前で何が起こっているのか理解できず、男の装いをした彼女をただ呆然と眺めていた。椿はそんな浅葱に歩み寄り、座り込んだままの彼に目線を合わせるように膝を折る。その形の良い唇が、浅葱の直ぐ近くで予想もしていなかった言葉を紡いだ。
 
「わたしが、あなたの代わりに行ってあげるわ」
 浅葱はその言葉に息を呑み、凍り付く。「何を言っているんだ」とようやく必死に絞り出した声はみっともなく震えていたが、椿はそれを馬鹿にすることなく、何も含むところのない昔のような純真な笑顔を浮かべていた。
 
「昔からわたしの方が、運動神経は良かったもの。わたしが行った方が生き残る可能性は高いでしょ。それに、あなたはこんなところで死ぬべきじゃないわ。いつかうんと偉くなるんだから」
「椿!君はさっきから何を言っているんだ!?どうして君が僕の代わりに……!?」
「あなたが好きだからよ」
 浅葱は彼女の突然の告白に、頭が真っ白になる。こんな時でなければ死ぬほど嬉しい筈の言葉が、今は死ぬほど悲しかった。
 
「こんなに汚れているわたしが、あなたを好きだなんて、迷惑よね。ごめんなさい」
「そんなことはない!君は昔からずっと変わらず、綺麗なままだ!」
 浅葱は思わず椿を抱きしめる。椿は少しだけ泣きそうな顔をした後、彼の背に手を回した。
 
「ありがとう。そんな風に言ってもらえるなら、未練がましく都まで出てきた甲斐があったってものね。浅葱、ありがとう」
 浅葱は椿が愛おしくて堪らなくなり、その唇に口を寄せる。触れ合うか触れ合わないかのその瞬間、鈍い音と重たい痛みが浅葱の頭に響いた。浅葱は気を失い、椿を巻き込みその場に倒れ込む。彼の背後で花瓶を手にし震える叔母に、椿は「素晴らしいタイミングですね」と嫌味を言った。
 
 それから二人は、気を失っている浅葱を丁寧に布団の上まで運んだ。椿は彼の額に口付けの一つでも残したいところだったが、心配そうな顔をしつつ自分を見張っている叔母の手前、それは出来なかった。椿は叔母を伴って、彼の部屋を出る。
 
「叔母様。戦争が終わるまで、浅葱を隠しておいてね。きっと大丈夫。全部上手くいくわ」
「椿ちゃん……本当に良いのかい?」
 そうは言いつつも、どこか縋るような目で椿を見ていることに、本人も気付いていないのだろう。その臆病な瞳に浅葱の面影を見て、椿は優しい笑みを浮かべた。
 
「はい!わたしには残していくものは何もありませんから!」
 その言葉に、叔母は泣き崩れる。椿はそんな叔母の背中を擦ってやり、浅葱のことをよろしく頼むと言い残して夜闇に飛び出していった。
 
 
 明け方、目的地までの汽車に乗り込むと、もう二度と会えないかもしれない幼馴染の顔を思い出して、椿は一人静かに泣いた。彼はもう目覚めただろうか?勝手なことをした自分を叱るだろうか。それとも、少しはホッとしているだろうか。
 
 嗚咽が漏れ出た。駄目だ、こんなに女々しくしていては、女だと知られてしまう。椿は必至で目頭を押さえて、涙をひっこめようとした。
 
(ああ、神様神様、どうか、どうかわたしをお守り下さい!そしてまた、あの心優しい幼馴染に会わせてください!どうかどうかどうか!)
 
 
 ――それが叶わないのならば、せめて来世は二人とも、平和な時代で生きさせてください。
 
 
 ひとしきり泣いた椿は、車窓に流れる全く見覚えの無い景色を眺めながら、ポツリと呟いた。
 
「やっぱり、ちゃんと口付けしておけば良かったなあ」
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