00「月白姫と人喰い妖怪」
 
 
 
 それはある種の食行為のようだ、と傍観者は思った。本能のままに肉が肉を求め、貪り、搾取する。野性的で荒々しく単調なそれに、行為以上の意味はない。
 やがて巨大な肉塊が重々し気に退くと、その下には、青白く細い食べ残し。まだまだ食べるところのあるそれを残して、捕食者は肥えた腹で去っていく。
 部屋には少女の浅い息遣いだけが響いていた。
 
「おやおや、お姫様。君は実の父親に抱かれる趣味があるのかい?」
 寝台に横たわる一糸纏わぬその少女に、天井裏から誰かが声をかけた。男とも女とも、この世の者とも思えない不思議な響きを持つその声に、ひたすら壁を見つめていた少女の顔が上を向く。汗で張り付いた黒髪がパラリと落ち、少女の顔が露わになると、その真っ暗な孔のような瞳に、天井裏の声は酷く残念そうな溜息を洩らした。
 
「なんだ、つまらない。大層な嘆き顔が見られると思えば、ただの骸か」
「……勝手に覗き見しておいて、随分な言い草ね」
 人形の様に静かな無を湛えたその顔の、薄い唇だけが動く。返事があったことが意外だったのか、天井裏の誰かは「おや」と俄かに驚いた。
 
「驚いたね。随分威勢のいい骸じゃないか」
「本当に失礼な人ね。あなた、誰?」
「わたしかい?さあ……世に蔓延る“好奇心”とやらかもしれないねえ。噂の悲劇を見物に来た野次馬さ」
「どんな、噂ですって?」
「殿が姫にご執心、傷心の奥方は首を吊り、屋敷は大混乱……という程でもないのかねえ。さあ、悲劇のお姫様は今、どんな気持ちだい?」
 天井裏の何者かは未だ姿を現さないが、その声ははっきりと、醜く歪んだ笑みを浮かべている。少女は自分がまな板の上の魚になったような気がした。“その悪意”は、息の根を止めることもせず、苦しく喘ぐ姿を楽しげに見ている。生も死も弄んでいる。
 
 少女は湧いた蛆を見るような目で、木の板を見つめた。それは少女がようやく浮かべた、人間らしい表情である。木の板はまた「おや」と言った。
 
「お姫様は中々いい目をするねえ。まるで汚物でも見るような目だ。もしかして母君との別れにもそんな目をしていたのかい?首吊りだなんて、あんなに汚い死に方は無いからねえ。鼻がもげそうになっただろう?」
 陽気な口調とは裏腹に、陰気な声が笑う。低く這うような笑い声が、天井板から壁へ柱へ、そして床に伝わり部屋を満たした。少女のどこまでも虚ろだった瞳が、息を吹き返したように轟轟と燃え盛る。彼女は掠れた声で“不埒な正体不明”に精一杯の罵声を浴びせた。
 
「最低!本当に最低!よくもそんなことが言えるわね!あなたみたいな最低な人は初めてよ!吐き気がするわ!この……化け物!!」
「おやおや!よくお分かりになりましたね?大正解。お姫様のおっしゃる通り、わたくしは化け物――世間様でいうところの“アヤカシ”ですよ」
 得体の知れない声がくすくすと不気味に笑うのを聞いて、少女は背筋にぞくりと嫌なものが走っていくのを感じた。
 
「やっぱり人間は面白いねえ。一言二言かけるだけで、あっという間に生き返る。まだ少しは遊べるかもしれないな」
 
 アヤカシはそう言ったきり、それから少女がいくら話しかけても、何も返してはこなかった。それがある満月の夜の出来事である。少女はきっと夢でも見ていたのか、または屋敷に狐でも入り込んだのだと、そう思うことにした。
 
 
 ……しかしその数日後、またもその声は突然現れるのだった。
 
 
「やあ。今夜は随分と酷くされていたねえ。首を絞めると具合が良いんだって?」
「……また来たのね。一体何をしに来たの?」
「ただの暇潰しさ」
「悪趣味」
「君の父君よりは、幾分マシだろう?あれは大層な愛情表現だねえ」
 アヤカシの言葉に、少女は思いつめたような顔で黙り込んだ。それからおもむろに、痛々しい跡の残る自らの首に両手を宛がい――ゆっくりと力を込めて締め上げていく。「はん」と、天井裏のアヤカシは、興醒めだと言うように鼻で嗤った。
 
「それは君のお家芸なのかい?人間は本当に、なんて愚かで脆弱な生き物なんだろうねえ。つまらない、つまらない」
「別に、あなたを楽しませようとして、生きているんじゃないわ」
「では、わたしに馬鹿にされるために生きてきたのかい?」
 嘲るその声に、少女は首から手を放すと「ああ、もう!」と頭を掻き毟った。
 
「何なのよ!あなたは、何がしたいのよ!」
「わたしは、人が悲しみ、苦しみ、もがく姿を見るのが生き甲斐なのさ。人々の嘆きが、わたしの力となる。だから精々苦しんで生き続けてくれ」
 
 “君がわたしの気に召せば、わたしが喰ってしんぜよう”と、アヤカシは言い残して去っていった。「生き続けても結局殺すんじゃない」という少女の声に、返事を返すものは居ない。
 その夜のアヤカシの最後の言葉は、呪いとも違う不思議な力をもって、少女に纏わり続けた。そして勿論、それが少女とアヤカシの最後となる訳もなかった。
 
「おや。今日はまだ、父君はいらっしゃっていないのかい?」
「今日は、来ないわ」
 少女の声は力なく、くぐもっている。いつも裸で横たわっている少女は、今日は藤色の寝巻を身に纏い、寝台ではなく床に寝ている……寝ているというよりは、転がっていた。アヤカシは「おやおや?」と不思議そうな声を上げる。
 
「不思議なことをしているね。それは、楽しいのかい?」
「……落ちたのよ。体が上手く動かないの」
 少女は悲し気に自分の手を見つめた。骨ばった手首には青紫の斑点。それは全身を蝕むように、首にも胸元にも広がっている。
 
「なんだい、それは」
「食事に、毒を盛られたの。父を惑わし母を殺したわたしを、誰かが呪っているのでしょうね。……私、あなたに食べられる前に死にそうだわ」
「毒?」
「ええ。病の様には伝染らないから、安心して」
「誰が病など恐れるものか。わたしを臆病な人間と一緒にするなよ」
「じゃあ出てきてよ」
 少女の言葉に返事は無い。あまりに呆気ない終わりに、ついにアヤカシからも見放されたかと少女が意識を手放そうとしたとき、その額に何か固く小さなものがぶつかった。感覚が鈍くなっているのか、痛みは感じない。少女が億劫そうに目を開けると、床には何やら小指の爪程の、苔色の丸いものが転がっている。
 
「飲め」
 ぶっきらぼうな声が、天井から響いた。まだ帰っていなかったのだと知り、少女は何故かほっとする。
 
「これは、何?」
「天狗の妙薬だ。早く飲め」
 少女は自分でも驚くくらい素直に、その言葉に従っていた。力の入らない手で何とかその粒を拾い上げると、乾いた口に押し込み、飲み下す。アヤカシの差し出すそれに疑いを抱かなったのではなく、例え毒であっても自分の運命にさほど違いは無いだろうと思ったのだ。だったら、なんとなくその声の通りにしてみたかった。
 
 ごくりと少女の喉が鳴り、その体がぐったりと動かなくなったのを、アヤカシはいつまでも見つめていた。どうやらこの姫には、悍ましい物を寄せ付ける力があるに違いない。アヤカシは少女と、そして自身を、哀れに思った。
 
 
 

 
 
 
「ねえ、あなたは、女なの?それとも男?」
 少女が天井裏に声を掛けると、天井の向こうから不機嫌そうな声が返ってくる。
 
「なんのつもりだい?わたしは君と慣れ合う気はないんだがね」
「私が悲しそうでも苦しそうでもないから、不機嫌なのね。いい気味だわ」
 天井裏のアヤカシは、少女の変貌に密かに首を傾げる。はて、一体この姫君の、何が変わったというのか。毒の症状が快復したと知れた途端、少女の父は以前より足繁くここを訪れているようだし、彼を迎える少女の死んだような瞳も変わらない。しかしアヤカシが声をかけると、少女は三途の川を引き返してきた。
 
「あなたが私を生かしたっていうのに。本当に勝手なアヤカシね」
「自分の獲物を、下らない毒なんぞに取られなくなかっただけだ」
「嫉妬深いのね。……ねえ、今日の月は何色だった?」
 少女は唐突にそう尋ねた。先程から彼女は、隙あらば何かしらの問いを口にする。それがアヤカシを少しでもここに留めておくためのものだとは、アヤカシも少女自身も気付いていない。
 アヤカシは『そんなもの自分で確かめろ』と言いかけて、この部屋に窓が無いことに気付いた。どうりで息が詰まる訳だ。
 
「別に知らなかったらいいわよ。そう、それより、あなた名前は?」
「話がころころと変わるのだな。人間の娘とはそういうものなのかい?」
「名前」
「人間に名乗る名などない」
 アヤカシは静かに溜息を吐いた。何がどういう訳かは分からないが、ここにはもう期待していた面白いものは無さそうである。音もなく立ち去ろうとするアヤカシだったが、少女の初めて聞くような明るい声に思わず足を止めてしまった。
 
「決めたわ。“夜顔”はどう?」
「ヨルガオ?」
「夜に咲く花の名前よ。暗くなってからしか現れないあなたにぴったり。あなたのことは、これからそう呼ぶわね」
 何を勝手に名付けているんだ、とアヤカシは文句の一つでも言ってやるつもりで口を開きかけたが、少女にもう一度その名前を繰り返されると、その気は失せてしまった。
 
「……白」
「え?」
「君が訊いたんだろうに。今宵の月は、細く白い三日月だ。まるで君のようだったよ、月白姫」
 少女は、その声に初めて呼ばれる自分の名を、まるで美しい詩のように受け止めた。そしてまたいくつかの夜が巡る。
 
 
「ねえ、夜顔!この間あなたが持ってきてくれた本、全部読んじゃったわ!」
「読んだって……あれは西洋の本だろう。月白はただ絵を眺めているだけじゃないか」
「いいの!ねえ、私、もっと遠くの国の本がたくさん読みたいわ」
 分厚い本を大切そうに抱きかかえて、月白は天井を仰ぐ。
 
「あなたも私も知らない、もっと多くのことを知りたいのよ」
「なら此処を出ればいい」
 夜顔の提案に、その白い月が陰る。もう何度の夜をここで過ごしたか知れない夜顔には、月白の置かれた状況も大体分かっていた。月白は束縛心の塊である父にこの部屋に閉じ込められている。世間では『姫は重い病にかかっていて外に出られない』ということになっていた。
 
「わたしが出してあげようか。此処から」
 夜顔の言葉に、月白はハッと顔を上げた。
 
 
 

 
 
 
 ある月の無い晩、城に火が放たれた。燃え盛る城内にはアヤカシの不気味な笑い声が満ち、それは外の街にまで響き渡り、人々は恐怖に囚われる。その混乱に乗じるようにして、二つの影が城の屋根から空に舞った。
 
「曲者!曲者だ!殿の首を撥ね、姫君を攫う曲者を、誰か捕えよ!」
 主を失った家臣が叫びを上げた。兵士達は曲者を追おうとするが、人間離れしたその動きに誰も付いていけない。全身を黒い布で覆ったその影は、片方の腕で少女を抱え、もう片方で撥ねた首を振り回しながら、屋根から屋根を風の様に駆けていく。
 
「ちょ、ちょっと!そんなもの捨てなさいよ!」
「そんなものとはなんと非情な。君の父君だろう?」
 手に持つそれを月白に近付けると、彼女は逃げるように夜顔の胸元に顔を埋めた。夜顔は楽しそうにくつくつ笑う。月白は、そんな夜顔に深く溜息を吐いた。
 
「やっぱり、あなたの考えは私には理解できないわ。正直今でも時々、悍ましいと思うもの」
「それでは、何故わたしの誘いを受けたんだい?」
「時々以外は、悍ましく思わなくなったからだわ」
 月白は顔を埋めたまま、密かに笑みを浮かべた。……夜顔が、自分のことを暇つぶしの道具にしか思っていなくとも構わない。共に生きてみたいと思ってしまった。この残酷で惨いアヤカシが時々見せる優しさに、月白は絆されてしまったのである。
 
「ねえ。これからは朝も昼も、ずっと私と居てくれる?」
「……わたしが、飽きなければね」
「ふふ、じゃあ大丈夫ね。わたし、あなたに飽きられないようにするもの。毎日怒ってあげるし、悲しんであげるし、怖がってあげるわ」
「最近は君のそんな様子にも飽きてきたのか、あまり面白いと感じないんだ」
「あらそう。じゃあ、新しい面白いことを見つけましょう」
「新しい面白いこと?」
「そうね。じゃあ今日は、私の秘密を教えてあげる。人の秘密を暴くの、好きでしょう?」
 風が凪いだ。人々の悲鳴が遠のいて、世界には二人ぼっちのような、そんな錯覚に陥る。
 
「私ね、夜顔、あなたのことが――」
 
 その時、一本の矢が黒い影を捕えた。白く眩い光を放つその矢は、邪を祓う浄化の力を帯びている。夜顔が放たれた一閃に気付いたとき、既に鏃はその肩に深く突き刺さっていた。身体を焼くような痛烈な痛みに呻き、アヤカシは重力を思い出す。地上から人々の歓声が沸いたが、夜顔には月白の悲鳴しか聞こえていなかった。
 
 夜顔は必死に腕の中の少女を抱きしめ、屋根を転げ、道の真ん中へと落ちる。人々の前には少女を抱える黒い塊と、畏怖の対象であった男の生首が転がった。それを見て、屈強そうな男までもが腰を抜かし情けない声を漏らす。
 
「この方が、攫われた姫君で間違いないですか?」
 矢を放った旅の“退治屋”が、淡々と兵士に問う。黒い布に包まれた何かと、それに抱かれている白く細い少女。落ちた時の衝撃で気を失ったのだろうその少女は、姫というにはあまりに貧相な姿をしていた。
 
「ああ!そして姿を隠している方が曲者だ!その黒い布の下に、殿を殺め、城に火を放った化け物が居る!」
 殺せ!殺せ!殺せ!街の人々は口々にそう言った。退治屋は、喚きたてるその声に煩わしそうに眉を顰めると、止めをさすべく黒い影に歩み寄った。その時、影が意識を取り戻したのか身動きする。黒い布がぱさりと地面に落ちた。
 
 退治屋の男は息を呑んだ。そこに現れたのは醜い化け物などではなく、まだあどけなさの残る少女の顔だったのである。夜顔は左肩の痛みに顔を歪ませながら、月白を背後に匿うように起き上がった。
 
「……人間め、わたしを見たな!身の程知らずめ!殺してやる!」
 露わになった少女の姿は、誰もの予想を裏切るものだった。布の下から現れたのは、透き通るような肌、輝く髪、煌めく瞳。化け物というよりは空から落ちてきた天女であった。退治屋はかつて見たことの無い美しいアヤカシに、攻撃を躊躇してしまう。
 
 しかし兵士や街の人々は、恐れていた化け物が華奢な娘だと知るや否や、鎌や鋤を手に彼女ににじり寄った。嬲り殺してやろう、そうしよう、とあちこちから嗜虐性を含んだ声が上がる。人々は彼女の姿に完全に油断しきっていた。――その瞬間だった。一番先頭に立っていた男の首が、飛沫を上げて宙を舞う。少女の手には武器一つ無く、あるのは血濡れたその手だけだった。研いだ刃のような鋭い爪。少女の背後では、蛇の尾がうねりを上げる。
 
 化け物だ、と誰かが言った。恐怖に狂った人々は一斉に少女に襲いかかる。夜顔は飛んできた虫を払うように、造作もなく人を殺めていった。しかし、一掃して再びここから飛び立つことが出来るかといえば、難しい。退治屋の放った矢は、アヤカシの肉を溶かす聖なる力を宿しており、今の夜顔には片腕しか残っていないのだ。
 
 退治屋は、目の前に積み重なる人々の屍を見て、躊躇いながらも弓を構える。狂ったように一人の少女に襲いかかる男達と、冷ややかな目でそれらを殺めていく可憐な少女。どちらがどうであるかなど、関係は無いのだ。自分が人間である以上、生まれた時から敵と味方は決められている。
 
「退け」という退治屋の声に、人々は彼の軌道線上から離れた。まっすぐに構えた弓から、再び聖なる矢が夜顔に向けて放たれる。――しかし、その矢がアヤカシを殺すことは無かった。
 
「あなた、女だったのね。そんな気はしていたんだけど……ちょっと、残念」
 いつの間に目覚めたのか、夜顔を庇うように飛び出し、背に矢を受けた月白がそう言う。
 
「……何、をして、」
「しかも、結構可愛いんじゃないの。悔しいわ」
 呆然としているその浮世離れした顔を、月白は震える手で撫でた。彼女の薄い体はそのまま、先程空でそうしたように、夜顔の胸元に埋もれる。その顔は穏やかに、幸福な笑みを浮かべていた。
 
「姫は化け物に惑わされた反逆者だ!化け物共々討て!」と誰かが言ったが、一人も動こうとはしなかった。誰もが、哀しく美しい二人の少女に魅せられていた。
 
「月白、君は、何故、何故わたしを庇ったんだ!」
「分からない筈、無いでしょう。だからあなたも、泣いているんでしょう」
 力ない声の月白に、夜顔は『何を馬鹿なことを』と思った。アヤカシである自分の瞳から、人間のように涙が流れることはないのだ。だから、内側に溢れるそれは行き場なく彼女を溺れさせる。
 
「ねぇ、私を、食べてよ。約束……でしょう?」
 その言葉を最後に、夜顔の頬に置かれていた白く細い手は滑り落ち、愛おしそうに見上げていた目は眠るように閉じられ、月明りのような仄かに温かい笑みは、二度と浮かべられなくなった。
 
 夜顔は虚ろな目で、腕の中の骸を見下ろす。徐々に冷たくなる肌とは相反して、腕に滴る赤は温かかった。
 
「君には期待していたのに。……全く面白くないな」
 夜顔は心あらずな様子でそう呟くと、地面に散らばった刀を取り上げ、自らの朽ちていく左腕を肩ごと切り落とした。忌々しい浄化の浸食をこれで防げるかと思ったが、それは既に全身に回っているらしく、体がバラバラになりそうに軋んでいる。夜顔は叫び声一つ上げずに溜息だけ漏らすと、月白の頬に散ってしまった血飛沫を指で拭った。
 そして彼女を片腕に抱き上げ立ち上がり、最後に一度だけ退治屋を見て、小さな嘲笑を浮かべ空へと飛び立っていった。誰も、その後を追おうとする者は居なかった。
 
 新月の山はただ闇に包まれている。夜顔は柔らかな草の上に月白を横たえると、自らもその隣に身体を投げ出した。そして愛おしそうに、隣の少女を見つめる。
 
「やっぱり君は、面白くないねえ。こんなにもわたしの心を虚しくさせる」
 わたしが矢に撃たれる前、君はなんと言おうとしていたのだろうか。それが分からない。分かるようで、分からない。人間は、分からない。
 
 夜顔はもう、自らの痛みも、目の前の少女の顔もあやふやになっていた。懐にはどんな怪我にも病にも効く天狗の妙薬があったが、今の夜顔にとっては無価値で不必要なものである。“飽きるまでは共に居る”と彼女に言った言葉に、嘘偽りは無いからだ。
 
 夜顔は僅かに残った感覚だけで、硬く冷たい月白の手をとると、心地よいそれに唇で触れ、舌で撫でる。そして彼女との約束を果たすために、最後の力を振り絞ってその死肉に歯を立てた。
 
 朦朧とする意識の中、彼女の甘味に溺れながら、夜顔はありもしない未来を想う。
 
 
 ――もし、彼女と自分が最初から同じものであったならば、このような苦悩はありはしなかっただろうか、と。
 
 
 翌朝。一人のアヤカシの屍の横で、夜顔の花が静かにしおれた。
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