0「光の神子と闇の戦士(前編)」
 
 
 
「地上人は一人残らず殲滅せよ」
 
 それは、地中深くにある“闇の国”に生まれ落ちた少女が、初めて父から教わったことだった。物心つく頃から毎日繰り返されてきた言葉。まだ言葉の意味を解さない幼い時分にも、父の深い悲しみと憎しみだけははっきりと感じていた。
 
 地上は穢れた地であり、そこに住まう地上人は浅ましく卑しく悍ましい、罪深い存在であるという。地上を我が物顔で占領し、他の種族を隅や地底に追いやった蛮族。地上人はその非道な行い故に天上の神々から怒りを買い、熱線に肌を焼かれ、水責めに苦しみ、姿の見えない恐ろしい怪物“かまいたち”とやらに切り裂かれる罰を受け続けているという。
 
「いつか地上人を退け、我々が地上を浄化せねばならない」
 少女の父……男は、それを我が宿命と信じて疑わなかった。
 
 男は闇の国一番の戦士で、類まれなる剣術の才と、一族に代々伝わる呪術を使いこなし、国の平和を守り続けてきた英雄である。彼は誰よりも闇の国を愛し、そして誰より地上――“光の国”を憎んでいた。闇の国の者ならば誰もが持っているその憎しみを一層強めることとなった理由は、少女が生まれて間もない頃にある。
 
 遡る事十年前。闇の国は地上を奪い返すため、光の国と戦争をしていた。しかしその争いは双方に甚大な被害を残しただけで、上下を入れ替える程の変化はもたらさなかった。ただ男には、愛する妻を失うというこの世の終わりほどの変化を与えて、終結したのだ。
 少女が父の付き人に聞くところによると、それまでの父は人情味に溢れた明朗快活な男であったという。今の厳しく冷徹な父からは想像もつかない。
 
「ミヤコ様、どちらへ行かれるのですか」
 廊下を歩いている少女を、給仕の女が呼び止めた。昔からこの屋敷に仕えるその女は、ミヤコと呼ばれた少女が一言「外だ」と答えると、側へやってきて甲斐甲斐しく少女の髪を撫でつけ、腰帯を結び直してくれる。
 
「あらまあ、着物の丈がもうこんなに短く……。ミヤコ様も今年で十三ですものねえ。こんなに美しく凛々しくご立派になられて……きっとお母様もお喜びのことでしょうねえ」
 歳を重ねた給仕は一度喋り出すと長い。また顔も知らぬ母の昔話でも始まるのかとミヤコは身構えたが、幸い給仕はその話を続ける気は無いようだった。手櫛ですっかりまとまったミヤコの短い髪を撫で、切なそうに目を伏せる。
 
「ミヤコ様の髪はとってもお綺麗でございます。……本当は長く伸ばされたいでしょうねえ。長い髪に流行りの玉簪を挿して、鮮やかな着物をお召しになりたいでしょうねえ」
 ミヤコは不思議そうに目を丸くして、涙声の給仕の顔を見上げた。
 
「婆、何を言うのだ。わたしは男だ。そのようなものに興味などない」
 ミヤコには自分が生物学上“女”だということは分かっていたが、それに大した意味を見出してはいなかった。ミヤコにとって重要なのは『強き戦士であれ』という父の望みのみ。軍に入る為にもいずれ家を継ぐためにも、男として生きていく方が都合が良かった。……時々、本当に時々は、華やかに着飾る女人に興味を惹かれることがあったが、自分にはとても似合わないと、見ぬふりをしていた。
 
「そうでございますね」と言う給仕の悲し気な顔を無視して、ミヤコはその場を立ち去った。
 
 
「ミヤコ様だわ!ミヤコ様がいらっしゃったわ!」
 ミヤコが街へ出ると、若い娘達が色めき立ち我先にと駆け寄ってくる。娘たちの頭に突き刺さる極彩色の玉簪に、ミヤコは目がチカチカした。内心では『またか』とうんざりしつつ、ミヤコは手本のような笑顔で彼女たちを迎える。
 
「やあ。みんなが元気そうで何よりだ」
「ミヤコ様がお相手して下さったら、もっと元気になりますわ!もしよろしければ、私と一緒に錦の飾り紐で遊びません?」
「いいえ、いいえ!ミヤコ様にはもっと別の遊びが良いですわ。ねえミヤコ様、私のガラスの毬玉で遊びません?」
「みんな、ありがとう。とても魅力的なお誘いだけれど、残念ながら今日は用事があるんだ。今度はわたしから誘っても良いかな?」
 そう言ってミヤコが浮かべた爽やかな微笑みに、娘達は頬を上気させて黄色い歓声を上げた。ミヤコは流れるように彼女たちの間をすり抜けると、軽やかに手を振ってその場を離れる。幼さを感じない堂々としたミヤコの背中に、街の人々が感嘆の息を吐いた。
 
「流石はあの方のご子息だ」「娘達が騒ぐのも頷けるなあ」「家の娘を貰って下さらないものか」「あら家の娘だって」
 ミヤコは顔には出さないものの『勝手なことを言って』と心の内で毒吐いた。この少女は、皆が感心を示す“恋”というものを、まだ知りはしなかった。
 
 街から歩いて一時間程のところに、今は使われていない炭鉱がある。数年前の地震で岩壁が崩れ、立ち入りできないようになってしまったのだ。ミヤコはいつものように周囲に誰もいないことを確認すると、入口を塞いでいる岩と岩の狭い隙間に潜り込んでいく。子供一人がようやく通れる隙間の奥、そこはミヤコだけの“秘密の場所”だった。他の誰も知らない自分だけの場所。炭鉱の存在自体は知られているだろうが、少なくともこの場所の“本当の秘密”を知っているのは自分だけだろうと思っていた。
 
(わたしは知っている。この洞窟が――光の国と繋がっていることを)
 
 地底と地上を繋ぐ場所は、どこも必ず見張りの者が立ち、簡単に行き来できないようになっている。ミヤコは地底側のことしか知らないが、恐らく地上も同じだろう。しかし過去の歴史を振り返っても、たまにこういった抜けが出てしまうことはあったようだ。
 
 もしかするとここにあるものは、戦争中に地上人か地底人のどちらかによって、進行か退避目的で作られた秘密の穴なのかもしれない。誰にも知られていないということは、結局使われなかったのか、忘れられているのか……地震で埋まり塞がってしまったと思われているのかもしれない。
 
 ミヤコは身体を平べったくして、僅かな隙間を次々にすり抜けていく。そして奥にある少しだけ開けた場所に辿り着くと、上を見上げた。その先にぼんやりと見えるものは、地底には存在しない色。炎とは違う不思議な光である。
 
(あれが、地上の光……。穢れた地に降り注ぐという、神々の怒りなのだろうか)
 ミヤコは目を細め、小指の先ほどの白い光を見つめた。そこからは怒りも悲しみも歓びも、いかなる感情も感じない。
 
(浅ましく卑しく悍ましい、母を殺した悪魔共。そのような者達が、本当にあの先に居るというのだろうか?)
 ミヤコは僅かに逡巡した様子をみせたが、やがて意を決したように、まだ細く頼りない手足を壁の凹凸にかけて……上り始める。
 
 少女を突き動かすのは、母の仇への復讐心であり、厳しい父への反抗心であり、だが恐らく殆どは純粋な好奇心だった。少女はいくら大人びていても、まだ無邪気で無謀な十三歳の子供なのである。
 
(少しだけ覗いたら戻ってこよう。大丈夫、誰にもバレないさ)
 恐ろしい地獄のような地上を目にすれば、父の言葉に、自分の戦士としての宿命に納得できるような気がした。納得できればもう、辛い日々の鍛錬から逃げ出したいだなんて思いも無くなるはずだ……。
 
 小指の先程の光は、手の平大になり、頭がすっぽり入るくらいになっていく。壁を上り続けた手は酷く痺れていた。ミヤコの懐には回復の呪符があったが、少しでも意識を逸らせば手を滑らせ落ちてしまいそうで、使うことが出来ない。しかし今は足元に広がる闇よりも、目の前の光の方が恐ろしい。恐ろしく、美しい。
 
(なんだ……この暖かさは。これが肌を焼くという熱線だろうか?)
 その光は既に肌に触れているが、それは焼けるというより、柔らかく溶けていく感覚に近い。肌表面にじわりと広がる温もりは、とても危険なものには思えなかった。……もし、少しでも痛みを伴ったら、すぐに引き返せばいいだろう。あと少し、あと一歩、さあ、未知の世界はすぐそこだ。
 
 ――穴を抜けた時、ミヤコは“殺された”と思った。何も見えない。視界が白く眩み、刺すような痛みに思わず目を閉じる。これが神々の怒りか?それとも地底人を迎え撃つ、蛮族の罠か何かか?……と思ったのも束の間、すぐに痛みは薄れ、瞼の向こうは穏やかな橙色に包まれた。まるで昼寝から目覚める時のような心地良さを感じながら、恐る恐る目を開け、ミヤコは息を呑む。
 
 すぐ目の前に、生き物がいた。
 
 雪のように白い肌。薄い杏色の唇をきゅっと締めて、大きな青の瞳を揺らした少女らしき生き物が、ミヤコをじっと見つめている。深い藍色の髪は宙を舞い、その後ろでは色とりどりの花が咲き乱れ、はるか遠くに澄んだ水色の天井が広がっていた。
 
 ミヤコはまだ半分穴に入ったままの身体を引き上げ、震える脚で地上を踏みしめると、その生き物に向き合った。
 
「君は、光の国に住まうという、悪魔か?」
「あなたこそ、闇の国に住まうという、妖魔なの?」
 
 どうやら言葉は通じるらしい。二人は互いに幽霊でも見るような目で見合っていたが、いつまで経っても相手が攻撃してこないことと、周囲に自分達以外の姿が無いことを確認すると、どちらからともなくその場に座り込んだ。安堵というよりは驚きのあまり、腰が抜けたのである。二人は暫く呆然としていたが、先に我に返ったのはミヤコだった。
 ミヤコは自分の下にあるものに目を留め、不思議そうに呟く。
 
「これはなんだ?随分と脆い花だ」
 糸で縫いつけられている筈の花びらは、少し引っ張れば簡単にちぎれる。茎を持てばプツッと地面から取れた。触れているそこは俄かに湿っているようでどことなく気持ち悪い。……しかし、もっと不可解なことが現れた。目の前の少女もどきが、突如瞳に涙らしきものを浮かべたのである。ミヤコはようやく、彼女が自分と変わらない人間の少女なのだと理解した。
 
「な、何を泣いているんだ」
「駄目よ、お花たちに酷いことしないで」
「お花たち?悪いのは、このような甘い縫製をした職人だろう?それとも地上では質より量なのか?よく見れば大きさも形もバラツキがあるが……」
「同じものがないのは当たり前だわ。一つ一つが生きているんですもの」
 ミヤコは少女の言葉に驚いて、今引き抜いたばかりの花を凝視する。よく見ればそれは、作り物とは違い……妙に生生しく瑞々しい。
 
「生きている?」
「そうよ」
 そう返事をする声が、思ったよりずっと近くでしたことに、ミヤコはギョッとする。地上人の秘術なのか、花に気を取られて油断しすぎていたのか、少女はいつの間にか自分のすぐ隣に来ていた。靡く藍色の髪がミヤコの着物を掠め、少女の白く細く冷たい手が、ミヤコの手に触れる。
 
「命を粗末にしてはだめ。全ての命は等しく、神から与えられたものなのだから」
「……ごめん、生きている花を見たのは、初めてだったんだ」
 悲しみを湛える少女の瞳に、ミヤコは心が痛んだ。どうにか許してほしいと思った。ミヤコは手元にあるまだ咲いているようなその花を、少女の耳元にそっと挿す。純白の花は清らな雰囲気の少女にとてもよく似合っていた。
 
「綺麗だ……ここに咲くどの花よりも。可哀想なこの花も、君の傍なら救われるに違いない」
 ミヤコは言い終えてから、自分の言葉に驚く。このような歯の浮く台詞など、今まで幾度となく社交辞令として用いてきた筈だった。どれも女子が好みそうな本から学び、それをそのまま真似ていただけ。しかし今自分が言った言葉は、どの本にも載っていなかったように思った。
 
 藍色の少女は僅かに眉を寄せて唇をむっとさせる。白い肌がほのかに色づいていた。機嫌を損ねてしまっただろうか?と不安になるミヤコだったが、少女は自分を落ち着かせるように小さく息を吐いて、ゆるやかに表情を解いていく。……もしかしたら彼女は照れていたのだろうか?女性を褒めてそのような反応が返ってきたことは初めてで、ミヤコは自分の顔が熱くなるのを感じた。ミヤコのその様子が、自分自身の台詞に赤面しているように見えたのだろう。少女はおかしそうに笑った。
 
「変なお方ね。あなた、お名前はなんと仰るの?」
「わたしはミヤコ。闇の国の戦士として修業中の身だ。……君は?」
「私は青藍(せいらん)。光の国の神子として、神に仕える身よ」
 
 それから二人は暫くの時間を共に過ごした。いつの間にか地底人であることも地上人であることも忘れ、ただの同じ生き物、ただの二人の子供になっていた。
 ミヤコは鞘を腰から抜き、青藍はベールを脱いで、駆け回っては語り合い、また駆け回った。花を避けながら駆け回る自分達の様子を、青藍はまるでダンスをしているようだ、と言った。
 
「青藍、君は不思議な人だね。こんな気持ちになったのは初めてだ」
「ミヤコ、あなたもとっても不思議!わたしもこんな気持ちは初めてよ」
 ミヤコと青藍には、今まで周囲の大人達が嘘を吐いてきたのだとしか思えなかった。これまでの全てを疑う程に、二人は急速に惹かれ合っていた。
 
「……ああ。もう、帰らなければ。屋敷の者が心配してしまう」
「もう、帰ってしまうの?」
 “空”という名の天井が、少しずつ赤を孕み始めた頃、ようやくミヤコは時間というものを思い出した。教育係の教えによると、地上では時間が経つと天井の色が変わるのだという。懐から時計を取り出すと、自分が炭鉱に着いてから五時間も経っていた。
 帰ることを告げると、青藍は泣き出しそうな顔をする。それを見たミヤコもつられそうになるが、ぐっと堪えた。
 
「また、会えるさ。約束しよう」
「本当に?……ミヤコ、小指を出して」
 青藍の言葉にミヤコは首を傾げながらも、そっと小指を差し出す。すると青藍はそれに自分の小指を絡ませ、
 
「神よ、我らの誓いを、未来をお約束ください」と小さく呟いた。
 
「今のは?」
「ふふ。約束の徴よ。神様に誓いを立てたの。私達の約束が果たされるよう、守って下さるように」
「お守りみたいなものか?凄いな君は。ありがとう」
 ミヤコはもう、彼女が神々の怒りを買う地上人だとは思っていなかった。彼女のような人は、人も神も愛さずにはいられないだろう。
 ミヤコは名残惜しそうに離された小指に、何か熱い力が宿っているような気がして、愛しそうにそれを唇へ寄せた。そして自分の懐から一枚の呪符を取り出すと、それを青藍の手に握らせる。
 
「これは?」
「まだ未熟だが、わたしの力が込められている守りの札だ。また会うその時まで持っていて欲しい」
 ミヤコがそう言うと、青藍は大切そうにそれを胸元に寄せ、輝くばかりに微笑んだ。
 
 それが、闇の国の戦士と光の国の神子との出会いであった。
inserted by FC2 system