Act5.「不穏」
夜が明け夕方になると、達は早々に旅館を出た。雪は降り続けているものの強弱があるらしく、今は細雪がまばらにちらついているだけだ。人々は傘を閉じている。空は分厚い雲に覆われており、街には明け方に似た青い薄暗さがあった。怪しげなネオンライトは、徹夜明けのように寂れた雰囲気を醸し出している。
花見街の中心に聳える嘉月会本部に向かう道中、は隣で押し黙っている常盤が心配になり、そっと声を掛けた。
「常盤さん、大丈夫ですか? もしかして二日酔いとかじゃ、」
「……いや、大丈夫だ。心配いらない」
常盤は決まりが悪そうな顔で答える。その瞳は少しの間だけを映したが、すぐに前を向いてしまった。どこか遠い目で、物思いに耽るように嘉月会の御殿を見ている。少し後ろの方を歩いている黄櫨も、ずっと同じ様子だ。(二人にとって、嘉月会はどんなところなんだろう……?)
「この辺りは随分賑やかだな」
ジャックの言葉に、は「確かに」と相槌を打つ。周囲を見回すと、ここは飲み屋が集まっている場所らしい。外まで漂う酒と煙草のにおい。立ち並ぶ店の中からは、豪快な笑い声が響いてくる。突き出すネオンサインには分かりやすく『酒』の文字と、徳利、泡立つジョッキ、サクランボ入りのカクテルグラス……あらゆる酒のマークが主張していた。
ゲームや物語において、冒険者が情報収集のために立ち寄る場所といえば、酒場が定番である。しかしは絶対に入りたくないと思った。特にこの店……と一つの酒場を横目に見る。賑やかというレベルではない。不快なまでに騒々しい。
下品な騒ぎ声。椅子やテーブルがガタガタいう音。何かが割れて、怒号が飛び、悲鳴が上がり、
――流石におかしい。普通じゃない。……危ない!
は、異常を察した時には既に、常盤に手を引かれ後ろに庇われていた。彼の前ではジャックが壁になるように立っている。
キャーッ、ウワァーッ、という人々の叫びと共に、店の中から男の体が飛んできた。雪の上に投げ出されたその体は、ピクリともせず伸びている。鼻と口の両方から流れ出る血が、白い道を赤く染めた。
(な、なに?)
は背筋がぞっとして、頭から血の気が引く。
飛んできた男に続くようにして、酒場から一人の巨漢がゆらりと姿を現した。筋肉も脂肪もたっぷり纏った達磨のような男だ。顔は土気色で、目は虚ろである。
はその巨漢が、先程の男を吹っ飛ばしたのだろう、と思った。その予想を裏付けるかの如く、男は手あたり次第めちゃくちゃに暴れ始める。入口に置かれていた酒瓶がなぎ倒され、建物の壁にぶつかって割れた。通行人に殴りかかろうとしたところを、ジャックが止めに入る。
ジャックは、男の腿程もある太い腕を流れるように捕まえて、あっさり地面に引き倒した。男の腕を後ろに捻り上げ、身動きを封じる。二人の実力差は誰が見ても明らかだった。いくら逞しい巨漢であっても、男は一般人。戦い慣れた騎士には赤子を相手にするようなものなのだろうか?
は、涼しい顔をしているジャックにほっと一息吐くが……捕らえられているその男が、無理矢理に起き上がろうとする。ゴキゴキ、と関節が捩じれて折れるような、嫌な音がその場に響いた。
は思わず顔を顰める。頭の中には、手羽先を食べやすく千切るイメージが浮かんでいた。
「なんだ、コイツ!」
まるで痛みなど感じていない様子の男に、ジャックが気味悪そうに声を上げる。「ジャック!」と常盤が彼の名を呼んだ。暴漢は一人では無かったのだ。店の中から出て来たもう一人……二人の男に、ジャックは背後から殴りかかられそうになり、仕方なく巨漢から手を離してそれを避けた。
(なんなの、この人たち)
最初に出て来た巨体の男も、後から出て来た二人の男も、正気を失って見える。酒場で飲み過ぎた酔っ払いというよりは、まるでゾンビだ。そこに人間らしい意識が見えない。脳の制御装置が外れたように暴れ狂う男達に、騎士達も手間取っている。一般人相手に剣を振ることが出来ずにいるのだ。
「、ここはジャック達に任せて離れよう」
「は、はい。……あれ? 黄櫨くんは?」
は視界に居ない少年を慌てて探した。そして少し離れた場所にその姿を見つける。黄櫨は、野次馬や逃げる人々の波に流されそうになりながら、こちらに小走りで近付いて来ていた。その足が雪道に倒れたままの男の横を通り過ぎる時――気を失っているとばかり思っていた男の体が僅かに動き、無骨な手が黄櫨の足首を掴む。
「黄櫨!」「黄櫨くん!」常盤との声が重なった。
「常盤さん! わたしは大丈夫ですから、黄櫨くんのところに行ってください!」
の言葉に常盤は躊躇う様子を見せたが、が「早く!」と急かすと黄櫨の元に走っていく。は、役に立たない自分はせめて迷惑をかけないように、どこか安全な場所に避難しておこうと思った。とりあえず、野次馬達が作る厚い壁の層に潜り込む。肉壁一層目、二層目……に差し掛かった時、は人と人の間に見慣れた色を見つけた。激しさと穏やかさを併せ持つ、鮮やかなオレンジ色。
「え……橙?」
は驚きに目を瞠った。オレンジ髪の少女もこちらを見ている。その顔は、つい最近ずっと見ていたような、それでいて見たことがないような……奇妙な感覚をに抱かせた。あの少女は本当に橙なのだろうか? だとしたら何故ここに?
はその姿に吸い寄せられ、無心で手を伸ばす。と、その手は少女によって強い力で掴まれ、ぐっと引っ張られた。はよろめく。少女は遠慮ない力でを掴んだまま、歩き出す。は人にぶつかり、転びそうになりながら、引かれるままに人混みを抜け出した。
妨げるものがなくなると、自分の手を引く少女の後ろ姿がはっきり見えるようになる。肩上で揺れるオレンジの髪。この寒さの中でも変わらずさらけ出された肩。自分と背丈のそう変わらない少女。やはり、橙である。
「橙、ちょっと待って! どこに、」
何故彼女がセブンス領から遠く離れた永白に居るのか、自分を引っ張ってどこかへ連れて行こうとするのか、にはさっぱり分からない。それに――その細腕の力は少女の物とは思えなかった。体重をかけてもびくともせず、引き摺られてしまう。橙の足は早歩きから駆け足へと変わり、どんどん速度を上げていった。は喋ると舌を噛みそうで、何も言えなくなる。
雪道をどうしてそんなに速く走ることが出来るのか。橙は風のようだった。賑やかな通りを抜け、いくつもの角をジグザグに曲がり、どこまでもどこまでも進んでいく。は途中から、自分の足が地に着いていないように感じた。
橙が立ち止まったのは、人気のない路地裏。そこではようやく腕を離される。勢いが付いていた体は止まらず、その場に膝をついて転んでしまった。……座り込んだ状態で見上げると、確かにそこにはあの、気の強そうな少女がいる。吊り目がちな目、きゅっと上がった口角で「久しぶりね。にとってはちょっとぶり、かしら」と言った。
「な、なんなの」
「え? ああ、アタシもちょっとここに用事があってね。を見かけて、あの場所は危ないから安全な場所へ、と思って」
「……誰なの、あなた」
橙の顔から、すっと表情が消える。しかし作られた笑顔よりもよほど、それは人間らしかった。
は、やはり目の前の人物は橙ではないのだと悟る。確信があったわけではないが、なんとなく“違う”と感じたのだ。纏う雰囲気、表情も喋り方も、微妙に違う。強気で活発な少女を誰かが演じている風にしか見えなかった。本物の橙はもっと、どこか心の奥に繊細なものを抱えているような、危うげなところがあるのだから。
「やっぱり、よく知らない者を“演じる”のは無理があるか」
澄んだ少女の声が、低い男の物に変わっていく。その様子はまるで壊れた玩具のようで不気味だった。……声だけではない。姿も変わっていく。雪景色にそぐわない露出の多い格好は、全身を黒いローブで覆ったものへ。背は伸び、肩幅も一回りは広くなって見えたが、だぼっと余った布地の奥の体型はよく分からない。それでももう、少女に見間違えることはなかった。深く被ったフードの、見えている下半分の顔は、苦々しさを浮かべている。
「どうして分かった?」
鋭く問われ、は何も返すことが出来なかった。声が喉でつっかえ、唇が震える。
(誰、この人……なんで橙に……わたしをどうする気?)
殺されるかもしれない、と妙にリアルな恐怖が芽生えた。フード男の目的が何なのかなんて考えている暇はない。逃げなくては。だが、大股で歩み寄ってくる男の気迫に、は動けなかった。
男の腕がバッと伸ばされ――その瞬間、には相手の体が不自然に歪んで見えた。まるで自分との間に透き通る壁が出現したみたいに、視界に違和感が生じる。
それは分厚いガラスのような……違う、ガラスじゃない。
壁は序所に光を集め、何かを映し出す。はそこに、自分自身の姿を見た。
(鏡?)
壁の正体に気付いた瞬間、それはパン! と弾け飛ぶように割れた。粉々になった破片が雪の結晶のようにキラキラと宙を舞い、に向かってくる。まずい、と咄嗟に腕で顔を庇おうとしたが間に合わず、目に激しい痛みが走った。は焦る。鏡の欠片が目に入ったらどうなるかなんて、考えたくもない。痛みで目を開けることが出来ないが、無理矢理にでも取り除かなければ、と手を宛がう。が、欠片はスルスルと中に入り込んでしまい、痛みと共に染み込んで消えていった。
(なに、どうなったの? 大丈夫なの? え?)
滲んだ涙で視界はぼやけているが、見えているには見えている。出血している感じもない。それでも安心とは程遠かった。一時的に急所を逃れているだけかもしれない。
(なんにしても、まずはこの場から逃げなくちゃ……)
目の前に居るローブ男は、何故か黙って突っ立っている。すぐに何かを仕掛けてくる気配は感じられない。今の内に、とが足に力を入れて腰を浮かせかけた時……
ウー! ウー! とけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。涙が渇き鮮明になってきた視界で、赤が点滅する。建物の屋根下や柱に取り付けられたランプが、危機感を煽る赤色に点滅し、唸りを上げているのだ。
が呆気に取られている時、フード男が動きを見せた。彼はサイレンに舌打ちすると、その場から走り去っていく。逃げ出したい相手が先に逃げてくれたのだから、にとっては願ってもないことだった。しかしほっとする間もなく、今度は別の者に捕まってしまう。
屋根から屋根を忍者のように飛び伝って、を囲むように降り立った、お面の二人組。――面はどちらも鳥を模しているが、一方は猛禽類のように鋭い顔つきで、もう一方は円い目と大きな嘴をしている。後者はやけにカラフルで、一目でオウムだろうと思った。
(黒装束のお面……彼らは、嘉月会の……)
「今しがた、ここで多量の魔力放出が検知された。お前の仕業か? 一体何をした」
「は、はい?」
「返答次第では……いや、返答がなくとも、お前を連行する」
彼らの言っている事が、には分からない。あのサイレンが魔力とやらに反応していたのだろう、ということまでは想像が付くが……
「わたしは何もしていません。怪しいローブの人に連れて来られて、」
「お前以外に誰も居ないが?」
「足跡があるじゃないですか」
「足跡だけを捕まえることはできないな」
猛禽類……恐らくワシの面を被った方は、淡々と話す男だった。オウム面は何が面白いのか、面の奥で「くぁっくぁっ」と個性的な笑い声をあげる。甲高い声だが、こちらもきっと男だろう。
「そうだね、足跡だけを捕まえることはできないね。捕まえることが出来る者を、捕まえるしかないね」
「いや、話を聞いてください。それに、わたしが何をしたって言うんですか?」
魔力を検知したと言うが、周りには何も被害らしい被害はない。ならば彼らはどのような罪状で、自分を連行しようというのか。は畳みかけるように「何も起きてないじゃないですか」と身の潔白を訴える。ワシ面は周囲を見て「確かにな」と頷いた。は話が通じた、と思ったが……
「しかし、何か起きてからでは遅い。平和のためには――“疑わしきは、罰すべし”だ」
ワシ面はそう言うと、の手を後ろ手に縛りあげる。そして抗議の声を上げる口へ、猿轡を噛ませた。「暴れると痛い目にあうぞ」と脅され、は大人しくなる。オウム面がまた「くぁっくぁっ」と笑った。
「罰すべし! 罰すべし! ねえ、この子、俺にちょうだいよ。最近新しいペットが欲しかったんだ」
「……とりあえず連れて行こう。副会長に指示を仰がねばなるまい」
「うん、連れて行こう! 連れて行こう!」
ワシは、はしゃぐオウムを「やかましい」と一蹴する。それから――周囲に残る“魔力の残滓”を見て、胸をざわつかせた。
嘉月会で魔術を学んだ彼の目には、雪の上に積もり、建物の壁にこびりつき、空気中を漂っているそれが見えている。持ち主の身体を離れてもなお、色濃く残り続ける魔力。これが誰かの仕業なら……とてつもない脅威である。
すんなり捕らえることのできた少女が、その正体とはとても思えないが、何らかの意図で力を隠しているだけかもしれない。
(くそ……これ以上、厄介ごとを起こしてくれるなよ)
永白の国で一番の魔術師。彼らが頼りにする人物が、今の嘉月会には居ないのだから。