Act31.「幕引」



 二人きりの鏡の中は静寂だった。重たい沈黙は震える少女の息遣いを響かせる。男は今しがた入って来たばかりの鏡を見つめている少女――アリスに、掛ける言葉がなかった。

 を鏡の世界に捕らえ、世界の終焉まで虚構の中で眠らせておくこと。虚無化の邪魔をさせず、残酷な真実に気付かせず、優しい偽りの中で守ること。それがアリスの命令で、切実な願いだった。男は期待に応えられなかった自分がもどかしく、歯を食いしばる。

 彼女の震えは、失意か、怒りか、悲しみか。しかしそのどれでもなかった。アリスが顔を覆っていた面を邪魔くさそうに取ると、歪んだ笑みが露わになる。

「ねえ、見た?」
「……え?」
「あなたも見たわよね? あの子が……が私のこと、見てたの!」
 アリスは自らの震える体を抱きしめ、堪えきれない何かに身を屈める。

「ふふ、ふふふ、嘘みたい! 夢みたい! 私の近くに……手が届きそうな程よ? 本当に居たの。の目に私が映ってた。目が合ったの! もう会えないと思ってたのに、会うつもりなんてなかったのに、あは、あははは!」

 興奮に染まる頬、荒い息、悦に入った瞳。狂気じみたその様子に、男は彼女が壊れてしまったのではないかと思った。彼女が、彼女でなくなってしまう。

「会いたい、会いたい、会いたい、私の大切な、たった一人の、」
「しっかりしてください!」
 男はアリスの肩を掴み、強引に自分の方を向かせた。熱に浮かされたアリスの目が、徐々に落ち着きを取り戻していく。いつも通りの悲しく美しい暗色に沈む。

(良かった……)
 彼女は彼女のままだ。まだ世界に呑まれていない。
 正気を取り戻したアリスに、男は安堵の涙を滲ませる。気付かれないようフードを更に深く被り直すが、鼻を啜る音は隠せない。アリスは少し呆れた、優しい目をした。

「……私、何を言ってるのかしらね。あの子に会うのは、もうとっくに諦めた筈なのに。あの子だって私に会いたいなんて、思ってもいないのにね」
 まるで誰かの否定を求めるみたいな弱々しい声。卑屈な響き。嘆き。ふっと口元に浮かべられた笑みは、彼女がよく浮かべる自嘲だ。

「私はあの子には必要ない。だって私はもう、あの子の親友じゃないんだもの。あの子の唯一無二の、大切な親友は……あなたなんだものね」
 どこまでも自らを絶望に落としていく、アリス。希望の無い世界で、苦しむだけの期待を持ちたくないのだろう。あまりに悲しいその声に、男は泣きたくなった。 

「それは違います! 俺は、あなただ。鏡に映るあなた自身だ。あいつの親友はあなた一人だけです!」
「別に慰めなんていらないわよ。それに、あなたはあなたでいい。私は独り言を言いたい訳じゃないもの……ね、鏡也(あきや)」
 鏡也と呼ばれた男は、自分の言葉が彼女の癒しになり得ない事を痛感した。

 二人は鏡の中を歩き、元居た場所に向かう。鏡也は自分の力でアリスに優しい夢の一つでも見せたかったが、彼女がそれを求めていないことはよく分かっていた。果て無き鏡の道は、怪しげなフードの男とファンシーなエプロンドレスの少女を幾重にも反射するだけである。

 ふと、アリスが何かを感じ取ったように虚空を見上げた。

「……雪が止んだわ。どうやらハッピーエンドみたいね」

 ――湖の分厚い氷が割られ、アリスの引き起こした冬が終わったのだ。
 不思議の国と繋がるアリスは、紡がれた物語を読むことが出来る。既に終えた、改竄出来ない物語だけを。

 鏡也は、三月ウサギが湖に張られていた“魔法”を破ったのだろうと思った。

 今回、鏡也が永白を舞台に選んだ理由はいくつかある。国境のゲートをはじめ魔術の道具として鏡を用いる永白は、鏡也にとって忍び込みやすい場所だということ。トランプ王国からそれ程遠くもなく、森に囲まれ外部からの支援を受け難いため、をおびき寄せ捕らえるのに都合が良いということ。森の中の湖を凍らせ巨大な氷面鏡とすることで、鏡の力を増幅させることが出来るということ。

 だが、悪条件もあった。それがヘイヤだ。強力な魔術を使うヘイヤは今回の企てを進める上で必ず障壁になる。だから先に捕らえ鏡に閉じ込めたのだ。

(……あいつが鏡の幻に打ち勝つとは思わなかった)
 ヘイヤが正気に戻ったことは、鏡也にとって想定外のことだった。ヘイヤが求めているものを自分はよく知っている。ヘイヤ――ミツキの心は、誰より理解できていると思っていたからだ。

 ミツキがヘイヤを失ったあの日。鏡を通じて伝わってきた、大切な誰かを失いたくないという痛烈な気持ち。自分を犠牲にしてでも、なり替わってでも、その存在を守りたいと思う気持ち。鏡也はそれに共感し、彼女に“姿うつし”の力を貸してしまった。ミツキの感謝の言葉に罪悪感を抱いたのを覚えている。その力は救いとなるも、彼女を苦しめ続けるに違いないのだから。
 
 ……自分が自分ではない感覚。本当は向き合っていたい相手が、鏡に写る感覚。声を聞きたくて独り言ばかりが増えていく感覚を、鏡也はよく知っている。だから、夢の中でも会えたなら、醒めることは選ばないだろうと思っていた。

「正直、三月ウサギが夢から醒めたのは計算外でした」
 鏡也は言い訳に聞こえないよう、淡々と口にする。ヘイヤが眠ったままなら結末は違っていたかもしれない。ヘイヤとの戦いが、彼により齎された命の危機が、の強い意識を引き出したのだろう。それがなければ……あのネズミが居なければ……を騙しておくのは、きっとそんなに難しい事ではなかった。は幻の親友を疑いつつ、拒絶する気が無かったのだから。

「あら、そう? 私はやっぱりと思ったけどね」
「え? なんでですか」
「そんなの決まってるじゃない。相手がなんだもの」
 アリスはさも当然という顔で言った。
 三月ウサギの目を醒まさせたのが、現実に繋ぎ留めたのが、直接的には他の誰かであったとしても――そのように物語を繋げたのはである。もまたアリスと同じく、世界を“紡ぐ側”なのだ。

「あいつは本当に厄介ですね。ったく、こっちの気も知らずに」
「知らないままでいいのよ」
「そう、ですね。……これからどうしますか? 正直、あいつを捕らえるのは難しいと思っています。今回のことである程度の耐性は出来ているでしょうし、下手に刺激すると“これまでの呪い”が解けて、思い出しかねない」
「随分と弱気ね。まあ確かに、あの子は大人しく捕まっているタイプじゃないわよね」
「申し訳ございません」
「時間も無いし、諦めましょう。本当はあの子を傷付けたくないし、悲しませたくないのだけど。大人しくしていないなら、世界の終わりを見せるしかないわね。……さあ、次の章へ行きましょう」

 世界が白む。アリスの横顔は強い覚悟で張り詰めている。これまでは躊躇いながら、苦しみながら虚無化を進めていたアリス。今回の異変でも誰かの命を奪うことは避けていた。彼女は優しいのだ。そして残酷なのだ。その優しさが自身に向かず、他人にしか向かないことが、彼女を大切に想う者を傷付ける。
 

『かがみさん、かがみさん』
 懐かしいあの日、唐突に話しかけてきた幼い彼女。自分の真似をしたがるなんて変わっていると、まじまじ見つめてきた彼女。鏡はその時までは、ただ物の姿を映すだけの意志の無い道具だった。左右逆に真似するしかできない偽物。だがあの日、彼女と目が合い――彼女に名を授けられ、個が生まれた。一つの人格が生まれた。彼女が鏡に命を与えたのだ。

(俺は、この人のためなら何だってできる。命なんていくらでも賭けてやる。なのに何で……この人を救うことは出来ないんだ)

 世界の贄となり、一人ですべてを背負った彼女。彼女の望みは次なる贄として親友に危険が及ばないよう、世界を終わらせ共に消えることなのだ。鏡也は彼女のために、彼女を失う道を歩いている。

「ねえ鏡也。世界が終わったら……ちゃんと私として、あの子の傍に居てあげてね」
「俺は……あなたの意思に従います」
「それって、従いたくない気持ちがあるってこと?」

「まさか。俺の心はあなたと共にありますから。……紫さま」


 アリス――桃澤紫は、薄く笑んだ。



 *



『ねえ、かがみさん。かがみさん。ぼくのマネなんてしても、つまらないでしょ? マネするなら、あの子がいいんじゃない? ぼく、あの子が見たい』

『ねえ、なんとか言えば。……ヘタなマネはやめてさ。ぼく、そんな顔してないし』

 ――してる。とても寂しそうな、顔をしてる。

『……だって、あの子がぼくをおいて、あそびに行っちゃうから。じゃあさ、かがみさんが話あいてになってよ』

『かがみさん、名前は?』

 ――名前なんて、無い。

『じゃあ、ぼくがつけてあげる。……ちょっとまって。ちゃんと考えるから。かっこいい名前にするから、まってて。カンジじてんもってくるから』

 ――変わった子だな。真似なんて、できそうにないよ。



 ―― 第三章『三月ウサギと鏡の迷宮』完 ―― inserted by FC2 system