Act30.「パンプディング」



 帰りの馬車の中、は向かい合って座る黄櫨に気まずさを感じていた。鏡の中で、彼には見られたくない自分を沢山見せてしまったのだ。黄櫨の中の自分に対する印象は変わってしまっただろう。行きの馬車より、彼との距離が遠い気がした。

 自分は、黄櫨にとって大切な存在であるミツキを追い詰めた。血濡れ姿で槍を振るっていたあの時のことは、覚えてはいるもののどこか信じ難い。体を支配していた不思議な熱はもうすっかり冷めており、まるで夢の中の出来事に思えた。
 ミツキがヘイヤの姿に戻った原因も……納得はしていないが、自分が彼女の存在を否定したからだという。その後フードの男――鏡が勝手に代弁してくれた醜い感情も含めて、黄櫨の中で自分がどんな存在になってしまったか、考えると憂鬱だった。

(折角、仲良くなれたと思ってたのにな)
 は鼻をぐすっと啜った。

「は……くしゅっ」
 くしゃみをしたに、黄櫨は一瞬自分が呼ばれたと思ったのか、手元の本から顔を上げて口を開きかけている。は恥ずかしくなって「ふふ。なんか馬車の中、寒いね?」と誤魔化した。

「そう? 普通だけど」
「そうかな。わたしだけか……」
 はコートを手繰り寄せる。森で汚してしまったケープコートの替わりに、嘉月会で用意してもらった新しいコートだ。飾り気のないシンプルなコートに、前の方が可愛くて好きだったな……と思う。黄櫨は寒そうなを暫く見つめた後、おもむろに首のマフラーを解き、差し出した。

「え、大丈夫だよ。悪いよ」
「大丈夫じゃないよ。風邪でも引かれたら困る」
「あ、ありがとう」
 遠慮がちに巻いたマフラーから感じる、優しいぬくもり。石鹸でも花でも果実でもない良い香りがした。は『黄櫨くんは匂いまで可愛いね』なんて気持ち悪い言葉が口を突いて出そうになり、堪える。それくらいホッとしたし、舞い上がってしまったのだ。黄櫨にそこまで嫌われてはいないかもしれないと。

 黄櫨もまた、そっと息を吐く。彼もとどう接していいか分からずにいたのだ。

 黄櫨は今回の事で、に非があるとは思っていない。彼女は巻き込まれた被害者だ。ただ鏡の中で見たの姿が、恐ろしい一面が、焼き付いて離れない。あれは本当に現実だったのだろうか?
 鏡の中での一連の出来事を常盤に話した際、あの時のの様子については詳しく説明できなかった。……説明しなかった。言葉にすることで現実味を帯びてしまうのが恐ろしかったのか、ただ常盤を心配させたくなかったのかは、黄櫨自身分っていない。ただ話してはいけない重要な秘密に感じられたのだ。
 ヘイヤも、自分がに明らかな致命傷を負わせたことも含め、その部分はぼかして話していた。責められたくなかったというより、アリスに興味が向いていて説明が適当になっただけだろう。を傷付け苦しめた敵は、鏡だということになっている。(事実そうなのだが)

 そして示し合わせたように、もヘイヤに何をされたとは言わなかった。以前殺されかけたジャックにもそうであるように、彼女は恨みを残したがらない。単なるお人好しとは違う保身なのだろう。
 
「ねえ、黄櫨くん」
「なに?」
「鏡の中に助けに来てくれて、ありがとね」
 柔らかな笑みを浮かべる。今目の前に居る彼女こそが本当の姿だったらいいと、黄櫨は思った。

「……僕も、ありがとう」
「え?」
が居てくれて、良かった」
 きっと、一人ではヘイヤに立ち向かう勇気は出なかった。守らなければならない存在が居たから戦うことが出来た。ミツキと向き合うことが出来た。が居なければ、こういう結末にはならなかったに違いない。

 感謝の意味が分からずポケッとしている。黄櫨は穏やかな気持ちで目を閉じた。
 
「次の街まで、ちょっと寝るね」
「あ、うん……えっ。黄櫨くんが……寝る……?」
 驚き戸惑うを愉快に感じながら、黄櫨は懐かしい闇に沈んだ。

 眠るのは嫌いだった。眠っている間の時間がなくなってしまうようで。眠っている間に全てが終わってしまい、取り返しが付かなくなるのが怖かった。


 でも。なんだか今は、眠れる気がした。



 *



 ――思えば予兆はあった。続く気怠さ、馬車での寒気。は帰りの道中で高熱を出した。モスに渡された薬は風邪薬だったのである。周りに気遣われながら何とか常盤の家に戻って来て……自室のベッドに入って。寝ていたのか、目を閉じていただけなのかは定かではないが、常盤の声で意識が浮上した。彼が部屋に入って来たことに全く気付けなかった。

、具合はどうだ?」
「……はい」
 心配そうな常盤に今のは強がる気力も無い。ベッドからぼんやりした顔を出して、答えになっていない返事をする。「まだ熱いな」と額に当てられた手が、ひんやりして気持ち良い。常盤の後ろから「へえ。随分カワイイ部屋だな」とジャックの声もした。が少し顔を上げて見れば、そこにはソワソワ部屋を見回しているジャックの姿。黒一色で固めた彼は、ピンク色の部屋ではかなり浮いている。

「ジャック、勝手に入って来るな」
「いいだろ、心配して見舞うくらい。なあ?」
「……うん」
「おい……本当に大丈夫か?」

 ピークを超え悪寒は引いたものの、まだ全身が重い。体の外側に皮膚が一枚くっ付いているみたいに感覚がぼやけていた。永白を出てからずっと食欲も無く、モスから食後にと言われた薬を飲む為だけに、少しスープを口に含んだ程度だ。常盤はまるでが死んでしまうのではないかという程に思いつめた顔をしている。

「何か欲しいものはあるか? 買いに行ってくる。食べられそうなものは……」
「う……今は大丈夫です。すみません」
「……どうして謝るんだ。君は何も悪くない。無理をさせてすまなかった」
 風邪の原因は、雪の中で長時間外に居たことだろう。は幼い黄櫨が元気で、自分だけ寝込んでいることに不甲斐なさを感じた。

 熱で瞳を潤ませたに、ジャックは森で鏡が化けた偽物の彼女を思い出す。弱々しいを見ていると少しだけ安心した。何事にも動じない彼女よりずっと安心できた。……弱さを見せない強さ。自分の知らないところで傷付いて、気付いた時には壊れている、そういう姿は見たくなかった。

「ちゃんと休んで早く直せよ」
「うん」
「……見舞いは済んだだろう。さっさと城に報告に行け」
 常盤に睨まれ、ジャックが肩を竦める。

「お前の分も報告してきてやるってんだぜ。感謝しろよな」
「わざわざ二人で行く意味がない」
「本当に城嫌いだよな」
 ……軽く言い合っていた二人が、気まずそうにを見た。病人の傍で騒がしくしたことを悔いているのだろうが、には心地よいBGMである。テレビが付いている方が眠れるという感覚なのかもしれない。
 その時、部屋の外から何か物音が聞こえた。黄櫨かと思ったが、どうやら一人ではない様子である。

「誰か来てるんですか?」
 の問いに常盤が答えるより先に、回答が部屋に入ってきた。その人物を見ては「あれ」と声を上げ、頭痛を気にしながらゆっくり起き上がる。……数日ぶりのピーターだ。黄櫨も居る。ピーターはいつも通りの仏頂面で、何故か小さな土鍋の乗ったお盆を持っていた。シュールな光景が彼らしい。
 とろんとした目のを見て、ピーターは若干表情を弱める。は不思議な気持ちになった。

「ただいま。どうしたの?」
「……雪が止んだから」
 まだ言葉が続くのかと思ったが、ピーターはそれで説明し終えたつもりらしい。雪が止んで異変が終わったから、常盤達の無事を確認しに来たのだろうな、とは解釈する。
 ところでその手のものは何なのだろう? と見つめていると、ピーターは三人の視線を嫌そうにしながら近付いてきて、の前で土鍋の蓋を開けた。詰まっている鼻に、ふわりと甘い香りが感じられる。ずっと嗅いでいたくなるプリンみたいな匂いだ。鍋の中には眩しい黄色。一口大に切られた食パンが、卵にジュクジュクに浸っている。バナナも混ざっていた。表面にはブラウンのシロップと粉糖。半熟のフレンチトーストだろうか? はごくりと唾を飲み込む。

「……とても美味しそうなこちらは、なあに?」
「パンプディングだよ」
「パンプディング」
 覚えたての言葉のように復唱する。ピーターの後ろから、黄櫨がひょこっと顔を出す。

「食べられそう? の食欲がないって相談したら、ピーターが食べやすいものがいいんじゃないかって」
「作ってくれたの?」
「黄櫨に相談されたから」
(それは今、聞いたよ)
 は「ありがとう」と頬を緩ませた。
 ベッドのサイドテーブルにそっと置かれたお盆。はスプーンを手に取り、慎重に一口目を掬う。じゅわっと卵が染み出し、その様が唾液腺を刺激した。スプーンの上でプルプル揺れるパンを口に入れると、どこか懐かしいまったりした味が広がる。体の芯が溶けていく。パンは舌で簡単に潰れる柔らかさで、あっという間に消えてしまった。

「とろとろ〜」と、は余韻に酔いしれる。勝手に二口目を運んでしまう手。「ふわふわっ」と幸せに浸る。が、自分に集中する視線を思い出して恥ずかしくなった。先程まで何も食べられないという顔をしていたのに……呆れられたに違いない。常盤は安心と、少し違う何かの混ざった顔で「良かったな」と言った。

 ジャックはニヤニヤとピーターを見て「随分、お優しいことで。明日は雪が降るんじゃないか?」と揶揄う。ピーターは鬱陶しそうな顔で何か言いかけたが――が「雪は止んだばかりだよ」と早口で遮った。黄櫨はの目を覗き込み、そこに何かを読み取る。小さな手が常盤の袖を掴み、引っ張った。

「病人のところに大勢で押しかけちゃ駄目だよね。そろそろ戻ろう」
 その言葉にピーターも振り返るが、黄櫨は「ピーターはがちゃんと食べるの見てて。あと食器片付けてね」と言うと、常盤とジャックを半ば強引に連れて出て行ってしまった。

「……はあ」
 ピーターが手持無沙汰な様子で、ソファに腰を下ろす。一人掛けのソファはにはぴったりだったが彼には窮屈そうだ。は自分のお守りをしなければならない彼に同情しつつ、食べ進めた。熱心にもぐもぐしているを、ピーターは時々チラッと確認して、何とも言えない顔をする。はそれに気付かないふりをした。

 鍋の中が残り少なくなると、食べる速度が落ちる。「もういらない?」と訊かれ、は首を横に振った。いらない訳がない。本当に美味しい。鼻詰まりじゃない時にまた食べたいくらいだ。ただ、食べ終えて彼が戻ってしまう前に、何か言いたいこと、訊くべきことがあるような、そんな気がするだけだ。

「……あの」
「なに?」
「元気だった? 変わりない?」
「は? ……病人が何言ってるの」
 呆れた声で言われ、はそれもそうだと思った。「元気ならいいんだ」と返す。

 ……永白で知ってしまった、アリスネームは殺せば奪えるのだという、恐ろしい秘密。の場合は適性による移譲だと言われたが、白ウサギの名を奪ったことでピーターに何かしら悪影響が無いか不安になったのだ。奪ったのではなく押し付けられたのだが。

「ごちそう様でした。とっても美味しかった」
 食べ終わって、薬を飲む。ピーターが立ち上がり、お盆を下げた。

「本当にありがとう。片付けまで」
「別に。大人しく寝てなよ」
 早く元気になってね、という意味だろうか? は自分に都合の良い妄想をしてみる。……ないか。
 食事で体が温まったからか、薬を飲んでホッとしたからか、急激に眠くなった。ピーターが部屋を出ようとするのを見ながら、は横になる。

「わたし……寝てる暇なんてないのにな」
 掠れた声で呟かれたそれに、ピーターは足を止めた。振り返ると、はもう目を閉じている。辛そうな息遣い。話している時は元気に見えたが、その姿は病人にしか見えない。ピーターは音を立てずドアを閉めた。

 ――永白で何があったのか、がどんな目に遭ったのかは、黄櫨から簡単に聞いていた。鏡に呪われ、怪しい男に狙われ、錯乱した三月ウサギを相手にし、最後にはアリスと対面したという彼女。……厄介事に巻き込まれやすいというレベルではない。

 先程部屋に入った時、数日ぶりに見た彼女の弱った姿に、ピーターは少なからず罪悪感を抱いた。自分の替わりに、は白ウサギの宿命を背負わされている。

 白ウサギの役をに渡した時……ピーターは解放されたと思った。この世界の訳の分からない妙なシステムから、ヘンテコな名前から逃れられる。世界が終わるにしてもそうでないにしても、あとは主軸にいるキャラクター達の物語。関与出来なくなれば、気楽で居られると思った。アリスネームの移譲は時間くんの指図で、逆らえない状況ではあったが、ピーターには都合の良い展開でもあったのだ。

(折角、面倒ごとを手放せたと思ってたのに)
 アリスネームを失った今の方が、よほど面倒だった。


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