Act29.「前進」



「ミツキは今、何歳なの?」
「黄櫨……お前、色々吹っ切れすぎ」
 夕焼けに更に赤く染まる野点傘。その端から溶けた雪の滴がぽたりと落ちる。嘉月会本部は、黄櫨達が居た頃と外も内も様変わりしていたが、庭園だけはそのまま。静かな石の庭を眺めていると、二人は過去に戻った錯覚に陥った。
 ヘイヤは隣で自分を見上げる円らな瞳に、苦い顔をする。

「今の俺は、ミツキじゃない」
「でもミツキでしょ」
「……正確には、違う。鏡から授かった姿うつしの術は、そんなに単純なものじゃない。今の俺はミツキでもないし、元のヘイヤでもない」
 鏡が写すのは外見だけではない。術者の中にある対象人物の像を、外も内も反映する。今のヘイヤはミツキではなく、また完全なヘイヤでもなかった。

「何それ、全然分からない。鏡の中ではミツキに戻ってたのに」
「黄櫨は、今の俺は嫌い?」
「そう言う話じゃない」
 黄櫨は黄櫨らしい無表情で、声だけを不服そうに尖らせる。鏡の中では感情的になっていた少年だが、彼もまた鏡の影響を受けていたのだろう。

「……十六」
「え?」
「ミツキの年齢。お前が聞いたんだろ」
 黄櫨は、やはり彼女は成長していたのだ、と寂しく思った。鏡の中で見たミツキは十三歳だった当時よりも大人びていた。あの頃から一歳も重ねていない自分がもどかしくなる程に……。ヘイヤの奥の少女を切なく見つめる黄櫨。二人の間に、大きな影が割って入った。

「僕も成長したんですよう。二十九歳になりましたあ! ダンディさが増しましたでしょう?」
「いきなり入ってこないでよ」
 胡散臭い狸の面が「はは」と快活に笑う。「お茶をお持ちしましたよう」と言う彼の手には湯気立つ湯呑が三つ、串団子がたくさん。ちゃっかり自分も参加する気らしい。

「黄櫨さんは本当に変わらないですねえ。おいくつですか?」
「八。ずっと」
「ははあ」と狸は感心の溜息を吐く。人によって歳を取るスピードは異なり、キャラクターの時間は特に緩慢な傾向にあるが、それでも黄櫨のようにずっと子供のままというのは珍しい気がした。狸は永遠の少年を神々しそうに見る。子供らしくなく落ち着いていて、大人にはない澄んだものを持つ黄櫨は、そのどちらでもない存在に思えた。

「黄櫨が歳を取らないのは、常盤とずっと、一緒に居るからだ。時間に嫌われてるあいつの周りは、異様に時間が遅い」
「うん、だろうね。でも別にそれでいいよ」
「ところで、なんで常盤さんって時間くんさんに嫌われてるんでしたっけ?」


(なに、話してるんだろう)
 縁台に並び、和気藹々とした雰囲気の三人。彼らから少し離れた場所、池の上に掛かった小さな太鼓橋の上で、はその様子を眺めていた。ヘイヤと話している時の黄櫨や狸は、自分の知る彼らとは少し違う顔をしており、ヘイヤもまた別人みたいに穏やかだ。互いに心を許せる仲なのだろう。
 邪魔をしてはいけないと踵を返したは、誰かにぶつかりそうになる。

「あっ……常盤さん」
「君が部屋に居なかったから、探しに来た」
「ごめんなさい。ちょっと気分転換をしたくて」
 ……一応モスには散歩に行くと伝えていたものの、書置きくらい残しておけば良かった。

「体の調子はどうだ?」
 その問いには「ばっちりです」と答えるが、実のところずっと気怠いままだ。ベッドで目覚めた後も半日、ずっと横になっていて、充分休んだ筈なのにまだ本調子ではない。常盤の気遣わし気な視線から、は顔を逸らす。

「わたしは大丈夫ですから……黄櫨くん達の所に、行ってきたらどうですか?」
 何となく、黄櫨達は常盤を待っている気がした。彼もまたそうしたいに違いない。

 は鏡の中で垣間見た、彼らの過去の様子を思い出す。穏やかで美しい夢のような一時。ヘイヤの昔話を聞くにあれが全てただの幻だったとは思えない。彼らには彼らの大切な時間があり、それは突然現れた部外者が入っていけるものではないのだ。

 ……しかし、言った後で急激に恥ずかしくなる。勝手に仲間外れ気分になって、不貞腐れてるみたいに聞こえていたらどうしよう。は何も言わない常盤に不安になり、おずおず見上げた。困らせたのではないかと思ったが、自分を見つめる彼は、何故か嬉しそうに見える。

「いや、どこにも行かない。私はここに居る」
「そ、そう、ですか」
 その返答は、きっとどこかで期待していたものだ。はくすぐったさに、橋の下の池を眺めるふりをする。鯉でも泳いでいれば自然にそうしていられたが、何も居そうになかった。

 常盤は出会った時から変わらず、いつも自分を特別扱いしてくれる。自分に居場所を与えてくれる。優越感と安堵を与えてくれる。依存性のあるそれは、紫が自分に向けるものと似ているかもしれないと思った。

「あの、それではごゆっくり。わたしは戻りますね」
「え」と今度こそ困った顔をする常盤に、は小さな声をたてて笑った。彼は傍に居てくれると言ったのであって、別にこの場所に用事などないのだから。


「……あれ、ガチですよねえ」
 耳の良い狸が、お面の横から達を見て言った。彼よりも遥かに聴力の優れたウサギは「何がだ」と突っ込みながらも、呆れた目をしている。黄櫨は慣れた顔で茶を啜った。

「街で再会した時から、驚きっぱなしですよう。まさかあの人があんな風になるなんて。黄櫨さん、何があればああなるんですかあ?」
 狸は、常盤が黄櫨やヘイヤなど極一部には優しさを見せることを知っていたが、に対するそれは別次元だった。は最近不思議の国に来たと聞いているが、そこからの短い時間で二人の間に何があったのか、気になって仕方ない。しかし期待していた話は聞けなかった。

「常盤は最初からあんな感じだったよ。は、ようやく慣れてきたみたい」
 狸が驚きの声を上げる。ヘイヤはあどけない顔で笑うと、彼女に振り回されている常盤を見て、目を細めた。

(……今度は、あの少女が異世界人だからという、それだけでもなさそうだ)
 真意は分からないが、常盤がミツキに対して冷酷な一面を持っていた事に、今のヘイヤは気付いている。ミツキが呪いを発症し消えかかった時、彼はすぐにミツキへの興味を失ったのだ。彼が異世界人に何を期待していたのかは分からないが、今更訊く気もない。自分の中に隠れている臆病な少女の部分が、知らないまま、優しい記憶のままで終わらせておこうと思いたがっているのだ。

 ヘイヤが気を紛らわせようと団子を手に取る。が、手にした串の最初の一玉を、背後から現れた男が奪っていった。

「みたらしかア。醤油が良かった」
 勝手に食べておきながら文句を垂れるモス。彼は後ろに座り、当然の顔でヘイヤのお茶を飲む。ヘイヤと狸は気ままな彼に慣れているのか何も言わず、穏やかに受け入れていた。黄櫨は好き勝手するモスの姿に、かつての“ヘイヤ”を思い出す。今のヘイヤがモスを傍に置いているのは、どこか彼の面影を見ているからかもしれない。……モスのカラシ色の瞳が黄櫨に向き、ニコリとした。



 *



 夜、は森の入り口に立っていた。ようやくトランプ王国へと戻るのだ。騎士達は、先に鏡のゲートを抜け、向こうで馬車の準備や道の整備をしている。ヘイヤは彼らと共にゲートを行き来して、中の通路に危険性がないか調べていた。今回の異変の元凶が鏡だったことで疑っているのだろう。常盤は自警団の者と、森に異変の名残りがないか確認している。

 手伝えることもないは、離れた場所で街の方を眺めていた。目がチカチカする派手な花見街は、愛着もないのに名残惜しく感じてくる。「はあ」と息を吐くともう白くはならないものの、まだ春は程遠い寒さだ。

 街灯りを反射し、視界の端に揺らめく七色。……モスがシャボン玉を吹いている。彼はと目が合うと、小さく手招きした。何だろうと近付くと、モスは口の広い袖から何かを取り出しに渡す。それは小瓶に入った錠剤だ。「うん?」と不思議そうにするに「ラムネじゃないヨ」とモスは言う。妖し気なサングラスの男と薬の組み合わせは、危ない香りを漂わせていた。

「何ですか、これ」
「毎食後、二錠ずつネ」
「ん?」
「お大事に」
「え?」
 疑問符を浮かべるをそのままに、モスは用が済んだのか、どこかにフラフラ歩いて行ってしまった。見送りに来たのかと思ったが、そうではないのだろうか。相変わらず不思議な人だ……。はとりあえずコートの内ポケットに小瓶をしまう。

「春祭りの前に帰っちゃうなんて、勿体ないですねえ」
 狸がの隣にニュッと現れ、残念そうに言った。永白では明日から盛大な春祭りが催されるらしい。人々の心に春を行き渡らせることで、冬を終わらせるのが目的とのことだ。は嘉月会本部を出てくる時、お面達が作り物の桜を館中に飾っていたのを思い出す。
 楽しそうだと心惹かれもしたが、ここにもうアリス本人も手掛かりも無い以上、いつまでものんびりしていられない。

「またいつでも遊びに来てくださいよう」
「はい、落ち着いたら」
「……本当に来てくれますかあ?」
「え? 何でですか」
 狸はなんと言葉にするべきか悩んだ。はこうしてお喋りをしていても、いまいち何を考えているのか分からないのだ。狸は彼女と仲良くなれた気がしていたが、近くに居れば居るほど、その距離の遠さを実感する。また来るというのも社交辞令で、もうこれっきりになるのではないかと思った。

「ちゃんと来てくださいよう。今度は僕の手料理を振る舞いますから」
「あ……それはちょっと」
「何でですかあ」
 笑い合う二人の元に、森から戻ってきた常盤がやって来て、楽し気なに優しく微笑む。

「何を話しているんだ?」
「気になりますかあ? ちょっと口説いていただけで……いや、冗談ですよう。ごめんなさい」
 眉を顰める常盤に、狸は調子に乗り過ぎたと頭を掻く。しかし常盤は彼を咎めることなくそのまま見つめ、心配そうに言った。

「……ラファル、もう怪我は大丈夫なのか」
 常盤の口から出た名前に、は首を傾げる。狸は久しぶりに聞いた自身の名に、暫く言葉を失った。

「名前、覚えてたんですねえ」
 狸のその声は、僅かに揺れている。……取るに足らないモブの名前など、忘れただろうと思っていたのだ。狸は「もうバッチリですよう」と力こぶを作って見せると、そそくさ仲間の元へ駆けて行った。

(狸さんの名前……ラファルさんっていうんだ)
 狸は警護にあたっている狼面にちょっかいをかけて、鬱陶しそうにあしらわれている。は、狼面の女とは結構な時間を共に過ごした気がしたが、その殆どが偽物だったと分かった今では、一方的な知り合いみたいな不思議な気持ちだ。彼女と共に森に同行してくれた羊面の姿は無いが、アリスに面を奪われて他の面をしているのかもしれない。見慣れた狸は別として、黒装束に面をした彼らは区別が付かなかった。最悪な出会い方をした鷲面とオウム面は、誰かが意図的に自分から遠ざけているのか、あれ以来目にしていない。

(本当に、色々なことがあったなあ)
 危険な目にばかり遭っていたにも関わらず、はこの国が嫌いではなかった。純然たる和とは違う、ネオンが輝く独創的な街並み。妖しい魔術組織、嘉月会……。

(いつかまた、今度は観光で来れたらいいな)
 鏡の中で行った甘味処が実在するのか、確かめてみたい。


「馬車の手配が整いました」
「ご苦労」
 ゲートから戻ってきたルイに、ジャックが労いの言葉を掛ける。ルイはそれに後ろめたそうな顔をした。ジャックにはルイが、敵の術中に嵌ってしまった自身を悔いているのだろうと分かったが、敢えて何も声を掛けなかった。下手な慰めは逆効果だろうと思ったのだ。

 ジャックの目が、木に凭れぼうっと上を見上げている黄櫨を捉える。何を見ているのか気になり、何となく近くに行って真似してみたが、変わったところのない普通の夜空だ。地上に目を戻すと、黄櫨と視線がぶつかる。何か文句を言われるか、何も言わずに立ち去られるかのどちらかだろうなと思ったが、意外にも黄櫨は大人しくこちらを見ているだけだ。慣れない反応に戸惑うジャックに、少年がポツリと問う。

「どうして、あの日、来なかったの?」
「ん? 何の……」
 何のことだ、とは言えなかった。黄櫨の視線がそれを許さない。ジャックは自分と黄櫨との記憶を掘り起こし――それらしいものに思い当たる。黄櫨がまだ永白に居た頃、自分の国へ誘ったことがあった。確か森の入り口に迎えに来ると、かつての自分は言ったのだ。
 ジャックはそれを黄櫨が覚えていたことと、“来なかった”と知っていることに驚く。黄櫨は『行かない』と言っていたから、来ていないだろうと思っていた。……だがそれが約束を破った理由ではない。当時の自分には、少年との約束など吹き飛んでしまう程のことが起きていたのだ。

「あの時は……」
 ジャックが、タルトを手にかけたあの日。あれは黄櫨との約束の直前だった。悲しみに暮れるロザリアを前に、ジャックには他の事を考えていられる余裕はなかった。しかしそれを黄櫨に伝えるべきかは分からない。黄櫨には関わりの無い事で、伝えても独り善がりな言い訳にしかならないだろう。

 これまで自分に対して、辛辣な態度を取っていた黄櫨。それは、ただ気に食わないという理由で嫌われていたのではなかったのだ。きっと自分はこの少年の心を傷付けてしまったに違いない。

 いつまで経っても続きを口にしないジャックに、黄櫨が言う。

「いいよ。何となく分かってる。あの頃、君の国が大変だったって」
 黄櫨が永白から離れて間もなく、女王は命を落とし、彼の国は崩壊した。黄櫨はそれを知り、ジャックが約束どころではなかったのだろうと今では気付いている。彼への問いはただ自分の中で消化しきれないものをぶつけただけだ。

「約束を破って、すまなかった」
「もういいよ」
「……許してくれるのか?」
 いつもよりも柔らかい黄櫨の声と雰囲気に、ジャックはホッとした。黄櫨は微かに口角を上げ、

「許すわけないでしょ。もう話すことは無いってこと」
 と言い捨て、サッと立ち去ってしまう。ジャックは深い溜息を吐いた。



 *



 帰りの準備が整い、達は鏡のゲートの前に立つ。静かに控えるお面達、大袈裟に寂しそうにする狸、冷たい目のヘイヤ。いつの間にか戻って来ていたモスは、多めのシャボン玉で出発を華やかに演出している。……その時、風が吹いた。シャボン玉が流れ、氷の溶けた葉はザアアと漣のような音を立てる。 
 常盤は懐かしい男の声が聞こえた気がして、森の奥に吸い込まれていくシャボン玉を目で追った。


 ――遥か昔、タルジーの森には凶暴な三月ウサギが棲んでいた。
 森で暮らすあらゆる動物、踏み入った人間、目につく命を手あたり次第残虐に弄ぶ狂人。小鳥が囀り、ウサギやリスが駆け回っていた森は、死臭に塗れた地獄と化した。近隣の住人は討伐隊を編成し立ち向かったが、誰一人として戻って来る者はいなかった。

 人々が遂に森に火を放とうとしていると聞き、常盤は三月ウサギに会いに行った。タルジーの森は、かつて一人の少女が気に入り、遊び場にしていた場所である。彼女が大切にしていた森。自分にとっても思い出深いその場所を焼き払われることは耐え難く、常盤は原因の三月ウサギを対処することにしたのだ。

 森の奥へと続く赤く染まった道。それを辿った先に、三月ウサギは居た。全身に血をこびり付かせたその男は、言葉を知らない獣のようだった。……『三月のウサギのようなキチガイ(Mad as a March hare)』……物語の中の愉快なキャラクターとは違う、狂気だけを濃縮し形としたその男は、不思議の国が生み出した成功作か、失敗作か。
 新しい獲物を見つけ嬉々とする男に、常盤は銃口を向ける。元より対話による和解など期待していなかった。危険な三月ウサギはリセットして、次の三月ウサギに期待しよう。

 ――引き金を引くよりも早く、男の体が血を吹く。その首筋には背後から斧が突き立てられていた。倒れる巨体の向こうに現れたのは、どこか浮世離れした銀髪の青年。青年の頭には森で暮らしていたウサギ族の特徴的な長い耳が生えている。仲間を殺された復讐かと思ったが、静かな藤色の目には悲しみも怒りもなかった。

「あれ? 三月ウサギって、特別だって聞いてたのに。弱いし、中身も俺と変わらない。期待外れ」
 青年は独り言をブツブツ言いながら、ぱっくり割れた傷を斧で広げ、気の抜けた顔で中を覗いている。まるで子供が虫を殺しているかのようだ。青年の異常さに、常盤は戦慄する。

「もうお前に、興味は無い」
 青年はつまらなそうに斧を引き抜き、もう一度突き立てる。男の雄たけびが森に木霊した。

 キャラクターの名を冠さないただの野ウサギが、隙を突いたとはいえ、三月ウサギを殺してしまった。その事実に驚愕する常盤の前で、更に驚くべきことが起きる。
 絶命した三月ウサギが、三月ウサギではなくなったのだ。キャラクターをキャラクターたらしめていた不思議な力が抜け出て、別の器に移る。認識が塗り替えられる。……青年が、三月ウサギになったのだ。

 青年は自分の中に巡る何かに首を傾げ、手を広げたり閉じたりしている。世界に授けられた名前、アリスネーム。それが人の手によって奪われるのを目にしたのは、この世界が出来て間もない頃から居る常盤も、初めてだった。

「なに、これ。どういうこと」
「不思議な力を感じているなら、それはアリスネームの力だ。お前が、次の三月ウサギになったんだ」
 野ウサギは、一応は常盤の存在に気付いていたのか、驚くこともなく顔を上げる。

「俺が三月ウサギ? よく分からないけど……お前、こいつより特別な感じがするね。中身、確かめてみていい?」
 先程の三月ウサギとは異なるベクトルで狂っている青年。悪意の塊に見えた男とは違い、その目にはただ真っ白な好奇心だけが光っていた。恐らく生まれて間もないのだろう。何も知らないだけなら、教えればいい。
 青年は斧を構え一歩踏み出そうとしたが、常盤の放った銃弾が彼の手を掠め、斧が手から落ちる。青年は「痛い」と目を丸くした。

「落ち着け。中身を見たところで、お前の知りたいことは何も分からない」
「じゃあ、どうすればいい?」
「……言葉が分かるなら、対話しろ」
「話? 話せば何か分かる?」
「殺し合うより得るものは多い筈だ。お前が知りたいなら、私が知っていることは教えてやる。……お前の名前は?」
 青年はヘイヤと名乗った。
 この時の常盤はまだ、ヘイヤと長く付き合うことになるとは思ってもいなかった。ただ野放しにするのは危険だと、様子を見るだけのつもりだった。

 ヘイヤは、稀な才能に恵まれた青年だった。世界の理に深い理解を示し、意識エネルギーを独自の解釈で魔術化し、人を惹きつけるカリスマ性で組織を作り上げた彼。彼が最初からキャラクターであったと誰もが疑わなかった。
 探求心に溢れ、いつも何かに心奪われているヘイヤ。危ういところと、子供みたいに純真なところが、常盤は放っておけなかった。

 黄櫨が現れると、ヘイヤは父性本能にでも目覚めたのか、少し大人ぶるようになった。傍からは黄櫨にちょっかいを掛けているだけに見えたが、本人は面倒を見ているつもりだったのかもしれない。いつからかヘイヤに纏わり付き始めたラファルは、ヘイヤ同様にノンキャラクターとは思えない、不思議な男だった。ラファルの才能をヘイヤも見出していたのだろう。ヘイヤは彼を雑に扱いつつ、自分との戦いの中で成長していく姿を楽しみに見守っていた。
 ……大切なものは一つだけでいいと思っていた常盤だったが、気付けば、掛け替えのない存在が増えていた。それは邪魔に感じる時もあったが、心の穴を埋めてくれるものだった。

 ――そして、ミツキの出現。彼女は世界に適性のある異世界人だった。彼女を上手く利用すれば、アリスの“代替”に出来るかもしれない。アリスをその役目から解放することができるかもしれない。それを期待していたものの、やはり駄目だった。この世界に根付いた“強い意思”が、新しい異世界人の存在を認めない。彼女は呪われ、そして彼女を守るために、ヘイヤは命を落とした。

 ヘイヤの死後、苦しみ続ける黄櫨を見て、常盤はミツキを保護したことを後悔した。彼女のことを何も知らない内に、無感情に排除してしまえば良かったのだ。

『俺は、大丈夫』
 あの日、そう言って微笑んだヘイヤ。最後に見た彼の、彼らしくない表情が、今も目の奥に焼き付いている。



「常盤さん、どうかしましたか?」
「……何でもない。帰ろう」
 常盤は、鏡に少し警戒しているの手を引き、ゲートに入る。振り返ることは無かった。 inserted by FC2 system