Act28.「異変明け」



『あのね、きょうはきみにプレゼントがあるんだ』
『え? どうして? たんじょうびでもないのに』
『だれかの、たんじょうびかもしれないよ。それにほら、このあいだとけいをなくして、かなしんでたから』
『まあ、ありがとう。これはなあに? かがみ? きれいね』
『コンパクトミラーだよ。おばあちゃんがくれたんだ』
『そんなたいせつなもの、もらえないわ! だってあなたのおばあさんは……』
『いいんだよ。きみにあげられるもの、それくらいしかないんだ。もらってほしい』
『……わかったわ。たからものにする』
『うん。かがみも、きみをうつせるならしあわせだね』
『そういうこと、へいきでいうんだから』
『へへ』
『……でもわたし、かがみより、あなたのめにうつっていたい』
『……そういうこと、へいきでいうんだから』

 笑い合う少年と少女。
 鏡はじっと、二人を見ていた。



 *



 またこの夢だ。拙い喋りの子供達が仲睦まじくしている夢。知らない筈なのに懐かしい感覚。胸の奥が温かく、ジンと震えている。美しく愛しい、遠い夢。アリスの残留思念はこの夢を通して、何を伝えようとしているのだろう?
 は薄暗い目蓋の裏、影が射すのを感じて目を開く。そこにはこちらを覗き込む緑髪の男が居た。

「オヤ、起きたネ」
「……モスさん?」
 はまだ半分夢に浸かりながら、のそのそ起き上がり、上半身をベッドのヘッドボードに凭れた。ちょっと薬っぽい匂いが鼻をつく。白い壁と天井。雰囲気は少し前に訪れたモスの診察室に似ているが、内装は違っており、ただベッドと棚と椅子があるだけの質素な部屋だ。
 違和感から下を見ると、見慣れない服を着せられている。いかにもな病衣だ。病気をした覚えはないが、怪我で思い当たることはある。は広い襟ぐりからそっと中を覗き見た。胸の辺りには……ガーゼがテープで留められている。痛みは無いが、その下はどうなっているのだろう? そしてここはどこだろう?

「あの……」
 説明を求めてモスを見た時、冷たい風が頬に吹き付ける。ふわりとカーテンの舞う窓辺、白銀の髪が、薄青い夕暮れに靡いていた。雪は止んでいる。

「ヘイヤ、寒いヨ」
「そいつが、寝惚けた顔してるから」
 長いカーテンの奥に隠れるように立っていたヘイヤ。彼は気配を消していたから、気付かない方がいいのかと思っていた。は薄紫の瞳と目が合い、彼をどちらの名で呼ぶべきか悩む。

「……俺はヘイヤだ。もう忘れたのか」
「い、いえ」
 体の冷えたがくしゃみをすると、ヘイヤは気が済んだのか窓を閉める。なんだこいつ、と目まで冷えきったを宥めるように、モスがこれまでのことを説明してくれた。彼の説明は余計な雑談が随所に混じり、分かり難かったが、根気よく聞き続ければ何とか分かった。

 ――が森で気を失った後、一行はヘイヤ達と合流し、嘉月会本部に帰還した。は積み重なる疲労もあったのか、一日半眠り続けていたという。黄櫨もまた、氷面鏡の魔術を解く際、魔力を消耗していたヘイヤをサポートする為、力を使い果たしていた。同様に森で倒れ、今も眠っているらしい。「俺が倒れれば良かったのに」「黄櫨クンに、どうやってキミを運ばせるつもり?」ヘイヤが黙る。

「常盤さんや、他の皆は無事ですか?」
 の言葉に、二人は顔を見合わせる。(なんだ、その反応)

「ジャッククンは元気だよ。騎士クン達と、ウチの子達は療養中」
「常盤さんは?」
「……チャンをここまで運んできて、力尽きたネ。ジャッククンか狸クンにでも、任せたら良かったのに」
「え」
「頑なに譲らなかった。森の奥からここまで、それも雪道を……。暫く会わない内に、馬鹿になったのか、あいつは」
 ヘイヤが呆れきった様子で言う。
 は常盤らしいな、と思った。多分、彼はそこまで体力がある方ではない。ジャックや狸は森を進む道中も体力を有り余しているように見えたが、彼は違ったし、戦闘時の立ち回りからもそれは窺えた。それでも自分を他の者に任せたくなかったのだろう。その気持ちは嬉しくもあるし、彼の理知的に見えてそうではない所が、好きでもある。居た堪れなさはあるものの。

「はは……えっと、狸さんは?」
「不思議と、出発前より元気だヨ。チャン、人の心配ばかりだネ」
「え? あ、えっと……わたし、怪我してました?」
 鏡の中で氷に撃たれたり、刺されたりした覚えはあるが、今となっては全てが夢みたいに思える。あれは本当に現実だったのだろうか?

「怪我も怪我、大怪我――というのはウソ。胸に掠り傷があったくらいだヨ。痕は残らないから安心してネ」
 モスは、服に付着していた血液と怪我の状態が見合わないだとかなんだとか、ブツブツと続けていたが、はひとまず安心する。

(やっぱり夢だったんだ)
「どこの世界に、刺されて掠り傷の奴がいる?」
「えっ」
 ヘイヤはじとりとを見ている。まるで警戒した野良猫……野良ウサギだ。
 ヘイヤは、は確かに一度致命傷を負ったが、思い込みで現実を捻じ曲げ、掠り傷程度の幻として上書きしたのだと言う。モスが「おやまア〜」とわざとらしく驚いた。の脳裏に『鏡は感情を増幅させる。感情を現実に反映させる』という黄櫨の言葉が蘇る。……だが、そんなことがあり得るだろうか? 全く実感がない。確かにあの時、死にたくないと思った。泣いている黄櫨を見て守りたいと思った。その覚えはあるが――体を支配していた感覚は、今は寸分も思い出せない。(あれが火事場の馬鹿力とかかな?)

 説明しているヘイヤ本人も、納得できないといった顔をしている。彼は黙って聞いているの視線に何を思ったのか、唐突に「何、責める気?」と言った。ただの逆切れだ。
 には彼を責める気はない。あの槍の攻撃は黄櫨に向けられたもので、黄櫨を助けることが出来た自分は誇らしかったし、責める責めないは自分ではなく黄櫨とすべきだと思った。

「いえ、わたしは、別に」
「……お前の呪いを、解いてあげるから、これでチャラだ」
 ヘイヤがベッドの傍まで近付いて、身を屈める。彼の長い髪が首、胸元、手に落ちてくすぐったい。呼吸がかかる距離に、は思わず目を閉じた。その目蓋に薄い唇が触れる。……唐突な口付けに驚きはするものの、危機感はなかった。それは彼の正体が、弱々しい少女であると知っているからかもしれない。

 触れた部分から、何かが優しく吹き込まれる。温かく力強いそれは、彼に借りた槍から感じたものに似ていた。きっとこれがヘイヤの魔力なのだろう。彼の魔力が目の奥にすっと流れ、そこにあった冷たく硬い“呪い”を溶かした。

(結局最後まで、呪いはよく分からなかったな)
 それは眠気を覚えるくらい、長い間だった。ようやく唇が離れ、はそっと目を開ける。呪いを解き終えた筈のヘイヤは眉根を寄せて難しい顔をしていた。……いや、まるで化物を見る顔をしている。

「お前、何なんだ。体中、呪いだらけじゃないか」
「え?」
 意味が分からない、という反応はだけではなかった。モスも首を九十度以上傾けている。

チャンは目に鏡の破片が入ったって言ってたヨ? ボクも、確かに目から呪いを感じたけどネ」
「もっと奥の方だ。もう殆ど、この女と一体化しかけてる。……それも最近のものじゃない。ずっと前から、重ね掛けされてる」
「ずっと前って、いつからですか? わたし、呪いを受けた覚えなんてないです」
 は何かの間違いか嘘だろうと思った。しかし神妙な顔のヘイヤの言葉は、事実らしく聞こえる。ずっと前とはいつの事か。不思議の国に来たのはつい最近だ。それよりも前に呪いを受けるなんてことはあり得ない。

「知らない。とにかく、その呪いは俺にもどうにもできない。諦めるんだね」
「そんな。呪いってどんなものなんですか?」
「今回と同じ、鏡の呪いだ。感情や認知を、歪ませる類の」
「全然自覚無いんですけど……まあ、症状が無いなら気にしなくてもいいのかな……」
「その楽観的なところが、症状かもネ」
 モスの言葉を冗談だと思い、は軽く笑う。だがモスはいつもの彼からは想像できない真剣な声色で「冗談じゃないヨ」と言った。

チャン、ボクは体のキズしか治せないから。気を付けるんだヨ」
「は、はい」
 と言われても、不注意でいるつもりは無いのだが。
 モスから小さな色鏡を手渡され、そこに見慣れた自分の顔を見て、ひとまずほっとする。そんな彼女にヘイヤが唐突に言った。

「おい。何で、俺に何も訊かない?」
「はい? いや、呪いの事とか訊きましたけど」
「違う。……鏡の中で、見たこと。俺の正体」
 一人の人間が二人の姿にコロコロ変わったのだ。気にならない筈は無いだろう。それに追及してこないには違和感しかない。ヘイヤは訝し気に目を細める。

「いや、気にならないと言えば嘘になりますが。踏み込んでいい話ではない気が……」
「気になるのに訊かない、は理解できない。気になるなら、知ろうとすべき」
「ええと……話したいんですか?」
「馬鹿にするな。……黄櫨が、お前には話さなくちゃって、言ってたから」
 ヘイヤは鏡の中で二手に分かれた後の黄櫨を思い出す。心底を心配しているようで、返事は上の空、時々道を間違えもした。それはあまり人に懐かない黄櫨にしては珍しい反応だった。だからヘイヤは自身は気に食わないものの、黄櫨の友人ならそれ相応に扱おうと思ったのだ。

「でもそれなら、黄櫨くんに聞きますよ」
「黄櫨が話すより、俺が話した方が、きっと分かりやすい」
(そうは思えないけど)
「情報量の話だ」
 の物言いたげな視線に睨み返し、ヘイヤは語り出す。が鏡の世界で会った少女の正体と、今の姿になった経緯を、端的に。
 ……それは登場人物達の相関図が見える粒度ではなかったが、は何となくヘイヤとミツキの関係性を感じ取った。そしてやはり黄櫨は――ミツキを救うために永白に来たのだろう、鏡の中に危険を承知でやって来たのだろう、と思った。もしかすると、ずっと自分に優しかったのも、異世界人である自分にミツキを重ねていただけなのかもしれない。「どう思った?」というヘイヤの問いにはイラっとするが、それは自分ではなくモスに向けられたものだった。

「まア、情報過多だネ」
「それだけ? お前には、何も話してなかった。俺の正体も。騙してた」
 えっ! とは目を丸くした。モスは先程から平然と、椅子をキィキィ鳴らして遊んでいた。その様子から、彼はヘイヤの話を全て知っているものだと思っていたのだ。自分の仲間の驚くべき真実、過去を聞かされて取る態度ではない。聞いていなかった訳でもないようだ。
 モスは椅子の上に膝立ちになり、背凭れに肘をついてヘイヤに向き合う。

「ウーン、騙された覚えは、無いヨ。ボクは今のヘイヤしか知らないからネ」
「……お前のそういうところが、気に入ってる」
 二人の間に感じられる、強い信頼関係。ヘイヤは今も昔も周りの人間に恵まれているようだ。は慣れた疎外感の中、邪魔者は大人しくしていようと息を潜める。が、ヘイヤに引き戻された。

「で、今の話から分かったと思うけど。アリスネームは、相手を殺せば奪える」
「……わたしは殺してないですよ」
「そうだ。お前は適性があったから、移譲された。何がそう、違うって言うんだろうね」
 ヘイヤは、とミツキの境遇の差を言っているのだろう。その目は不公平だと訴えているようだった。は質問することでそれから逃げる。

「もし、キャラクター同士が殺し合ったらどうなるんですか?」
「突然物騒だな」
「気になるなら訊くべきって言いませんでしたっけ?」
「そんな言い方は、してない。まあいい……キャラクター同士の場合“奪う意志があれば”、生き残った方は古いアリスネームを捨て、新しい役になる。元の役は死んだ時と同じく、世界に変換されて、また割り振られる」
 相変わらず凄い世界だ。はなるほどと頷き、あれ? と思った。自分で訊いておきながら何だが……

「なんで、そんな事が分かるんですか?」
「気になるなら、知ろうとすべき」
 ヘイヤの目に灯る底知れぬ光に、はぞっとした。キャラクター同士の役の奪い合い、その条件と結果……彼がどんな手段でそれを知ったのかは、気になるが知らない方が良さそうだ。はカーテンが開かれたままの窓に目を逸らす。

 ――とにかくこれで呪いは解けて、行方不明のヘイヤや嘉月会の人も帰って来て、異変も解決……したのだろうか?

「雪が止んでも、まだ寒いんですね」
「ああ。人や空気が、すっかり冬だと認識してしまってる。大々的に春祭りでもしないと、寒いままだね。これは」
「結局、異変の原因って何だったんですか?」
「お前は会ったんだろ、原因に」
「……アリス」
 その名を口にすると、部屋の温度が下がった気がした。異常気象の雪は、虚無化とは無関係の、これまでにないイレギュラーな異変であった。ヘイヤはその目的を、湖に氷を張り、巨大な氷面鏡を作り、鏡の力を増幅させることにあったのではないかと考えている。そして鏡の目的は、を捕らえることだった。

「タルジーの森は、何かあっても助けを呼び難い。ちょうどいい湖もあるから、舞台に選ばれたってとこか」
 は、それだけではないような気がした。永白で問題が起きれば、過去に関わりのあった常盤や黄櫨は放っておかないだろう。彼らの傍に居る自分をおびき寄せるため、そこまで考えられていたのではないかと疑ってしまう。すべてを知っている誰か、自分の事を知り尽くしている誰かが、黒幕だったのではないか。

「アリス、どんなだった? 俺も見てみたかった」
 ヘイヤの目が子供みたいに爛々と輝くのを見て、は初めて見る彼の顔にポカンとし、眉を顰める。

「アリスのこと怖くは……憎くは無いんですか? この世界を消そうとしてるんですよね」
「憎んでどうする? アリスの意思は、世界の意思。反抗するのは少数派だ。トランプ国王の影響で、お前達の国には、増えてるみたいだけど」
「世界の意志って……だったら諦められるんですか?」
「うるさいな。別に、自殺願望がある訳じゃない。異変が起きたら、国や仲間は守る。だけど、それだけ。世界が終わるなら、受け入れるしかない。それが理だから」
「……じゃあ、わたしがアリスを捕まえようとしているのも、無駄だと思ってるんですか」
「なんで部外者のお前が、当事者より真剣な訳?」
 呆れ顔で肩を竦めるヘイヤに、は悲し気に目を伏せる。モスに「コラ」と小突かれヘイヤはやれやれと首を横に振った。

「……無駄かどうかは知らない。でも、興味はある。お前がアリスを、捕まえて見せてくれるなら、協力してやってもいい」
 聞き間違いか、どこか優しい色を帯びたヘイヤの声にが顔を上げる。

「今回の借りも、あるし」
(借り? 何の事だろう) 
 彼には恨まれる覚えしかなかった。彼を目覚めさせ連れ帰ったのは黄櫨で、自分は追い詰めただけなのだから。

 ヘイヤはの疑問に気付きながら、何も答えない。教えてやるつもりはないが、ヘイヤは彼女に大きな恩がある。鏡に狂わされていた自分から、は黄櫨を救ってくれた。彼女のお陰で自分は、二度も大切な人を失わずに済んだのだ。(だからまあ、興味が失せない内は、協力してやらなくもない)


 その時、扉の外で物音と気配がした。「こんな所で何してるんだ」という不審げな常盤の声と「ああ、いや、別に、」と濁るジャックの声。モスが椅子ごとシャーッと移動して扉を開けた。

「いらっしゃい。チャンのお見舞いだネ? ちょうど起きたとこ、」
! 怪我は痛まないか? 体調は?」
 モスの言葉を最後まで聞かず、の元に向かう常盤。モスは無視されて膨れ、ヘイヤはポカンとしている。

「大丈夫です。常盤さんがわたしのこと、連れて帰って来てくれたんですよね。有難うございます。……えっと」
 彼の方こそ体は大丈夫なのだろうか? と訊くのは余計だろうと思いやめておいた。が、言わんとしたことが伝わってしまったらしい。「余計なことを」とモスが睨まれている。

 ヘイヤは彼らからそっと離れ、扉の傍に立ったままのジャックに歩み寄った。

「お前は、行かなくていいのか」
「こういうのは順番があるだろ?」
「ああ、そう。……ところで、どこから聞いていた?」
「ん? 何のことだ?」
「少し前から扉の前に、居たんだろ。ご丁寧に気配まで消して」
「……話の途中で入るのは悪いと思っただけだ。まあ、協力するとか借りとかは聞いたな。永白の後ろ盾が得られるのは心強いぜ」
「別に、お前達の国を助ける気はない。あくまであの女……に協力するだけだ」
 そうか、と適当に笑うジャック。ヘイヤは鋭くその横顔を睨んだ。

「それだけか? 他には?」
「他って、そんなに聞かれたくない事でも話してたのか?」
 ニヤッと口角を上げるジャック。ヘイヤは考える。

 ……もしジャックが、アリスネームを奪う条件について聞いていたとしたら。彼もキャラクターという当事者である以上、無暗に世間に流布することは無いだろう。聞いただけの話を探求心で実践するような、自分と同類にも見えない。他人のアリスネームを奪う可能性はあるだろうか? アリスネームに明確な優劣はない。トランプ国王“ハートの王”は権力を持っているが、ジャックは彼の忠実な騎士だった筈だ。逆らうとは思えない。

(考えても無駄だな)
 ヘイヤは「黄櫨の様子を見てくる」と部屋を出て行った。 inserted by FC2 system