Act27.「RUN!RUN!RUN!」



 走る、走る、走る。と狸はフードの男を追い、どこまでも続く鏡の迷宮を走っていた。狸は男の魔力の残滓を追っているが、恐らく魔力など感じ取れないだろうも、迷い無く併走している。彼女は何を見て、追っているのか……狸は興味深げに目を細めた。

「怖くないんですかあ? 無茶はしないでくださいよう」
 少しも息の乱れていない狸に対し、荒い呼吸のは顔だけを彼に向ける。そのぐっと上がった口角が、疲れで歪んだのか笑ったのかは分からなかった。
 狸は、がどういうつもりで男を追いかけているのか、その真意が掴めない。森での戦闘で守られていただけの彼女が、戦えるとは思えない。ならその手に握る槍で何をする気なのか。
 自分達に必要なのは、ヘイヤと黄櫨が氷面鏡の魔術を解くまで、男に邪魔させないための時間稼ぎだ。そしてもしも叶うなら、狸は男にリベンジを。運よく術者を亡き者にできれば、の解呪にも繋がり一石二鳥だ。

「あの男に追いついたら、僕に任せて下さいねえ」
「それは……っ!」
 と狸は同時に立ち止まった。男の気配が、魔力が、またテレポートのように突然姿を現したのだ。は足元から僅かな地鳴りと、冷気を感じる。そして次の瞬間には、狸に抱えられ宙を飛んでいた。彼はトランポリンでも使ったみたいに高く跳躍し、離れた場所に着地する。の立っていた場所には床から氷柱が突き出していた。それはの幻の中で、鏡が黄櫨を捕えたものに似ている。鏡……あの男の仕業だ。
 鏡の中からぬっとフードの男が現れ、忌々し気に舌打ちした。

「飛んで火に入る夏の虫……になれよ」
 男はを捕えようとしている。狸は、何故それほどにこだわるのか訊こうとした。が、の言葉に遮られる。

「あなたは、何でわたしに関わるの? わたしの何を知っているの?」
 膝に手を付き必死に呼吸を整えながら、切れ切れに言う。男の口元がぐっと引き下がる。

「お前が知る必要はない」
(何も知らないって馬鹿にしておきながら、話す気はないってこと?)
 はこの男から、聞かなければならないと思った。知らなければならないと思った。不思議の国に来てから度々感じていた違和感の正体……自分とこの世界との関係を。それについて考えることは本能が忌避し、これまでは鈍感でいた。しかし知ってはいけない事というのは、得てして重要な事である。
 そろそろ向き合わなくてはいけない。以前の時間くんの言葉を借りるなら、物語はもう三章まで来ているのだから。

「わたしは、わたしのことを知りたい」
 口にすると、頭が、目の奥が……胸も腹も、体の内側から痛みが突き上げる。――なんだこれは。これが呪いなのだろうか? 鏡は現実を捻じ曲げる。この呪いは、自分の中の真実を隠そうとしている?
 は痛みに崩れ落ちそうになるが、槍を杖替わりにして堪える。ヘイヤに力を授けられた槍は心強く感じられた。「さん、しっかり」と狸の声。は額に汗を滲ませ、男を睨む。……ゆらゆら歪む現実の中で、男の後ろに潜む強大な影を感じ取った。

「あなたの、目的は何? ……アリスの目的は、何?」
 男はの呪いが不安定になっていることに気付き、フードの下で目を見開く。鏡がにもたらす作用は、男の想定外に働いていた。鏡での感情と意思を縮小し捕えることが目論見であったが、いつもの彼女がなりを潜めた今、これまで押さえ付けられていたものが暴れている。

 ――駄目だ。このままではきっと、あいつは気付いてしまう。これ以上刺激してはいけない。目を覚まさせてはいけない。呪いが完全に解け、全てを思い出すようなことがあってはいけない。

 男は息を潜め、背後の鏡に溶け込んだ。「「待て!」」狸との声が重なる。二人は鏡の表面にまだ波紋が広がっている内に飛び込み、追いかけた。視界を流れる鏡、鏡、鏡。それが映し出すまやかしの罠。脇目もくれずただ真実を追い求める少女を見て、狸は高揚感を覚える。

 体が熱い。目の前が花火みたいに弾け、光っている。世界が明るい。早い。まるで世界の中心、舞台の真ん中で踊っている気分だ。今なら何でもできる気がする。何にでもなれる気がする。それは、この少女が醸し出している何かがそう思わせるのだろうか。……昔、ヘイヤに戦いを挑んでいた時の、胸の高鳴りに似ている。

 世界にとって重要な駒、キャラクター。もまたその一員だということだろうか。それにしても――こんなに血が湧き立つのは、生まれて初めてだ。彼女は何者なのだろう? 自分もそれを知りたいと思った。男との戦いで削られた体力、気力が、元の何倍にも膨れ上がる。

「よいしょっ」
「えっ」
 狸はを肩に担いだ。米俵の如く。

「僕、足には自信があるんで、任せてくださいねえ」
「わっ……あ〜!」

 猛スピードで風を切る狸。後ろ向きに担がれたは、急速に遠のく世界に目を瞑り、歯を食いしばった。まるでジェットコースターだ!

 狸は、鏡に映る“救えなかった男”の虚像を、次々に通り過ぎていく。その男は責めているのか、ただ静観しているのか、相変わらずよく分からない。

 あの日……モブである自分は、彼らの物語に参入できなかった。もし自分に彼らのような力があれば、特別な名前があればと何度願ったか知れない。一緒に苦しみ悲しみ、彼の最期に立ち会うことが出来たかもしれない。救えたかもしれない。
 ――だが結局、それはただの弱さへの言い訳だ。モブでもキャラクターでも構わない。今度こそ、彼らの物語に置いて行かれはしない。

「狸さん、」
「どうしましたあ? 酔いましたかあ?」
「い、いえ。なんか、あっちから、嫌な感じがしませんか」
 がぐっと背を反らして一方を指差す。その方向からは、確かに何か妙なものを感じた。フードの男の魔力とは別の、もっと強く異質な何か。同時に森の気配もしている。二人は覚悟を決めてそこに向かった。

 辿り着いた先には一枚の鏡が立ちはだかっている。近付けばそれは侵入者を拒み、ただの硬い鏡を装った。

「割りましょうかあ」
「次はわたしに、任せてください」
 は手の中で疼いている槍を、鏡に向けて構える。狸はそっと振り返り、かつての上司であり、一方的な好敵手であった男と、鏡越しに笑みを交わした。



 *



 雪が白く巻き上がる。その向こうに立っているワンピース姿の少女は、寒さを感じない人形に見えた。顔を覆う面も相まってどこか現実味が無い。少女が発する独特な迫力に、ジャックは心臓まで凍てつくようだった。

「あいつが本当にアリスなのか?」
 ジャックの問いに、常盤が小さく頷く。ジャックは声の震えを乾いた笑いで誤魔化した。

「はは……本当に居たんだな。やっぱ女だったのか……」
 というか、人間だったのか。

 アリスという存在はこの世界において確かであり、胡乱であった。その姿形は誰も知らず、どこに居て何をしているのかも分からない。時間くん以上に謎に包まれた存在だ。生物ではない強大なエネルギー体、実体を持たない何かだという説もあるくらいだった。その概念が、今、目の前に居る。
 ジャックはアリスに、何故この世界を消去しようとするのか、何が目的なのか問い詰めようとした。しかし上手く声にならない。自分よりも小さく華奢な少女に、本能が畏怖している。アリスは面の下で笑った。

「ふふ。神様に会った感覚はいかが? 感動で震えが止まらないかしら?」
 透き通る声が言う。歪んだ響きは、神というより邪神である。

「安心して、すぐに震えを止めてあげるわ。その命ごと。私の物語を邪魔をするキャラクターは要らない……あなたには“個人的な恨み”もあるしね」
(個人的な恨み?)
 ヴォイドと戦い、彼女の虚無化を邪魔していることだろうか? それにしてはどこか違うニュアンスに聞こえた。言葉通り個人的な、もっと狭い意味合いに思える。ジャックは自分がアリスに恨まれている理由を考え……ていられる暇はなかった。アリスがさっと手を上げると、四方の森から見慣れた姿が現れる。騎士団と、それから恐らく、行方不明になっていた嘉月会の者達。「ここで退場してもらえるかしら?」と彼女が言うのを合図に、彼らはジャックに襲い掛かる。虚ろな目の彼らはアリスの操り人形になっていた。

「……アリス!」
 常盤が、制するようにアリスを呼ぶ。彼は一瞬だけ別の名前を呼びかけたが、ジャックにそれに気付ける余裕はない。ジャックは向かってくる攻撃を避けることに必死だ。アリスは肩を竦め、常盤にだけ聞き取れる小声で話す。

「あら別にいいじゃない。あなただって、彼を許せない気持ちはあるでしょう? それとも何? あの子が許したからもういいって? さっき私に、あの子の意思を捻じ曲げようとしているって言ったけど……あの子の意思を尊重しすぎるのも、無責任じゃないかしら。それが一体誰の為になるっていうの?」
 アリスの言葉に、常盤はちらっとジャックの方を見た。彼にこちらの会話が聞こえている様子は無い。……「あらあら、よそ見はいけないわ」という声と共に、放たれる冷気。アリスの方に視線を戻すと、彼女の手の上には白い渦が巻いていた。それはこの異変を凝縮した、吹きすさぶ冬そのものである。

「あなたは私が相手をしてあげるわ。それともあの子を諦めて、このまま大人しく帰ってくれる? ……その気はないみたいね。でも迷いもある、かしら?」
「……先程、お喋りの時間はおしまいだと言ったくせに、随分喋るんだな」
 くすりとアリスが笑う。瞬間、彼女の周りが吹雪いた。寒気が鋭さを帯び、キラキラと小さな棘を含む。常盤は迎え撃つように、炎を手に――

 その時、アリスから数メートル離れた場所に鏡が現れ、中から息を切らせた男が出て来た。フードの下で汗を流しぜえぜえとアリスの元に駆け寄る男に、アリスが「はあ?」と驚きと呆れの声を上げる。

「雰囲気ぶち壊しじゃない。何してんのよ……自分の仕事はどうしたの?」
「あ、あなたはここに居てはいけない! 一旦退きましょう!」
「なに言ってるの?」
「来る! あいつが、あいつがここに来ます! だから逃げ、」

 ガッシャーン! とけたたましい音を立て、男が出て来た鏡が、内側から突き破られた。
 破片を散らし森に飛び込んできたのは、槍を突き出した一人の少女。アリスと常盤は同時に息を呑んだ。

……!」
 常盤に呼ばれて少女は顔を上げる。

 は乱れ降る雪の向こうに、自分を見ている羊の面を見つけた。それは山羊にも見え、宗教的な“悪魔”を彷彿とさせる。なのに服装は可愛らしい。童話から出てきたみたいなエプロンドレス。頭に結ばれた大きなリボン。長い髪は……

さん!」と追って出て来た狸が、彼女に振り下ろされた刀を、手にはめた手甲で弾いた。刀を握っているのは行方知れずだった狼面の女だ。しかしその力は彼女本来のものとはかけ離れた強さで、狸の手がジンジン痛む。「これはどういうことですかあ?」と目を丸くする彼の後ろに迫る、騎士。それをジャックが剣の横腹で殴り飛ばす。

、無事だった……のか?」
 安堵の声が、疑問に終わる。の衣服を汚している血。そして、いつもとは違うどこか荒々しい様子。弱々しく怯えていた幻のの方が、ずっと安心できたかもしれない。ジャックはその姿に先日の地下水路での彼女を思い出した。

 は他の何にも目にくれず、一人の少女を見ている。それがアリスだろうということはすぐに分かった。圧倒的な存在感も、イメージ通りの見た目も、彼女がアリスだと名乗っている。だがその分かりやすい外見は、目の奥に巣食う呪いが歪ませた。フードの男が複雑な呪文を唱えると、の視界はぐらぐら揺れる。現実がまた歪んでいく……!
 は走り出した。アリスを追いかけ、捕まえなくてはいけない。それが白ウサギの使命感によるものなのか、もっと別の何かなのかは分からない。ただ止まることが出来なかった。目を離すことが出来なかった。耳の横で剣戟の音がしていたが、構っていられない。

 アリスもまた、面越しにこちらを見ているのだろう。その体がモザイクみたいに乱れ始めた。上手く認識できない。そこに居るのはただの、童話の主人公のぼやけたイメージだ。

 長い金色の髪が……銀色、茶色、と変化し続ける。鏡の奥で出会った少女のような白色へ。繰り返す毎日の中で見慣れた橙色へ。夜を吸い込んだみたいな黒色へ。何色よりも鮮やかな、黒い髪。艶やかな、長い黒髪。

 微動だにしないアリスの腕を男が掴み、背後に現れた鏡の奥に引き込んだ。逃げようとしている。……逃がさない! は槍を伸ばし鏡を突き破ろうとした。しかしその切先はあと少しのところで届かない。反対の手が掴まれている。は自分を引き留める誰かを振り返った。

(なんで?)
 を止めたのは常盤だった。は困惑する。……彼が、何を考えているか分からない。彼は白ウサギの役目に協力してくれるのではなかったのか。何故、邪魔するのか。の中に常盤への疑心が湧き上がった瞬間、鏡の気配が張り詰めた。アリス達の居る鏡が周囲の空気を巻き込み、圧縮し、渦となる。渦の中に引き込まれそうになったを、常盤が引き寄せた。

 渦はどんどん小さくなり――鏡は、跡形もなく消えてしまう。あと一歩でも近付いていたら、その渦に呑まれていたかもしれない。は、常盤は自分を助ける為に止めたのだと思った。

 アリスが居なくなると、その場の空気の重さは軽減したが、正気を失った騎士達はまだ暴れている。だが彼らを強化し操っていたアリスの力が消えたことで、戦況は一気にジャック達に傾いた。はその光景に既視感を覚える。まるで昨日と同じだ。彼らを傷付けずに捕らえなくてはいけない。あの時よりも大人数だが、また上手くいくだろうか?

 その時、唐突に雪が止んだ。騎士達は動きを止め、その場に膝をつく。周囲に蔓延していた強い呪いが解けたのだ。恐らくヘイヤと黄櫨が何かしたのだろう、とと狸は察する。
 雪が止んだ森はどこか明るい。空を見上げれば、夜明けの夕空。それは物語の区切りを感じさせるものだ。

 は未だ掴まれたままの手に、常盤を見上げる。その瞳はいつにも増して難解で、彼は何も言わず、言えずにを見ている。も何から話すべきか分からなかった。彼らから離れて鏡に迷い込み、その中で起きたこと。出会った人。ヘイヤと黄櫨が湖に向かい、自分と狸はフードの男を追って、ここに来たこと。上手く説明できる気も気力もない。

 逃げるように視線を逸らすと、空で煌めく何かを見つける。夕陽を浴びてキラキラ輝く何かが、雪の結晶みたいにゆっくりと落ちてくる。が、重量のある塊に見えた。

「あ、」
 は自分の元へやってくるそれを、片手で受け止める。熱くて冷たい透明な石だ。はそれを掲げ、空に透かした。……アリスの残留思念、四つ目。抗えない眠気が降りてくる。人前で倒れることへの羞恥と、面倒な説明から逃げられる安堵の中、は意識を手放した。 inserted by FC2 system