Act26.「カガミ」



 鏡の世界に突如姿を現した男。はその男に攫われ、呪いを掛けられた事が随分昔に思えた。結局、呪いとは何だったのだろう。何の為に?
 深く被ったフードの下、男の顔の半分が驚愕に染まる。男は口をパクパクさせ、震える指をに向けた。

「お、おま、お前! なんだその血! 怪我したのか!?」
(は?)
 男の反応に、は恐怖も忘れてポカンとした。それはまるで、自分を心配している風にしか見えなかったからだ。困惑してヘイヤと黄櫨を見れば、二人も目を点にしている。男は数秒の間わたわたと慌てていたが、どうやらは無事らしいと気付き、取り繕うように咳払いをした。“何だこいつ……”というの心の問いに、ヘイヤが「鏡だ」と答える。

「鏡って、この人が?」
 男の口元がニヤリと歪んだ。やはり、鏡も人の姿を持っていたのだ。

「まさかお前達が合流してるとはな。三月ウサギ、お前には折角良い夢を魅せてやってたのに、なんで目覚めた?」
「外野が五月蠅かったから」
「それは悪かったな。すぐに排除してやるよ」
 男はそう言うと黄櫨の方を向く。フードの奥から発せられる殺気に、ヘイヤが立ちはだかった。

「何のつもりだ? お前の夢を邪魔する悪いネズミを、駆除してやるって言ってるんだぞ? お前は大人しく寝てろよ」
「生憎だけど。俺は寝付きが悪いんだ。一度起きたらすぐは寝れない」
「……愚かだな。辛い現実を選ぶなんて」
「そうかもしれない。けどお前には関係ない。俺達は、ここを出る」
 独特のたどたどしい喋りには、明確な意志が宿っている。ヘイヤの背後から黄櫨が進み出て、ナイフを構えた。彼ら二人の視線が一瞬だけ重なり、より強さを増して男を睨む。互いを守り合う二人を見て、はヘイヤの言う“俺達”に自分は含まれていないのだろう、と思った。

「全く、ふてぶてしいウサギだな。お前に姿うつしの術を授けてやったのは誰だ? 恩を忘れたのか?」
「感謝してる、有難う。これでいい?」
「……まあいい。俺の目的の邪魔さえしなければ、見逃してやってもいいぞ」
「お前の目的は、何? 永白を陥れること?」
「はあ?」
 男はひょうきんな声を上げ、嘲笑う。

「そんなのどうだっていい。俺はそこの――“自己中女”に用があるだけだ」
 男に顔を向けられ、はドキリとした。テレビドラマの役者が画面越しに語り掛けてきたみたいだった。目の前で繰り広げられる会話劇を、完全に他人事として聞いていたのだ。

「……わたし?」
「ハッ。やっぱりな。お前、自分が目的だと聞いて、安心しただろ?」
「……え?」
「随分、不貞腐れて見えたぞ。話の中心が自分に戻って――ようやく主人公気分に浸れて、良かったな」

(この人、何言ってるの?)

 それは、何の根拠がある筈もない憎まれ口だ。見知らぬ相手の神経をいたずらに逆撫でしようとする悪意。相手にする必要の無いそれを、しかしは無視できない。……男の思惑通り腹を立ててしまうのは、少なからず言い当てられているからだ。もしかすると彼も時間くんのように人の心が読めるのだろうか? いや、違う。
 男は自身も自覚できていない――目を逸らしている部分を突いてきていた。

「言ってる意味が、分からない。何なのあなたは」
「そうだな、お前には分からないな。お前は何も知らない。だが俺は知っている」
 男がの方に、一歩踏み出す。は一歩後ずさる。男は先程狼狽えていた時とは別人の気迫を纏っていた。はそれに、自分に対する負の感情を感じ取る。男は人違いでもしているのだろうか?

「俺はお前をよく知っている。お前がどういう人間か。お前が、自分を特別だと思っている、ただの痛い奴だってことを。善人面しながら、この世界の悲劇を楽しんでいて、ヒーローごっこしたいだけの、酷い奴だってことをな!」
 男は醜悪に吐き捨てた。言葉の節々に宿る憎悪に、は背筋が凍る。なのに、頭が熱い。

(何、こいつ。勝手な事ばかり。わたしが、何だって?)
 わたしは自分を特別だなんて思いこんでいない。今のこの世界の有り様に心を痛めている。つい先日だって命がけで橙を救ったし、アリスを捕まえてこの世界を救いたいとも思っている。
 ……は自分の中から出てきた“救う”という言葉に、烏滸がましさを感じた。

「お前は、世界が自分を中心に回っていないと許せないんだよな。だから、今だってこいつらに疎外感を感じてるんだろ?」
 男の言葉に一々感情が揺さぶられる。「、聞かなくていいよ」と黄櫨は言うが、は少年の瞳を見るのが怖かった。黄櫨は男の言うことをどう思っているのだろう?

「ハハ! 否定しないのは偉いぞ! 残念だったな。これはお前の物語じゃないんだ」
(わたしの物語じゃない?)
「お前は“ここ”に来るべきじゃなかった。ここにはお前にとって、悪夢しかない」
(ここって、どこのこと? 鏡の中? 永白? それとも……)
 男の声に、気配に、僅かに悲しみが滲む。に近付いていく男を黄櫨が止めに入ろうとした。しかしその手をヘイヤが掴む。「離して、が!」「駄目、黄櫨じゃ鏡には敵わない。俺が行く」……二人のやりとりが、には遠い。

 男が手を翳す。は自分の中で彼に呼応する物を感じた。それはきっと、呪いの鏡の破片だ。怒り、恐怖、悲しみ、嫉妬、羞恥。様々な感情が引き出され、ぐちゃぐちゃの渦となって押し寄せ、呑まれる。逃げようとはした。が、体が動かない。現実が歪んで暗くなる。苦しい、息ができない。逃れた筈の虚構の気配が、近付いてくる。

「だから……あれほど夢なんて見るなと言ったんだ」
 男が言う。

 ――『もう、夢なんて見ては駄目よ。惑わされても、駄目』
 それは、聞き慣れた誰かの口癖に似ていた。


「ちょおおおっと待ったああああ!」
 ガシャーンと派手な音を立て、割れた鏡の向こうから誰かが飛び込んでくる。の沈みかけていた意識は、驚きで一気に引き戻された。
 重々しい空気をぶち壊した声の主は、がっしりとした体付きの、黒装束の男だ。こげ茶色のうねった髪。どこか覚えのある風貌と声だが、その顔にお馴染みの面がないため、は確信を持てない。

 どんな相手にも物怖じしなさそうな垂れ目。好戦的で力強い眉。男の顔には、額から少し丸い鼻、顎にかけて、固まった血の跡があった。しかしおどろおどろしい雰囲気など微塵もなく、ニカッと明るい笑顔を浮かべている。

「おんやあ、皆さんお揃いですねえ!」
「も……もしかして狸さん?」
「ピンポン、正解ですよう」
 彼の素顔を見るのは初めてだったが、こんな独特な喋り方とオーラの人物が他に居るとは思えなかった。狸は笑顔のまま、おもむろにフードの男に蹴りかかる。男は後方に飛び退き難なくそれを躱したが、邪魔者の出現に苛々舌打ちをした。

「邪魔しやがって……弱いくせにしつこい奴だな」
「そう言うあなたは、随分甘い人ですねえ」

 ――が森の奥へ消えた後、刀を交えた二人。体格と力は狸の方が勝っていたが、フードの男は俊敏で、戦いの勘に冴え、そして不思議な力を持っていた。まるで瞬間移動みたいに姿を消しては現れ、狸を鏡の中に取り込んでしまったのだ。

「お前、どうやって鏡の幻惑から逃れた?」
「幻に囚われるなんて、僕はそんなシリアスキャラじゃないんですよう。それに……楽しいことも辛いことも、現実にいっぱいありますからねえ」
 狸が若干疲れの滲む目で、ヘイヤ、黄櫨、それからを見る。そして今更ながらに、の赤く染まったコートに目を瞠った。

「うおわっ! さん、その血なんですかあ!?」
「そ、そっちこそ……」
 狸の額には痛々しい切り傷があった。見れば腕や足も痛めているのか、動きが時々ぎこちない。はそれに罪悪感を抱いた。森で、自分と紫を追いかけて来た彼。紫が幻だったと気付いた今、あの時の彼は自分を守ろうとしていたのだと分かる。幻に囚われた自分が、彼を巻き込んでしまったのだろう。

「わたしは多分大丈夫なんで、気にしないでください」
 だからフードの男から目を逸らすなと、は視線で促した。
 ……実際、強がりでも何でもなく“多分大丈夫”だった。ミツキと戦った時の怪我は、殆ど現実には無かったことになっている。しかし胸を貫かれた時の、致命傷となるべきだったそれの傷みは、まだ鈍く残っていた。それだけ自分の意識に強く深く根付いてしまったということなのだろう。とにかくあまり気にしないで、意識の外に追いやるほかない。

 ヘイヤと黄櫨も達の元へやってきて、男と対峙する。

「さあ、これで四対一ですねえ」
「手負いの狸が調子に乗るなよ」
 四人を相手にしてもまだ、フードの男の声には余裕がありそうだった。ヘイヤが槍の切先を男に向け、狸が拳を構える。――最初に動いたのはヘイヤだった。彼の放った冷気を纏う槍が、男の黒いローブを貫き……割れる。それは鏡だった。姿を消した男は次の瞬間、ヘイヤ達の後ろの鏡から出てくる。まるでテレポートだ。先程この場所に現れた時もそのようにして出てきたのだろう。鏡を使って自在に移動できる男……四方八方を鏡で囲まれたこの空間は男の独壇場だ。

 男は嫌な笑みでに話しかける。

「おい、お前。お前を守ろうとして、こいつらが犠牲になるぞ」
 男の背後の鏡に、ヘイヤ達三人の無残な姿が映った。それが鏡の見せる幻だと分かっていても、近い未来の光景ではないと否定できない。「悪趣味」とヘイヤが呆れた声で言う。

(わたしを守ろうとして? ……そっか、この男の目的はわたしなんだっけ。わたしが抵抗しなければ、黄櫨くん達は助かるのかな?)
、しっかりして。聞いちゃ駄目だよ!」
 の心がぼんやりと、また鏡に囚われ始める。黄櫨は自分の呼びかけが届いているのか分からず、のコートにしがみ付いた。の視界の中で憎たらしい男の姿が、少女に変わる。白い肌、長い黒髪。の心をいとも容易く支配してしまうその顔が、優しい声が、現実を覆い隠す。

、あなたの所為よ。全部あなたの所為。あなたが大人しくしていれば、こんなことにはならなかったのに」

 紫が、紫なら決して言わないような事を言う。
 なのになんで、ホンモノみたいなんだ。


「……ろよ」
?」
 くぐもった小さな声に、黄櫨がを見上げる。彼女のその目には明確な意識が戻っていた。それは、色濃い……怒りだ。

「いい加減にしろよ、お前」
 こんな訳の分からないところに連れてきて、人のことを知った風に語って、何より何度も紫の姿を勝手に使って! の中を激しい怒りが駆け巡った。紫はこの世界には居ないのに。何の関係も無いのに。平和な現実世界で暮らしているのに。ソウデ、アルベキナノニ。

 何故こんなにも男の言動に、偽りの紫に心乱されるのか分からない。ただ許せなかった。男が紫を偽ることが。紫が不思議の国に巻き込まれることが。の手の中に、意識の端に消えていた氷の槍が蘇る。から発せられるただならぬ何かは、先程ミツキを追い込んだそれよりも鋭く強い。黄櫨はが壊れてしまうのではないかと心配になった。
 紫は目を見開き……男の姿に戻って顔を顰める。

「ああ。やっぱり俺はお前が嫌いだ。何も知らずに、あの人を苦しめ続ける」
 男はそう言うと背中を向け、鏡の中へ消えていった。戦意を失ったのか、逃げたのか、罠なのかは分からない。ただはそれを追わなければならないと思った。野放しにしてはおけない。

「わたし、追いかけます」
、何言ってるの?」
 戸惑う黄櫨の手を振り解き、は一歩踏み出そうとした。その肩をヘイヤが掴む。煩わしそうに振り返るに、ヘイヤは一切気後れせず、彼女の持つ槍に触れた。手袋越しに感じる氷の槍が、冷たい筈なのに熱くなる。力で満ちる。より手に馴染むのを感じた。

「俺の魔力、込めておいた。少しは使いやすくなったと思う」
「あ、有難うございます……?」
「お前に掛かってる呪いは、今すぐには解けない。その目に見えるものには、くれぐれも気を付けるんだね」
「はい」
「ちょっとヘイヤ! 、あんな危ない奴を追うなんて冗談でしょ」
 黄櫨が信じられない、といった顔でとヘイヤを責める。その頭に、狸がポンと手を置いた。

「まあまあ。さんには僕が付いて行きますから、安心してくださいよう」
「必要以上に深追いはするな。って言っても無駄か……お前、しつこいから」
「はは! ヘイヤさん達はどうするんですかあ?」
「俺は湖に行って、今度こそ氷面鏡をどうにかする。鏡の魔力を増幅する源が消えれば、奴も弱体化すると思う。……黄櫨、湖までの道案内をして」
 
 一方は鏡を追い、もう一方は力の源を断つ。どうやらここで二手に分かれることになりそうだ。納得していない一人の少年を置き去りに、三人はそれぞれの行く先を見据える。

「黄櫨くん、ヘイヤさん。外で会いましょう」
「えっ、ちょっと、、待って、」
「位置についてー! よ〜い……」
 狸が声高らかに言う。は踵を踏み込んだ。


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