Act25.「三月ウサギと鏡の迷宮」



「ミツキ、僕はもう君から逃げないよ」
 少年が呼ぶその名前は、随分前に手放したものだ。死んだ筈の……本来死ぬべきだった少女の名前。だが呪われた憎い名前も、この少年が口にすると、懐かしく心地よい。

(そうだ、それが、私の名前……)
 黄櫨に正体を暴かれたミツキは、空っぽの器に何かが満たされるのを感じた。それは、悲しみだ。心の奥で凍り付いていたミツキの感情が溶け、止めどなく溢れる。溺れてしまわないよう、自分の頭を抱き寄せるその小さな手に、必死でしがみ付いた。

 鏡に囚われていた心が、黄櫨の温もりに触れ、解けていく。

(また私は、現実を見失って……大切なものを失うところだった)
 “あの時”もそうだ。何度やり直したいと思ったか知れない、あの夜。もっと自分を強く持ち“彼”を信じることが出来ていれば。
 ミツキは悲しい記憶に沈んでいく。


 ――幼少期の自分は恵まれていた、とミツキは思っている。親の仕事も知らなかったが、生まれ育った屋敷は窓の外から見えるそれらよりずっと立派だった。物心つく頃には外に出ることを禁じられていたが、綺麗な調度品で整えられた部屋で、積み重なる本に耽っていると退屈しない。退屈しても夜中にこっそり屋敷内を歩き回れば、十分な冒険だった。使用人の見よう見真似でこっそり掃除をしておくと、屋敷の者が座敷童だと噂する。人との関りはそれくらいで満足だった。

 孤独な時間を埋めるは、墨色の知識。本の虫のミツキは見聞きしたこともない世の中のことを、恐らく往来の人々より詳しく知っていた。しかし自分自身の事を何も知らなかったのだ。

 ミツキの近辺では、昔から不思議なことが起きる。
 彼女がそれを知ったのは、両親が事故で他界し親戚に引き取られてからだった。ミツキの屋敷に上がり込み主顔で居座る彼らは、ミツキを『不吉な子』と恐れた。両親の死の原因もミツキにあると彼らは思いこんでいるようだった。謂われもないそれに、ミツキが感情を露わにした時――屋敷の窓ガラスが割れ、叔母は顔に大怪我を負った。

 ミツキは自分に課せられていた行動制限の理由が、自分の特異な力にあったのだとようやく気付く。亡き両親が娘を守るために平穏な箱庭へ隠していたのか、保身のために檻に閉じ込めていたのかは、分からなかった。
 叔父はミツキを小さな小部屋に押し込め、質素な食事を与え、知識の喜びを奪った。彼らはミツキを化物扱いしたが、ミツキを誰より恐れていたのは彼女自身だった。ミツキは誰かを傷付ける事が恐ろしく、できるだけ目を閉じ耳を塞ぎ、まるでそこに居ないかのように気配を消して過ごした。自分の一挙一動に他人が青褪めるのを見たくなかった。そうしている内に……いつからか声が出せなくなった。

 あの火事は、事故ではなかったのだろう。叔父や叔母、もしくは他の誰かの手によって起こされたに違いない。あれは、魔女の火刑だ。ミツキはその日、確かに自分は焼け死んだと思った。が、気付けば見知らぬ庭に居た。
  
 不思議な世界で出会った、不思議な人達。彼らはミツキを受け入れ、優しくしてくれた。この世界……不思議の国ではミツキの力も特別おかしなものではなく、彼らはその扱い方を教えてくれた。これまで本の中だけのことだと思っていた“他人との関係”を築くことが出来た。ミツキは新しい自分の居場所に、生まれて初めての幸福に浸っていた。

(だから……それを壊してしまうくらいなら、私が消えてしまえばよかったのに)

 ――ヘイヤが、気を失った黄櫨に攻撃の色を向けた時、ミツキは黄櫨を守るために武器を手に取った。……魔術は脳内のイメージが形となる。裏切りに冷え切った彼女の敵意は、冷たい氷の槍となった。空気中の水の分子の、配列状態を組み替え、結晶化させる……それを教えてくれたのは、ラファルとの勉強中に口出ししてきたヘイヤだ。まさかその成果を、彼自身に向けることになるとは思わなかった。

 ミツキはその時、自分がどうするべきだと思っていたのかは、今でも分からない。彼を止めるという事がどういうことなのか、その結末まで予想出来ていただろうか? ただ裏切られた悲しみと怒り、殺気に満ちた彼への恐怖が膨れ上がり……いつしか我を失っていた。今思えばそれが鏡の魔の力だったのだろう。抗う術を知らなかったミツキは、簡単に飲まれた。我を失った。無我夢中で、目の前の敵に槍を振るった。

 ……我に返ったのは、手に生温い感触を感じた時。手にした槍がヘイヤの胸を貫いていた。取り返しのつかない状況に、一気に頭と体が冷えていく。こんなつもりでは、なかったのだ。ヘイヤは苦しそうに顔を顰めながらも、どこかさっぱりした様子だった。

 彼から残酷な真相を聞き、ミツキは何もかもが信じられなかった。

(どうして彼が、私なんかのために犠牲になるんだろう。私のことなんて、珍しい玩具くらいにしか思っていなかった筈なのに。彼が居なくなったら、困る人は沢山居るのに。彼が居なくなったら、私だって……)

『サンガツちゃん……ミツキ。俺は、』

 最期にヘイヤが耳元で呟いた言葉は、今もミツキの中に木霊している。

 ミツキは最後まで彼の名を呼ぶことが出来なかった。ミツキは最後まで、自分の中の彼に対する気持ちが分からなかった。……違う。分からされて、終わらされた。
 圧し掛かる中身の無い重みに途方に暮れていると、鏡から聞こえて来た、誰かの声。それは全く聞き覚えの無い男の声だった。

『そいつを失いたくないんだな』
(あなたは、誰?)
『大切な人の存在を消されたくない。守り続けたい。その気持ちは俺にもよく分かる。力を貸そうか』
(力? 何を言ってるの? この声は一体……)
『言ってる意味が分からないか? お前が、そいつになるんだ。そうすればそいつの存在は世界に残り続ける。……この世界から、そいつが居なくなっても良いのか?』
(駄目! ……ヘイヤが居なくなるなんて駄目、嫌! 私が、私が居なくなるべきだったのに!)
『……その目は、決まっている目だな。さあ、力を受け取れ』

 鏡が発した光に目が眩む。感じたことの無い力が全身に満ちていく。五感が作り替えられる。認識が、歪む。……光が収まった時、ミツキは鏡に映る自分の姿が変わっていることに気付いた。そこに居るのはたった今、失ったと思ったヘイヤである。薄暗い鏡の奥では、誰かが慈悲に酔いしれた顔で笑っていた。

(あれはもしかして……“鏡”?)
 この世界では、人ではないものに人格が宿ることがある。だが鏡は違った筈だ。ミツキが手に取ったどの書物にもただの道具だと記されていた。それは間違いだったのだろうか。どうして誰も気付けなかったのだろうか。自分に手を差し伸べたその存在は、確かにそこに居る。

(鏡さん、有難う。これでヘイヤは居なくならない。邪魔者の私だけが消える、正しい結末に戻るだけ)

 ミツキは、ヘイヤとして生きることを決めた。
 
 自分の正体に気付いている常盤と黄櫨が永白から去り、ミツキはもう一人去るだろうと思っていた。ラファルだ。彼は平然と“ヘイヤ”に接していたが、それでも以前とは違うところがあった。彼は“モブくん”という独特なあだ名を呼ぶことを許さなくなり、ミツキは彼を呼べなくなっていた。きっと彼の中でそれは、ヘイヤだけに許した大切な名前なのだろう。
 懐いていた二人が去り気落ちしているラファルを、ミツキは「お前も、好きな所に行っていいよ」と、自分の元から逃がそうとした。罪悪感から逃れようとした。

「お前なんて、他人行儀ですねえ」
「前のあだ名は、嫌なんだろ」
「ううん、そうですねえ。僕のことは“狸”とでも、どうぞ。このお面気に入ってるんで」
「どうぞって。これからも、呼ぶ機会があるみたいだ」
「はい勿論。僕は、出ていきませんからねえ」
「……なんで」

「ヘイヤさんに、あなたのお世話を頼まれましたから」

 気が抜ける程穏やかな狸の面は、彼を笑顔に見せたが、実際はどうだったのか分からない。この男は全てを忘れさせてくれるつもりがないのだろう、と思った。
 それからラファルは、ミツキの元で嘉月会をよくまとめてくれた。更に月日が経ち、旅で立ち寄ったモスが居付き……以前とは形を変えるも、穏やかな日々を過ごしていた。ミツキは今度こそそれを守ろうと思い、不穏な力を感じる“異常気象”の調査に自ら出向いた。そしてそこで再び、鏡に再会する。

 湖に張られた大きな氷面鏡。そこに映るのは、消えた筈の少女の、ある筈のない幸せな世界。ミツキはそれがまやかしだと知っていながら、甘美に目を瞑ったのだ。そして今、優しい声に目覚めた。


 ――少年に導かれ、美しい鏡の迷宮から抜け出す。


「ミツキ、ごめんね」
 黄櫨の涙がミツキの頬に落ちる。ミツキは黄櫨に、ヘイヤの全てを奪った仇として憎まれているかもしれないと思っていた。自分の存在は彼にとって悪夢でしかないと思っていた。だが、違ったのだろうか?
 ミツキは許しを請うように彼の胸に頭を寄せ――

 嫌な気配に、顔を上げた。
 黄櫨の向こう、誰かがこちらを見ている。

 そこに居るのは、先程自分を追い詰めた女だ。ひどく冷めた目で、詰まらなさそうにこちらを見下ろしている。ミツキは戦慄した。彼女は一体何者なのだろう。キャラクターに出会った時の感覚と似ているような、少し違うような……正体不明の何かがそこには居た。





 

 黄櫨と、彼にミツキと呼ばれた少女を眺めながら、は全てが遠く感じていた。よく出来た映画のワンシーンを静かに眺めている感覚。自分と言う存在が薄れていく。……目の前の二人に、疎外感を覚えている。

 鏡の中に囚われた自分を、危険を顧みず助けに来てくれた少年。何を信じていいか分からない中、少年は頼もしく、愛おしかった。彼が自分を守ってくれるなら、自分も彼を守ろうと思った。なのに彼は自分達を殺そうとした敵を庇い、敵の為に涙している。……黄櫨は、本当は自分を助けに来たのではなく、この少女を探しに来たのだろうか? 自分はついでだったのだろうか? これは最初から、彼ら二人の物語だったのだろうか。

(まあ……それでも、いいけど)
 は二人から視線を逸らす。道中、黄櫨に幼い頃の紫を重ね見ていたことがいけないのだ。彼は紫ではない――わたしのものではない。だから別に、いい。

……ちゃんと、説明するから」
 黄櫨が胸元に少女を抱きながら、小さく振り返り、申し訳なさそうに言う。は溜息交じりに「いいよ別に」と返した。しかし自分の不貞腐れた口調に恥ずかしくなり、すぐに「あ、必要なら、で」と付け加える。黄櫨はの反応に戸惑いの色を浮かべた。

 ……一人の少年を挟んで、互いに警戒し合う二人の少女が座る。黄櫨はどちらを向くべきか迷い、どこでも無い場所を見ていた。

「それで、あなたは誰なの?」
 の問いにミツキは口を開きかけ、何か言いたげにした後、俯いてしまう。彼女が喋ることが出来ないと知らないは、苛々した。

 透き通る白い肌。雪の結晶のように触れると溶けてしまいそうな、儚い少女。所謂守ってあげたくなるタイプ。は彼女を見ていると胸がムカムカするのを感じた。別に、彼女が黄櫨や常盤と過去に関りがあって、それが決して浅い訳ではなさそうだという事に嫉妬している訳ではない……と、思う。多少そうだったとしても、これはまた違う。もっと違う何かだ。

 彼女の存在そのものに、形容しがたい嫌悪感を抱いていた。自分の部屋に勝手に入られたみたいな、お気に入りの服をもっと良く着こなされたみたいな、友達の輪に突然入って来た転校生みたいな。

「黄櫨くん、この子は一体……」
「彼女はミツキ。、君と同じだよ」
「同じ? 何が」
「ミツキも君と同じ、異世界人だってこと」
 は驚いた。これまで自分以外の異世界人に会ったことは無く、孤独だったのだ。ようやく出会えた異世界人仲間。是非、話を聞いてみたい。どこから来たのか。これまでどうして居たのか。色々な感情を分かち合いたい……とは、何故か少しも思わなかった。それどころか自分の存在が特別ではないと、替わりがいくらでもいるのだと言われたようで、心が冷めていく。

「異世界人……ね」
 異世界人。この世界において不吉とされる存在。もしこの生理的な嫌悪感の原因がそれであるなら、自分も他者から同じ感情を抱かれているのだろうか? しかし思い出す限りでは、事情を知らない人々が自分に対してそういう態度を取ることは無かった。では異世界人同士ならどうなのだろう? 彼女もまた、自分に嫌悪感を抱いているのだろうか?

(なんか、見てると本当に……)
 ミツキはの刺々しい視線に一回り小さくなり――否、二回りほど大きくなる。黄櫨はミツキに向かって収束していく魔力を感じ取った。それは先程打ち破った筈の、彼女の偽りの姿を再び形成している。黄櫨は困惑した。ミツキの歪んだ認識は、正常に戻ったのではないのだろうか。

 ミツキは……ヘイヤは自身の節の強い手を閉じたり広げたりして「あれ。おかしいな、戻ってる」と男の声で言った。は奇術の如く二つの姿を行き来する彼に困惑したが、先程までの嫌悪感が薄れ、心はいくらか穏やかだった。

「お前、何をした?」
「え? わたし? いや、何も」
「……さっきから、お前の意思がこの空間に、多大な影響を与えてる。お前が……“ミツキ”の存在を否定したから、俺はこの姿に戻った」
「何を言ってるのか全く分かりません。わたしが魔術を使ったってことですか?」
「いや、魔法だね」
 ヘイヤが興味深そうに目を細める。その不敵な視線は、先ほどの弱々しい少女とは違った。は黄櫨に助けを求めたが、目が合った彼は何とも言えない複雑な顔をしている。当のヘイヤは、慣れ親しんだ姿に安堵を浮かべていた。

 声を得たヘイヤはここまでの話を二人に聞かせた。

 ある日突然、タルジーの森を中心に降り始めた雪。その異常気象は魔術による人為的なもので、森の奥の湖を凍らせ巨大な“氷面鏡”を作ることが目的だったのではないかと、彼は予想している。鏡は人を強い力で引き付け、取り込む。その力は面積に比例するらしい。ヘイヤは何者かが鏡の力を悪用し、永白の侵略を企んでいると思っているようだ。

「何者かって? わたし達は、この異変がアリスによるものではないかと思ってました」
「アリス? またとんでもない名前が、出て来たね。まあ、敵はもう分かってる」
「え? 誰なんですか?」
「……鏡」
 ヘイヤの言葉に、それまで黙っていた黄櫨が「鏡?」と声を発した。ヘイヤを見るその目は、彼の姿に何か思うところがあるのだろう。は自分が責められているのではないかと心配になった。(わたしは何も、してないのに)

「鏡ってどういうこと?」
「そのまま。誰もが鏡を空っぽだと思ってるけど、俺は知ってる。鏡は生きてる。人格を有してる」
 俺に“姿うつし”の術を教えたのも鏡だから、とヘイヤは言った。
 
「生きている鏡……ですか?」
 の頭の中に、童話『白雪姫』に出て来る“喋る鏡”が浮かんだ。『この世界で一番美しいのは誰?』と問う女王に残酷な回答をする、不思議で不気味な鏡。この世界の鏡もそんな存在なのだろうか。(もしかしたら、時間くんみたいに人の姿で潜んでいるのかもしれない)

「氷面鏡を壊そうとした時、鏡が邪魔をしてきた。それで、」
「罠に引っかかったってこと? らしくもない」
「そう。“俺らしくない”ね」
 彼の自虐的な笑みに、黄櫨は押し黙る。

「ところで、お前は何者? 異世界人ってだけじゃないね。妙な感じがする」
 は何から話そうか……と一瞬だけ困惑したが、口を開けばそう難しいこともなかった。異世界からやってきて、白ウサギのアリスネームを得て、アリスを捕まえるべく追っており、永白の異変がアリスに繋がるのではないかとやってきた。それだけ、だ。お湯を入れたカップラーメンもまだ硬いだろう。

「白ウサギ? お前が? ……前の白ウサギを殺したのか」
「な、何ですかそれ! 生きてますよ、あの人は」
の言う通りだよ。彼女は王と同じ、適性でアリスネームが移譲されたケース」
「へえ、そう」
(適性で、移譲……?)
 は白ウサギの役をピーターに一方的に押し付けられたものだと思っていたが、そうでないのだろうか。適性とやらが、彼から自分にアリスネームを移した。そして、ヘイヤの口ぶりからすると……(殺すことで、アリスネームは奪えるってこと?)

「白ウサギ、ね。言われてみれば、そんな感じもするけど。なんか、違う感じもする」
「ミツ……ヘイヤ、あんまりジロジロ見ないであげてよ。キャラクター同士だからって、いつも完全に分かる訳じゃないでしょ」
「それは、そうだけど」
「……よく分からないですけど、とりあえずここから出ましょうよ」

「駄目だ」

 第三者の声が、の言葉を切り捨てる。息を切らせた男の声。どこからともなく突然現れた気配に、は驚き振り返る。そこにはに呪いを掛けた、あのフードの男が立っていた。 inserted by FC2 system