Act24.「眠りネズミとサンガツウサギ」


 もしもあの時、こうしていたら。
 そんなことを考えている時点で、もう手遅れなんだ。


 ――黄櫨の意識が、張り詰めた静寂に浮上する。ヘイヤとミツキは、一体どうなってしまったのだろう。気を失う直前まで感じていた殺伐とした空気、物々しい音もすっかり消え失せている。黄櫨は頭の内からガンガン響く頭痛と戦いながら、何とか冷たい床から顔を剥がし、前を見た。そこには二つの折り重なる影。

(……ヘイヤ、ミツキ?)
 黄櫨は、また悪夢でも見ているのだろうと思った。目の前の光景がとても信じられなかった。部屋の中央ではヘイヤがミツキに覆い被さるように、彼女の肩に頭を凭れている。……その背中からは、一本の鋭い槍が突き出していた。

 ミツキの手にした槍が、ヘイヤを貫いている。

 目に、心に突き刺さる、赤い現実。込み上げるものが悲鳴になってくれれば楽になったかもしれない。だが出てくるのは、乾いた呼吸だけ。喉がつっかえて声が出ない。おまけに体中が痺れ、立ち上がることも出来なかった。
 黄櫨は気付く。これは白火病の症状ではない。きっとヘイヤが、何かしらの魔術を自分に掛けたのだ。彼は自分の動きと声を封じて……邪魔させないようにしたのだ。

「サンガツちゃんの、勝ちだ」
 掠れたヘイヤの声。彼はまだ息がある。急いで助けを呼んで処置すれば間に合うかもしれない。黄櫨は声の出せないもどかしさに、狂ってしまいそうだった。ミツキはずっとこんな苦しみを抱えて生きて来たのだろうか。

「俺に勝ったご褒美に、一つ、いいことを教えてあげる」
 そう言った後、すぐに咳き込むヘイヤ。胸元で槍の柄を握ったままのミツキの顔は、心が抜け落ちたように空っぽだった。致命的な怪我を負っているヘイヤと違い、見る限り彼女に大きな怪我はない。いくら彼女が予測不能な異世界人で、秘めたる力を持っていたとしても、あのヘイヤがこんなに簡単に負けるだろうか?

「しっかり聞いて。アリスネームは、」
(なに? この状況でヘイヤは何の話を……)

「アリスネームは、適性がなくても、相手を殺すことで奪えるんだ」

 それは、思いもよらない発言だった。ヘイヤが何の話をしているのか、何故それを今言うのかが分からない。(“アリスネームを奪う”って、なに?)

 アリスネーム……ロールネームは、不思議の国における存在意義を現す名前。役割。それは生まれ落ちた時から、本人の意思に関係なく割り振られている。好き勝手に変えられるものではない。トランプ王国の王のように、より相応しい者が現れれば“自然と移る”ことはあるが……殆ど例がなく、詳しい事は不明確で、実のところ疑わしいくらいである。だがヘイヤが言ったことは、それ以上に突拍子が無かった。相手を殺すことで奪えるなど、聞いたことがない。

「異世界人がこの世界で生きていくには、ロールネームが必要。世界に認められなくちゃいけない。……俺の集めていた文献を、隠れて読んでいたサンガツちゃんなら、理解できるはず」
 ミツキの消失現象が始まってから、ヘイヤはミツキを不安にさせないよう、異世界人の薄暗い情報を彼女から隠していた。しかしそれは無意味どころか逆効果だったのかもしれない。ミツキは物静かに見えて、好奇心旺盛で知識を得ることに貪欲である。隠されれば隠される程、気になってしまったに違いない。そういうところだけは、少しヘイヤに似ている。ミツキはとっくに、自分が消えかかっている理由も、病の原因が自分であることも、気付いていたのだろう。

「ロールネームは適性に応じて、振り分けられる。そこに意志が介入する余地はない。いくら欲しがっても、入手不可能。でも、ロールネームの中でも特殊なアリスネームは、違う。唯一無二のこの特等席は、奪い合える」
(そんな話、聞いたことない。でももしヘイヤの言うことが本当なら……ヘイヤは、)

「これからはサンガツちゃんが、俺の替わりに、三月ウサギとして生きていくんだ」

 ヘイヤの声は達成感に満ちていた。ミツキが驚きで目を見開き、小さくしゃくり上げる。
 彼の言うことは、とても事実だとは認め難かった。ただの思い付きの妄言に聞こえる。もし本当だったとしても、何故ヘイヤがそんなことを知っているのか。その疑問は、黄櫨の中の何かに引っかかった。そうだ。ヘイヤは……ヘイヤと常盤は、何かを隠していたのだ。その秘密がもしかすると――

「信じられない? 本当だよ。前例は俺だから」

(ヘイヤが、誰かからアリスネームを奪っていた? まさか、そんな)
 黄櫨が出会った時、ヘイヤは既に三月ウサギのアリスネームを持つキャラクターだった。それはキャラクター同士の共鳴が教える、紛れもない事実。言語化できない、この世界の仕組み。だが彼は最初から三月ウサギでは無かったというのだろうか。自分と会うよりも前に、元の三月ウサギを手にかけ、奪っていたというのだろうか。そして今、ミツキがヘイヤからそれを奪い……

(いや、違う。ヘイヤが奪うように仕向けたんだ)
 ヘイヤはミツキに疑心を抱かせ、彼女の友人である自分を人質に取ることで、彼女の敵意を引き出した。引き出したそれを、鏡の持つ“感情を拡大・縮小する”という特性で増幅させた。彼女を狂わせた。
 二人の戦いを見てはいなかったが、殆ど無傷のミツキが、ヘイヤの思惑を物語っている。

(なんで、なんでヘイヤが、そんなこと!)
 黄櫨には理解できない。ミツキにアリスネームを与えることが目的であるなら、何も自分が犠牲になる必要は無いのだ。他国からキャラクターを連れてきて、彼女に捧げれば良かった。ミツキはそれを良しとしないだろうが、それこそ騙すでも何でもすればいい。何故ヘイヤ自身が贄となる必要がある? 彼がミツキを救いたいのは、彼女と生きていたいからではなかったのか?

 ミツキもまた、黄櫨と同じ疑問を抱いているらしかった。ヘイヤはミツキの肩から頭を上げ、彼女の目を横に見る。

「それは、なんで俺が、って顔かな」
 薄紫色の瞳が、力なく細められる。笑っている、のだろうか。

「サンガツちゃんに、俺以外を殺させたくなかった。お前が罪悪感で、誰かを思い出し続けるなんて、許せないから」
 彼らしくない優しい声で、彼らしい自分勝手な言葉が語られる。ヘイヤの想いを受け、ミツキの虚ろな目が濡れて光る。揺れる瞳、震える唇。ヘイヤは今にも壊れそうな彼女の頭を抱き寄せた。

「さっき、一つだけ教えてあげるって言ったけど。もう一つ、あった」
 彼の唇が、ミツキの耳元に寄せられる。

「サンガツちゃん……ミツキ」
 名を呼ばれたミツキは、ハッと息を呑んだ。その後、ヘイヤが彼女に囁いた言葉は黄櫨には聞こえなかった。もしかしたら声になっていなかったのかもしれない。ただきっと、ミツキには届いていたのだろう。悲しく優しい言葉が届いていたのだろう。ミツキの目から大粒の涙が零れ落ちる。――それきり、ヘイヤは何も言わなくなった。

 ミツキは自分に圧し掛かってくる彼の体を、呆然と見つめている。その口は何度か彼の名前を形作っていたが、やはり声にならない。ミツキが彼の名前を呼ぶことは最後までなかった。叶わなかった。
 
 慣れ親しんだヘイヤの気配が、世界中のどこからも失われる。彼の纏っていた三月ウサギの存在だけが、透明な残骸として漂っている。目には見えない、けれど確かな存在であるそれは、少女の中に溶け込んでいった。
 瞬間、黄櫨は本能でミツキが“三月ウサギになった”ことを認識する。初めて自己を認識した時、自分が何者であるか当たり前に知っていたように。疑うことも出来ない自然の摂理が、何故か酷く悍ましく感じられた。……不条理なこの世界。現実は残酷などという話ではない。これはそんな、まともな仕組みではない。

 これこそが、常盤の言っていた“世界の意思”なのだ。
 黄櫨は世界がこの劇的な展開を喜び、ミツキが三月ウサギとなることを物語の流れとして認めたのだと感じた。子供のごっこ遊びのように、気分次第で采配を振るっている。異世界人を弄ぶような呪いも、趣味の悪い遊びの一環なのかもしれない。

 ……世界の意思。それがアリスという創造主の意思であるのか、もっと深い所に根付くものなのかは、分からない。分からないが、確かに――どこか遠い所で、誰かの目が、楽しそうにこちらを見ていることに、勘付いてしまった。

「ミツキ、」
 無意識に発した彼女の名前で、黄櫨は声が出せるようになっていた事を知る。自身を縛り付けていたヘイヤの魔術が、術者を失ったことで解けたのだろう。ミツキは見るも痛々しいボロボロの顔で黄櫨を見る。まるで途方に暮れた迷子だ。黄櫨も涙に溺れてしまいたかったが、ミツキを放っておけない気持ちがそれを許さなかった。

 黄櫨は重い体を起こす。熱や苦しさは大分引いていた。ミツキが三月ウサギになったことで異世界人の呪いも消えたのだろうか? それでもまだ体中が痺れ、すぐには立ち上がることが出来ない。歩いていけない。もどかしそうにする黄櫨を、ミツキは助けを求める目で待っている。

 ――その目が、誰かに呼ばれたかのように、スッと背後の鏡を見た。

 ミツキは鏡を見つめ、鏡もまたミツキを見つめ、彼女は小さく頷く。
 黄櫨は彼女の気が狂い、鏡の中にヘイヤの幻覚でも見ているのかと思った。鏡は見る者の意識エネルギーを反映する触媒である。そこに映るものは、それが語り掛けて来るものは、ミツキ自身の中にあるものでしかない。鏡には、時間のように人格は無いのだから。その中に“語り掛けて来る誰か”なんて居ないのだから。

「ミツキ、鏡から離れて!」
 黄櫨の呼び掛けに、振り返る彼女。その赤い瞳の中には、不思議な青が混ざっている。濁った濃色は、淡い紫へ。細い絹糸の白髪は、太く硬い白銀へと変容する。華奢な少女の体が、一回り以上も大きな男のものに変わる。……それは、実体を伴う幻覚。ミツキの魔力が彼女の姿を、ヘイヤに変えていた。
 姿を変える術は、魔術に精通したヘイヤでも実現できなかった。自己認識と他者認識で存在が確立するこの世界において、認識を歪めることは生きることと相反している。本能がそれを妨げるのだ。

 しかし今、ミツキは……

「ミツキ、何してるの……どういう……つもり?」
「……サンガツちゃんは、もう居ない。俺が殺した」
 黄櫨が初めて聞いたミツキの声は、聞き慣れたヘイヤの声だった。声だけでなく表情も気配も全てが、本物のヘイヤそのものだ。“その男”は自分に凭れかかる、瓜二つの亡骸を冷たく見下ろす。

「俺は二人、要らないね」
 ヘイヤの手から炎が上がった。それは床に散乱している紙に燃え移り、見る見る間に赤黒い海となっていく。ヘイヤは同じ姿をした男の体をそっと炎の中に横たえると、まだ立てずにいる黄櫨を肩に担ぎ上げる。燃える男の体に叫ぶ黄櫨を無視して、ヘイヤは研究室を後にした。



 *



 炎はヘイヤの亡骸と共に、彼の部屋を燃やし尽くした。駆け付けた構成員達によって懸命に消火活動が行われたが、墨色の跡形の中で、彼の姿はもう原型を失っていた。

 “ヘイヤ”はその亡骸をミツキのものとした。国に蔓延する病の原因が自分だと思い、動転した彼女が魔力を暴発させ、自らの出した炎で焼け死んだのだと皆に伝えた。ミツキが過去に何度か魔術を制御できなかったことを知っている構成員は、それで納得したようである。彼らはただ、否定するより楽な方を選んだだけに見えた。
 ヘイヤは現場に詮索の手が入らないよう、すぐに“残ったもの”を処分させてしまった。嘘のような、たった一晩の出来事だった。

 黄櫨はヘイヤのフリを続ける彼女を止めようとしたが、冷静でいられず、取り乱した様子は周りの不信を買った。いつも通りのヘイヤが『黄櫨は事故を目にして、混乱してる。病の影響で、意識が混濁しているのかもしれない』と言うと、構成員達は黄櫨を憐れみつつ部屋に閉じ込めてしまった。

(ミツキが死んで、ヘイヤがいつも通りである訳がないのに、どうして誰も気付かないんだ!)
 いくら戸を叩いても、誰もやって来ない。黄櫨は諦め、無気力にベッドの上で丸くなる。次に人と話をしたのは、日がすっかり高くなった頃。森から帰還した常盤が、部屋を訪れた時だった。
 常盤は黄櫨の元通りになった髪と瞳の色を見て、安堵を浮かべる。しかしどこか、通夜の様な暗い雰囲気を纏っていた。

「おかえり。何があったか、聞いたよね? ……“誰を”悼んでるの?」
「……ヘイヤから、ミツキが死んだと聞いた」
「あれはヘイヤじゃない。全然違う。ずっとヘイヤと居た僕達が、気付けない訳ないよね」
 黄櫨は栓を抜いたように、昨晩見聞きしたことを全て吐き出した。話せば話すほど、頭が混乱していく。外見の年齢相応に拙い喋りをする黄櫨を、常盤はただ黙って見守っていた。掛ける言葉が見つからない、逃げだったのかもしれない。

「常盤は、知ってたんだよね。殺した相手からアリスネームを奪えるってこと。ヘイヤがそれを使って、ミツキに自分の役を与えようとしてたこと」 
 黄櫨の問いに、常盤は無言の肯定を返す。
 ……どうして教えてくれなかったのか。それは、聞くまでもない。殺せば名を奪えるという事実が広まれば、危険なのはアリスネームを持つキャラクター達である。強い力を持つキャラクターの地位を狙う者は、必ず出てくるだろう。人々に束になって掛かって来られては、特に黄櫨のような子供では太刀打ちできない。常盤はそのような事態を防ぐため、その事実を隠していたに違いない。

「知ってたなら、なんで。どうしてヘイヤを止めなかったの。なんで! ……世界なんてどうでもいい。ヘイヤの方が大事に決まってる!」
 黄櫨は、行き場の無い感情を常盤にぶつけた。頭では分かっている。彼が此処を離れるしかなかったことを。それでも諦めきれずに、ラファルをヘイヤの元に帰したのだということを。ラファルがヘイヤに力で敵うとは思っていなかっただろうが、呼び掛けに応じる位は期待していたのだろう。ヘイヤが何だかんだ言いながら、無邪気で人当たりの良いラファルを気に入っていたのは黄櫨も知っていた。

 だがラファルでも駄目だった。ヘイヤを思い留まらせることは出来なかった。ヘイヤは狂ってはいなかったが、ミツキに、ある意味で狂っていたのだ。もし誰かが彼を止めることが出来たとしても、ミツキを助けられなければ……結末は今より悲しいものになっていたかもしれない。 

「僕は、どうすればいいか分からない。ヘイヤの真似をするあの子が、何を考えてるのか分からない。怖い」
「ヘイヤが居なくなったと知られれば、国中が混乱するだろう。それに乗じて他国が攻めこんでくるかもしれない」
「じゃあ、なに。ずっとミツキにヘイヤのフリをさせ続けるつもり?」
「ミツキは何故、ヘイヤのフリをしていると思う?」
「それは……」

 そうか。と、黄櫨は思い至った。彼女はヘイヤが居なくなった事実を、受け入れられないのかもしれない。繊細で優しい彼女は、ヘイヤの犠牲の上に自分が生きていることが、許せないのかもしれない。

「ミツキはヘイヤを存在させ続けたいってこと? それじゃあミツキはどうなるの? ヘイヤは命を懸けてミツキを守ったのに、結局ミツキがミツキで居られないなんて……そんなの悲しすぎる。ヘイヤが、」
 ヘイヤが浮かばれない。それは声になる前に、萎んで消えた。違う、悲しいのはヘイヤではなく、自分なのだ。ヘイヤのミツキに対する執着や普段の価値観からいえば、彼女が彼に囚われ続けていることは、ヘイヤにとって幸せなことかもしれない。(ヘイヤとミツキがそれで良かったとしても……僕は嫌だ)

「魔術は意識エネルギーが具現化したものだ。彼女が強い意思で自身をヘイヤだと思い込んでいる限り、きっと解けない」
「でも僕たちが説得すれば……」
 黄櫨は自分のその言葉が、常盤に届いている感覚がなかった。他の誰も真実に気付いていない今、ミツキがミツキに戻ることで得をするのは誰か。一体誰の為に、傷付いた彼女の心を更に踏み荒らすというのか。何も言われなくても、黄櫨はそう言われている気がした。

「今のミツキに、現実を認めろと言うのは酷だ。彼女を守るためにも、この嘘に付き合うしかない」
「嘘、でしょ。本気で言ってる?」
「冗談だったら良かったんだがな」
 黄櫨は、常盤には感情がないのかと思った。しかし責めるように見上げた彼もまた悲しい目をしており、力なく項垂れるのだった。

 ――ヘイヤの正体について、とりあえずは、二人の間だけで秘めておくことにした。とはいえ黄櫨は、ヘイヤの正体が明らかになるのは時間の問題だろうと思っていた。四六時中、姿を変え続けることなど出来る訳が無い。天才魔術師と呼ばれていたヘイヤの真似を、この世界に来て三年弱のミツキがこなせる筈がない。……と、思っていた。しかし実際、彼女はとても上手くやってしまった。彼女のずば抜けた記憶力、魔術の才能、研究熱心な性質。それらが、気味が悪い程に完璧なヘイヤを作っていた。

 黄櫨は、ラファルなら気付いているかもしれないと期待した。だが彼は何事もなかったかのようにヘイヤに接している。なり替わりに気付いていないとしても、あの夜の戦いを忘れている様な態度は流石におかしい。黄櫨はラファルに、どういうつもりかと尋ねたが、いつもの調子ではぐらかされてしまった。……何事もなかったような態度ではあるが、しかし、いつも通りではない。以前とはどこか違う、彼とヘイヤの距離感。ヘイヤが親しみを込めて呼んでいた“モブくん”という彼限定のあだ名も、もう聞くことは無くなっていた。
  
 常盤も以前よりはヘイヤと距離を置いているようだったが、あくまでヘイヤをヘイヤとして扱った。だが黄櫨は、彼ほど割り切ることが出来ない。大切な人を“同時に二人も”失ってしまった黄櫨は、気分の落ち込みから度々体調を崩し、ヘイヤとは普通に接することが出来ずに居る。ヘイヤもまた、自分を“ヘイヤ扱い”しない黄櫨に、心理的な防御反応からか冷たく接し、避けるようになった。

 表向きでミツキが居なくなってから、半年。永白に再び、ジャック達一行が現れた。前回の薬物騒動で彼の国とはやりとりが続いていたものの、白火病の発生で暫く国交が閉ざされていた。病が消えた今、再び対策会議の場が設けられたのである。

 つつがない会合の後、黄櫨は以前のようにジャックに話しかけられ、縁側に並んで座っていた。思えばこの男が来て、異世界人の不穏な話を持ち込んでから、事態は一気に悪い方向に転じた気がする。八つ当たりかもしれないが、そうでないかもしれない。認識が現実に及ぼす力は計り知れないのだ。この国の者や、ミツキ本人の異世界人に対する感情が作用して、呪いが生まれたのだとしてもおかしな話ではない。

「顔色が悪いな。ちゃんと食べて寝てるか? ……色々大変だっただろ」
 気遣う様なジャック。彼は永白を苦しめていた病やバグの頻出のことを知っているのだろう。病の犠牲者は二桁に上っていた。バグによって現れた歪に呑まれ、未だ行方知れずの者も、同程度居る。悪夢から醒めた今でも、国民の恐怖心は拭いきれていない。悲しみも続いていた。
 ジャックの言葉には、もう一件のことも含まれているのだろう。異世界人が事故死したという話も知っているに違いない。異世界人の存在に敏感な彼が、そんな情報を逃すとは思えなかった。
 黄櫨は曖昧に頷く。ジャックは、黄櫨を本当に苦しめているものが何なのかを知らないのだから。

「君は、ヘイヤとの間になにかあったのか?」
「なんでそう思うの?」
「会議中、一度もアイツを見ようとしなかっただろ」
 黄櫨は小さく驚く。見られていることに全く気付けなかった。以前も思ったが、この男は侮れない。

「ヘイヤも君を避けているようだった。喧嘩でもしたのか?」
 ……だったら、どれほど良かったか! 黄櫨は俯く。ジャックは黄櫨が泣いているとでも思ったのか「いや、言いたくないなら」と慌てた。
 二人の間に暫く沈黙が降りる。ジャックは風が葉を揺らす音に紛れ込ませて、静かにそれを口にした。

「もし君さえ良ければ、俺達の国に来ないか?」
「え……なんで?」
「辛そうな顔をしているからだ。この国には、思い出したくないこともあるだろ? 場所を変えると気分も変わるかもしれない」
「それ、ジャックに何のメリットがあるの?」
「お、初めて俺の名前を呼んだな。覚えてたのか」
「質問に答えて」
「……君みたいな子が居てくれたら、陛下の心の癒しになるんじゃないかと、思ったんだ」
 アリスネームを課せられた者同士。それも勿論あるのだろうが、黄櫨なら今の女王の心に寄り添えるとジャックは期待しているらしい。黄櫨には余計な猜疑心なく、なんでも話したくなる。ずっと大人に囲まれて生きて来た彼女に、黄櫨のような少年はきっと癒しになるだろうと、ジャックは言った。

「僕は、行けないよ」
「試しに、少しだけでも来てみないか。次の満月、森の入り口に迎えに来るから」
「何を勝手に」
「ちゃんと話は通しとけよ」
 ジャックはそう言い残して、去っていった。強引過ぎるが、彼は黄櫨の中に揺れる感情を察していたのだろう。黄櫨はそれを自覚して自己嫌悪した。行かないではなく“行けない”と言った自分。本当は今の――自分の知るヘイヤとミツキがどこにも居ない日々から、逃げ出したいのかもしれない。偽のヘイヤを見る度、あの日鏡の前に居た二人がフラッシュバックして、吐き気を催した。頭痛がした。心臓が痛んだ。

 もう、耐えられないかもしれない。ヘイヤが守ったミツキを、いくら守りたくても、そのミツキ本人がどこにも居ないのだ。なら自分もここに居なくてもいいのではないか。逃げてもいいのではないか。(今の僕は、完璧なヘイヤを演じるミツキにとって、邪魔なだけかもしれないし)



 ――あんなにも明るかった月が、白み始めた空に埋もれていく。約束の夜は、果たされなかった。ジャックが来ることは無かった。
 黄櫨はタルジーの森の入口で、一人自嘲の笑みを浮かべる。彼が嘘を付いていたようには見えなかったが、嘘ではなくてもただの気まぐれだったのかもしれない。すぐ忘れてしまえる程度だったのかもしれない。もしかすると、自分との約束事など頭から飛んでしまう程の出来事が彼に訪れたのかもしれないが、結果は変わらない。約束は破られたのだ。

 騙されたことへの憤りと、一人逃げようとした罪悪感が重く圧し掛かる。誰にも何も言わずに出てきたのだ。このまま戻れば、今夜のことは無かったことになる……訳が無い。他の誰でもない自分が、知っている。戻れる気がしなかった。黄櫨は満月の夜が終わるのを見上げ、立ち尽くす。……人の気配がして、その目を地上に下ろした。

「黄櫨、こんなところに居たのか」
 常盤は、偶然現れたという訳ではなさそうだ。きっと自分を探していたのだろうと黄櫨は思った。最近ずっと、彼は自分の事を気に掛けてくれていた。落ち込んでいた自分が屋敷内のどこにも居ないことで、不安にさせてしまったのかもしれない。

「僕、帰らないよ。もうあの場所には戻れない。あんなヘイヤを見ていられない」
 これでは本当に子供みたいだ。常盤は困るだろう。または、呆れるだろうか? しかし、彼の反応はそのどちらでも無かった。

「……そうだな。なら、二人でこの国を出ないか」
「え?」
「私も、今の黄櫨を見ていられない。それに私達が居ない方が、ミツキもやりやすいだろう」
「常盤……」

 煙った朝日が、森を、街を青く染めていく。ヘイヤがミツキを想い作り替えた街並みが、薄暗くぼけている。蜃気楼みたいだ。遠い。全てがもう、手の届かない場所にある。
 
「うん。連れて行って」


 黄櫨は常盤と共に永白を出て、少しばかり点々とした後、今の場所に落ち着いた。ヘイヤが自分達を追うことは無かった。常盤は仕事上、あれから何度か永白付近に出向くこともあったようだが、彼から嘉月会の話やヘイヤの話を聞くことは無かった。


 僕は、逃げたんだ。
 ヘイヤから、ミツキから。自分の弱さから、逃げ出したんだ。 inserted by FC2 system