Act21.「眠りネズミと三月ウサギ(上)」



 風と共に現れた少女を“異世界人”と決め付けるヘイヤ。黄櫨は「なんでそんなこと分かるの?」と尋ねたが、ヘイヤはもう他の事など目にも耳にも入らない様子で、好奇心のまま少女に歩み寄っていく。得体の知れない相手に、全く警戒心の無い彼。黄櫨ではこうなったヘイヤを止めることが出来ず、それを常盤に託した。しかし、いつもならヘイヤを止めるだろう彼は、黙って少女を見ているだけで動かない。黄櫨には常盤のその目が、何かを見定めようとしているものに感じられた。

「ねえ、人間っぽいけど。言葉、通じる?」
 ヘイヤの不躾な問いに、少女は何も答えない。答えられないのかもしれない。その顔は、自分に近付いて来た男に怯えを浮かべている。少女は震えながら後退り、腰を抜かしたのか尻餅をついた。

「あれ。言葉、通じないか。それは……都合がいい」
 見上げる少女に、ヘイヤの影が落ちる。黄櫨の居る場所からはヘイヤの表情が見えなかったが、手に取るように分かった。恐らく昆虫採集をする少年の如く無邪気で、残酷な眼差しを向けているのだろう。

「異世界人って、どこから来るの? なんで来たの? ナニで出来てるの?」
 ぐっと顔を近付け、少女の白い皮膚に覆われた“中身”を探ろうとするヘイヤ。少女に伸ばされたその手は……寸前でピタリと止まる。常盤が彼の腕を掴んでいた。ヘイヤがようやく振り返る。

「なに?」
「何じゃない。怯えているだろう」
「そう見えるだけかも、分からない。まずは頭の中を、見てみないと」
「お前は本当に……。いつも言っているが、あまり人道から外れた真似はするな」
「俺、ウサギだし」
 ヘイヤは不服そうにするものの、ある程度平常心を取り戻したようだった。黄櫨はホッとする。常盤は膝を折り、座り込んだままの少女に目線を合わせると「大丈夫か?」と優しく声を掛けた。そんな彼に黄櫨とヘイヤ、地面に伏したままのラファルも顔を上げ驚く。常盤はごく身近な者……ここに居る三人以外には、一線も二線も引いている男だ。必要以上に関わりを持とうとせず、基本的には冷淡である。例え相手がまだ幼さの残る少女であっても、部外者にそのような態度を示すのは意外でしかなかった。

 警戒していた少女の目が、徐々に落ち着きを帯びていく。常盤に自分を害する気が無いと理解したのか、少女は緊張の糸が切れたように――気を失った。地面に衝突しそうになる少女を常盤が支える。

「随分、丁寧な扱いだね。やっぱり、貴重な実験体だから?」
「お前と一緒にするな」
「うんうん。とりあえず、持って帰ろう」

 黄櫨は少女が目を覚まさないことを確認しながら、そろりと近付いた。そしてヘイヤの後ろからそっと少女を見る。その顔は血を全て抜かれたように白いが、胸は僅かに上下していた。身に纏っているのは不思議の国ではあまり見ない、直線的なデザインの“着物”である。袖から覗く手は赤く腫れていた。

「それ……火傷かな」
「だろうね。モブくん、これ“直し”といて」
 ヘイヤに命じられ、ボロボロのラファルは「治されたいのは、僕なんですけどねえ」と肩を竦めた。



 *



 翌日。意識を取り戻した少女はラファルに連れられ、ヘイヤ達のお茶会の席へとやって来た。ところどころ擦り切れ汚れていた着物ではなく、ラファルか誰かが急いで買ってきた事が分かるブカブカのワンピースを着ている。絡まっていた髪が梳かされ、顔の煤汚れが無くなると見違えたようで、少女の隣のラファルは得意満面だ。病的な青白い肌は変わらず、手に巻かれた包帯も痛々しいが、昨日より随分人間らしく見える。

「連れて来ましたよう」
「うん。じゃあ、もう帰っていい」
「ひどっ」
 ヘイヤに冷たくあしらわれることに慣れているラファルは、ショックを受けるポーズは取るものの、全く去る気がないのかその場にどっしり立っていた。少女もその隣で所在なさげに立ち尽くしている。

「……座れば」
 黄櫨は何と無しに少女に声を掛けてみたが、少女は戸惑った顔でもじもじとしているだけで、座ろうとしない。少女の外見は十二、三歳程度に見えるが、黄櫨は自分より小さな子供を相手にしている気分になった。

「警戒しなくていい。私達は、君に危害を加える気はない」
 常盤が言うと、少女はピクリと反応を示し、おずおず彼の近くの空いている席に座る。俯く顔が若干血色良くなっているのを見て、黄櫨は“またか”と思った。彼に接した女にそういう反応を見ることは、今まで何度かあったのだ。

(まあ、分かるけどね。中身はさておき)
 じっと見つめる黄櫨の視線に、常盤は不思議そうな顔をした。

 ヘイヤは席に着いた少女に興味津々の様子で「ねえ、異世界人って、何飲むの? 生き血?」と突拍子もない事を言う。少女のヘイヤに対する怯えに怪訝が加わった。

「ヘイヤさん駄目ですよう。この子、喋れないみたいなんですう」
「口があるのに?」
「本当にデリカシーが無いお人ですねえ。人には色々な事情があるんですよう」
「ふうん」
 分かったような口を利くラファルに、ヘイヤは存外素直だった。サッと手を振り、何もない宙から紙束とペンを取り出すと、少女の前に置く。

「文字は書ける?」
 少女はヘイヤの差し出したものを受け取りたくなさそうだったが、渋々それを手に取り、何かを書いた。

『書けます。私の文字が読めますか?』
「なんだ、お前、ちゃんと言葉通じるんだね」
『お前じゃありません』
「……しかも気が強そう。じゃあ名前は? ある?」
 ヘイヤに馬鹿にされたと思ったのか、少女は険しい顔で紙一面に大きく文字を書いた。黄櫨は、ヘイヤは気遣いが極端に下手なだけで基本的に悪意の無い人物であると知っていたが、一々少女に教える気にはなれなかった。

 少女が胸の前に紙を掲げる。書かれていたのは『三月』の二文字。ヘイヤが「サンガツ?」と読むと、少女はその文字の傍に『ミツキ』と振り仮名を振った。ヘイヤはそれを見てもなお「サンガツ」と繰り返す。

「サンガツ、サンガツ。三月ウサギの俺と、お揃いだ」
『ミツキです』
「いや。お前の事は、サンガツちゃんって呼ぶ。決定」
 やけに楽しそうにするヘイヤとは逆に、ミツキは顔を歪めた。

 それからミツキは、自分のことを少しだけ文字で語った。歳が十三歳であること。エシラにも不思議の国にも聞き覚えは無く、黄櫨たちの知らない国に住んでいたとのこと。“ある日突然”この庭に迷い込んでしまったということ。何がきっかけになったのか心当たりもないらしいが、黄櫨は彼女の不自然な視線の動きから、それは嘘だと気付いた。しかしそれを追及する程ミツキへの興味がない黄櫨は、途中からテーブルに突っ伏し昼寝を始める。頭の上では、ヘイヤがミツキにひたすら質問を投げかけていた。

「ねえねえ、サンガツちゃんは――」
「ヘイヤ。少しは落ち着け、彼女が困ってるだろう」
「そう? じゃああと何個まで質問、していい?」
『一個だけ』
「一個か。うん……好きな食べ物は?」
「最後の一個がそれでいいんですかあ?」
 ラファルが即座にツッコミを入れる。顔を伏せている黄櫨は、ミツキの好物を知ることは無かった。ただミツキを過度に構うヘイヤと、彼から庇うようにミツキの味方をする常盤、いつも通り明るく元気なラファルの笑い声に疎外感を覚え、いつまでも寝付けずにいた。

(どうせ、今だけ。目新しいから構ってるんだ。ヘイヤならすぐに飽きるはず)

「サンガツちゃん。行く当てがないなら、ここに住みなよ」
 ヘイヤの提案に、黄櫨は誰かが反対することを願った。黄櫨の中で今の環境は完成されており、変化は不要なのだ。胡散臭い異世界人なんてもってのほか。しかしこの雰囲気で、誰も反対する訳が無いということも分かっていた。

 彼女の世話役を命じられたラファルが「子守りですかあ」と、気が進まないようなそうでもないような、何とも言えない声で言った。



 *



 ミツキが居候を始めてから半月が経つ。黄櫨は、異世界人は世界に適合せず、現れてもすぐに消えてしまう存在だと聞いていたが、彼女には一向にその気配がなかった。恐らく稀有な適性があるということなのだろう。

 ミツキはMARCH本部の館内でも外でも、自由に過ごすことを許されていた(実際には監視の目はあるのだろうが)。彼女は暇を持て余すのは性分ではないのか、何か仕事を欲しがってはラファルに断られ、ヘイヤの研究に(研究対象として)誘われては断り……退屈そうな彼女を見かねた常盤が本を与えたところ、寝食も忘れて齧りつき、この世界の知識をぐんぐん吸収していっているという。
 世話役として接点の多いラファルが言うには、ミツキは学習能力が極めて高く、どんなことでも一度で理解し覚えてしまうらしい。ラファルが自分の事のように自慢してくる度、黄櫨はうんざりした。

 黄櫨はミツキがお茶会に現れても寝たふりで過ごしていたため、彼女とまともに話したことが無い。そして必然的にヘイヤ達との会話も減り、自分の居場所を奪われたようだと感じていた。つまり、ミツキが好きではなかった。だからその日、偶然庭の一角で彼女と出くわしてしまった時も無視して通り過ぎようとした。しかし彼女にマフラーを掴まれ「うっ」とよろめいてしまう。

「……何するの」
『ごめん』
 ミツキはそんなに強い力で掴んだつもりは無かったのだろう。しょんぼり顔でスケッチブックを掲げている。紙とペンは、喋ることの出来ない彼女の必需品だった。

「用が無いなら僕は行くよ」
『待って。私、あなたに何かした?』
 何故そんなことを訊いてくるのかは、尋ねるまでもない。ミツキは黄櫨の態度に嫌われていると思っているのだ。それは誤りではないが、黄櫨は後ろめたさを覚えた。彼女が自分と親しくしたがっていると、気付いているからである。十三歳の彼女にとって、八歳の自分は他の者より歳が近く、安心できる存在なのだろう。ここでミツキを跳ねのければ本当に年相応の子供になってしまうが、彼女の意を汲んでやるほど大人ではない。

 立ち去ろうとする黄櫨に、ミツキが小さく息を呑んでまた手を伸ばした。その瞬間、黄櫨の肩の辺りで何かが弾ける。静電気と言うには大き過ぎる、不自然な電流。黄櫨は驚いてミツキを見た。彼女は取り返しのつかないことをしてしまったように、愕然としている。「今のなに?」と問うと、ミツキはハッとした様子で慌ててペンで書き殴った。

『ごめんなさい。私のせい』
「君の?」
 今の電流は、魔術の類に感じられた。黄櫨が知る魔術とは少し性質が違う気もするが、辺りに残留しているそれは間違いなく彼女の“気”、魔力である。

『怖がらせてごめんなさい』
「別に怖がってない。……君の世界にも魔術はあるんだね」
『?』
「ちゃんと自分でコントロールできないなら、ラファルにでも教われば」
 黄櫨の言葉に、ミツキはポカンとした。黄櫨はその隙に今度こそ場を後にする。ミツキの反応が若干気になりはしたが、引き返すことは無かった。


 ――その日以降、ミツキはラファルから魔術の基礎を学び始めたらしい。そして黄櫨は度々、庭でミツキと遭遇するようになった。恐らく偶然ではなく、ミツキが会いに来ていたのだろう。最初は素っ気なくあしらっていた黄櫨だったが、接触回数が増えれば慣れ、慣れは親しみを生むもので、会えば話をするようになっていった。お茶会でも、彼女に話し掛けられれば黄櫨は大抵の場合は起きているようになった。

 以前は余計な存在にしか思えなかった彼女が、日常の一部として溶け込んでいく。更に一月経つ頃には、黄櫨は彼女の持つ静かな雰囲気に自分と近いものを感じ、それを心地良さと認められるまでになっていた。

 今日もまた、ミツキが庭に駆け込んで来る。彼女が走っている時は、大抵がヘイヤのちょっかいから逃げて来た後だということを、黄櫨はもう知っていた。

『あの人、本当にイヤ!』
「ヘイヤは、知らない事に執着するから。もっと異世界のことを知りたいんだよ」
 “だからミツキ自身に興味がある訳ではないんだよ”と心の中で続ける位には、黄櫨はまだ彼女に複雑な感情を抱いている。
 異世界という言葉に、ミツキは遠い目をした。そこには深い悲しみが讃えられている。懐かしむような、諦めたような、遥か彼方を見つめる瞳。

「……帰りたい?」
 黄櫨の問いかけに、赤い瞳は揺れなかった。ただ暗く沈んで、首が横に振られる。

『帰れない』
「そんなの、分からないよ。ヘイヤなら何か方法を見つけられるかも」
『ちがう。元の世界に、私の居場所はないから』
「居場所がない?」
 
 ミツキは涙の枯れ果てたような顔で、微笑んだ。

 黄櫨は彼女がこの世界に現れた日の事を思い出す。煤に汚れ火傷を負い、体力的にも精神的にも限界を迎えていたのかすぐ気を失ってしまった彼女。この世界に来る前に彼女に何があったのかは分からないが、決して良いことではないだろう。彼女が口を利かない理由も生まれ育ってきたその世界にあるのかもしれない。……ただその顔は故郷を恨むものには見えなかった。

 黄櫨は彼女の痛みを背負う気も自信も無く、無興味を装って「そう」と流す。ミツキは安心した顔で『黄櫨のそういうところ、好き』と書く。黄櫨も彼女の、画数の多い自分の名前をいつも面倒がらず丁寧に書くところは、好きだった。

 散歩を続ける二人は、ふと庭の先が騒がしいことに気付く。数人の楽しげな声の中に、一際響くラファルの声があった。組織の男連中で馬鹿騒ぎでもしているのだろう。MARCHの構成員には若い男が多い為、時折この手の集いに出会う事があるのだ。そして、黄櫨の予想通りだった。薔薇の咲き誇る庭の片隅では……ラファル達数人が大きな焚火で、吊るした肉を炙っている。何ともミスマッチな光景だった。

「おんやあ、黄櫨さん、ミツキさん。お二人も焼き芋食べますかあ?」
「芋? 肉じゃなくて?」
「芋も焼いてるんですよう。あ、マシュマロもありますう」
 そう言って串に刺したマシュマロをブンブン振るラファル。昼食を寝過ごした黄櫨は空腹を思い出した。

(ミツキは、どうするかな?)
 彼女は人見知りなのか、自分達以外と話しているところをあまり見たことが無かった。しかし世話役のラファルが居るなら少しは安心できるだろうし、これをきっかけに他の者とも交流を――黄櫨が振り返った時、彼女の表情は凍り付いていた。

 その目にはただ焚火の炎が燃えている。轟轟と、赤く、黒く、燃え盛っている。

「ミツキ、どうしたの」
 ただならぬ様子のミツキが心配になった黄櫨は、彼女に声を掛ける。が、黄櫨の声はミツキには届かない。彼女の赤い瞳は炎に釘付けで、呼吸は荒くなり……

「うわっ!」
 焚火を囲んでいた一人が声を上げた。炎が、ミツキの乱れに呼応するように大きく揺れ、激しく燃え上がる。その炎はまるで生き物だった。怒り狂った火の龍は宙で渦を巻き、近くの男達に飛びかかっていく。いち早く察したラファルが咄嗟に仲間を引っ張り、彼らは間一髪で逃れた。

「ミツキさん!」
 ラファルの呼び掛けに、やはりこれはミツキの魔術で間違いないのだろうと、黄櫨は思った。以前も、無自覚に魔術を放ってしまったらしい彼女を見ている。だが今回は規模が違い過ぎた。
 苦し気に地面に蹲るミツキ。しかしその目が炎から離れることはない。燃える赤に囚われたその瞳は、炎をより強大に、凶悪にさせていく。炎が再びラファル達に襲い掛かろうとした時、火の手は見えない壁に妨げられたように横に広がり、一気に勢いを無くして焚火台に戻った。

「面白いこと、してるね」
 ラファル達の前に立ち、焚火に向かって手を翳しているのはヘイヤである。彼がミツキの魔術を打ち破ったのだ。慣れ親しんだ彼の魔力に、ミツキ以外の全員が安堵し脱力した。

「ぜんっぜん面白くないですよう」
「そう? 良い魔術だったけど。術者の炎に対するイメージが、よく表れてた」
 
 魔術は、術者の意識エネルギーが反映されたものである。ミツキの炎に対する強い意識が獰猛な姿になり、人を襲ったということだ。黄櫨はミツキが火に対してトラウマを抱えているのだと察する。もしかすると彼女の火傷は、その原因に関係しているのかもしれない。
 青い顔で唇を震わせているミツキに、ヘイヤは首を傾げた。

「褒めたのに、喜ばないんだ。サンガツちゃんは火が嫌い?」
「あの火を見れば分かるでしょ。ミツキはきっと、火が怖いんだ」
「そう。じゃあ、面白くしよう」
 ヘイヤはパチンと指を鳴らし、殆どの者が聞き取れない複雑な呪文を唱えた。魔術の発動には、手で印を組む、呪文を口にする、地面に陣形を描くなど、術者が何かしらのトリガーとなる行為をすることが必要だ。ヘイヤ程熟達すれば、指を鳴らすだけである程度の魔術は発動できる筈だが、二つ組み合わせるということは相当なものに違いない。……ヘイヤが空を仰ぎ、薄く笑みを浮かべる。すると彼の視線の先を彩る様に、焚火から小さな花火が上がった。

 赤、青、黄色。火の花が、パッと咲いては散っていく。花火とはこんなに簡単に、即席で作れるものだっただろうか? 材料は? それとも花火とはまた違う何かなのだろうか? 時にヘイヤの魔術は難解過ぎて、他の者にとっては理解不能な“魔法”なのだ。

 黄櫨は友人であるヘイヤを誇らしく思いつつも、どこか手の届かない寂しさを覚えた。が、火の粉が当たったのか「あつっ」と小さく声を上げているヘイヤに安心する。

 ミツキは、呆然と空の花を見上げていた。その呼吸はいつの間にか穏やかさを取り戻している。

「どう? こういうのは嫌い?」
 ヘイヤに問われ、ミツキはあどけない瞳で彼を見た。“嫌いじゃない”と口の形だけで伝えるが、ヘイヤは首を傾げる。黄櫨は代弁しようと口を開きかけたが、その必要は無かった。ミツキは今度は分かりやすく“好き”と唇で紡ぐ。

 パン――と一発の花火が、開く前に弾けて消える。ヘイヤでも失敗することがあるんだな、と黄櫨が彼を見た時、そこには自分の知らない顔をした男が立っていた。
 恐らく、その時からだったのだろう……と黄櫨は思っている。その日以降、ヘイヤはミツキを好奇以外の目で見るようになった。彼は異世界人ではなく、彼女自身に心を惹かれたのだ。


 ――ミツキが現れてから一年。エシラの国は大きく変わった。
 ミツキに以前とは違う角度で興味を持ったヘイヤは、一方的ではない対話をするようになり、彼女から聞いた“ミツキの国の文化”を好んで、端から取り入れていった。……恐らく彼女が元の世界を想い、恋しさに泣くことを避けようとしていたのだろう、と黄櫨は思っている。ヘイヤはミツキに、この世界への愛着を持たせたかったのだ。

 国で一番の武力を有する組織、MARCH。その統領を務めるヘイヤは、国を治めることには興味が無かった。その為エシラには一応の王が居る。しかし誰もが実権を握っているのはヘイヤであると知っていた。物、金、知識、武力、そしてアリスネームを持つキャラクター、全てがMARCHに集結している。ヘイヤを恐れている王は彼に逆らえず、文化の変化を止めることは出来なかった。

 ヘイヤの身勝手な思い付きで、国名“ecila(エシラ)”は“永白”と漢字表記に。組織名MARCHは“嘉月会”へ。どちらもネーミングセンスのないヘイヤが、ミツキに「サンガツちゃんの国っぽい感じで」と名付けさせたものだ。嘉月は三月の異名らしい。

 名前だけでなく、人々の服装や街も様変わりした。レンガ造りの落ち着いた街並みは、半分が瓦屋根の木造建築に浸食され、雑多な印象に。これまでは一部の者が趣味で着る程度だった着物も、多く出回るようになった。魔術で他国を牽制し国を守るMARCH……嘉月会の意向に人々は逆らうことなく、寧ろまたヘイヤがおかしなことを始めた、と面白おかしくそれを楽しんだ。

 色とりどりの花で華やかだった庭は、静けさに満ちた白黒の石の庭になり、お茶会の紅茶は緑茶へ、洋菓子は和菓子へ。常盤は整然とした庭は気に入ったようだが、一人だけ頑なに紅茶を飲み続け、黄櫨は感心と呆れ半々だった。

「次は、何をしよう」
 ぽつりとヘイヤが言う。淡い藤色の着物姿は、最初からそうであったというように全く違和感が無い。妙に似合っている。ヘイヤの呟きにミツキが疑問符を浮かべた。――ちなみに、着物を着ているのはヘイヤだけで、発端となったミツキは洋服を着ている。彼女曰く『こっちの方が動きやすいから』らしい。

「サンガツちゃんの国の、面白いコト。何かない?」
『もうない』
 ミツキはまだ何かする気なのか、と呆れた顔をした。とはいえ嫌な訳ではなさそうである。

「……モブくん達の新しい制服でも、考えようか」
「え。僕、今の黒いスーツ気に入ってますよう? 悪の組織みたいで」
「でも、ただの着物じゃつまらないよね。サンガツちゃんは何が良い?」
『なんでも』
「うん。じゃあ……兜。鎧? あ、褌……」
 ヘイヤがラファルを上から下まで眺め、恐ろしい言葉を口にする。ラファルはサッと青くなりミツキを見るが、ミツキは面倒半分、意地悪半分でそれを無視した。その横顔は笑ってはいないものの、目はどこか楽しげである。黄櫨は、彼女も大分馴染んできたな……としみじみ思った。嘆くラファルを見かねた常盤が、助け船を出す。

「ミツキ、ヘイヤを止められるのは君しかいない。助けてやってくれないか」
 ミツキはぽーっと気の抜けたような顔で常盤を見た後、大きく頷いてスケッチブックにペンを走らせる。彼女が出したいくつかの案の中から、ラファルが「一番悪っぽい!」と絶賛し選んだのが、黒装束と怪しげなお面の組み合わせだった。ミツキ曰く“ニンジャ”をイメージしたらしい。ニンジャ――影に忍び、闇に生きる者。それは、ラファルの嗜好のど真ん中に突き刺さったのだろう。一人で盛り上がる彼を見て、ミツキは珍しく小さく肩を揺らせて笑った。……いや、珍しくはないかもしれない。以前は表情の乏しかった彼女だが、最近は時々、こうして笑顔を見せることもある。そんなミツキを、ヘイヤが彼らしくない熱い目で見ていた。
 黄櫨は面白くなく、隣のミツキの肩をつついて、その耳元に他愛のない話を囁く。誰に聞かれてもいいようなことを、敢えてヘイヤに聞かせないように。内緒話をする二人をヘイヤが焦れたように見る。黄櫨はそれに少しだけ良い気分になった。……彼女の存在に影響を受けているのは、ヘイヤだけでなかったのだ。
 
 ミツキを交えた日常は、黄櫨にとってかけがえのないものになっていた。恐らくお茶会の面々、ミツキにとってもそうだっただろう。しかしその平和は、長くは続かなかった。

 それから間もなく、国外から不穏な噂が聞こえてくる。それは――“ハートの女王の国”で、異世界人が問題を起こしているというものだった。 inserted by FC2 system