Act20.「少女の名」



 少女は目の前の光景に、目も心も奪われていた。赤に染まり苦悶の表情を浮かべる知らない女と、それに泣き縋る黄櫨。二人の姿が鏡に映り、記憶の奥の“かつての誰か達”と重なる。少女は幸せとは真逆の、不幸な悪夢を思い出させる目の前の二人を、一刻も早く自分の視界から排除しなければならないと思った。それでも――昔と変わらず幼いままの少年の涙に、迷いが生じる。

、大丈夫?」
「うん? ……うん」
 黄櫨に尋ねられ、は曖昧に返した。……痛みは治まっている。先程まで槍が刺さっていた場所に触れてみると、もう血も止まっているようだった。風穴も開いていない。全て夢だったのではないかと思うが、べっとり濡れた服や床の血だまりが意地悪く主張を続けている。それを意識すると再び恐ろしい痛みに襲われそうで、は目を逸らした。脚にぐっと力を入れ、立ち上がる。黄櫨はを支えようと手を伸ばしかけたが、触れることが出来なかった。目の前の少女がまるで見知らぬ危険な異世界人に思え、躊躇われたのだ。

 は無言で、自らの体から引き抜いた槍をじっと見つめる。硬い氷で出来ているそれに手がジンジン痛んだ。はポケットに入れていた手袋を思い出し、それを両手にはめる。慣れない手袋はむず痒く、ここまでずっとしまいっぱなしだったが、ようやく役に立った。

、何して、」
 黄櫨の言葉を遮るように、が白い髪の少女に槍を突き付ける。少女の暗い瞳が僅かに驚きに揺れ、そして再び敵意に染まった。はまるで、鏡を見ているみたいだと思った。恐らく自分も少女と同じような顔をしているに違いない。少女を見ていると、腹の底から何とも言えない不快感がこみ上げてくるのだ。液漏れした乾電池に触れてしまった時の、ゾワリとする気持ち悪さ。これが生理的な嫌悪感というものだろうか?

 少女は結んでいた口をふっと解き、息を吐いた。そして吸う。空気中の何かを集めるような深い呼吸と共に、少女の周囲にまた氷の礫が出現した。「危ない!」黄櫨の声を合図にして、はその場を踏み出す。

 大怪我をしてタカが外れたのか、は何となく無敵な気分だったが、現実はそう都合良くはないようだ。無数の礫を片腕で防ごうとするものの、その内の一つが目の上を強く撃つ。ガツンと骨が鳴る。汗でも涙でもないそれが頬を濡らした。……痛みと恐怖が腹立たしい。

(痛い! 痛い! もう……なんでこんな目に!)
 自分が何故ここに居るのか、何故攻撃されているのか分からない。何か悪いことをしただろうか? 良いことも悪いことも大してしていない筈だ。

(最悪。最低。嫌だな、嫌。本当に……こんなの、嫌)

 黄櫨は目を見張った。の目の上の傷が塞がり――透明な糸で縫い合わせたように塞がっていく。頬に血の跡は残っているものの、それも次第に薄れていった。……現実が幻に転じた瞬間である。は自分の顔に手を当て安堵の息を吐いた。そして今度こそ無敵の笑みを作り、少女を見る。無敵な“気分”では駄目なのだ。信じる。思い込む。確信する。

「真実は自分で選ぶべき。さっきあなたが……いや、ヘイヤさんが言っていたことが分かったかも」

 は再び槍を構え、少女へと駆け出した。

 黄櫨は戦いの術を知らないでは、少女の相手にもならないだろうと思っていた。が殺されてしまうかもしれないと危惧していた。しかし始まってみれば――驚くことに、が圧倒していた。
 少女はなけなしの魔力を針の如く尖らせ、的確で強力な攻撃を繰り出すものの、それらはに届く前に消えていく。が振るう槍は魔法の杖のように、少女の生み出したものを全て雪の結晶に変え、儚く散らせるのだ。
 洗練された少女の魔術に対して、の動きは無駄が多くぎこちなかった。彼女達の周りには別々の重力が働いていると言わんばかりだ。しかし透明な結晶を纏い槍を操るの、どこか活き活きとした姿に、黄櫨は思わず見入ってしまう。

 少女が劣勢である理由は、彼女の魔力がもう姿を偽ることが出来ない程に残り少ないということ……勿論それもあるだろう。しかしそれ以上に、鏡の中という特殊な状況がこの戦況を作っている。鏡の中では認識次第で、夢と現が簡単に入れ替わるのだ。
 少女は鏡の中の優しい幻に囚われていたが、結局は朧なそれを信じ切れず、目の前の現実に翻弄されている。そしてもう一人は、現実を捻じ曲げている。

 と少女はどちらも言葉を発することなく、静かな戦いだった。黄櫨は少女が“話さない”ことを知っていたが、がずっと黙っていることに不安を募らせる。

(あれは本当に……なの?)
 見た目は彼女のままでも、中身が別人のように感じられ、恐ろしくなる。

 は遂に、壁際に少女を追い詰めた。氷の槍が少女の背後の鏡に刺さる。先程まで優しく美しい夢が映っていたそこに、皹が広がった。少女はズルズルとその場に座り込み呆気に取られた顔でを見上げる。

 は敵を窮地に追いやった達成感で高揚した。が、それと同時に絶望した。……この後どうすればいいか分からない。決着をつけることが出来ない。誰かを手に掛ける勇気など、普通に生きて来た女子高生にある筈もないのだ。困惑を悟られないように険しく少女を睨むが……とりあえず話をするしかないか、という結論に至る。攻撃の意思がない事を伝えようと鏡から槍を引き抜くも、逆効果だったかもしれない。散った破片が少女に降り注ぎ、赤い目は怯えたようにギュッとなった。

、待って!」
 その時、黄櫨がの前に現れた。は少年の姿に幾分ホッとした顔をする。が、すぐに表情を無くした。……黄櫨はと向かい合い、手を広げて立ちはだかっている。にはそれが、自分から少女を守ろうとしているようにしか見えなかった。

(何で?)
 は黄櫨の視線に痛みを覚える。鏡の破片が胸に刺さったのではないか、と思った。

(黄櫨くんは何でその子を庇うの? その子は黄櫨くんを殺そうとしたし、わたしは黄櫨くんのことを命がけで守ったのに。今だって別に、その子にこれ以上何かする気も無かったのに。そんなこと出来る訳ないのに)

 相手の心情を察することに長けた黄櫨が、何故それを分かってくれないのか。それどころではないくらいに、少女を心配しているというのか。
 の中にドロドロと熱い感情が迸る。これは本当に自分かと疑う程、自分らしくない。理性を塗り替える感情に翻弄される。しかし黄櫨の自分を見つめる目に怯えを見つけ、は何とかそれが溢れないように堪えた。

(これは鏡に感情を増幅させられているだけ。本当のわたしじゃない、こんなのわたしじゃない)
 は静かに槍を下ろす。黄櫨は「ありがとう」と言った。にはそれが、自分を突き放す無情な言葉に思えた。

 黄櫨は背後の少女を振り返る。少女は怯えたウサギの目で黄櫨を見上げていた。濡れて揺れる赤い瞳は、何故自分を助けるのかと黄櫨に問いかけている。黄櫨は彼女に一歩近付くと、白い髪にかかった鏡の破片をそっと取った。

「……ずっと、辛かったよね。見ないフリをして、君を一人にして、ごめん」
 黄櫨は永い間ずっと堪えていたかのように、少女の名を呼んだ。

「ミツキ、僕はもう君から逃げないよ」
 
 “ミツキ”。その名をなぞった唇の動きに、は先程の――ヘイヤが少女に姿を変えた時、黄櫨が呟いた聞き取れなかった言葉が、何であったのかを知った。

 少女の顔がくしゃりと歪む。頬を透明な煌めきが伝った。少女の流す涙は雪解け水のように清らかで、それを見守る少年の瞳は暖かなお日様の色をしている。黄櫨は小さな手で少女の頭を撫でた。

 は取り残され、所在なさげに二人を見ている。一人だけ冬に取り残された冷たい顔で眺めている。これは自分の物語ではなく、彼ら二人の物語だったということだろうか?一気に頭の中が醒めていった。

 黄櫨は少女――ミツキの頭をそっと抱きしめた。彼女が泣いていることに安堵する。彼女が感情を曝け出してくれたことが、その心がまだ生きていると知ることが出来たのが嬉しかった。“あの日”に見失ってしまった本当の彼女がようやく戻って来たのだ。

(僕に、ミツキを守ることは出来るかな)
 黄櫨は目を閉じ、暗闇の向こうにあどけない笑みを浮かべる男を見た。そして遠い過去に想いを馳せる。

(ねえ、ヘイヤ……)



 *



 さらさらと耳をくすぐる柔らかな風。いや、風だけではない。誰かの温い指が自分の耳を摘まみ、引っ張り、撫で、文字通りくすぐっている。黄櫨は逃れようと耳をピクピク動かしたが、指はそれに喜んだのか、悪戯は酷くなった。

「耳、面白い。別の生き物みたいだ」
「ヘイヤ……それくらいにしておけ。黄櫨が起きるだろう」

 テーブルに突っ伏す黄櫨の頭上で、よく知る二人の男の声がする。黄櫨は一向に耳から離れない指を振り払うように顔を上げて「もう起きてるよ」と言った。

 麗らかな午後の光が差し込む庭園。純白のクロスのかかったテーブルには、ティーポットやティーカップ、洋菓子が並んでいる。テーブルに身を乗り出し、向かい側の黄櫨にちょっかいを掛けていた男――ヘイヤは、少年の起床に詰まらなさそうに唇を尖らせた。

「駄目だよ。眠りネズミなんだから、寝てなくちゃ」
 黄櫨は、起こした当の本人がそれを言うのか、と思った。しかしヘイヤの隣の常盤に「確かに、最近眠りが浅いんじゃないか」と真面目な顔で言われて、突っ込む機会を失う。

「言われてみれば。なんか最近、前ほど眠くないんだよね。寝るのに飽きてきたのかも」
「分かる。俺も最近、お茶会に飽きてきた」
 ヘイヤは言いながら、意味もなくカップの中をスプーンでかき混ぜた。彼の紅茶を淹れた常盤は、眉を顰めてそれを見ている。「僕は紅茶、好きだよ」と黄櫨は自分のカップに口を付けた。ヘイヤはまだ黄櫨の耳が気になるようで、黄櫨はその視線にこそばゆくなる。
 そんなに耳が好きなら、自分のウサギ耳を触っていればいいのに――と少し前までなら言っていただろう。しかし今のヘイヤの頭には、本来あった筈の二本の長い耳が無い。痛々しい傷跡の残る、短い根本が残っているのみだ。

 ヘイヤが自分の耳を切り取ったのは、本当に突然だった。頭を包帯でぐるぐる巻きにしたヘイヤが平然とお茶会に現れた時、黄櫨は驚きで何も言えなかった。何故そんなことをしたのかと彼を問いただす常盤に、飄々とした顔のヘイヤが答えたのは……「気になったから」。
 ヘイヤは自分を“三月ウサギ”として構成する要素がどの部分にあるのかを考え、それがウサギの耳なのではないかと思い付き、深く考えもせず切り取ってしまったらしい。ヘイヤには常日頃からそういうところがあった。元々変わってはいるが、興味を持ったことに対してはとことんおかしくなる。彼が優秀な研究者であることは事実だが、それ以上に変人だった。

 ――“エシラ”の国の中心に本部を構える秘密結社“MARCH(マーチ)”。それは、ヘイヤと常盤が立ち上げた研究組織が始まりだった。不思議の国を成り立たせるロールネーム制度、バックグラウンド、それら世界の仕組みを解き明かす組織……だったらしいが、黄櫨が二人と出会いそこに混ざった頃には、外からは“魔術組織”と認識されていた。意識エネルギーを用いて起こす魔術の研究にヘイヤが傾倒していた為だ。組織の名前からも分かる様に、三月ウサギのヘイヤが好き勝手している組織なのである。

 ヘイヤは奇抜な発想も含めてまさに天才で、あらゆる不思議な現象を魔術として体系化した。黄櫨も彼の研究を手伝ってはいたが、正直理解の及ばないことだらけだった。常盤は魔術にはあまり興味がないようで、粛々とヘイヤの放棄した以前の研究を続けているらしい。世界の事情に精通している常盤は、不思議の国の脆弱性から度々起こる不具合(バグ)の対応を一手に担っており、不在のことが多かった。そして彼が不在の時、大体ヘイヤは何かをやらかす。今回の耳切り事件もその時に起きた出来事だった。

 ……黄櫨は、二人が好きだった。ヘイヤには驚かされ困らせられることばかりだが、それでも共に過ごす時の心地良さが上回っていた。

「紅茶に飽きたならコーヒーは?」
「苦いから、嫌」
 子供みたいにそっぽを向くヘイヤ。黄櫨と常盤はやれやれと顔を見合わせた。その時、木の上から一人の男が飛び下りて来る。

「覚悟ーっ!」
 男はそう叫びながら、ヘイヤの頭上に脚を振り上げた。ヘイヤはスッと目を細めて椅子ごとそれを避ける。黄櫨と常盤は各々の前にあったティーカップと皿を持ち上げ、椅子を引いた。男の踵落としは斧のように、木製のテーブルを真っ二つに折る。卓上に残されていたポットが衝撃で宙に浮き、ヘイヤはそれをキャッチした。

「またお前か、モブくん」
「ラファルですう。いい加減に僕の名前、憶えてくださいよう」
「俺に勝てたら、ね」
 その言葉に、男――ラファルの目は轟轟と燃えた。彼は座ったままのヘイヤに回し蹴りを繰り出す。先程の踵落とし同様に、体の一部に魔力を集中させて威力を増した攻撃だ。ヘイヤは彼の脚を“ティースプーン”で受け止めると、自分よりも体格のいいその男を弾き飛ばした。そして「弱い者いじめは、つまらない」と言う。

(それにしては楽しそうだけどね)
 と黄櫨は心の中で突っ込んだ。

 ラファルは組織の一員で、ヘイヤの部下である。アリスネームを持たないノンキャラクターだが、その中では抜きん出た実力者だった。魔術の腕も身体能力も高い。彼に興味を持ったヘイヤは、ノンキャラクターがキャラクターを上回った時の事象を研究する為に、ラファルに自分を倒すように命じていた。……のが始まりであるが、一向に変わらない力関係にヘイヤは当初の目的を諦めている。それに対し、ラファルは更に躍起になる。二人の攻防はここでは日常風景だった。

 もう何度目か……ラファルがヘイヤに投げ飛ばされ、青々と茂った芝生に伏す。

「やり過ぎじゃないか?」
「大丈夫。モブくんは丈夫だから」
 窘める常盤に、息一つ乱れていないヘイヤが答えた。その言葉にラファルの背がピクッと嬉しそうに反応する。黄櫨は「ほんと、元気だよね」と呆れた。

 ――ここまではいつも通りだった。昨日までと同じ今日、そして今日の延長線上に明日が来る筈だった。

 突如庭に、激しい風が吹き荒れる。すぐ近くで爆発でも起きたかのようだ。何の前触れも無かったそれに、黄櫨は吹き飛ばされそうになり、折れたテーブルにしがみ付く。鼓膜を震わす暴風の音。その向こうで、ヘイヤが風の魔術を唱えたのが聞こえた。二つの風は相殺され収まる。

 静まり返ったそこには……一人の少女が立っていた。白く長い髪。擦り切れ、煤に汚れた着物。痩せ細った顔に目は落ち窪んでいた。ヘイヤは小さく鼻を鳴らす。それは彼が何か興味を惹かれるものを見つけた時の反応である。

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