Act19.「魔術師」



 冷たい白銀色の髪は肩を流れ、胸下で緩く結ばれている。切れ長の瞳は薄明の空のような淡い紫色をしていた。角ばった輪郭、通った鼻筋。彼を形作るのは男性的な線だが、纏う雰囲気に妙な艶があり、中性的な印象を受ける。は狸がヘイヤを“美人”と称していたことを思い出し、納得した。特段の美形という訳でもないが、憂いを帯びた雰囲気を含めて美しい男である。

 黄櫨がを守る様に、ヘイヤの前に立った。

「……“ヘイヤ”」
 黄櫨が彼の名を呼んだ時、にはそれが特別な意味を持つ言葉のように感じられた。まるで魔法の呪文か、二人だけに分かる合言葉であるかのように。ヘイヤは返事の代わりに、じっと黄櫨を見つめ返す。

「ヘイヤ、こんな所で何してるの。君ほどの魔術師が鏡なんかに負ける訳ないでしょ。早く帰ろう」
「ああ……俺の幸せを邪魔するお前は、黄櫨の偽物だね」
「僕は本物だよ」
「いや。本物の黄櫨は、あの場所に居る。俺は、真実は、自分で選ぶ」
 ヘイヤは今しがた自身が出て来た鏡を振り返り、そっと鏡面に触れる。は彼のその姿に先程の自分を思い出した。ヘイヤもまた美しく優しい幻に囚われているのだろうか? ……それにしては、現実と幻の区別が付いているように見える。ここが現実で、先程までが鏡の中だと気付いている上で、現実を否定しようとしているように見える。
 は言葉に詰まっている黄櫨を助けるように、穏やかな口調でヘイヤに話しかけた。

「あの、嘉月会の方々が心配していますよ。モスさんも、狸さん方も」
「……だからお前は誰。部外者が、知った口を聞くな」
 幼さを感じさせる、たどたどしいヘイヤの口調。しかしそこには明確な重たい敵意がある。黙っていた方が良かったかもしれない、とは後悔した。ヘイヤのに対する態度は、黄櫨に向けるものの数倍冷たい。まるで虫けらを見るような目で、眉を顰めてを見下ろしている。

「知らない。要らない。出ていけ。俺の世界に、お前の枠はない」
 ヘイヤの言葉に呼応するように、彼を取り囲む槍が空中で回転し、先端をに向けた。無数の切先に見つめられ、は死の気配を察する。少しでも動けば飛びかかってくる合図になってしまいそうで、立ち上がることすら出来ない。だがそもそも、合図はこちらに委ねられていなかったようだ。ヘイヤが小さく何かを呟くと、次の瞬間、槍が達に襲い掛かってくる。は咄嗟に目を瞑ってしまうが――恐れていた痛みはない。

 恐る恐る目を開けると、黄櫨が小さな体でナイフを構え、自分を守るように立っていた。

(黄櫨くん……)
 何かがぶつかるような音がしたが、もしかすると黄櫨が槍を弾いたのだろうか? あんなに沢山、全部? は驚いて辺りを見回すが、少し離れたところに一本の槍が転がっているだけで、その他には何もない。無数の槍はまるで白昼夢だったとでも言うように。

、大丈夫だよ」
 驚きと恐怖で言葉を失っているに、黄櫨は前を向いたままいつも通りの声で話しかける。……否、いつも通りではない。には、それが無理矢理落ち着かせた声であると分かった。彼の微細な変化に気付ける程には、はもう黄櫨を知っている。

「黄櫨くん、怪我は?」
「僕は大丈夫だから。はヘイヤを怖がらないで」
「え?」
「ヘイヤは……ずっとここに閉じ込められてたんだろうね。相当消耗してるみたい。もう、そんなに強力な魔術は使えないと思うんだ。でも」
 黄櫨が唾を飲み込む。

「鏡は感情を増幅させる。感情を現実に反映させる。それはヘイヤの敵意もそうだし、僕たちの恐怖心もだよ。僕たちが恐れれば恐れる程、ヘイヤの攻撃は強力な現実になってしまう」
「それはどういう、」
「槍は最初から一本だった」 
 黄櫨の言葉に、は転がっている槍を再度見た。……恐怖が見せる虚像、偽物の現実。先程の大量の槍は幻で、本物は幻に紛れた一本だけだった?
 ヘイヤが感心したように「ふうん」と溜息を吐いた。

「偽物でも、黄櫨は黄櫨か。相変わらずの“慧眼”だね。けど種が分かったところで、人間の脳は、そんなに賢くない」
 ヘイヤが手元の槍を振るうと、今度は拳大の氷の礫が宙に現れた。彼の頭上を埋め尽くすように、大量の塊が浮遊している。はこれも全てが本物ではないのかもしれないと思ったが、一度認識してしまったものは簡単に覆らない。寧ろ先程よりじっくり見てしまった分それは現実味を帯びている。焦るに、黄櫨が優しく声を掛けた。

「大丈夫、目を瞑っていて。僕が守るから」
 はハッとする。――心に湧き上がる不思議な感情。遠い過去に落としてきた何かが、ふいに煌めいたような……。

 礫が達に向かって飛んでくる。黄櫨は目を閉じ小さく息を吸うと、ナイフを前に突き出した。そして時を忘れ、感情を忘れ、精神を極限まで研ぎ澄ます。頭の中で空気を一本の糸にしてピンと張る。何にも乱されない、彼だけの内側の世界。

(……見破った!)

 黄櫨は目を開け、目の前の光景を否定するようにナイフを振るう。見破られた幻の礫は消滅し、残った数個はナイフに弾かれるが、弾き切れなかったいくつかが黄櫨を襲った。黄櫨は小さく「うっ」と呻く。黄櫨は確かに幻を見破り、本物を弾き避けきった筈だったが、何故か消えずにいた幻があったのだ。それはの恐怖心が作用し、強固な現実となってしまったものである。

「黄櫨くん!」
 痛みに耐えながら立ち続ける少年。は足を奮い立たせて、黄櫨に駆け寄った。黄櫨の額には氷の角が当たったのか、ぱっくり割れたような傷がある。痛ましいその様子には泣きたい気持ちと、怒りが湧き上がるのを感じた。それは黄櫨を傷付けられたことに対するものだけではない。彼と重ね見ている人物への感情が、それを増幅させる。

 黄櫨はヘイヤを睨むを見上げながら“やはり”と思った。の認識の力……意識エネルギーの量は並大抵ではない。黄櫨はそれに薄々気付いていた。この世界に来てから、立て続けに危機に見舞われるも、何だかんだ無事に戻ってくる彼女。意識エネルギーが物を言うこの世界で、キャラクターとして舞台に立ち続けるということは、それだけの力があるということだ。彼女の認識が物語に強く影響している。黄櫨がいくら幻を否定しようとも、今この時この場所では、の認識が上回っているということなのだろう。

 ヘイヤは自分を睨むに、忌々しそうに舌打ちをした。再び礫が襲い掛かって来る。は黄櫨を背中に庇い、両腕で顔を覆った。石のように固いそれがを殴り付ける。

!」
 黄櫨はの陰から飛び出し、片手の指で印を結ぶ。ピリッと空気が振動した後、ヘイヤに向かって一陣の風が吹いた。無風の空間で突如現れたそれは、礫の方向をヘイヤへと転換する。黄櫨は、森で狸が使った風の魔術と同じものを使ったのだ。

 礫の一つがヘイヤの頬を掠め、彼の集中力を途切れさせた。はおさまった攻撃に、警戒しながらもゆっくり腕のガードを解く。目を瞑っていたには何が起きたのか分からなかったが、黄櫨がどうにかしてヘイヤに反撃したのだろうと思った。ヘイヤは黄櫨からの攻撃に衝撃を受けたような顔で、頬の血を拭い、その手をまじまじ見ている。

、大丈夫?」
「う、うん」
 全然大丈夫じゃない、とは言えなかった。黄櫨に不安そうな瞳で見つめられ、は精一杯強がる。ヘイヤはそんな二人の様子を見て、その目に濃い陰影を宿す。

「黄櫨。やっぱりお前は、偽物だ。俺を傷付ける黄櫨は、要らない」
「ヘイヤ、それは君が僕たちを攻撃するから、」
「もういい、もういい。お前達は二人とも不快。さっさとここから出て行け」
「駄目だよ、連れて帰る!」
 珍しく声を荒げる黄櫨に、は驚いた。自分にとっては恐ろしい敵でしか無いヘイヤだが、彼にとってはそうではないらしい。ヘイヤも目を見開き、小さく息を呑む。

「何故」
「もう後悔したくないんだ」
(もうって、どういうこと?)
 黄櫨の含みのある言い方に、は疑問を抱いた。そしてそれが通じているような顔のヘイヤに、彼ら二人に、疎外感を覚える。

「……仕方ない。出て行かないなら、こうするまで」
 ヘイヤが槍で宙を薙ぎ払った。凍えるような冷気が漂い始める。「、離れてて」黄櫨はそう言って、ヘイヤの元に駆け出した。黄櫨の纏う気迫に、は強い意志……覚悟を感じ取る。黄櫨は先程までヘイヤに対して戸惑いを抱いていたように見えたが、向き合う覚悟が出来たのだろうか。

 ヘイヤは次々に氷を生み出し、あらゆる角度から黄櫨に攻撃を仕掛ける。にはどれが現実で幻か区別が付かなかったが、黄櫨はどちらの軌道も見切り、全てを流れるような動きで避けていた。……彼には視えているのだろう。は以前黄櫨から聞いた“第六感”という言葉を思い出す。きっと黄櫨には黄櫨だけの、神秘の域が視えている。そしてそれは、物だけでなく人の心も見通すのだ。

 黄櫨はヘイヤの振るった槍を避け、間合いに飛び込む。互いの息遣いが分かる程の距離で二人は見つめ合い、黄櫨の唇が何かを紡いだ。

「“   ”」

 黄櫨は声にしていたのだろうか? にはそれが聞き取れなかった。しかしヘイヤは途端、頭を抱えて後退る。頭が痛いのか、胸が苦しいのか、息が出来ないとでも言うように藻掻き苦しんでいた。それを見ている黄櫨も、罪悪感に窒息しそうな顔をしている。は黄櫨がヘイヤに呪いでも掛けたのだろうかと思った。敵の危機に安心するような、ハラハラするような複雑な気持ちでヘイヤを見守る。……彼はヘイヤ、だろうか? 彼……否……

 頭を抱えているその人物は、いつの間にか少女の姿になっていた。鏡の中から出て来た時のあの白い髪の少女だ。少女がヘイヤになり、ヘイヤが少女になった。一体どちらが真実の姿なのか。どちらも真実ではないのか。
 少女は長く垂れた髪の隙間から、血の様な目で黄櫨を見る。黄櫨は研ぎ澄まされたままの感覚で、間近で彼女の激しい感情を感じ、動けなくなった。そしてその時、彼に隙が生じる。は心臓が止まりそうになった。

 黄櫨の死角で、音も無く浮かび上がる一本の槍。それは最初に黄櫨がナイフで弾いた“本物の槍”である。巨大な氷柱のような氷の槍は、鋭い先端を黄櫨に向け、射た矢のように飛んでいく。黄櫨は少女に気を取られていてまだ気付く様子がない。は床を蹴った。飛ぶように走った。必死で手を伸ばし、黄櫨の背を突き飛ばす。黄櫨は床に転げ、驚きと痛みに声を上げる。そして何事かと振り返った。

 ――黄櫨の目の前で、朱が散る。
 真っ赤に塗られた氷の槍が、の胸から突き出していた。

 背中から槍に貫かれたは、訳が分からないというような顔をしている。

「――っ!」
 声にならない黄櫨の悲鳴。は力が抜けたように、カクンと膝を折って床に手を付いた。

(え……? なんだ、これ)
 は自分の体から突き出る異物を、不思議そうに眺める。不思議と痛みは無かった――と思えていたのは最初だけで、槍が皮膚を切り裂く凄まじい痛みが追ってやって来る。しかし見た目よりは痛くない。いや痛い。痛い、痛い、怖い、怖い、怖い!

(なんで。なに、え? わたし、死ぬの? 嘘、)
 体の中に氷水を流し込まれたように、一気に寒くなる。傷口から血がどんどん漏れ出ていき、服や鏡の床を濡らしていく。ドクドクと全身が脈打っている。まるで最後だからと張り切っているように、張り裂けんばかりに鼓動している。
 真っ赤な世界の端では、黄櫨が泣きそうな声で自分の名前を呼んでいた。は、友達の前で転んで膝を擦りむいた時のような羞恥心で、何事もなかったフリをしたくなる。……そんなレベルの話ではないか。は困ったように、黄櫨の顔を見る。

 “泣きそうな”ではなかった。黄櫨の淡い瞳は涙に溺れている。一粒、二粒、それがの手の甲に落ちた。彼は弱弱しく「」と何度も名前を呼ぶ。「ごめん、僕が、油断したから、僕の所為で」「、ごめん」「嫌だ、駄目だよ、死んじゃ駄目だ」

 ――泣いている。ガラスのように繊細で透明な少年が、今にも壊れそうに泣いている。この子が泣いている。“あの子”が泣いている。……の中で黄櫨と重なる遠い過去。心の奥底で何かが軋む。それは鍵の掛けられた箱。閉じ込めていたのか、しまい込んでいたのか、隠されていた何かが暴れている。

、行かないで」
「……大丈夫だよ。だから、泣かないで」
 もう喋ることが出来ないと思っていたの、やけにハッキリした言葉に、黄櫨は驚いた。涙の向こうのは笑っている。(笑ってる? なんで?)

「黄櫨くん、言ってたよね」
「な、なにを?」
 変わらず血を流し続けながら、すっかり安心したような顔でのんびり話すに、黄櫨は当惑した。今の黄櫨の乱れた心ではの心は読めないが、それに救われたと思わせるような何かが、彼女にはある。

「ほら。わたしの感情が、現実を作り出すって」
「え……」
 の手が自身を貫く槍を掴んだ。痛みで歪むの顔に、黄櫨は青褪める。

、やめて、動かしちゃ駄目だ!」
「だい、じょうぶ。これは幻だもん」
 はそう言うと、槍を思い切り前方に引っ張った。何度も何度も手繰る様に、自分の身の丈程もある氷の矢を抜き取っていく。槍が体内でどこかに引っかかる度、は無理矢理グイグイ揺らした。傷口から血が噴き出す。内臓を潰し、かき混ぜ、骨を砕くような音がする。黄櫨はもう、声を発することも出来なかった。離れた場所に居る少女も、その光景に唖然と立ち尽くしている。

「まぼろし、まぼろし、まぼろし」
 の意識が痛みで遠のく。涙がボロボロ零れ落ちる。血の味がするが、口の中を噛んだのか体内から上がって来たものなのかは分からない。多分自分は死んでしまうのだろう、と思った。これが現実ならば。だから生きているならこれは――

「……ね。だいじょうぶ」
 槍を抜き取ったは、血塗れた姿で息を切らせながら微笑んだ。黄櫨は身を挺して守ってくれた彼女の、その狂気を孕んだ目に、戦慄する。

……君は一体、)
 がこの世界に訪れた最初の晩こそ、黄櫨は彼女を“普通”だと感じていたが、彼女を知るにつれ、その考えが変わっていく。良くも悪くも彼女は普通ではない。

 普通ではない。 inserted by FC2 system