Act18.「三月ウサギ」



 全面鏡張りの迷路を、と黄櫨は手を繋いで歩く。は鏡の呪いの所為で、鏡を見ても自身が見えずぼんやり焦点が合わなくなる為、ただ黄櫨の丸い頭だけを見つめていた。道は相当複雑なようで、黄櫨は何度も曲がる。どこを行っても何ら変わり映えしないように感じたが、彼の歩みに迷いはない。「どうして道が分かるの?」と訊けば「分かるから分かるんだよ」とのこと。彼の黄色い瞳はきっと特別製なのだとは思った。

「ねえ、さっきのの幻だけど」
「は、はい」
 神妙な様子(つまりいつも通りではあるが)で切り出され、は背筋が伸びる。何を言われるのだろう?

 どうやら鏡の世界での幻は、他人に共有されてしまうらしい。それだけ現と幻の境界が曖昧になっているということなのだろう。先程の黄櫨は、鏡が映すの幻の世界に介入してきた。冷静になって改めて考えると、それは心を覗かれたようなものである。

(相手が黄櫨くんで良かったような、良くなかったような……)
 元々こちらの考えを見透かしたようなところのある少年だが、実際に見られるのとでは話が変わってくる。黄櫨の知らない紫についてはさておき、勝手に常盤を出演させてしまったことには罪悪感と……恥ずかしさがあった。どうして彼が出てきたのだろう? 自分で思っている以上に彼を頼りにしていたということだろうか?
 黄櫨はの方を振り返り「なんだか賑やかな顔してるね」と言った。

「え、へへ」
「……鏡は人を捕えて、閉じ込めようとする。だからあの幻も、をここに縛り付けるためのもの。少なからず君の望みが反映されてると思うんだ」
「は、はあ」
「常盤が出て来るのは別にいいんだけどね。……もう一人の、あの子は誰?」
 黄櫨が少し迷ったように、不自然な間を開けて言った。

 の幻の中で、強い存在感を放っていた少女。彼女がにとって重要な人物であることは疑いようがない。黄櫨は再びが幻に惑わされないよう、その正体を知っておくべきだと思った。しかしの心の奥に触れても良いものか悩んだのだ。
 は存外に軽い調子で「ああ、紫のことね」と頷く。

「あの子はわたしの親友だよ。幼馴染で、子供の頃からずっと一緒に居たんだ」
「そうなんだ」
「紫っていうの。紫って書いてゆかり。黄櫨くんと同じ色の名前だよ」
「ふうん」
「髪サラサラで綺麗だったでしょ? あ、でも黄櫨くんも髪サラサラだね」
「……はその子が大切なんだね」
「まあ、親友だからね」
 至極普通の顔で言う。黄櫨は――あれは親友に向けるような目だっただろうか、と思った。

「会えなくて、寂しいね」
 気遣う黄櫨の言葉。は反応に困り、曖昧な笑みを浮かべる。
 これまでなら適当に「まあ」と答えただろう。寂しいが永遠の別れだとは思っていない。それに、いつも一緒に居たのだからたまには離れて過ごすのも悪くはない。紫に対して抱いているのは、その位の落ち着いた感情だと、は思っていた。嘆いたところでどうにかなる訳でもない今、そう思うようにしていた。しかし先程まで彼女を傍に感じていた所為か、心の具合が普段と違っている。

 当たり前のように隣に居て、同じように苦境に立っていた、幻の中の桃澤紫。
 押しつけがましいリアリストで、頑固なところがあり、心に何か地雷を抱えているような危うい彼女は、傍に居たら居たで煩わしいと感じることもあったが――あんなにも心強く、安心する存在だったのだと痛感させられた。

 紫を頼りにし、紫の存在に守られていた自分を自覚してしまい、は悔しく思う。内向的で冷たいと他人に誤解されがちな、不器用な紫。そんな彼女をいつも引っ張っていっているのは自分だと思っていた。守りたいとは思っているが、守られたいとは思っていない。自分の思ったより弱かった一面に落胆した。

「わたしね、一人でも結構、大丈夫なタイプなんだよ」
 それは強がりであり本心でもある。一人で異世界にやって来てからというもの、中々上手くやれていると思っていた。くよくよ無駄に悩まず気丈に振る舞えていると。しかし実際は孤独で不安だったのだろうか? 心の奥底にあるものが掘り起こされてしまうのは、感情を増幅させるという鏡の性質の所為かもしれない。

 ……不思議の国に来てから色々あった。永白の国でもトラブル続きだ。暴漢とか、フードの男とか、呪いとか、もっともっと沢山、色々あった。

(わたしはずっと不安で、怖かったのかもしれない)

 まるでの心の声が聞こえたように、黄櫨が立ち止まる。繋がれていた手を一度離し、正面からを覗き込んだ。は少年のあまりに綺麗な目に吸い込まれそうになる。それは不思議な鏡の向こうより、奥が深い。

「君は一人じゃないよ。幻なんて見なくても、ちゃんと常盤も……僕も君の味方だよ。もっと頼って」
 ひたむきな少年の眼差し。は顔に優しい熱が帯びていくのを感じた。胸の中もじんわり熱い。そして、自分の中で黄櫨の存在が思ったより大きくなっていた事に気付く。

 思い返せばこの世界に来た日から、黄櫨には世話になりっぱなしだった。まだ警戒心から常盤と上手く接することが出来なかった時も、黄櫨はこちらに寄り添い、上手くとりなしてくれた。彼らの家で過ごしている間、家の事を教え、買い物に付き合ってくれたのも黄櫨だ。談話室で、庭で、図書館で、永白行きの馬車の中で。彼とは沢山のささやかな時間を過ごしてきた。黄櫨とのお喋りは気が楽で、無言の時も心地良い。黄櫨の持つ清らかな雰囲気と愛らしさは、いつも癒しを与えてくれるのだ。

 は黄櫨のことが好きだったが、彼からは特に好かれていないだろうとも思っていた。黄櫨は常盤に対する義理で、自分に親切にしてくれているのだろうと思っていたのだ。しかし多少は自意識過剰になっていいのかもしれない、と頬を緩める。黄櫨が自分の為に危険を賭してここまで来てくれたこと、優しい言葉を掛けてくれること、全てが嬉しかった。

「黄櫨くん、ありがとう」
「うん」
 黄櫨は頷き、そのまま俯いて視線を逸らした。照れ隠しだろうか。綺麗に切り揃えられた短い髪が彼の顔を隠す。はそれに懐かしさを覚えた。遠い昔の誰かを思い出す。

(あ……そうだ。紫も小さい頃、黄櫨くんみたいに髪が短かったんだ)
 今は長い髪で淑やかな人形じみた紫だが、本当に幼い頃は肩にもつかない短さで、よく男の子に間違えられていた。は黄櫨の姿に、幼き日の紫を重ね合わせる。そういうつもりで見てみると、身に纏う透明な空気感も似ているかもしれない。似ている。そう思うとより、黄櫨への愛おしさがこみ上げた。守りたい。何が何でもこの少年と一緒に、無事にここを出なければならないと思った。 

、行こう」
 黄櫨に再び手を引かれる。繋がったその手は、先程よりも暖かく感じた。



 *



 黄櫨に手を引かれ歩く内、にも少しずつ進み方のコツが掴めて来た。鏡はそれぞれ板状で、よく見れば接合点がある。特に床と壁の境界は分かりやすかった。それによく目を凝らせば、何となくどちらに道が続いているか予測できる。

「黄櫨くん、出口まであとどのくらいかな?」
「まだまだ遠いよ。森の匂いが薄いから」
「なるほど、森の匂いを追ってたんだね。森の匂い……えっと……次は右かな?」
「いや左」
 そう言って道を曲がろうとした黄櫨が、突然足を止める。は「黄櫨くん?」と呼び掛けるが、彼はどこか一点を見つめたまま微動だにしない。その口が震える声で「この気配は……」と呟いた。
 
「どうしたの?」
 の問いに黄櫨は答えない。これまで迷いのなかった彼の足が逡巡を見せ、やがて意を決したように体の向きを変えて一方に進んでいく。は黄櫨が幻でも見ているのかと思い、慌ててその手を引っ張った。

「黄櫨くん、ちょっと待って! どこに、」
「行かなくちゃ。この近くに居るんだ」
「誰が?」
 進行を邪魔するに、黄櫨が口をギュッと引き結ぶ。邪魔だと憤ることはない、静かな困り顔。は大きな目に見上げられ、これ以上彼を止めることは出来ないと思った。しかし一人では行かせない。しっかり手を繋ぎ直して、逃がさないように付いて行く。

 鏡、鏡、鏡。呪いの所為で薄暗い深淵が続く空っぽの鏡。延々と続くその景色に突然変化が訪れた。道の奥から漏れ出るのは、明るく白んだ灰色の空気。それは曇りの日の“昼”の色だ。穏やかに滞った気配がある。
 と黄櫨がそれに近付くと、気配は形となり、鏡の向こうに姿を現した。はそれを、今の自分に視えるなら現実ではなく幻なのだと察する。

 ――浮かび上がるのは、幽玄な和の庭園。白く敷き詰められた砂利の上に、飾り気のない木々が黒い影絵を描いていた。中央には真っ赤な野点傘と毛氈の縁台。そこはの知らない場所だが、縁台に座っているのは見知った顔だった。
 常盤と黄櫨、それから……つい最近目にした着物の男。彼の顔を正面から見るのは初めてだったが、銀灰色の長い髪と切れたウサギ耳の根本で、すぐに彼がヘイヤだと分かった。それから、もう一人。その人物だけは本当に初めて見る。

 白い髪、白い肌、雪の様な少女。前が着物の襟のようになった、青いジャンパースカートを着ている。隣のヘイヤが彼女に何かを囁くと、少女は困ったように顔を赤らめ、黄櫨が少女を庇うように割って入った。少女はその隙に常盤の方に逃れ、常盤は彼女を優しい目で迎える。ヘイヤと黄櫨は言い合いをしているようだが、どこか楽し気だ。言葉はよく聞き取れないが、皆が一様に平和で幸福そうである。

 少女を中心として流れる和やかな雰囲気。彼女達が居る庭園のように、それは美しく完成されていた。……の心にさざ波が立つ。

 少女に声を掛けられ、言い合いをやめて彼女の隣に戻る黄櫨。常盤と黄櫨の間で穏やかに微笑む少女。その光景はまるで“自分を客観視”しているようで、は息苦しい嫉妬を覚えた。彼らとそうしているのが、自分ではない事が嫌だった。そして、こんな身勝手な感情を自覚したくなかった、と思う。

「黄櫨くん、これは一体何なの? 黄櫨くんの幻?」
 は平然を装って隣の少年に問う。思いのほか尖った言い方になり、は自分で驚いた。黄櫨は目の前の光景に目も心も奪われているようだったが、一応意識はここにあるようで、力無くに答える。

「これは彼女の見ている幻だよ」
「彼女って、あの女の子の? あの子は誰なの?」
「……僕たちが探していた三月ウサギだよ」
「え?」
 には黄櫨の言葉の意味が分からなかった。三月ウサギのヘイヤは男性で、目の前の幻の中に居る着物の人物と特徴が一致している。彼が探していた三月ウサギで、これは彼の幻だと言われれば納得できるが……。

「黄櫨くん、どういうこと?」
「あの子が、今の三月ウサギの正体なんだ。ヘイヤはもう居ない」
 平坦だが、不思議と泣き出しそうな気配のある黄櫨の声。はこれ以上問いただすのを躊躇ったが、そうでなくとも言葉を失わざるを得なかった。――幻の中の少女がこちらに気付き、睨んでいる。大きくぎょろりとした目。目が合って気付いたが、それは血のように暗い赤色をしていた。心臓がドクンと跳ねる。まるで鏡の中の自分に睨まれたかのような恐怖と……嫌悪感だ。

 少女がゆらりと立ち上がる。長い髪がサラリと後ろに流れた。カツン、カツンとブーツを鳴らしながら、彼女はこちらに近付いてくる。幻の中の常盤達は穏やかな時のまま、静止していた。

 先程までは輝かんばかりだった白い髪が、途端、老婆の白髪のように見えて来る。色の無い顔で、落ち窪む暗い赤。病的な影のあるゾッとする美しさ。不気味な迫力を醸し出す少女に、は黄櫨の手を引いて後退ろうとした。が、黄櫨は動かない。少女はぬっと鏡をすり抜けて、達と同じ場所に立った。幻想を映し出していた鏡がテレビの電源を切ったように暗くなる。

「黄櫨と……誰?」
 少女は乾いた唇で言葉を紡ぐ。が、もう少女では無かった。がつい先程まで鏡の中に見ていた“三月ウサギのヘイヤ”になっている。白銀の髪は少女と似ているものの、骨格も顔立ちもまるで違う、紛れもない男だ。は男の薄紫色の瞳に射すくめられる。

(もう、何が何だか分からない。どれが現実でどれが幻なの? 黄櫨くんはさっき、ヘイヤさんはもう居ないって言ってたけど。この人はヘイヤさんじゃないの?)
 は答えを求めるように黄櫨を見た。黄櫨の目はヘイヤに縫い付けられており、の視線に気付く様子はない。は黄櫨の瞳が自分に向かない事に悲しみと苛立ちを覚えた。

「ねえ黄櫨くん、」
「危ない!」
 黄櫨はヘイヤを見つめたまま、の手を思いきり引っ張った。の重心が黄櫨の方に傾き、押し倒すような形で床に崩れる。潰してしまったのではないかと慌てて起き上がるの後ろ髪を、不穏な風がヒュッと横切った。は嫌な予感に恐る恐る振り返る。

 が数秒前まで立っていた場所には、ヘイヤが長い槍を突き出していた。少しもそんな素振りを察知できなかったは、目を疑ってしまう。彼は何故攻撃を仕掛けてくるのだろう? 錯乱状態か、こちらのことを敵だと誤解しているのかもしれない。は出来るだけ相手を刺激しないよう、しゃがんだまま彼の方に向き直る。

「あの、わたし達は敵じゃありませんよ……」
 と言ってから、おかしなことに気付いた。彼は先程、確かに黄櫨の名を呼んだのだ。黄櫨の存在に気付いている。彼ら二人の関係について詳しくは知らないが、以前は仲間だった筈だ。話も聞かず、黄櫨と共に居る自分を即座に敵とみなすだろうか?

「敵とか味方とか、どうでもいい。邪魔者は排除するだけ」
 ヘイヤが槍をくるりと回し、足元に突き立てる。すると彼の周りに複数の槍が出現した。透き通る薄青色の鋭利な槍。水晶のように見えるそれは恐らく氷だ。氷の槍がまるで檻のように彼を囲んでいる。は彼が三月ウサギであるならば、同時に永白で一番の魔術師なのだということを思い出した。

「誰にも……俺の幸せは壊させない」
 感情が抜け落ちたような顔。しかしその声には、色濃い殺意。

 は、自分達が助けに来たのは囚われのお姫様ではなく、ラスボスだったのかもしれないと思った。 inserted by FC2 system