Act17.「やさしい嘘」



 目が覚める。覚醒して初めて、自分が眠っていたことに気付いた。暗い、熱い、息苦しい……額には自分の腕がある。授業中に机に伏せて、堂々と居眠りをする時のような態勢だった。蒸し暑い顔を冷ますように上げると、目の前には紫が居る。テーブルの向かい側、彼女は串団子を片手に頬杖をついていた。

 居眠りのような態勢で、近くに紫が居たとしても、ここは教室ではない。屋外だった。街道に面した茶店のテラス席。作りは洋式だが、椅子の鮮やかな赤色やテーブルの上に立つ和傘は、縁台を思わせる和の雰囲気がある。空は桃色に近い、明るい夕方だった。

「おはよう、
「ん……おはよう」
 寝起きの顔を見られたくなく、は眩しがる様に両手で顔を隠す。そよ風が寝起きの熱い項をさっと撫でていった。その心地よい柔らかな感触が、まだ眠い目を優しく開かせてくれる。はゆっくり手を下ろし、改めて目の前の親友を見た。

 紫は三食団子の最後の一玉に苦戦している。残り一つしかないそれは一色団子なのかもしれない。横から歯で少しずつ齧り取るか、噛みついて一気に引っこ抜くか……彼女の決断をは知ることが出来なかった。紫がの視線に気付いて、恥ずかしそうに背を向けて団子を頬張ったからだ。再びこちらを向いた彼女の口は、もっちもっちと満足そうな音を立てている。きっと一気にいったんだな、とは思った。それはそうと……

(わたし、ここで何してたんだっけ?)
 何故甘味処で紫と過ごしているのだろう。まだ寝惚けの残る頭で、は記憶を辿った。

 ――ここは永白の国、風寄街(かぜよりまち)だ。華やかな花見街(はなみがい)の隣にあるが、煌びやかなネオンサインの姿は無く、落ち着いた和の情緒がある。この世界の事情により夕方ではあるが、穏やかな昼下がりのような空気の街だった。異常気象が過ぎ去り、春のような暖かさが戻ったことで、よりそう感じるのかもしれない。紫も分厚いコートを脱いで、緑色のシャツワンピース一枚だった。

(そうだ、異変は解決したんだった)

 永白の国の虚無化を進めようとしたアリス。それを食い止めようとした三月ウサギのヘイヤは戦いに敗れ、アリスの手下であるフードの男によって鏡の中に閉じ込められていた。達はヘイヤの痕跡を追い、アリスの元に辿り着き、直接対決。あと一歩というところで彼女を取り逃がしてしまったが、ヘイヤを救うことが出来た。アリスが居なくなると、アリスの虚無化の影響で引き起こされていた雪もやんだ。タルジーの森は今回の虚無化により半分程が消失してしまったらしいが、街に被害が無かったのが不幸中の幸いである。

 異変の解決後、いつものようにアリスの残留思念を手に入れたと紫。嘉月会に戻ると、ヘイヤを連れ帰ったことで英雄扱いされ、盛大な宴を開かれた。今はその、翌日である。永白での用事が済んだ達は、夕方の内にはこの国を出ることになっていた。鏡のゲートの向こうに馬車を整えるまでの、ちょっとした時間。今がチャンス! とばかりに紫がを街へと連れ出した。紫はが気を張り続けていることに気づき、息抜きに誘ったのだ。は久しぶりに紫と二人で平和な時間を過ごし、息どころか気まで抜けて、眠ってしまった。そして、今に至る。

「……お団子、わたしも食べようかな。紫ももう一本、付き合ってよ」
「じゃあ次はみらたしにしようかしら。あと餡蜜と……しょっぱいのも欲しいわね」
「いいねその心意気。見て、塩昆布のお饅頭なんてあるよ。わたし、お饅頭とよもぎ団子と……クリーム餡蜜!」
「じゃあ私は――」
 と紫は顔を見合わせ、覚悟を決めた顔で、欲望のままに注文する。二人だと気が大きくなり捨て鉢になれるようだった。

 テーブルいっぱいに並べられた甘味に、は「夢の“三角食べ”だね」と言ってお饅頭を楊枝で一口分、よもぎ団子を一つ、クリーム餡蜜のアイスクリームを一口頬張る。紫は唇に付いたみたらし餡を美味しそうに舌で舐めとった。

「懐かしいわね、三角食べ。給食の時に習ったわよね? でもスープから飲んで、次にサラダ……最後に主食、っていうのが太りにくいらしいわよ」
「ああ、血糖値が上がりにくいんだよね。でもさ、糖を前にして考えることじゃないよ」
「ふふ、確かにね」
「食べたらいっぱい動かないとなあ」
「こっちに来てから、結構運動してると思うわよ? だからこれはカロリーゼロ!」
 調子のいいことを言う紫に、も「賛成」と同意する。
 紫との会話は時々噛み合わず、煩わしく思う時もあるが、やはり一番自分らしく居られて楽しいのは彼女と居る時だ、とは思った。

 無邪気な笑顔の紫は、の後ろを見て少しだけ唇を尖らせる。

「あーあ。お迎えが来ちゃったわ」
 紫の言葉にが振り返ると、街道をこちらに向かって歩いて来る常盤と目が合う。馬車の用意が整い、呼びに来たのだろう。はいっぱいのテーブルを見られるのが恥ずかしく、とりあえず彼が来る前に饅頭を食べ終えて二品だけのフリをした。

、紫、息抜きはできたか?」
「まだ一軒目よ。梯子するつもりだったのに」
「あ、ちょっと待ってくださいね、急いで食べちゃいますから」
「いや、ゆっくりでいい」
 常盤は四隅の空いている席に座ると、柔らかな眼差しでを見守った。は緊張した面持ちで、ぎこちなく、小さな寒天をスプーンですくう。見かねた紫が、メニュー表を常盤の目の前に突き出してを隠した。

「そんなに見てたらが食べにくいでしょ。ほら、あなたも何か頼んで。ここ紅茶もあるわよ。あと私、カフェラテ追加で」
「あ、ああ。、君も何か飲むか?」
「わたしはまだお茶があるので……」
「抹茶ラテに、きなこラテもあるわよ?」
「やっぱりきなこラテで」
 ころっと意見を変えたに、紫と常盤が小さく笑う。は、何となく二人が自分を見る目に近いものを感じた。だからだろうか? 幼馴染の紫と自分の間に、最近出会ったばかりの彼が居ても違和感が無い。それどころかこれが正解だというくらい、妙な安定感さえあった。

 ……穏やかな時間が過ぎていく。フードの男に襲われた時のことが夢のようだ。

(あれ? そういえば結局、なんであの人はわたしを攫ったんだっけ? あの時、紫はどうしてたんだっけ?)
、何考えてるの?」
「いや……」
 何となく、言葉に出来なかった。してはいけない気がした。この疑問を口にすることで、きっと何かが壊れてしまう。しかし気にすればする程、それは色濃くなっていく。

『彼女は偽物なんですよう』
 狸の言葉が頭の中で再生された。それはいつの言葉だった? 何故、記憶の中の狸はこちらに刀を向けているのだろう? それからどうなった?
 は米神を抑え、俯き目を閉じる。頭の中が断片的な記憶で散らかっており、思考がまとまらない。心配そうに声を掛けて来る二人に、顔を上げて目を開けた。閉じる、開ける。瞬きのほんの一瞬、目の前が何もない真っ暗な場所で、誰も居ないように見えて恐ろしくなった。

、頭が痛いの? きっと疲れてるのね」
「大丈夫か? 出発を遅らせて、今日もここで休んでいこう」
「それがいいわ。戻ったらまた、すぐにアリスを探さなくちゃいけないんだから」
 
「うん……」
 そうだ。ちょっと疲れているだけなんだ。ゆっくり休んで、また紫と一緒に“白ウサギ”をしなくちゃ。アリスを探して、追いかけて、わたし達でこの世界を救うんだ。青いバラに襲われても、ヴォイドに狙われても、バグに巻き込まれても、繰り返す時間の中に閉じ込められても、鏡に呪われても。紫と一緒だったから怖くなかった。きっとこれからもそうだ。二人ならこの先何があっても大丈夫――



 それは、凛とした少年の声。紫の後ろで、息を切らせた黄櫨が立っている。黄櫨はもう寒さは過ぎ去ったというのに、まだ真冬のようなモコモコの中綿コートで着膨れていた。赤くなった鼻。小さな口から漏れ出る吐息は……何故か白い。紫がゆっくり黄櫨を振り返ると、黄櫨の目に険しい色が宿った。二人は仲が悪かっただろうか? は戸惑いながら、少年に声を掛ける。

「黄櫨くん、どうしたの?」
、こっちに来て、早く」
 ついさっき、誰かからもそんなことを言われたような気がした。夜の森で、そっちは危ないからこっちへ来いと。

 常盤は静かに黄櫨を見ていた。は彼のその視線に、キルクルスの街で最初に自分が浴びた視線を思い出す。居る筈の無い異物を見るような目。否、彼の目はそれよりももっと攻撃的な、邪魔者を見るような目だ。常盤が黄櫨にこんな目を向けるとは思えなかった。

 は黄櫨のただならぬ様子に椅子から立ち上がる。しかしその手を、紫がテーブルの上に縫い留めるように押さえた。

、あれは黄櫨じゃないわ。よく見て」
「え?」
「迂闊だった。まだアリスの仲間がうろついていたのか」
 常盤の言葉に反応するように、黄櫨の姿が揺らいだ。そこに居るのはもう黄櫨ではない。青いバラであり、黒く巨大な化物であり、黒い歪であり、フードの男であり……近付いてはいけない、恐ろしいものだ。ヴォイドの赤く塗れた目が、悲し気にこちらを見る。

、僕だよ。信じて」
、惑わされちゃ駄目よ。敵が幻を見せるって知ってるでしょう?」
「僕は本物の黄櫨だよ。そっちが幻だ」
。私のことを信じてくれるわよね? ずっと一緒に居たじゃない。どっちが幻かなんて分かってるでしょう?」
 紫が責めるように、懇願するようにを見上げる。は眩暈を覚えた。

 体から青いバラを生やしたヴォイドがゆらりと陽炎のように、こちらに近付いてくる。怪物の大きな手には、小さなナイフが握られていた。しかしは恐怖を感じない。怪物に対して恐れる様子の無いに、紫が焦りを浮かべる。

「ちょっと常盤! あいつを早く何とかして!」
 紫の叫びに応じるように、常盤が短銃を取り出し銃口をヴォイドに向けた。ヴォイドがまるで電撃でも浴びたようにビクリと硬直する。は頭からサッと血の気が引くのを感じた。

 ――これはいけない、これはダメだ。あの子を相手に、彼が引き金を引くのは!

 は紫の手を振り解いてヴォイドに駆け寄ると、その黒い体を銃口から隠すように抱きしめた。見えていたものと違う大きさ。形。柔らかい感触。冬の匂い。胸元で、冷たくなった丸い耳がピクリと動いた。ナイフを握っていた少年の手が、力が抜けたように下ろされる。少し潤んだ黄色い瞳がを見上げた。

、僕が分かるの? 正気に戻ったの?」
「いや、まだみたい」
 は自嘲するような笑みを浮かべて、黄櫨を背中に庇いながら紫達の方を振り返った。常盤は銃口を下げて、驚いたような目でこちらを見ている。紫は自分からを奪った黄櫨を憎々しげに睨んでいた。

、何してるのよ。危ないわ」
「だって黄櫨くんが泣きそうな顔してるから」
「僕、そんな顔してない」
「してたよ」
 黄櫨はいくら本物だと思っていないにしても、常盤に銃口を向けられたのがショックだったのだろう。は傷付いた反応をする黄櫨を、そのままにしてはおけないと思った。だからどちらが幻であるべきか、選んだのだ。自分の中に積もっていた疑念を受け入れたのだ。

 しかしそれでもなお、紫は紫である。本物にしか思えず、心が縛られているようにそちらに戻りたがっていた。

「黄櫨くん……幻覚からは、どう醒めればいいの?」
「あれが現実じゃないと否定することだよ。が見ているのは、鏡が映している君の心の中。僕が壊してしまおうと思ったけど、君があれを信じている限りは無理みたいだから」
 黄櫨はそう言って、後ろからの手に何かを持たせる。は硬い感触に驚いて自分の手を見た。そこには黄櫨が持っていたナイフが鈍く光っている。

「多分、君が自分でやらないと意味が無いんだ」
 黄櫨の言葉の意味を察し、は全身が冷えていった。
 否定すること、壊すこと。それは……

「ねえ。こっちへ戻って来て」
 それは全身に染み込んでいる、慣れ親しんだ声。紫が両手を広げて、のよく知る顔で微笑んだ。

「これからも私と一緒にアリスを探して、不思議の国を冒険しましょうよ。さあ、早く」
「……行かない」
 紫の顔が氷のように固まった。

「どうして? 私の方が偽物だって言うの?」
 引き攣る顔の少女が問う。は胸に刺さるような痛みを覚えた。

「とてもそうは見えない、けど……」
「じゃあどうしてよ。危ないわ、そんなもの持って」
 紫の言葉に、はハッとした。自分の手元のナイフ。自然とその先が紫に向いていることに気付き、慌てて刃先を下に向け直す。彼女が例え幻だったとしてもそれを壊すなんて……いや、本当に幻なのだろうか?

……あっ、」
 黄櫨が声を上げる。振り返ったの目に映るのは、氷に浸食される黄櫨の足。

「黄櫨くん! なに、どうしたの!?」
「君の幻が僕を排除しようとしてるのかもしれない……早く出ないと」

 は青い顔で、縋るように紫を見た。そしてそこに立っている親友が、いつも通りの儚く優しい笑みを浮かべていることを確認し――絶望する。ああ、やはりこれは自分を惑わす幻でしかないのだ。本物ならこんな状況でそんな顔を浮かべている筈がない。こんなにも本物なのに偽物なのだ。テントでも森でも、さっきまでだってあんなに楽しかったのに、全部嘘だったのだ。

「ごめん」
 は口の中で、小さく呟く。聞こえたのか聞こえなかったのか、紫によく似たそれは首を傾げた。その姿が一瞬、きらりと輝く。それを見たは駆け出し……自分の元に戻って来たに嬉しそうな顔をする少女へ、勢いよくナイフを突き出した。もう、迷いはなかった。それを偽物と決めた今、一刻も早く壊さなければならない。

 “紫のまがい物”は要らない。駄目だ。許さない。

 少女の顔が一瞬だけ悲痛に歪み、パリンと皹が入る。周囲が暗く、寒くなる。常盤も、夕空も、茶店も、皆消えていく。しかし紫の姿だけはまだそこに残っていて、苦し気な表情を浮かべていた。……往生際が悪い! その表情が本物めいていればいる程、は怒りを感じた。何故自分が、夢でも嘘でも彼女を殺さなければならないんだ!

 もう一度、二度、ナイフを突き立てると、鏡はようやく崩れ落ちる。ブーツの底で破片を砕く。もう何も見えないように、何度も何度も踏みしだく。


……?」
 戸惑ったような黄櫨の声に、は顔を上げる。色の無い顔、開いた瞳孔。彼女の中に狂気を見て、黄櫨は恐怖を覚えた。それは幻に騙されていた時よりよほど、正気ではないように見える。もしかすると目の前のこそ幻なのではないか、と黄櫨は思った。

 は膝に手を付き、切れた息を整えるように深呼吸した。何度かそれを繰り返した後、黄櫨に向かって歩いてくる。そして再びナイフを強く握ると、黄櫨の足元の氷に突き刺して砕いた。黄櫨は一瞬だけ殺されるのではないかと思ったが、その考えをに悟られていないことに安堵した。

 目が合った時、その顔はもう黄櫨の知るの顔である。どこか弱弱しい疲れた表情を浮かべていた。

「あの。、大丈夫?」
「……うん。ごめんね心配かけて。さあ、早く出ないとね」
 の笑みは何事も無かったような――何事も無かった事にしたい、というようなものだった。黄櫨は言い知れぬ不安を抱く。鏡の呪いを受けながら、自らの心に打ち勝った彼女は強い。しかしその強さは危ういものにしか思えなかった。

「ところでここはどこなの?」
「ここは鏡の中だよ」
「鏡の……中?」
「迷路みたいになってるけど、どこかに出口はあると思う。入口があったんだからね」
 黄櫨がに手を差し出す。は、随分可愛く頼もしいヒーローだな、とその手を取った。ナイフを返されると思っていた黄櫨は少し驚いたが、彼女の手を握り返した。 inserted by FC2 system