Act16.「雪夜」
穏やかな夕陽が、世界をどこか懐かしいセピア色に染めている。どこまでも広がる花畑の絨毯。甘い香りを孕んだ柔らかな風が、幼い少女の髪で遊んでいた。草花が擦れ合う微かな音は少女に囁きかけているようで、少女もまたそれに微笑み返す。
そこは世界の中心だった。空も風も植物も、全てが少女を中心に回っている。全てが少女を愛し、求めていた。
いつもどこか遠くの世界を見ているような、ここにあってここに無い少女の瞳が、こちらを見る。……その姿はもう子供ではない。かつての面影を残したまま美しく咲いている。大人びた表情は知らない女性の様で、心地良いような、不思議な不安を覚えた。
何も言わずに見つめていると、少女がはにかむ。そのあどけなさに安堵する。少女は靡く髪を手で押さえ、照れたように小首を傾げた。
「そんなに見ないでください。心配しなくても、もうどこにも行きませんよ。……ずっとここに居ます」
それは誓いの如く神聖な響きを持ちながら、悪魔の甘言のようである。緩やかに深みを増していく夕暮れ。忍び寄る夜の気配に、少女は寒そうに自らの腕をさすった。
「ちょっと風で冷えちゃいました。温かい紅茶が飲みたいな。淹れてくれますか?」
その言葉に何も返さないでいると、少女はこちらの顔色を窺うように、少し不安そうに近付いてくる。一歩、二歩、三歩……ぴたりとその足が止まった。少女は自らに突き付けられた銃口に、顔色を失わせる。
「なんで……どうして、そんなこと」
言葉を交わしてはいけないと思った。一言でも交わせば、戻れなくなる。
「わたしは本物ですよ? “さっきみたいな紛い物”じゃない。あなたの中の、本物なのに」
よく喋るその恐れ知らずなところがまさに彼女そのもので、嫌気がさした。
「どうしてですか? ……常盤さん」
拳銃の引き金を引く。銃声が鳴り響く。手に感じる反動が、かつてない程重く感じられた。
絵画のように美しい偽物の風景が、その中心に居る少女が、パリンと割れて砕ける。破片が散らばった床はよく磨かれた大理石のように艶やかだが、よく見ればそれは鏡で……一応は現実を装っているというように、こちらの姿を映していた。床だけでなく壁も天井も全てが鏡で出来ており、怪しげな光を反射し合っている。鏡と鏡の間に繋ぎ目はあるものの、前後左右が不確かな空間だった。
常盤は銃を提げたまま、もう片方の手で壁を伝うように、出口を目指して道を進んだ。
道中、少女の幻は何度も鏡の中に現れては、優しく微笑み、悲しく彼に撃ち抜かれていく。ろくに抵抗しないその姿は、常盤の精神を確実に擦り減らしていった。危うく返事をしそうになる時もあったが、徐々に近付いてくる外の清涼な空気に、何とか持ち堪える。
森の匂いが一層濃くなり、もう出口が見つかってもいい筈だったが、道の先にあるのは鏡だけ。しかし一枚だけ妙に薄く感じられるものがあった。その鏡を一枚を隔てた向こう側に外があるに違いない。
そこにもやはり、少女は現れる。今一番求めている、一番見たくない少女の姿が、常盤をこの場所に留めておこうとする。
「わたしを置いて、行っちゃうんですか?」
悪戯っぽい口調で寂しさを隠しているような少女。きっとこれが最後だと、常盤はその幻を、殺した。
鏡が割れ、その向こうに暗い森が蘇る。人気の失われたキャンプ。闇を吸った木々。舞う雪の向こうにはたった一人、長い髪の少女。
彼女の周囲には数枚の鏡が立っており、鏡面には何もかも飲み込むような底無しの無が広がっていた。その一枚一枚が、地獄のような鏡の迷宮に繋がっているのだろう。
少女の手は暇を持て余しているように、羊を模したお面をいじっている。それは彼女が、先程鏡に捕らわれた嘉月会の男から奪ったものだ。つまらなそうに弄ぶその横顔には無邪気な残酷さがある。
お面に向けられていた少女の瞳が、静かに常盤を見た。
「あら、久しぶりね」
少女――アリスは仄かに微笑んだ。
*
「いくら幻とはいえ、よくあんなにバンバン撃てたわね。鏡の中は幸せだったでしょうに。それとも不幸で苦しいのが好きなの? ドMなのかしら」
浅葱色のワンピースに、純白のエプロン。ガラス棚に飾られている人形のような少女は、楚々な外見とは裏腹に俗な言葉を紡ぐ。常盤は彼女を本物か確かめるように見つめた後、静かに銃をしまった。他を圧する存在感。目の前に居るのは、重量のある現実だ。
――アリス。世界を終わりへと導く創造主。
常盤の硬い表情の裏には戸惑いと安堵、二つの感情が入り混じる。
「あらあら? 私のことは撃たなくていいの? あなた達を苦しめる敵でしょう?」
揶揄うような口ぶりで、わざとらしく両腕を広げるアリス。彼女の態度は、自分が常盤から攻撃されることは無いと確信を得ているもののようだった。常盤は言葉が見つからない様子で、少しの間黙って彼女を見ていたが、やがて慎重に口を開く。
「……お前はまだ、お前のままだったんだな」
「え? ふふっ、相変わらず難しいことを言うわね。私とは何か。何をもって私とするか次第だけど……まあ、あなたが私だと思うなら、そうなんじゃない?」
「お前は力に飲まれて、自我を失ったと思っていた。正気なら、何故この世界を消そうとするんだ。お前も“あの子が残したこの世界”を守ろうとしていた筈だ」
常盤は責めるように言う。しかしどこか、厳しくなりきれないようだった。アリスはそんな彼に笑みを薄め、冷ややかな視線を送る。
「正気じゃないからよ。なんてね」
「ふざけるな」
「ふざけてるのはどっちよ。私はね、あの子の残したものより、あの子自身が大事なの。あの子を守るためなら世界だって消してみせるわ」
先程まで冗談めいていた彼女の顔に、悲痛なほどの真剣さが浮かぶ。
「どういうことだ? そもそもお前が世界を消そうとしなければ、あの子がこちらに呼ばれて、再び危険に晒されることも無かった筈だ」
「いいえ、逆よ。私が行動を起こす前から、世界はまたあの子を欲しがり始めた。……私の期限が来たってことよ。もう、私がアリスで居られる時間はそう長くない」
アリスの言葉に、常盤は絶句した。
――アリス。この世界の礎。その魂は不思議の国の物語を紡ぐ、唯一無二のエネルギー源である。
不思議の国は膨大な空間エネルギーの塊であり、世界として収束するために、観測者の意識エネルギーを必要とした。アリスとなった魂は世界の意志となり、燃料となる。アリスは神であり贄なのだ。アリスである以上、その役目から逃れることは出来ない。それが、人々には知られていないこの世界の真相だった。
不思議の国の創生期から居る常盤は、その仕組みを知ってはいたものの、アリスの存在が限りあるものだとまでは理解していなかった。しかし燃料であるなら、当然消耗品である。……考えたくなかった、目を逸らしていたと言う方が正しいのかもしれない。アリスの言うことが本当なら、今のアリスを消耗し尽くした時、世界は新しいアリスを必要とするのだから。
「世界があの子を呼び戻したというのか……アリスにするために」
最近異世界から現れた少女。常盤は、彼女を連れて来たのは“時間”の独断行動だと思っていた。破滅的なアリスを排し、新しいアリスに挿げ替えるために、単純な思想で彼女をこの世界に連れ戻しただけであると。……アリスに対抗する白ウサギという体で。
アリスの手が、ぎゅっとお面を握る。行き場の無い感情がそこには現れているようだった。
「そうよ。だから私はね、まだ私が物語の紡ぎ手で居られる内に、この世界を消してしまわなくてはいけないのよ。あなたの言うように、自我が無くなって世界に飲み込まれてしまわない内にね」
「世界が消えたら、お前はどうなる?」
「アリスは世界、世界はアリスよ。分かってるでしょう?」
少女は何かを押し殺すように、淡々と言った。
観測者アリスはこの世界を、否定することで終わらせようとしている。最後の意志で、終焉物語を紡ごうとしている。それが自らの終わりに等しいとしても、たった一人の少女を守る為なら、彼女はそれを厭わない。
アリスが一人の少女――に執着していることを、常盤はよく知っていた。彼女達は“二人とも”そうだったのだ。が鏡の呪いで見ていた幻も、きっと子供だった頃の……。
しかし腑に落ちない。アリスは彼女を守ると言いながら何故連れ去ったのか。アリスに近付けば近付く程、は世界の真実に近付き、世界も彼女に近付いていく。守るというなら、アリスは彼女を遠ざけるべきなのだ。だがアリスはこの異変に彼女を巻き込んでいる。
この場所で悠長にしている以上、アリスが一連の黒幕であるのは間違いなかった。
「守ると言いながら、を巻き込むのは何故なんだ。鏡を使うあの男はお前の仲間なのか? は、無事なのか」
アリスは常盤の口から“”の名を聞き、一瞬だけ呆然とした。その名前が何か特別な意味を持つものであるように、呪いの言葉であるように、彼女は心を貫かれていた。アリスは自身を落ち着けるように、深く呼吸する。
「……質問が多いわね」
アリスは肩を竦めて、やれやれと首を横に振った。
「巻き込んだなんて人聞きの悪い。私はあの子を保護しただけよ? 今、あの子は安全な所にいるわ。あなたもさっきまで居た……優しく幸せな偽りの世界。あの子にはそこで、のんびり平和に白ウサギの役を頑張ってもらうの。見知らぬアリスを追いかけて、世界を救うヒーローごっこを楽しんでもらうわ。世界が終わるまでね」
アリスの目論みの裏には、この世界の複雑な事情が絡んでいる。
不思議の国のロールネーム制度。各個人に割り振られた役割、存在意義。人々はそれを証明し続けない限り存在することができない。証明には自他の認識が必要だが、何よりも重要なのは自己認識。自分自身に対する認識がぶれた時、存在もあやふやになる。
“とりわけ意志の強い”が、白ウサギはこうだと一度認識したなら、それが正。その道を妨げることは、彼女の自己認識に影響をきたす可能性がある。
常盤もそれを危惧し、わざと危険性の低い異変を選ぶことで、世界の終焉まで時間を稼ごうとしていた。しかし悉く上手くいかない。青バラの時も、先日のヴォイド襲撃の時も、まるで彼女自身がトラブルを引き寄せているようだった。永白にも彼女を連れて来たく無かったのが本音だが、置いていくことも出来ず、何より彼女の白ウサギとしての意志を否定する訳にはいかなかった。
アリスが言うように彼女自身が何も疑う事なく、鏡の中で白ウサギの夢を見ていられるのなら、それが一番安全なのかもしれない。しかしそれでも、いつも目の前の出来事に真剣に向き合い、周囲の人々と楽しそうにしていた彼女を思うと、認め難かった。
「それはを守っていると言えるのか? お前に都合の良いように、あの子を捻じ曲げようとしているだけじゃないのか?」
「……は? 私はあの子の為を想っているだけよ。都合の良いように、はそっちちじゃないの? 折角戻って来たあの子を手放すのが惜しいんでしょう? 全く……本当にずるいんだから」
――私はずっと、会えないままなのに。
アリスが泣きそうな声で呟く。しかしその目は涙もとうに枯れ果てたようだった。常盤はその様子に何も言い返すことが出来ず、もう一つの問いを繰り返した。
「に呪いを掛けたあの男は、一体何者なんだ」
「……私の“道具”よ。便利で不便な鏡さん。鏡の癖に、あの子の真似がからっきし過ぎて正直ドン引きよ」
「鏡? それは……」
「もう、いいでしょ。あの子が安全だって分かったんだから、私達のことは放っておいてよ。お願いだから……大人しくしていて。私の邪魔をしないで。そしたらあなたの周りの人くらいは、穏やかに消してあげるから」
アリスの言葉に、常盤の脳裏には黄櫨とピーターの姿が浮かぶ。
アリスの役を課せられた目の前の彼女が、その重荷に耐えられず世界を壊そうとしているなら、それは仕方のない事だと諦めていた。抗いようも、抗う気もない。その思いは今も変わらないが、目の届く範囲で身近な存在が傷付くのは見たくないという葛藤も、常にあるのが事実である。
しかしそれは、目の前の彼女にも言えることだった。
「どうして……何も相談してくれなかったんだ」
常盤の言葉に、アリスは意外そうな顔をした。その表情が少しだけ和らぐ。
「一応気を遣ったのよ。あなたはこの世界で、大切なものが増えたみたいだから」
「それは……」
「言い訳は要らないわ。協力も要らない。とにかく、この世界には消えてもらうだけよ。あの子にも邪魔はさせないし、何も知らないまま帰ってもらう」
そしてその時、の中からは不思議の国もアリスも完全に消えるのだ。
常盤には、が彼女を忘れるところなど想像が付かなかった。彼女達の事情を知らないふりをしている手前、に直接確認することは出来なかったが、彼女が鏡の呪いで見ていたのはアリスだろう。その他の誰かにあんな目を向けるとは思えないし、思いたくもなかった。
は未だにアリスに囚われている。幼き日に世界を分かたれてしまった友人を、今もなお想い続けているのだろう。
「は……この世界のことを忘れはしても、お前のことだけは忘れないだろう。お前が帰ってくるのを、ずっと待っているんじゃないのか」
それは無意味な慰めだった。だからといって何がどう変わるわけでもない。アリスの肩が小さく震える。常盤は今度こそ彼女を泣かせてしまったかと思ったが、アリスの口元に浮かぶ笑みを見てぞっとした。
「ふふ、ふふふ。待っているですって? 何を言っているの? ――私はずっと、あの子と一緒に居たのよ? そしてこれからもずっと、一緒に居るの」
常盤は、やはりアリスは気が狂ってしまったのではないかと思った。
彼女の言う事は有り得ない。彼女は子供の頃にアリスになってからというもの、ずっとこの世界に居たのだ。二つの世界に同時に存在することが出来ない以上、の傍に居られた筈がない。
「それはどういう、」
「お喋りの時間はおしまいみたいね」
アリスが一瞬で笑みを引っ込める。そしてサッと、手元の羊の面で顔を覆った。
次の瞬間、鏡の一枚が大きな音を立てて割れる。粉々に散った破片は雪と混じって分からなくなった。鏡があった場所には、全身に黒を纏った夜よりも暗い男が立っている。剣を突き出し鏡を突き破ったジャックだ。彼の凍えたような白い顔が、雪の森を見て温く溶けていく。
ジャックが鏡の中から出てきたことに、常盤は少しだけ驚いた。ジャックに精神的に脆弱な部分がある事は青バラ事件で知っていたため、鏡の幻想に打ち勝つことは期待していなかったのだ。
「よく出てこれたな……」
「失礼だな。流石に二度も幻に引っかかってたら格好が付かないだろ。――おい、そいつは誰だ?」
ジャックが常盤の向こうに居る人影に気付き、眉を顰めた。羊の面をした少女は、長い髪に付いた雪をサッと払う。と共に、風が吹いた。広がるワンピースの裾、強まる雪。世界が少女を演出する。
「こんばんは、ハートのジャック。私が誰だか分かるわね?」
彼女の声が空気を揺らし、世界に刻まれる。絶対的な存在感に、ジャックはそれが誰であるのかを悟った。
「アリス……」
少女は応えるように、くすりと笑った。