Act9.「非協力者」



 延々と16月7日を繰り返すキルクルスの街とその周辺。
 そこに住まう誰もがループに気付けないでいるが、ただ一人侯爵であるアドルフだけが例外で、これまでの全2,216回の繰り返しを覚えている。そして、そんな彼の娘である橙は“何も覚えていない”。……毎日、目覚めると同時に記憶を失ってしまうということだった。

(そんなのって、あり得ないでしょ)

 あまりに出来過ぎている。何が出来過ぎているのかはさておき、出来過ぎている。絶対におかしい、とは思った。ちょうど繰り返しが発生したこの日に記憶喪失になるなんて、もうそこに何かが隠されていると言っているようなものだ。

 聞けば橙の記憶喪失の原因は不明らしい。事故でも何でもなく、ただ柔らかなベッドの上で眠り目覚めると、彼女の記憶は白紙になっているのだという。

 ――きっと橙は、このループの核に関連しているに違いない。(そう“物語の相場”で決まっているのだ)

 ピーターも疑念を抱いているのか、記憶喪失の件を説明した投げやりな口ぶりからは、アドルフに対する不信と不満が漏れていた。恐らく彼は、アドルフと二人の時に既に追及し、納得のいく回答を得られなかったのだろう。とは思うが、も一応追及してみる。

「橙……さんは、自分が記憶喪失だということは知ってるんですか?」
 アドルフが首を横に振る。

「心配ですね……ループの影響だったりするんでしょうか?」
 アドルフが押し黙る。ただの置物の様だ。

 彼は何かを隠している。この街について、橙について。彼が隠す理由は何だろうか?馬鹿正直にそう質問したところで、その重たい口が開くとは考えられない。寧ろ彼の警戒を強めてしまうだけだろう。他の方向から少しずつ攻めていくのが得策に思えた。

 まずアドルフの正体について、今一度考えてみよう。大分怪しく見えるが、ピーターは彼を以前から知っていたようだし、恐らく侯爵という立場に偽りはないのだろう。橙の父親だというのも同じく。だとすれば、侯爵が娘と二人きりでこんなところに住んでいるのは何故なのだろうか?

「あの……侯爵様はずっとここに住んでいらっしゃるのですか?」
 は懲りずにアドルフに問いかけた。この家はとても侯爵という立場の人間の住まいには見えない。二人暮らしなら中々広いという程度の一軒家であるし、何より薄汚れている。林の中にポツンと建っているのも、人目を避けているみたいで妙だ。彼の治めるセブンス領の経済状況は分からないが、流石に領主の家がコレだとは思えない。ならここに居るのは何か特別な理由があるからではないだろうか。例えば……記憶喪失というデリケートな状態の橙に余計な刺激を与えないよう、敢えて人から離れて生活しているのかもしれない。

 しかし、アドルフはやはり何も答えず、代わりにピーターが返事をした。

「侯爵邸にはバグが発生していて、今は立ち入りできない状態になってるんだよ」
「バグって……時間のループが原因で?」
「きっと、そうだろうね」
 の言葉にピーターが頷いた。珍しく彼に自分の言葉を肯定され、はほっとするような、けれど居心地が悪いような感じを覚えた。それを悟られないよう、わざとらしくない程度に遠くを見て誤魔化す。何となく見た窓の外は、まだずっと暗い。

(今日はどんな一日になるんだろう)
 結局、日付がリセットされても自分達の存在が消えることはなかった。記憶もそのまま引き継ぐことができている。この状態なら昨日と全く同じ一日になることはない。と、はひとまず安堵した。少なくとも、夕方にバグ空間から出てきて橙と遭遇するということは起こり得ない。

 ピーターはここの人たちが同じ行動を繰り返していると言っていたが、はその一員になるのは絶対に嫌だった。もし何か神がかりな力をもって、それを強制させられたとしても、何とか逆らおうと思った。

 ……そもそも本当にここで起きている事象は、ただ繰り返すだけのものなのだろうか?最初の一日をオリジナルとするなら、そこから全く変化が無かったのだろうか?
 例えば侯爵邸のバグが、ループに起因して発生した不具合であるなら、それは変化の一つだ。ループ後に侯爵と橙がこの家に移り住んだのなら、それもまた然り。橙の記憶喪失も、だ。

「橙さんが記憶喪失になったのは、ループが始まる前ですか?後ですか?」
 アドルフ本人から答えが返ってくることなど露ほども期待していなかったが、予想外に、彼の固まった口はもそっと剥がれた。

「答える必要があるのか」

 は閉口する。駄目だ、話にならない。しかしこれで明らかになった。彼の無言は単なる寡黙ではなく、黙秘しているのだ。はとりあえず、これ以上は侯爵の居ないところでピーターと話し合うのが良さそうだと判断した。

「分かりました。それではせめて……わたしが……これからどうすべきか、アドバイスを頂けませんか?」
 わたし達、と言ったらピーターに嫌な顔をされると思った。経験則上。

「どうせここからは出られん。諦めて、街に宿でもとって暮らせばいい」
 アドルフは一度口を開いてしまった以上、無視しにくかったのだろう。掠れる声でそう言った。は、諦めてなんかいられるか!と思ったが、ピーターはあっさりと「そうします」と答えてしまう。その言葉が諦めることに対してか、宿をとることに対してかは分からなかったが……後者の場合、彼はちゃんと自分も連れて行ってくれるのだろうか?とは不安に思う。

「今夜はここで休んでいって構わんが、夜が明ける前には出て行ってくれ」
 アドルフは血も涙も無い訳ではないらしい。そして思ったより普通に喋る。先程まで無言を貫いていたのは、下手なことを言わないようにする為だったのかもしれない。がこれ以上の追及を諦めた気配を感じて、硬い唇を解いたのだろうか。

 ……休んでいって良いと言うが、どこで休めというのだろう?アドルフが自分たちを快く思っていないのは既に分かっている。何も言わず橙の部屋に帰してくれるとは思えない。がその疑問を口にする前に、侯爵は唐突に親指を立てた。彼の深刻な顔に爽やかなサムズアップは違和感があったが、どうやらそれは単に上を指しているだけのようだ。

「屋根裏に、一つ部屋がある」
 一つ。その言葉が頭の中に繰り返し響く。一つ。ひとつ。だがここで妙な反応をするのも癪だ。は平然を装ってアドルフに礼を言うと、ちらっとピーターを見てから、静かに部屋を出る。彼もおざなりに侯爵に会釈をして、すぐに追ってきた。


 屋根裏部屋の場所は分かりにくかったが、迷うだけの広さがない家だったのが救いだ。橙の部屋から離れた場所の天井に、ごく目立たない扉があり、そこを引くと小部屋に続く梯子が下りてくる。収納梯子だ。は自分一人だったら扉に手が届かなかっただろう、と思った。

 梯子を上った先の小部屋は、思っていたよりは綺麗で、綺麗というにはごちゃごちゃしていた。よく分からない工具、壊れかけの椅子、忘れられた雑貨など色々なものが詰め込まれている。埃臭さも相まって、秘密基地みたいな雰囲気があった。……下手にベッドなんかが整えられていなくて良かったかもしれない、とはこっそり安心する。隣の男が自分を意識するとは思えないし、どうせゆっくり休む暇もないだろうが。
 とりあえず今夜は、彼とこれからの事をよく話し合わなければならない。

 は、来客用なのか別のシーズン用に保管してあるのか、折り重ねて置かれた布団の上に腰かける。

「状況の整理をしない?」
 のその提案に、ピーターは面倒そうに溜息を吐いた。それを肯定と受け取ったは、一つ一つの出来事を振り返り、確かめるようになぞっていく。そして彼に、数多くの質問をした。ピーターは説明役を押し付ける相手が居ないからか、渋々ながらも答えていく。

 まず“本に食べられた”事についてが話すと、ピーターはそんな本の存在は聞いたことが無いと言った。それはこの世界の常識からも外れた出来事であるらしい。の嘘でも思い違いでも無いなら、バグの一種か、悪戯好きの新種の生物かもしれないということだった。この件についてはこれ以上話しても無意味だと思い、は一旦忘れることにする。

 次に、最近勢いを増しているというヴォイドの襲撃について。今回はジャックの統治するイレヴンス領に襲撃があり、比較的大規模であったため、王国軍と騎士団で応戦していたとのことだ。ヴォイドには物理的な攻撃が効くらしく、完全に侵略される前に撤退させることができれば、彼らの起こす“虚無化”はある程度防げるとのことだが、戦闘の第一目的は住民が避難する時間を稼ぐことであるようだ。ヴォイドは一定の侵略を終えると、煙の様に姿を消すという。
 ピーターはヴォイド達との戦闘を何度も経験しているらしく、淡々と話をしているが、は若干トラウマになりかけていた。なるべく思い出したくない出来事である。

 ヴォイド達の前に、やエースに爆撃を仕掛けてきたロボット兵は、アリスを神と崇拝する宗教国家“リアス教国”の所有する兵器。教国はヴォイドによる虚無化を“世界の浄化”と信じており、ヴォイドの妨げになる敵に対抗するため、ロボット兵団を作り上げたとのことだ。教国の科学技術は他国に類を見ない高度なもので、トランプ王国と比べ圧倒的に少ない人口を補うように、ロボットを活用しているらしい。

 高度な技術を駆使した兵器にしては、随分原始的で半端な攻撃をしてきていたが、ロボット兵の役割は殺戮ではなく目くらましや足止めに過ぎない為だという。直接手を下すのはアリスの遣いであるヴォイドであるべきで、彼らの虚無化でなければ世界は浄化されない。穢れた憐れな人々を救済することはできない。というのが教国の思想であるらしい。
 ピーターは教国に対して、単に敵対しているという以上に、相容れない感情を抱いているように見えた。

 バグ空間で話しかけてきた“謎の声”については、ピーターに「今、僕から話せることはない」とバッサリ切り捨てられてしまった。声は『挨拶はまた今度ね』と言っていたので、また本人に訊く機会もあるだろう。この件については保留にする。

 アドルフと橙とは、ピーターは僅かばかり面識があったらしい。しかしアドルフは人嫌いで有名で、王から招集されない限り領内から出ようとせず、不愛想で無口だという以外の情報はそれほど持ち合わせていない。橙についても、彼女がアドルフと共に城に来た時に、数回顔を見たことがあるくらいだと言う。

「わたし、このループには橙が関わっている気がするんだよね。侯爵様も何か隠してるように見えるし。侯爵様から、さっきの話の他に何か聞いてない?」
「聞いてない」
「……そうだよね。これから、どうしよう。ループが終われば、元の場所に帰れるのかな?」(外の時間と差が開いて、浦島太郎みたいになっちゃったらどうしよう)

「さあ。なるようになるんじゃないの」
「なるようにって……とりあえず、座ったら?」
「まさか。君だって僕と、一晩同じ部屋で過ごす気なんてないでしょ。安心してよ、僕はどこか別のところに行くから」
 ピーターの言葉に、はさっと表情を失くす。そして冷たく目を細めた。彼にはヴォイドから助けてもらった恩と、厄介事に巻き込んでしまった罪悪感もあり、できる限り友好的に接していきたいと思っていた。だが相手に全くその気がないのであれば、無意味である。

「ああ、そう。っていうか、何でそんなにわたしに敵意を向けてくるの?わたしは喧嘩するつもりなんか更々無いよ」
 はヒステリックな女だと馬鹿にされないよう、できるだけ平坦な声で言った。重たかった室内の空気に刺々しさが加わる。以前、イレヴンス領で彼と再会した時も険悪な雰囲気になりかけたが、あの時と今は違う。その変化は彼の方にあった。

「僕だって、君なんかと喧嘩するつもりはない。時間の無駄だ」
 喧嘩するつもりはないと言いながら、その言葉は攻撃的である。前はのことなど相手にもしない様子だったピーターが、今は一々突っかかるような物言いをするのだ。

「そんなにわたしが気に入らないのなら、初めから他の人にすれば良かったのに」
「だから、君と喧嘩する気は無いって言ってるだろ」
 いつも一定のなだらかさを持っていた彼の語調が荒れる。は少し面食らって口を閉ざした。赤い瞳が、鋭く刺すように自分のことを見下ろしている。赤色はいつから寒色になったのだろう。

「それに……君と喧嘩をするのも、一晩同じ部屋で過ごすのも、常盤に知れたら何を言われるか分かったものじゃないからね」
 彼の口から出た人物の名に、は不意を突かれる。ピーターの目には、単に気に食わない相手を睨むとのは違う、憎み蔑む色があった。

「君みたいなのが、一体どんな手を使ってあいつを誑かしたんだか」
「そんなんじゃ、」
 はそれ以上言葉が続かず、彼の視線から逃げる。

(そういうことか……)
 はようやく、彼の自分に対する敵意の理由を察した。彼は、常盤に特別扱いされている自分が気に食わないのだろう。不吉な存在と謂われる異世界人が彼の傍に居続けることに、危機感を感じているのかもしれない。

 常盤との関係は、傍から見れば自分が彼を懐柔しているようにでも見えるのだろうか。それは事実ではないが、自身も常盤から並々ならぬ何かを抱かれている自覚はあり、そしてその正体が分からない状態だ。下手に否定してもピーターを納得させることができるとは思えない。
 ただ……あんなに真面目で理知的な人が、自分のような小娘に簡単に誑かされるとは思えない、と言いたい気持ちはあったが。

 ピーターは何も言わなくなったに、わざとらしく大きな溜息を一つ残して、窓を開けるとそこから外に出ていった。は彼の行動にポカンと呆気にとられ、少し間を開けてからハッとしたように窓に駆け寄る。ここの屋根裏は、地上から三階くらいの高さがある筈だ。落ちたら無事では済まない!――と思ったが、の心配をよそに彼は平然と林を歩いており、その後ろ姿はもう大分遠のいていた。

(なんて人騒がせな退室方法なんだ……)
 一人になったは、一気にぐったりしてしまう。さて、これからどうすべきか。
 侯爵は夜明け前に出て行けと言っていた。目覚めた橙と会わせたくないのだろう。ピーターは夜明けまでに帰ってくるだろうか?帰ってこなければ、一人でこの家を出なければならない。先立つ物もないが、街に行けば何とかなるだろうか。

「大変なことになっちゃったな」
 はそう呟いて、硬い布団の上に寝転んだ。橙の部屋で寝ていたのはほんの少しの時間で、まだまだ疲れが取れていないというのに、妙に目が冴えている。思考が止まらない。

 その夜は果てしなく、終わりがなく思えた。 inserted by FC2 system