Act7.「だいだい色」
白い世界は、白い世界ではなかった。
真っ白な空白に見えていたそこは、空間の境界を通過した瞬間、色付きの景色に切り替わる。は視界を襲う色彩にギュッと目を瞑った。本から出てきた時と同じ、突然別の空間に移動させられた感覚である。
――その場所は森と呼ぶには木がまばらで、足元は背の低い草ばかり。小奇麗な印象の林だった。一定、人の手が加えられているように感じる。視線を上げれば、木々の隙間の向こう……細く高い塔が、赤黒い夕暮れの空に突き出しているのが見えた。
バグに取り込まれる前、12番地区は夜だった筈だ。だとすれば、あれから一つの夜を超えてしまったということだろうか?バグ空間に居た間の時間は半刻にも満たない体感だったが、外の世界とは時間の流れが異なるのかもしれない。が背後を振り返ると、もうそこに、今通ってきた筈の暗い通路は存在しなかった。バグは一方通行なのだろうか。
「ここ、どこだか分かりますか?」
は見覚えのない景色をきょろきょろ見回しながら、ピーターに訊ねる。ピーターは聞こえているのか聞こえていないのか、難しい顔をして、夕空に聳える塔を見上げていた。
あの塔に何かあるのかと、も改めてその細長い建物を注視する。
塔は窓一つなく、巨大な四角い煙突みたいに見えた。外壁は鈍色か錆色か、角度によっては光沢のある銀灰色にも見える。その素材は金属なのか石なのかいまいち分からない。天辺付近の側面には大きな顔のように、時計の文字盤が付いていた。時計が付いているなら、時計塔なのだろうか。しかし肝心の針が差す時間はよく見えない。文字盤は夕陽に溶けてぼんやり歪んでいる。
が塔からピーターに視線を戻すと、彼の難しそうだった顔は、不機嫌そうなうんざりしたものになっている。(いつもこんなものだっただろうか?)
は自分の言葉がすっかり無視されている事に気付き、語気を強めてもう一度尋ねた。
「ねえ、ここがどこだか分かる?」
「……まあね」
「え!分かるの?良かった」
期待していなかっただけに、は大げさに安心して見せる。のそのわざとらしい反応は、それ以上の事実を拒絶したい気持ちの表れでもあった。……本当は気付いていた。彼のそのスッキリしない返答が、事態はそう簡単ではないと物語っていることを。
「じゃあ、早く帰ろう」
「無理だよ」
(ほら、やっぱり)
嫌な予感が当たってしまった、とは肩を落とす。そうだと思った。分かっていた。ただ移動して元の場所に戻るだけのちょっとしたお散歩では、意味がない。物語が展開しない。ここで終わる筈がないのだ。
とりあえずピーターの言う“無理”とはどういう意味なのか確認しよう……と口を開きかけたを、誰かの声が遮る。それは遮ると言うには心地よい、奏でるような少女の声だった。
「アンタたち見ない顔ね?ここで何をしてるのよ」
可憐な声にしては結構キツい言葉を使うな、とは思った。
林の奥から現れた少女は、の世界で言えば中学生か高校生……いずれにしても、よりは少し年下に見える。肩上で揺れる夕焼け色の髪と、吊り気味の強い瞳が印象的な少女だった。首元に紫色のスカーフを巻き、黒のタンクトップ、大胆に切れ込みの入った藍色のジーンズという出で立ちである。タンクトップは丈が短く、瑞々しい肩と腹を惜しげもなく曝け出していたが、女の色気というよりはスポーツ少年の爽やかさが溢れていた。お洒落なのか実用性があるのか、上半身と二の腕にはコルセットのようにベルトが巻かれており、少女のしなやかな身体の線を際立たせている。
少女はその髪と同じ色の空を従え、腰に手をあて堂々と立っていた。
「……こんにちは。わたし達はちょっと……道に迷ってしまって」
「ふーん?この辺りは迷える程、複雑じゃないわよ」
少女は訝し気な顔で、それでも話を聞いてくれる気はあるのか、ゆっくり歩み寄ってくる。近くで見た少女の瞳は甘さのある茶色をしていた。はちら、と後ろのピーターに視線をやったが、逸らされてしまう。丸投げということらしい。
「いえ、少し遠くから来たのですが、すごい方向音痴でして」
「怪しいわね」
「怪しくないです、平和主義で人畜無害です」
「怪しい人は皆そう言うに違いないわ」
それもそうだ、とは思わず頷いてしまう。濃いオレンジ色の髪の少女は、真面目な顔で納得してしまったに呆れて「変わった人ね」と笑った。そしての後ろに居るピーターをちらっと見て「人じゃなくてウサギかしら」と首を傾げる。
「わたしは、人間です」
「あらそう。アタシは動物の方が好きだけどね。猫とか」
冗談を言う少女は、少しは警戒を解いてくれたように見えた。も人あたりが良さそうな表情を心掛ける。
「ウーン……ここからなら、街よりうちの方が近いわね」
「え?」
「いいわ、いらっしゃい。地図を見せてあげる。あとお茶くらいなら出すわよ」
「あ、ありがとう!」
小生意気な雰囲気に似合わず、少女は随分と親切である。知らない人を自宅に上げるなんて、親切を通り越して不用心だとは思ったが、ここは素直に甘えておくことにした。まずは地図や少女から得られる情報で、この場所や状況を探るのが賢明だろう。ピーターが何も口出ししてこないところからすると、何かに気付いていそうな彼にもまだ情報が不足しているのかもしれない。
とピーターは少女に連れられて、林の中を時計塔とは逆の方向に進んでいく。
「そういえば名乗ってなかったわね。アタシは橙(だいだい)っていうのよ」
「良い名前ですね。綺麗な髪の色にピッタリ。色の名前ってわたし、好きです」
「敬語なんて使わなくてもいいわよ。それでアンタは?」
「わたしは、。それで、このウサギさんはピーター」
は自己紹介ついでに一応、彼の名前も教えておいた。ピーターが自主的に自己紹介に参加するとは思えなかったからだ。橙は何か引っ掛かりを覚えたみたいに「ん?」と声を上げた。
「ウサギさん……どこかでアタシと会ったことあるかしら?」
「さあ。無いんじゃない?」
「そう……よね」
と言いながらも、橙は腑に落ちない顔で何かを考えている素振りを見せたが、すぐにもう一度「そう、よね!」と繰り返す。どうやら気にしないことにするらしい。
(こんな目立つ人、一度会ったら忘れないと思うけどなあ)
*
「到着!ここがアタシの家よ」
橙の家は、街があるという方向から逸れ、林が深まり森になりかけた所にポツンと建っていた。二階建ての四角い家は、家というより小さな工場のようで、メタリックな外壁と張り巡らされた無数のダクトが独特な雰囲気を醸し出している。全体的に煤で汚れていた。少女が住むには似つかわしくない、無骨で無機質な建物である。
この家に相応しいのはきっと……人嫌いで孤独を愛する職人。強面で不愛想な、逞しい大男じゃないだろうか。そう――今まさに、戸口で立っているような人物だ。
は野良犬……野生の熊に遭ってしまったみたいな顔で、扉の前で腕組みをして仁王立ちしている男を見る。橙の知り合いか、家族だろうか?
男は耳あてのついたフライトキャップに大きなゴーグルをしていて、その顔の上半分はよく分からない。深いシワは無いが、鼻下と顎下に茂る濃灰色の髭には銀糸が混ざっており、肌の質感からも中年の渋味が感じられた。分厚く丈夫そうな皮のジャケットには無数のポケットがあり、その内いくつかからは工具が突き出している。肩の向こうで適当に束ねられた灰色のボサボサ髪が、妙に似合っていた。
立っているだけで圧を感じるような、迫力のある男である。
「橙、どこへ行っていたんだ。……その者たちは?」
男は低く唸り、橙の後ろに立つ二人を見た。橙を咎めるような口調だったが、彼女は全く気に留めた様子もなく、どこ吹く風で彼に近付いていく。
「道に迷ったんですって。ほら、立ってないでいらっしゃいよ」
橙は大型犬をあしらうように男の横をすり抜け、達を手招きした。男に納得した様子は無いが、それ以上何か言うこともない。は突っ立ったままの男に遠慮がちに挨拶をすると、橙の後を追った。ピーターはどう対応するだろうか、と気になって後ろの彼を見ると、男のゴーグルの奥をじっと見ている。灰色ゴーグル熊男も黙って向き合っている。……もしかして二人は知り合いなのだろうか?
は声を掛けようとしたが、ピーターはを一瞥し、追い払う仕草でそれを遮った。“先に行け”という意味だろう。は自分に対する彼の態度に色々思うところはあるが、できるだけ波風は立てたくない。とりあえず従っておくことにした。
「あら?だけ?」
「ああ、あの人はさっきの人に用があるんだって。知り合いなのかもね」
がそう言うと、橙はふうん、と興味無さそうな返事をした。
雑多な生活感のある居間に通されたが、甘い麦茶みたいな不思議な飲み物を味わいながら聞いたところによると、あの熊男は橙の父親であるということだった。全く似ていない。どういう事情があるのかまでは分からないが、橙はこの家で父親と二人暮らしをしているらしい。彼について話す時の橙の顔は、父親を疎んじる年頃の娘に見えた。
それから少し経ち、何食わぬ顔でやってきたピーターと共に、橙に地図を見せてもらう。はこの国の地図は何度か見たことがあったが、まだ慣れていなかった。橙に説明してもらい、なんとか読み解くに、ここは達が居たイレヴンス領からかなり離れた場所にある。(関東地方と近畿地方くらいの距離はあるかもしれない)
橙は、そんな遠い所から何をしに来たのかと驚いていたが、が苦し紛れに「観光で」と言うと、予想外に納得した様子を見せた。この辺に観光客はよく来るのだろうか。
橙の住むこの辺りは“セブンス領”といい、トランプ王国の中でも端の、国境近くに位置していた。大きな森を挟んだ先には他国“リアス教国”がある。ここから達が元居たイレヴンス領までは馬車を使って六日程度掛かると聞き、は多大なロスタイムに落ち込んだ。
(その間にどんどん虚無化が進んでしまうかもしれない。いっそのこと、こっちで出来ることを見つけた方がいいのかな)
不思議の国は思ったより広い。当たりを付けて行動しなければ、無駄な移動だけで時間が浪費されてしまうと思った。……だがそれでも一旦帰ろう。きっと、待っていてくれる人がいるのだから。
とにかくこれで帰る方法は見つかった。と安心しているのはだけで、相変わらずピーターは浮かない顔をしていた。(彼の浮いた顔を見たことはないけれど)
しかし、ピーターは橙の前では、先程に言ったように帰るのが無理だと口にすることはなかった。
話している内に、窓の外がすっかり暗くなっている。
「街にホテルを取っていないなら、とりあえず今晩はここに泊まっていきなさいよ。お喋りの相手が欲しいの」という橙の提案を、は有難く受けることにした。
戦場に残っている常盤達のことは気がかりだが、すぐに帰ることができない以上どうしようもない。何故かヴォイド達の標的にされていた自分が居ない方が、彼らも戦いやすいだろう。ヴォイド達がここまで追ってくることは無いだろうし、暫く自分はあの場所から姿を消していた方が良いのかもしれない。とりあえず体を休めて、夜が明けたら馬車を探そう……とは思った。
ピーターは橙の父親と話があると言って、またどこかへ行ってしまった。彼には後で訊きたいことが山ほどある。
この世界の本は人を食べるのかどうなのか。
アリスに味方するリアス教国とはどういう国なのか。
ヴォイドの襲撃に対応するにはどうしたらいいのか。
バグ空間の中で聞いたあの声は何なのか。
どうしてこの場所から帰るのが無理だと言ったのか。
橙の父親とどういった知り合いなのか。
……一体いくつ、彼は答えてくれるだろうか?
簡単な夕食を橙と二人だけで摂り、風呂を借りた後、は二階にある橙の部屋の窓辺で生乾きの髪を干していた。濡れて束になった髪を、夜風がくすぐるのが気持ち良い。橙から借りた薄手のワンピースは軽く、柔らかかった。
「さっぱりしたわ」
その声と同時にドアが開いて、この部屋の主が帰ってくる。物が散乱した部屋の中を、一つも踏まず器用に歩くところは慣れたものだ。軽快なダンスにも見える。風呂上りの橙の頬は血色良く、濡れたオレンジ色の髪は赤に近い濃い色をしていた。
「髪はちゃんと乾かさないと、風邪をひくよ」
「そっちこそ。どうせだし、乾かし合いっこでもする?」
橙がにこりと笑って、ドライヤーをその手に掲げた。彼女と少しの時間を共にしていて分かったことだが、橙は世界観に不釣り合いな家電製品を堂々と使っている。冷蔵庫、炊飯器、洗濯機、ドライヤー……。この世界で古い技術や道具を好むのは、やはりルールではなく単なる様式美ということなのだろう。
橙の指先がの髪に触れようと近付いてくる。その指先は少し黒ずんでいて、皮膚が硬く厚くなっていた。橙はに見られていることに気付き「あ、嫌かしら」と手を引っ込めたが、は「全然」と言って、戻りかけたその手を引き寄せる。部屋に工具や様々な部品が転がっているところを見るに、彼女は何かを作ることが好きなのだろう。その手は綺麗で、格好良かった。
橙は照れているのかぎこちない笑みを浮かべ、誤魔化すようにドライヤーのスイッチを入れる。
ごーっという音とともに、温風が吹いた。
(一体どこまでが、わたしの世界と同じなんだろう……)
熱い風が髪と頭皮を包み込む。少女の手が櫛となり髪をすいていく。……は急激に瞼が重くなり、少しだけ目を閉じた。少しだけ、髪が乾くまでのほんの少しだけ、休もう。
思えば怒涛の一日だった。常盤達と過ごしたあのお茶会が、もう遠い昔のことに思える。今もまだ怒涛の最中と言えるかもしれないが、何故かとても心が静かだ。目を瞑ったまま文明的なドライヤーの音だけを聞いていると、全てが夢だったかもしれないとさえ思えて来る。それは悲しいような寂しいような、どこか落ち着く感覚だ。
真っ黒なバグ空間も、ヴォイドとの戦いも、もっとたくさんの色々な事が全て、夢の中の出来事だったのではないか。目を開けたら元の世界の我が家の洗面所で、ドライヤーを片手にウトウトしているのではないか――だが、一向に目が覚めない。寧ろその逆だ。夢の中で更に夢を見ようとしている。
……熱風と強い眠気が、の意識を落としていった。
カクリ、とが舟をこぎ始めたのを見て、橙がドライヤーを止める。「こら、寝るならちゃんとベッドで寝なさい」と声を掛けると、は夢の中からぼやぼやと「うん……」と応えた。橙は自分より大人びて、落ち着いて見えていたのあどけない一面に「困った人ね」と優しく笑った。
拾ってきた子猫を相手にするように、自分のベッドにを連れて帰ると、そっと布団をかける。自分の髪はまだ少し濡れているが、ドライヤ―の音で彼女が目覚めてしまってはいけない。これくらいなら直ぐ乾くだろうと、タオルを丸めて枕替わりにし、そこに頭を寝かせた。目の前にある自分の枕の上では、乾かしたてのの髪が広がっている。
は今日会ったばかりの他人だったが、同じベッドで寝ることに不思議と抵抗がなかった。寧ろ親しい友人とのお泊り会のようでわくわくする気持ちだ。彼女が起きていたなら、いっぱいお喋りをして夜更かしができただろうに。
(明日には帰ってしまうのかしら?もう一日くらい、居てもいいのに)
橙は、窓から差し込む月明りに照らされたその幼い寝顔を、ぼうっと眺めていた。甘くやわらかな寝息が、彼女の輪郭も、やがて自分の存在もぼかしていく。今日は達に出会った以外は平凡で穏やかな一日だったと思うが、何故かとても疲れていた。疲れ果てていた。もう起きていられそうにない。まだ夜も浅いというのに、素敵な夜になりそうだったのに、勿体ない。
“おやすみなさい”
少女の口が、優しく弧を描いた。