Act5.「虚無」
幾度の爆撃を受けた街は、まるで工事現場だった。実際には壊れた状態なのだが、それは完成する前にも見える。屋根だったもの、壁だったものが、ただの素材に戻されていた。外装が取り払われ骨組みが露わになると、一気に別物になるのは不思議である。もうそれは人々の所有するものでは無いのだと感じられた。
運よく爆撃を逃れて綺麗に姿形を保っている場所もあり、壊れた場所とそうでない場所は、別々の絵を組み合わせたように違和感がある。その不自然さがこの襲撃の理不尽さを物語っていた。きっと元は平和な街だったのだろう。
建物の影や瓦礫の向こうからこちらを見ている、黒い怪物。気配の無い不気味なロボット兵。ロボットはその腕先から、また爆弾を発射しようとしている。
は逃げ出したかったが足が動かなかった。そんな彼女の前に、ジャックが馬に乗ったまま進み出る。彼が前に居るだけで大分息がしやすくなった。
「まずは邪魔なものを片付けるか。……、そのまま大人しくしてろよ?」
ジャックは彼にしては珍しく爽やかに笑って、腰の剣を抜いた。はその剣に見覚えも触れた覚えもある。地下水路でジャックが青バラに捕まった時に、自分が拾い上げて振るったものだ。何の変哲もない長剣である。しかし、より断然武器を見慣れていている筈のエースは、それを見て息を呑んだ。驚きというより感動だろう。エースの目は少年が憧れのスポーツ選手に向けるように、キラキラ輝いていた。
「まさかこんなところで、伝説の剣“ダークソード”が拝めるなんて!」
(ダークソード……闇の剣、か?)
はエースが口にしたその剣の安直な名前に、むず痒さを覚える。なんてネーミングセンスだ。誰が付けたのだろう?
改めて剣を見てみるが、伝説の剣などという特別な代物には見えなかった。振るえないような大剣でもなければ、神々しい光を発していることもない。名前の通り闇色もしていない。闇に包まれているのは剣の持ち主であるジャックの方だ。
「一気に吹っ飛ばしてやるぜ」
ジャックは台詞調にそう言うと剣を振り上げ、勢いよく振り下ろす。一気……ああ、本当に、彼の言うように一気だった!
それは、たった一振りだった。しかしそのたった一振りで、剣圧が鋭い風となり、辺り一帯の瓦礫や壊れかけの建物、こちらに向かっていた爆弾、ロボット兵を吹き飛ばしてしまった。それでもまだ、彼の剣は力を持て余しているように見える。
以前自分が振るった時にはただの地味な剣だったが、彼が扱うとまさに伝説の剣だ、とは思った。
暴力という概念そのものを具現化した荒々しさに、は圧倒されながら「すごい!」と歓声を上げる。ジャックはそれにぎこちなくニヤッと笑った。
障害物や敵だけでなく砂埃や煙幕も取り払われて、視界は一気に晴れる。まるで曇った眼鏡を外したみたいにクリアになった世界で――しかし、あの黒い影は聳え立ったままだった。否、寧ろ先程よりも近付いて来ている。悪夢が、現実となって目の前に現れていた。
月明りの下に、その姿形をしっかり確認してしまったは、自分の視力を呪った。
世界を終焉に導く怪物、虚無(ヴォイド)。
ジャックの攻撃にも怯まず向かってくる怪物は、想像上のどんな悪魔や魔物より、おぞましい生き物だった。
黒く見えていたその皮膚は、よく見れば全ての色を混ぜたような定義しがたい暗色をしている。の倍はありそうな巨体は、バランスがおかしかった。背骨は台風に折られた傘みたいに歪で、上半身は異様に長く、四本の手足はどれも突拍子のない生え方をしている。細く長い指の先には鋭い爪。 顔らしき部分には、白目も黒目もない血塗れた赤い丸と、歯並びの雑な大きな口。唇は皮を全部剥いたように湿っていて、時々覗かせる口内は赤黒い。
こんな生き物が存在するなんて、一生知りたくはなかった。
「!」
ジャックに名を呼ばれ、はハッとする。血の気が引いてクラクラする頭と、冷え切った体の感覚に、自分は気を失いかけていたのではないかと思った。
「大丈夫か? 怖いならもっと分かりやすく怖がれよ」
「き、きゃー、こわい」
「……余裕あるみたいだな。まあ初めてでそれなら、優秀だ。すぐに慣れる」
「慣れるほど遭いたくないんだけど。何度も目にしたらあなたみたいに平気で居られるようになるの?」
「人にもよりますよ」
そう言ったエースは青い顔をしている。額にはじわりと脂汗が滲んでいた。
「おい、部隊長殿。しっかりしてくれよ? 分かってるとは思うが、奴らはここで絶対に食い止めるんだからな」
「はい、すみません。大丈夫です!」
は二人の会話を聞きながら、自分が避難するなら今がチャンスだろうかと考えていた。地面に伏すロボット兵団は静かなガラクタに見えるし、ヴォイドも何故か一定の距離で立ち止まり、目立った動きを見せない。ただ立ち尽くしてその血色の瞳でこちらを見ているだけだった。警戒しているのだろうか?先程までの嵐のような爆撃が嘘のように静かだ。……“嵐の前の静けさ”という言葉を考えた人が憎い。
「おい、」
「へっ?」
馬上のジャックにぐいっと腕を掴まれ、抱え上げられ……流れる動作で彼の後ろに乗せられる。そこは下から見上げていたよりも随分と高く感じた。
「しっかり掴まってろよ」
「ええっ!? わたし、避難したいのだけど!」
ジャックはヴォイドと戦う気満々に見える。そんな人の傍に居るのは嫌だった。
「分かってるさ。ある程度奴らをばらしたら、ちゃんと安全なところまで連れてってやるよ。今はどう見たって無理だろ?」
はジャックの言葉に、改めて辺りを見回した。そして四方八方に怪物の影があることに気付く。確かにこの状況を何とかしなければ、逃げるも何もない。はいつ馬が走り出しても振り落とされないよう、前に居る彼の腰にぎゅっと腕を回した。ジャックが咳払いする。
「なんていうか……意外と素直だな、お前」
「え、あ、ああ、そう?」
もしかしてこんなに密着する必要は無かったの? ――というの考えはすぐに消え去った。敵と味方、両者が殆ど同時に動き始めたのだ。まるで戦場に立つ者だけに分かる合図でもあったかのように。そして、火花が散る。
(少しでも気を抜いたら、振り落とされる!)
は奥歯を噛み締め、必死でジャックにしがみ付いた。
「目を閉じていた方が良い」
ジャックにそう言われて、はどういうことかと逆に目を見開いてしまう。
その瞬間、彼の前に現れた怪物の体が、剣で切り裂かれた。肉を突き刺し骨を断つ鈍い音、水気のある潰れるような音。血飛沫が顔のすぐ横を掠めていった。単純に生臭いとは違う嗅いだことのないニオイに、吐き気を催す。
彼が目を閉じるよう言ったのは、凄惨な光景を見せないための気遣いだったのだろう。しかしには死の光景よりも、生きて動き、自分たちに害をなそうとしている怪物の方が恐ろしかった。吐き気を催すグロテスクさも、危険が一つ減ったと思えば耐えられる。……もう暫くは。あと少しくらいは。
一体、もう一体、次々に襲い掛かってくる怪物をジャックが薙ぎ払っていく。
息の切れる背中越しに舌打ちするのが聞こえた。こうも立て続けだと疲れるだろうし、苛々もするだろう。……おかしい、とは思った。
少し離れた場所ではエースやトランプ兵達がそれぞれ武器を手にして戦っている。が、どう見たって明らかに、ジャックが集中攻撃を受けていた。彼を敵の大将だと認識し真っ先に討とうとしているのだろうか。
だとしたら、今ここで一番危険なのは彼の傍なのではないだろうか。
「なんであなたばっかり狙われてるの!?」
「知るか! 喋ってると舌噛むぞ!」
その間にも黒い影が飛びかかってきては、彼の剣で屍になっていく。怪物達は減っているのだろうが、狙われている側から見ると際限なく湧き出て見えた。
このままでは敵を殲滅するより先に、ジャックの体力が切れてしまうのではないだろうか?
「!」
嫌な想像に引っ張られるの意識を、遠くから彼女を呼ぶ誰かの声が引き戻した。その声は、既に懐かしい気さえする。は振り乱れる髪を掻き分け、声のした方を見た。
「常盤さん!」
そこにはお茶会の場で見送った常盤の姿があった。ジャックと同じく馬に乗った彼は、この場所に居る筈の無い少女の存在が信じられないようで、驚愕している。ジャックは彼に何か言われると思ったのか、剣を振るのに合わせて「俺は、何も悪くないからな!」と吐き捨てた。
「、お前はひとまず常盤のところへ行け。俺の傍に居るよりは安全な筈だ」
「でも、こんな状況でどうやって?」
「それは俺がどうにか、」
……決して、ジャックが油断をしていたのでは無かった。ただ、生物ならば必ず生じる僅かな隙に付け込んで、ヴォイドが集中攻撃を仕掛けて来たのだ。怯んだ馬は暴れ、は衝撃でジャックから手を放してしまう。ジャックは咄嗟に彼女に手を伸ばしたが、間に合わなかった。は馬上から振り落とされ勢いよく地面にぶつかる。
あまりの衝撃に四肢がバラバラになってしまったのではないかと思った。しかし中々引かない全身の痛みが、そこにまだ繋がりがあると証明してくれる。がどうにか目をこじ開けると――
そこには大きな怪物が立っていた。終わりの気配を漂わせた虚無が、目前に立ち塞がっている。
ヴォイドはそのおぞましい腕を、に向かって伸ばした。