Act4.「襲撃の十二番地区」



 本に飲み込まれたは、視界が真っ白になった。頭の中も真っ白で思考がまとまらない。ただぼんやりとした意識の中で『この本はまだ白紙なんだな』と思っていた。物語はこれから描かれていくのだろうか?

 何もない空間で、どのくらい漂っていたのかは分からない。一瞬にも、数時間にも感じられる。その不思議な白い世界の終わりは突然だった。まるでそこから先のページが不自然に破り取られているかのように、いきなり外の世界へ放り出される。

 ――急激に押し寄せる、三次元の色彩世界。目も頭もチカチカして、は溺れそうになった。が、どちらかというと陸に打ち上げられた魚かもしれない。硬い地面の上で藻掻く。息をするのが下手になっていた。一気に吸い込みすぎて咽る。空白だった自分の中に、一気に情報と感情が流れ込んでくる。心臓がバクバクうるさかった。

(……な、なんだあの本!?)
 自分を飲みこんだ、人の皮膚を思わせるカバーの不気味な本。確か表紙には『READ ME(私を読んで)』と書かれており、その言葉に誘われページを開くと、待ち構えていた大きな口に飲みこまれてしまった。
 獣のような生臭さ、ギザギザの鋭い歯は記憶に刻まれているが、自分の体には噛み傷一つない。服や肌が胃酸に溶かされている様子もない。そもそも辿り着いた先は体内ではなかった。

(ここはどこだろう?)
 白い世界に慣れ過ぎて、視界の変化に付いていけていなかった目が、ようやく視力を取り戻す。徐々に明瞭になった景色は、知らない場所だった。

 濃紺を孕んだ宵初めの空気。冷たい灰色の石畳。自分が座りこんでいる場所は広場のように開けていて、周囲にはポツポツと住居らしき建物が見える。寂れた印象の街、だ。

 先程まで書斎にいたというのに、一体何をどうしたら、こんなことになるのだろう。は途方に暮れながら、とりあえず戻る方法を探そうと立ち上がる。目の前の状況把握に必死だったは、後ろから近付いてくる気配に気付けず、掛けられた声に飛び上がるほど驚いた。

「そこに居るのは誰だ! 一般人はすぐに避難しろと、」
 ぎょっとして化物を見るような目で振り返っただったが、そこに居たのは自分とそう歳の変わらないであろう青年だった。しかし化物を相手にするのと同じくらい、は警戒を露にする。彼が身に纏っているその独特な軍服の……トランプの絵柄には見覚えがあった。それは、不思議の国に来たばかりのを捕えたトランプ兵が着ていたものだ。そして青年の顔にも見覚えがある。彼こそ、を捕えて槍を突きつけた“ハートのエース”その人だ。

 彼もの顔を見て、驚いて言葉を途切れさせる。その反応からも、やはりあの時の彼で間違いないとは確信した。互いに「あ……」という顔で相手を見ている。

 はとにかく逃げなくては、と思った。だが背を向けた瞬間、彼の手にある鋭い槍に串刺しにされたらどうしよう? 以前は失敗に終わった話し合いを、もう一度試みてみようか?
 しかしが実行に移す前に、二人は爆音と熱風に襲われてそれどころではなくなる。

 は耐えきれず目を閉じた。熱く激しい衝撃波。塵と埃、鼻をつく火薬の匂い。爆風に混じって、金属音や銃声が聞こえてくる。

(あ……分かった。ここはきっと、黄櫨くんが言っていた“十二番地区”だ)
 は何の疑いも持たなかった。それが、物語の展開として自然だからだ。

 どうやら今の爆発は、近くの建物で起こったものらしい。崩れたその中に人が居なかったらしいのが幸いだ。あまりの事に呆然とするの足元へ、カラン、と何かが転がってくる。と青年が同時に下を見ると、そこには金属の丸い……戦争資料館で展示されているような――

 青年はハッとして、咄嗟に手にしている槍の柄でそれを打ち上げる。ゴルフの要領で天高く打ち上げられたその物体は、遥か遠い夜空で轟音を響かせて散った。勿論、花火などではない。青年はを庇い、地面に伏せさせる。彼の背中越しに、強力なドライヤーを浴びせられたような熱が圧し掛かってきた。

 青年が打ち上げて空で爆発を起こしたものは、詳しい種類は分からないが……いわゆる手榴弾というものだろう。何故、一体、どうしてそんなものが? 足元へ転がってきたことを考えると、自分たちは誰かに狙われているのだろうか?

「もうここまで来たのか」と青年が苦々しげに呟いた。何がもうなのか、何が来たのか、さっぱり分からない。は今にも飛び出そうと戸を叩いている心臓を、両手で押し込める。が、青年はそんな彼女の手を強引に掴んで走り出した。押さえるものの無くなった心臓が飛び出る。

「な、何! どこへ行くの!?」
「とにかくここは危険ですから! 避難場所へお連れします!」
 青年は前を走りながら、息を切らせてそう言った。青年の想定外に丁寧で親切な対応に、は「あれ?」と思う。そういえば今しがた、彼は爆発からも庇ってくれた。今日の彼は敵ではないのだろうか。

 青年は近くにあった比較的大きな建物まで走ると、壁の影にを引き入れる。そして、そっと壁の向こうの様子を窺った。何者かから身を隠しながら、避難場所とやらまで向かう気なのだろうか? 自分はこの隙に、本当に彼から逃げなくてもいいのだろうか? は汗の流れるその横顔に、小さな声で尋ねる。

「あなたは、今回は味方なの?」
「……ええ、はい。陛下の命を受けた白ウサギなら、我々トランプ兵の護るべき対象ですから」
 どうやら彼は、の事情をある程度知っているらしい。はとりあえず納得した。

「なるほど。あと、できればこの状況について教えてもらえませんか?」
 できれば三行くらいで簡潔に教えてもらえると有難い。ここはどこで、何故、誰から攻撃を受けているのか。状況が分からないと頭も心も置き去りで、どうしていいか、どうしたいかも分からないのだ。

 その時、また近くで爆発が起きた。二人が隠れていた壁に皹が入っている。嫌な予感のする皹だ。青年は緊迫した目でを見ると、至極簡潔に言った。

「――逃げろ!」
(いくらなんでも三文字は簡潔すぎるでしょ!?)

 青年の声を合図にして、二人は崩れる壁から離れる。もう少しで瓦礫の下敷きになってしまうところだった。青年は再びの手を掴み、ここより少しでも安全などこかを探して走る。命からがらとはこういうことなのだろうとは実感した。
 何とか爆発を回避してボロボロの街を進むと、その先に青年と同じような格好のトランプ兵達の姿が見えてきた。

「エース隊長、住民の避難が完了しました! ……あれ? そちらの娘は?」
 彼らは青年のことを“エース”と呼んだが、それが名前なのか単なるトランプの数字を指すのかは分からない。隊長と呼ぶということは、彼らは青年の部下なのだろうか?

 疲れた表情で呆然としているを、エースは彼らの方に押し出そうとする。

「丁度いい。お前達は彼女を連れて、」
 しかし邪魔が入る。トランプ兵達との間に起きた爆発で、二人は彼らの姿を見失ってしまった。爆弾とはこんなに煙が出るものなのだろうか? それともこれは目くらましの煙幕なのだろうか? 目がツンと痛かった。

 続く爆音と爆風の合間、彼らの声が聞こえてきても、その距離は混沌とした中で次第に離されていく。は恐怖と混乱を過ぎて、折れそうになる心の防御反応か、妙な高揚感を覚え始めていた。

「ねえエース隊長? こんなんじゃ、全然避難できませんよ!」
「あなたに隊長と呼ばれる筋合いはないですよ!」
「あ、エースくん、右!」
「言われなくても分かってます!」
 は右の方向から投げ込まれる爆弾を指差すが、エースは既に察していたようで、手に持った槍を上手く使い今度は野球のように打ち返した。ホームラン級だ。拍手でもしたいところだが、流石にそんな余裕はない。手榴弾は投げられた方向に戻って爆発を起こし――瓦礫の陰に潜んで居た“人型の何か”が宙を飛んだ。

 は一瞬、それを人体かと思い目を背けようとしたが、どうもそのシルエットは違和感がある。ガシャンと地面に落ちたそれは金属の鎧にも見えたが、中に人が入っているにしては部分的に細く薄過ぎるのだ。バネの足や円盤の頭部は、SF映画に出てきそうな、

「ロボット?」
 地面に伏した機械の身体。煙の層の薄いところに目を凝らせば、そこにはクローンのように同じ姿が複数体見えた。ヴォイドとはロボットだったのだろうか? 近未来的な様相は、不思議の国の世界観に合致しない。のイメージするヴォイドは獣的な怪物だったのだ。

「ヴォイドってロボットだったの?」
「いえ、あれはヴォイドではありません。あれはアリスに味方する、教国のロボット兵団です」
 ……こんな説明があるだろうか? 聞けば聞くほどに不明度が増す。質問したいことが増えていく。いつまでもどこまでも追いつけそうにない。しかしエースの緊迫した顔は、これ以上説明している暇はないと、を撥ねつける。そして徐々に青褪めていく。彼の目はロボット兵達のもっと先を見ていた。はエースの目線の先を追い、そこに黒く蠢く有機的な気配のある何かを見る。

「もしかしてあれが、」

 ざわざわざわ。遠くの方で陽炎のように、黒い影が揺らめいている。それを視界に認めた途端、先程までとは空気が一変した。重く冷たい不快感が背筋を駆け上る。理性が見てはいけないと告げ、本能が目を縫い付ける。エースがの言葉の先を答えた。

「あれがヴォイドです。遂に奴らまで……。奴らは何とか僕が引き付けますから、あなたは避難してください!」
 そう言って槍を構えたエースは、覚悟を決めて一歩踏み出した。ロボット兵を相手にするのとは違い、ヴォイドから逃げる気はないらしい。否、逃げることなど出来ないのかもしれない。その鬼気迫る様子に、は何も声を掛けられなかった。

 しかしその劇的な空気を壊すように、誰かが軽い調子で言葉を吐く。

「おいおい、何だって? まだ避難が完了していないのか。しっかり頼むぜ、部隊長」
 は聞き覚えのある声に振り返る。そこには、黒い男が居た。

 まだ夜も入り口であるが、その男はまるで夜中だ。全身を暗闇で覆っている。黒髪、黒のコート。漆を塗ったような艶やかな黒馬に跨り、瓦礫の山を颯爽と飛び越えると、彼は二人の前に現れた。
 
「ジャック団長!」
 エースが安心と感動に打ち震える熱っぽい声で彼の名を呼ぶ。そこに現われたのは、数日前にの命を狙い、とりあえず和解した筈の彼だった。そういえば彼は、騎士団の団長を務めていると言っていたな……とは思い出す。

 はどういう顔をすべきか悩んだが、それを決めかねている内にジャックと目が合ってしまう。ジャックはそこにいる“逃げ遅れ”が自分の知る少女だと気付くと目を見張り、と同じく引き攣った顔をした。

「何でお前がここに居るんだ?」
「それは、わたしが訊きたいくらいなんだよね」
「自分のことだろ」
「それはそうなんだけど」
 エースは二人のやり取りを呆けた顔で見ていたが、すぐにそれどころではないと顔を引き締めた。
 
「団長、あなたがいらしたということは、」
「ああ。察しの通り、奴らに第一ポイントを突破された。つまり、」
 
 
 今から此処が“最前線”だ。と、ジャックは言った。 inserted by FC2 system